どちらかが聖女、どちらかが魔女
オウカ王国は今、国家存亡の危機に瀕している。
隣国との先の戦争で兵の大多数が死に、弱り切っているところに、今度は魔王軍が攻めてきたのだ。
「どうすれば、どうすればいいっ……!?」
国王は尋ねた。
相手は占い師の老女だった。彼女の占い――それは半ば未来予知のようなものだ――は、ほとんど確実に当たる。
国王は占い師に絶大な信頼を寄せていた。
「異世界より、聖女を召喚するのです」
老女はしわがれた声で言った。
「さすれば召喚された聖女が、この国を救うでしょう」
「わかった」
異世界から人間を召喚する魔法――それは禁忌とされている。なぜかというと、召喚魔法を発動させるためには多大な犠牲が伴うからだ。
「おやめください、国王様! あれは禁忌の魔法ですぞ!?」
大臣が国王を止めようとする、が――その手を国王は振り払う。
「知るか、そんなこと。禁忌だろうが何だろうが、もうそれしか我が国を救う手段は存在しないのだ!」
そう言うと、国王は両開きの扉を荒々しく開け放ち出て行った。
国王は精鋭魔導師一〇人と、供物とする国民を一〇〇人集め、大広間にて聖女召喚の儀式を執り行った。
国王とその家族、家臣らが見守る中、一〇人の魔導師が魔法陣を描き、呪文を詠唱する。魔法陣の中には一〇〇人の供物。
やがて、魔法陣が光を放ち、供物を飲み込んだ。
「来たれ、異世界の聖女よ」
光が収まると、そこには――
二人の女が立っていた。
◇
「おい」
国王は言った。
「二人いるぞ?」
女の年齢は二人とも二〇歳前後。人種的にも同じだろう。しかし、容姿には大きな違いがある。
一人は目鼻立ちのはっきりとした美人だ。彼女は小柄で、庇護欲を掻き立てるような、か弱い雰囲気を持っている。腰まで伸びた髪は明るい茶色に染まっている。
もう一人は凡庸な顔をした女だ。背はやや高く、目つきが少し鋭い。黒い髪を肩の少し上で切りそろえている。
「二人とも聖女なのか? それとも――」
「どちらかが聖女です」
老女が国王に言った。
「どっちなんだ、聖女は?」
「それは……わかりません。占いでは見えませんでした」
「ふうむ」
どちらが聖女なのか、そんなことは聖女がその能力を発揮すればすぐにわかる。とりあえず、二人とも手元においておけばいいだろう――。
しかし、そうは問屋が卸さない。
「国王様、今すぐどちらかを選ばなければなりません」
「というと?」
「二人のうち、どちらかは我が国を救う聖女。そして、もう一人は我が国に不幸を――呪いをもたらす魔女なのです」
「なんだとっ!?」
「二者択一です。国王様、どちらの女を選ばれますか?」
国王は迷った。選択を間違えれば、国は亡ぶ。とてもではないが、自分一人で決めることはできない。ゆえに、家族と家臣に意見を求める。
「皆は、どちらが聖女だと思う?」
全員が黙って首を傾げた。情報が少なすぎて、判断ができない。
外見的には美人の女が聖女に、凡庸な女が魔女に見える。
「国王様」
大臣がおずおずと言った。
「情報が少なすぎるので、二人から何か話を聞いてみるというのはいかがですか?」
「そうだな」
国王は頷くと、女二人に言った。
「二人とも、名を名乗れ」
すると、美人のほうが早く口を開いた。
「私は神楽莉子と申します」
「カグラ・リコ? 変わった名前だな」
「リコが名前で、カグラが名字です」彼女は言った。「私は地球という世界の日本という国に住んでいました。実は私、日本国の姫なんです」
「えっ!? 姫!?」
もう一人の女が驚きの声を上げた。
「ほう、おぬしは姫だったのか」
「はい」
「で、おぬしは?」
国王がもう一人の女に尋ねた。
「あ、えっと……私は佐藤千尋、チヒロ・サトウです。私も日本に住んでます。あ、住んでいました。職業は学生です」
「ガクセイ?」
「えっと学生というのは、そのー……勉強とかしてます」
「なるほど」
国王は再び意見を求めた。
「どう思う?」
「私はリコという女性が聖女だと思います」王妃は言った。「一国の姫が魔女だとは思えません。もし彼女が魔女だったら、ニホンという国は滅んでいます」
「リコよ。ニホンという国は既に滅んだのか?」
「いいえ。日本はとても平和な国です」
「ふむ」
国王自身も第一印象的に、リコが聖女なのではないか、と感じていた。リコの柔らかでか弱い雰囲気は聖女にふさわしいものだし、もう一人の女――チヒロの目つきの悪さはいかにも魔女らしい。それにチヒロの挙動は怪しげで、ガクセイという職業についての回答に、考えるような――偽装するような――間があった。
