帰還中の英軍パイロットが目撃した影
今年の九月に入って以来、我が国はドイツ空軍による大規模空襲の猛威にさらされていた。
私の生まれ育ったロンドン市街も何度となく爆撃され、その度に思い出深い街並みと愛すべき人々が炎に消えていった。
だが、たとえ国土を焼かれたとしても、騎士道精神を矜持とする我々は決して屈さない。
狂気に支配されたファシスト共が猛威を振るえば振るう程に我々は一層に結束を固め、この脅威を官民一体となって退ける事を誓ったのだ。
戦火を生き延びた兵器工場はフル回転でスピットファイアを量産しているし、焼け跡と化した町では一般市民が救護活動や復興作業に尽力してくれている。
彼等の血と汗と涙を無駄にしない為にも、誇り高き英国空軍に属する我々はナチズムの脅威に立ち向かわねばならない。
ましてや我がシトロンフィールド家は代々軍人の家系なのだから、次期当主である私には誰よりも雄々しく戦う義務があった。
願わくば七年戦争やナポレオン戦争で活躍された御先祖様のように、私も武名を轟かせたいものだ。
この日も我が愛するロンドンの空に、ナチズムの脅威が迫っていた。
防空システムとして設備されたチェーン・ホーム・レーダーが、メッサーシュミットに守られたハインケル爆撃機の編隊を捉えたのだ。
防空壕と化した地下鉄に身を寄せる人々の為にも、そして我等が国王陛下の御為にも、あの忌まわしきドイツ機の群れは駆逐しなければならない。
「頼むぞ、相棒。あの鉤十字の奴等に、我が大英帝国の誇りを存分に見せつけてやるんだ。」
座り慣れた操縦席のシートに腰を下ろすと、私は計器を確認しながら愛機に語り掛けた。
レジナルド・ジョセフ・ミッチェル氏を始めとするスーパーマリン社の優秀な技師達によって開発されたスピットファイアは、英国空軍を代表する迎撃戦闘機にして頼もしき我が相棒だ。
コイツの機体が炎に包まれる時こそが、このシトロンフィールド中尉の最期の時と言えるだろう。
戦場で死ぬ事など恐ろしくはないが、愛する祖国に降りかかる火の粉は可能な限り払わなければならない。
そう決意を新たにしながら、私は仲間達と共に空軍基地を飛び立ったのだ。
風切音にエンジンの咆哮、そして銃声と爆発音。
これらの轟音が入り乱れる空中は、正しく雲中の修羅場だ。
地の利がある分だけ我が軍が有利だったが、敵のパイロットはいずれも高い練度を持つ強者で、我々は苦戦を強いられたのだ。
「おのれ、ファシズムの犬め!」
何とかドッグファイトに持ち込もうと試みるも、上昇力と急降下性という長所を活かしたメッサーシュミットの一撃離脱戦法は強力無比だった。
スピットファイアの旋回性を武器に回避しながら隙を伺おうにも、あまり時間を掛けていたらハインケルによってロンドンが爆撃されてしまう。
我々が焦燥感にかられていた、その時だった。
「ハインケルが、燻っている?!」
機体下部から煙が上がった次の瞬間、敵爆撃機の一機が大爆発を起こしたのだ。
ロンドン市街を焦土に変える為に搭載した大量の爆弾が仇となり、機体は瞬く間に内側から爆ぜていった。
そうして砕け散った破片は仲間のハインケルとメッサーシュミットに命中し、さしものドイツ空軍の猛者達も体勢を整えるのに精一杯の様子だった。
こうして攻守の逆転した我々は、潰走するメッサーシュミットに更なる追い討ちを仕掛け、ファシスト共のロンドン空襲を辛くも阻止したのだった。
しかしながら、此度の我々の勝利に影の貢献者が存在する事を知っているのは、恐らくは私だけだろう。
それに私が気付いたのは、基地へ帰還する為に愛機を旋回させた時だった。
「むっ…?」
数機のメッサーシュミットを撃墜スコアに加えた喜びに水を差すような、機体を軽く揺さぶる衝撃と違和感。
軽い乱気流と高を括った私は次の瞬間、ソイツと目が合ってしまったのだ。
