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レビー小体型認知症で逝った陽子さんのこと

作者: 吉澤雅美

Tさんに捧げる

 陽子さんがこのグループホームに来たのは、もう5年も前になる。のどかな田園地帯を切り開いて建設されたグループホームは、まもなく創立20年を迎える老舗だ。


 グループホームも色々あるが、ここは「認知症対応型共同生活介護」、つまり、認知症の人だけが入るグループホームだ。


 陽子さんは小柄で、少し前かがみで、いつも頬のシミを気にしているおしゃれなおばあちゃん。


 介護歴3年目で新たにこのグループホームに配属されたユキは、実は認知症というものが少し怖い。前の施設で、暴力をふるう利用者さんがいたからだ。誰でも暴力を振るわれれば怖い。

 もう一つは「自分も認知症になってあんなふうになるんじゃないか」という恐怖だ。


 認知症は忘れていく病。

 単純な物忘れに始まり、家への道を忘れ、家族を忘れ、ご飯の食べ方さえ忘れていく。


 ユキが陽子さんに興味を持ったのは、彼女が「レビー小体型認知症」だったからだ。幻視を特徴とし、進行すれば物忘れに加えて身体症状が出る。

 歩行は困難になり、動作はゆっくり、時に止まる。


 陽子さんの認知症は、幸いそこまで進んでいなかった。


「今日の服はどれにしましょうかねぇ……」


 そう言いながら、選ぶのはいつも同じブラウス。


「息子が買ってくれたのでねぇ、女の子じゃないから、こんなつまらない物を買って……」

「そんなことはないですよ。お似合いです」


 同じ会話を何百回しただろう。

 話したことを忘れてしまうのだ。

 これだけでも参ってしまう人もいるくらいだが、ユキは仕事として認知症に向き合っている。

 何百回でも、笑顔で同じ話を聞く。


 陽子さんの右腕は少々不自由だ。

 若い頃骨折したのだという。

 その話も延々と繰り返される。


「傾聴」という言葉がある。

 心を込めて相手の言葉に耳を傾けるという意味で、一見簡単そうだが、グループホームの職員には膨大な業務がある。


 グループホームは利用者さんの家──。

 利用者さんと一緒に掃除、洗濯、買い物、調理をすること──それによって利用者さんはやりがいを感じ、認知症の進行を遅らせることができる──建前である。


 実情は違う。

 掃除、洗濯、皿洗い、全て職員がやっている。


「介護度がこんなに高けりゃ、そうなるわ」


 ユキの先輩は自嘲する。

 実際、最重度の寝たきりの人がいる。


「寝たきりのほうがいっそ楽よ」


 便失禁のおむつを替えながら、先輩は言う。


 かつて問題行動と言われた行動──帰宅願望、介護拒否、暴力行為、性的逸脱などは、介護度が軽い人のほうが手を焼く。

 なまじ動ける分、そういった行動も活発になるのだ。

 

 陽子さんは、時折「家に帰りたい」と言う程度でトラブルはほとんどなかった。


 不思議なことに、特徴とされる「幻視」もほとんどなく、グループホームのほとんどのスタッフは、もっとありふれた認知症──アルツハイマー型認知症と区別せず接していた。


 ユキにとって陽子さんは「相手をするのがいつも後になる人」だった。


(陽子さんの話を聴いてあげたい)