しかし、まだ国王と王妃の意見が合致しただけだ。
「俺もリコが聖女だと思います」第一王子であるアインが言った。
「私も同意見ですね」と第二王子ヴァイス。
追従するように、家臣たちも皆『リコが聖女だと思う』と述べた。
今のところ、全員の意見が一致している。聖女がどちらか選ぶのは国王であり、多数決ではない。とはいえ、周りが自分と同意見なのは心強いし嬉しい。
残すは一人。第三王子であるトレイだ。国王は――そして、その場にいる誰もが――トレイも同意するものだと考えていた。しかし――。
「僕は……」
トレイが口を開いた。
「僕は、チヒロさんが聖女であると、思います」
一瞬の静寂の後――ざわついた。
トレイは兄二人と違って、あまり大人しい王子だったから、一人だけ異なる意見を発するとは思わなかったのだ。
「ほう。どうして、そう思う?」
「確たる根拠はありません。勘というやつです」
「ふむ……」
国王は考えるふりをした。それから、占い師の老女に言う。
「決めたぞ。リコ・カグラが聖女だ」
その瞬間、リコは嬉しそうに微笑み、チヒロは悲しい――というよりも、怯えたような表情を浮かべた。自分は魔女として即刻処刑される、とチヒロは思ったからだ。
案の定――。
「よし、我が国に不幸をもたらす魔女チヒロ・サトウを処刑せよ」
「まっ――」
「お待ちください」
チヒロより先に、老女が言った。
「なんだ?」
「魔女を処刑すれば、その瞬間、彼女の内から呪いが溢れ出るでしょう」
「なにっ!?」
「ですから、処刑するのはやめたほうがよいかと」
「では、どうすればいいのだ? まさか、魔女をこのまま我が国に置いておくわけにはいくまい」
「オウカ王国から出て行ってもらいましょう」
それから、チヒロにいつ出て行ってもらうかなど、具体的な内容について意見が交わされた。その結果、旅の資金として金貨三枚を、それと異世界の服装だと目立つので、質素な布の服一式がチヒロに渡された。
「今すぐ我が国から出て行け、魔女よ」
国王の命令に逆らう気にはなれず、チヒロは頷くと一人王城を後にした。
◇
その後、チヒロの存在などなかったことにして、聖女リコの召喚記念パーティーが開かれた。主役のリコ・カグラは純白のドレスに着替えて、王子たちと喋りながら立食を楽しんでいる。
「あの、父上」
第三王子トレイは、大臣と話している国王に話しかけた。
「どうした、トレイよ」
「本当にチヒロさんが魔女なのでしょうか?」
「お前以外の全員の意見が一致したのだからそうなのだろう。否、そうなのだ」
「ですが、証拠はありません」
「仕方がない。即断しなければならなかったのだから。悠長に構えていると、我が国が滅びてしまう」
「それは、そうですが……」
「お前にしては珍しいな。まさか、魔女の瘴気にやられたか?」
国王がにやりと笑った。
魔女の瘴気にやられた――つまり、『チヒロ・サトウに惚れたのか?』と尋ねているのだ。正直、それは図星だったのだが、顔に出さないように気を付けて否定した。
「違いますよ。ただ、その……嫌な予感というか……」
うまく言葉に形容できないが、リコは本性を巧妙に隠しているような気がするのだ。人が皆見た目通りの人間であるとは限らない。
それと、リコの自己紹介のときの言葉。
『実は私、日本国の姫なんです』
それに対し、チヒロは『えっ!? 姫!?』と、とても驚いていた。それは『リコがニホン国の姫だと知って驚いた』というよりも、『リコがとんでもないことを言ったから驚いた』ように思えた。とんでもないこと――つまり大嘘だ。
「まあ、あの女のことは気にするな」
「ですが、せめて明日の朝に出て行ってもらうべきだったのでは? きっと、疲れているでしょうし……」
「お前、魔女の肩を持つのか?」
「……」
否定するべきだったが、答えられなかった。
◇
彼女たちの意思とは関係なく勝手に召喚しておいて、不必要だとわかるとすぐに追い出す。それは、あまりにもひどい扱いではないか。
トレイはこっそりパーティーから抜け、王城から出ると、チヒロを探した。
チヒロはこの世界の知識を有していない。赤ちゃんのようなものだ。一人でこの国から出て行くのは難しい。きっと、今頃困り切って泣いているに違いない。
街の住民にチヒロのことを聞いて回った。まだ、それほど遠くへは行っていないはず。異世界人の彼女は、顔立ちも髪色も特徴的なので目立つはずだ。
すぐに、チヒロは見つかった。彼女は一人とぼとぼと歩いていた。