「なっ…?!」
キャノピーのガラスの向う側で、緑色の顔がこちらを覗き込んでいる。
生身の人間が命綱もなしに、飛行中のレシプロ戦闘機の機体に立てるはずがない。
ましてやソイツは、頭頂部から角さえ生やしているのだから。
「まさかコイツは…グレムリン?」
化け物の正体に思い至った私は、サーッと血の気が引いていくのを実感した。
飛行機の電気系統やエンジンを狂わせ、墜落を始めとする様々なトラブルをもたらす危険な怪異。
戦闘機乗りの間で囁かれていた都市伝説は、本当だったのだ…
グレムリンが主翼に腰掛けた愛機を、私は必死になって旋回させていた。
−軍人として戦場に出たにも関わらず、敵ではなくて化け物に殺されるのか…
そんな絶望的な考えに支配されながら。
だが、何時まで待ってもグレムリンは何も仕掛けなかった。
奴はひたすら、懸命に黙殺しようとする私の目を覗き込んでくるだけだった。
恐ろしい緑色の身体をしているにも関わらず、ソイツの眼差しには知性と良識が備わっているように感じられた。
そして次の瞬間、私は誰かに呼び掛けられたような錯覚を感じたのだ。
『そう恐れる事もないだろう。俺は何も、お前に危害を加える積もりはないのだから。』
「だ…誰だ?誰かが私に呼び掛けているのか?」
心当たりはあるものの、にわかには受け入れられなかった。
何しろ件の呼び掛けらしき物は、私の脳へ直接語り掛けてきたのだから。
しかしながら、それは紛れもない真実だった。
先程から私を見つめている緑色の怪物は、小首を傾げながらキャノピーのガラスを軽く叩いてきたのだから。
その姿はあたかも、ドアをノックするかのようだった。
『ここには俺とお前しかいないだろう?お前でなければ、話しているのは俺だ。お前達が噂しているグレムリンとは、俺の事だよ。腹蔵無く話そうじゃないか。俺達は心で話し合えるんだからな。』
どうやら私は、受け入れるしかないらしい。
グレムリンの実在と、彼との会談を。
それにしても、グレムリンがテレパシーを使えるとは思ってもみなかったが…
『お前達の勇気と愛国心、見事だった。だけど俺の立てた武勲も、なかなか捨てた物じゃないだろう?さっきの爆発、お前も見たよな?』
どうやらハインケルが爆発四散したのには、このグレムリンが一枚噛んでいるらしい。
それにしても、グレムリンにここまで知性があるとは予想外だった。
『ロンドンを空襲から守る為に、君はドイツ機を破壊したのか?』
『分かり切った事を聞くなよ、人間。俺達グレムリンにだって、愛国心という物はあるんだからな。ロンドンを焼く奴は許せない。お前達と同じだ。』
人間であろうと怪異であろうと、祖国を愛する心は同じという事らしい。
その事に思い至った時、私はグレムリンに対する恐怖感が消え去ってしまっている事を実感した。
同胞を愛し、祖国を愛する。
そんな優しさと勇気を兼ね備えた相手を恐れる必要など、何処にあるのだろう。
私は何時の間にやら、このグレムリンに友情さえ覚えていたのだ。
そんな風変わりな連れ合いを伴ったフライトの終局は、始まりと同様に唐突で一方的な物だった。
「そろそろお別れの時間だな、人間の勇者よ。この高度なら、俺でも降りる事は出来るだろう。」
そう言うとグレムリンは、サッと身を翻して空中へ躍り出てしまったのだ。
グングンと加速が付き、緑色の身体がみるみる小さくなっていく。
「ああっ!」
「お互いに祖国の為に戦おうぞ、人間の勇者よ。枢軸国の奴等に遅れを取る事など、断じて許さんからな。」
最後の念話が届いた時には、もう彼の姿は豆粒のように小さくなっていた…
私がグレムリンを目撃したのは、後にも先にもあの一度きりだった。
その後の行方は分からないが、この大戦を彼なりに戦い抜いてくれる事を祈るばかりだ。