 そう思いながら、膨大な業務に追われて勤務時間が過ぎる。


 名前に似合わずおとなしい陽子さんは、ユキの場合に限らずいつも後回しだった。


「ちょっと待ってね」


 と言えば


「ええ、良いですよ」


 と穏やかに答える陽子さん。


 ところで、陽子さんは立派な羽根布団を持っていた。

 入所のときに息子さんが買ってくれたものだという。

 それさえ、グループホームのスタッフには苦痛のタネだった。

 週2回のリネン(シーツ類)交換の際、ふわふわの羽根布団は扱いが難しく「なんで施設で支給する布団じゃないのよ!」と係の人間は不満を言った。


 でも、それは陽子さんの数少ない自慢の品だった。


 陽子さんは、戦争の話も嫌がった。

 何があったのかはわからない。

 ただ「防空壕が……」とか「闇を買い出しに行くとき……」とかの話には、絶対に加わらなかった。


 人事異動でユキは1年間、陽子さんのいるユニットを離れた。


 帰ってきて驚いた。


 陽子さんの病は進行し、別人のようになっていたからだ。


 小さな身体はますます小さくなり、歩行は支えなければ困難、食事も介助が必要だった。右腕は動かなくなっていた。

 前は曲がりなりにも成立していた会話が、全く成り立たず、何を言っても「はい、ごめんなさい」と言うばかり。


「陽子さん、ユキよ、帰って来たよ」

「……はい、ごめんなさい」

「コーヒーをどうぞ、お好きでしょう?」

「……はい、ごめんなさい」


 ユキは業務にかまけてあの時会話しなかったことを激しく後悔した。


「ごめんなさい、陽子さん」

「はい、ごめんなさい」

「こちらこそ、ごめんなさい」

「はい、ごめんなさい」

「……」


 陽子さんは自慢の息子の顔も忘れていた。


「あんなお袋は見たくない」


 家族の足は遠のいた。

 そこにコロナ騒ぎである。


 陽子さんに限らず、家族に会えなくなって病の進行が早まったように感じられる利用者さんは幾人もいた。


「パーキンソンが出てきたね」


 先輩が言った。

 レビー小体型認知症の症状──歩行困難、行動が緩慢で滑らかさを欠くなどは、パーキンソン病のそれと似ている。


「歩ける間は歩かせてあげよう」


 陽子さんは、スタッフに腕を支えられながら、ゆっくり、ゆっくり小刻みに歩いた。

 トイレに間に合わず、失禁の回数も増えた。


 食事は箸が進まず、スタッフが口に運べば噛み砕いて飲み込む。


「食べ方、忘れちゃったのかなぁ」


 でも、調子の良い日は、少しばかり自分で口に運んだ。

 食事には時間がかかり、皆が食べ終わってもやっと半分。洗い物をするスタッフは横目でにらみながら作業する。下手に声をかければ「はい、すみません」が始まってますます時間がかかるのを承知しているからだ。


 それでも陽子さんは「手のかからないいい利用者さん」であり、まだまだ長生きすると皆が思っていた。


 ユキが夜勤を務めた夜。

 何事もなく過ぎるはずだった明け方の巡回の時。


 あの羽根布団が、陽子さんの顔までかかっているのに気付いた。


「窒息!」


 ユキは羽根布団を押しのけ、呼吸を確認した。


 呼吸は無かった。


 マニュアル通りに身体は動いた。

 別ユニットの夜勤者を呼び、2人で確認。

 施設長に電話。

 看護職に電話。


 2人はすぐやって来て、医師と家族に連絡しているようだった。


 ユキには悲しんでいる時間も無かった。

 残りの生きている利用者さんの起床介助、排泄介助、掃除、洗濯……。


 ひとりの人間の死を置き去りにして日常が始まっていた。


 それでも、ユキは多少ぼんやりしていたのだろう。


「ユキ! 夜勤さんの仕事をやって!」


 先輩の声が飛ぶ。


「はい、ごめんなさい!」


 あぁ、陽子さんと同じ事を言っている。

 ユキの目に初めて涙が浮かんだ。


 夜勤に割り当てられた仕事を済ませ、ユキはそっと陽子さんの部屋に入った。

 死後の処置は済んでおり、顔にはガーゼがかぶせてあった。


 静かにめくると「これが死相か」と納得がいくほど、陽子さんの顔は変わっていた。長く見ることはできなかった。


「時系列的にあったこと、書いといて」


 施設長がぶっきらぼうに言う。

 就寝時の様子。

 夜間の経過。

 ……いつもと同じ。


 ただ、最後に顔に布団がかかっていたことだけが違った。


「あの軽い布団でしょ、先生に相談してみるけど、問題にはならないと思うわ」


 と、看護師。


 しかし気は晴れず、ユキは、一緒に呼吸を確認してくれたスタッフに礼を言いに行こうと思った。


「帰ったよ」


 時計を見れば、とっくに規定の時刻を過ぎている。


「陽子さん、死んじゃった……」

「私もビックリしたよ」

「もっと早く巡回してたら……」

「そんなこと、ない、ない。早く帰って休みな」


 ユキは号泣した。

 同僚が肩を抱いてくれた。

 ひとしきり泣いて、


「うん、帰るわ」

「帰り、気をつけてね」


 ユキは夜勤明けの疲れもあり、どうやって帰宅したのか覚えていない。

 気づいたら仕事着のままでベッドにいた。


「陽子さんのこと、忘れない」


 そういう大切な思い出まで奪ってしまうのが認知症という病気だとしても。

 

認知症について関心を持っていただければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 介護職お疲れさまです。 認知症は怖いですね。 私は最近物忘れがひどくて困ってます。 これは予備軍なんですかねぇ……。
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