「チヒロさん」
話しかけると、びくっと震えて、後ろを振り返った。
「えっと、あなたは確か……」
「オウカ王国第三王子トレイです」
「王子様がどうして……?」
「あなたが心配で。この世界の知識・常識もまったくないでしょうから」
「そう、ですね……。『オウカ王国から出て行け』なんて言われても、どうすればいいのかわかんなくて……」
「僕が案内しましょう」
「え、でも、トレイ様は王子様ですし……」
「ずっと前から考えていたんです。この国を捨てて――王子という身分を捨てて、どこか違う国で一般人として生きて行こうって」
「……どうして?」
「この国はもう駄目なんです。父も母も兄二人も、貴族たちも家臣たちも、国を牛耳る層が腐りきっている。僕が次の国王になれる可能性は無に等しいし、誰も僕のいうことなんかに耳を傾けてくれない。だから――」
だから、チヒロと共にオウカ王国を出る。
今まで、なかなか踏ん切りがつかなかった。だけど、今日、チヒロが邪険に扱われ、追い出されたのを見て、決心がついたのだ。
「でも、私は、その……魔女かもしれないんですよ?」
「あなたは魔女ではありませんよ。あなたが――チヒロさんこそが聖女なんです」
「そう言ってくれるのは、とっても嬉しいです」
チヒロは泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「わかりました。これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は手を繋ぐと歩き出した。
◇
翌日の朝。
「大変です、国王様!」
青ざめた顔の大臣が、国王のもとへとやってきた。眠りを妨げられた国王は、不機嫌になりつつも、大臣に尋ねる。
「どうしたというのだ?」
「トレイ様がいなくなりました」
「いなくなった?」
「はい。行方をくらませた、ということです」
「ふむ?」
国王はトレイの行方について情報収集を行った。
その結果、トレイが黒髪の女とともに王都から出て行ったことがわかった。この『黒髪の女』というのは、チヒロ・サトウのことだろう。
「あの愚か者め……」
はあ、と大きくため息をついて呟いた。
「どういたしますか?」
「放っておけ」
国王は吐き捨てるように言った。
「トレイがいなくなったところで――死んだところで、何も問題はない。わが国には王子が後二人いるのだし、奴は一番出来が悪かったからな。出来損ないだ」
魔女を他国まで案内する役目を引き受けてくれたのだ。ある意味では、トレイは英雄に等しい行いをしたと言ってもいい。
「そんなことよりも――」
国王は占い師の老女を見据えた。
「聖女リコに何をさせればよい?」
「何もしなくても、聖女が我が国にいるだけで救われるのです」
「本当か?」
「ええ。聖女はただそこに存在するだけで効力を発揮するのです」老女は言った。「ですが、それは魔女も同じことで、魔女がいる国には呪いや不幸がじわりじわりと蔓延していき、やがて滅びる」
「そうか。では、我が国は救われ、魔女が向かった国は滅びるのだな。実にすばらしいことだ」
ふはははは、と国王は愉快に笑った。
◇
二人はオウカ王国を出て、共和国に向かった。
オウカ王国と共和国は、良好とまではいかないものの、長年争うことなく隣国として共存してきた。
トレイの正体に気づく者はいなかった。彼は地味で目立たなかったし、表舞台にはほとんど出てこない。そして何より、他国の王子の顔なんて誰も興味がないのだ。
当初、チヒロが聖女だと思う理由が勘しかなかったのだが、旅をしているうちに、彼女が聖女であることを示す出来事が起きていった。
あるとき、二人は立ち寄った小さな村で、難病の少女と知り合った。少女を助けるためには、村の奥の森に生えている特殊な薬草を、すりつぶして飲ませなければならない。だがしかし、この薬草、超がつくほど高値で取引されているだけあって、滅多に見つからない。一か月間、森の中を探し回って一本も見つからない、なんてこともざらにある。
しかし、チヒロは森に入ってわずか三〇分で、目的の薬草を見つけ。おかげで少女は助かり、村の人々はチヒロに大変感謝した。彼らは少女の恩人であるチヒロのことを『聖女だ』と言った。
「やはり、君は聖女なんだよ」とトレイは言った。
「偶然ですよ」とチヒロは謙遜した。
チヒロはその後も行く先々で、幸運を振りまいた。彼女のおかげで救われた人は、数えきれないほどいる。
聖女の噂は共和国中に広がった。最初は根も葉もないただの噂に過ぎない、と言っていた人々も、共和国全体が豊かになるにつれて、その噂が本当のことであると信じるようになった――。
◇
「おかしい……」
国王は呟いた。
聖女がいればこの国は救われるはず。なのに、それなのに、一向に救われない。平和にならない。オウカ王国はより混沌としていく。王国を支配しようとやってきた魔王軍には連戦連敗で、領土がじりじりとすり減っていく……。
それだけではない。
聖女リコ・カグラの美しさは、あらゆる人物を魅了し、堕落させていく。
最初、リコは国王の愛人となった。そのことで王妃との仲が険悪になったが、彼にとって王妃などもはやどうでもいい存在だった。
彼はリコに夢中だった。
しかし、すぐにその夢が現実であることに気づく。
ある日の夜、国王はリコが息子――第一王子であるアインの部屋に入っていくところを見てしまった。違う夜には、彼女は第二王子ヴァイスの部屋で一晩を過ごした。
家臣に命じて調べさせたところ、リコは大臣や貴族など二〇人以上と関係を持っていた。その事実を知り、激怒した国王はリコに詰問した。
「貴様、私以外と関係を持っているな!? どういうことだ!?」
「いいじゃない。私が誰と関係を持とうが、それは私の自由ですよ。もし許せないというのなら、私を殺せばいいじゃない」
リコを殺すことはできなかった。聖女の彼女を殺せば、オウカ王国は救われない。もしも、彼女が魔女なのだとしたら、彼女を殺すことでオウカ王国に呪いがはびこり滅びる。
そして何より――国王はまだリコに夢中だった。
だから、リコを殺すのではなく、リコと関係を持った貴族や家臣を次々に処刑していった。オウカ王国から有望な人材がどんどん減っていく。息子二人はさすがに処刑しなかったが、リコをめぐって一触即発の状態となった。
内部崩壊。
「おかしい、おかしい、こんなはずでは……」
「こ、国王様!」
兵士が慌ててやってきた。
「どうした?」
「アイン様とヴァイス様が――」
アインとヴァイス、二人の王子がリコをかけて決闘を行っている。
その知らせを聞いた国王は、すぐに彼らのもとへと向かった。国王がついたときには、二人とも血を流して倒れていた。死んでいる――。
「これは、一体どういうことだ!?」
答えたのは、悪魔のように笑っているリコだった。
「二人で決闘して勝った方と結婚してあげる、って言ったら、まさかの相打ち。おもしろいですよね。アハハハハハハハハハハ!」
「貴様、ふざけているのか!?」
「私のこと勝手に召喚しておいて、元の世界に返すことはできない、なーんてほざくそっちのほうがふざけてるわよ!」
リコは倒れたアインの手から剣をもぎ取った。
「おそらく、私は聖女じゃなくて魔女なんだわ! 本当の聖女はあんたが追い出した、あの冴えない女のほう」
「なん、だと……」
「元の世界に帰れないのなら、もうこの世に未練はないわ! みんなみんなみんな巻き込んで死んでやる!」
狂喜に満ちた表情で笑うと、リコは国王に剣を向けた。
「死ね、クソ野郎!」
リコの大ぶりな一撃を辛うじて回避すると、国王はヴァイスの剣をもぎ取って、それでリコの胸を貫いた。一番大切なのは自分なのだ。
リコは吐血して地面に倒れた。
「あは、あはは、あはははは…………」
壊れた人形のように、息絶えるまでリコは笑い続けた。不気味な笑い声はだんだんと小さくなっていき、やがて消滅した。
死んだリコを見て、国王は震えた。様々な感情が混ざって、めまいがする。
「魔女を、魔女を殺してしまった……」
呆然と呟く国王のもとへ、占い師の老女がやってくる。そして、リコの――魔女の死体を一瞥すると、彼女はしわがれた声で嘆いた。
「ああ、呪いが溢れ出る……」
「どうすれば、どうすればいい!?」
国王は老女の肩を強く掴んで揺する。頼れるのは、彼女だけだった。
「どうすれば、オウカ王国は滅びの道を回避できる?」
「方法は一つしかありません」
「なんだ?」
「聖女を――この国から追い出してしまった聖女を連れ戻すのです」
◇
チヒロとトレイが出会ってから一年という月日が経過した。彼らは旅中で関係を深め、恋人同士になっていた。
二人は共和国の中都市の片隅で花屋を開いた。チヒロは幼いころから花屋さんになりたかったのだ。その夢が、異世界にて叶った。
この店で花を買うと幸福になれるという噂が流れて、店はとても繁盛した。チヒロが花に触れると、その花は聖女の祝福を受ける。
「ねえ、トレイ」チヒロが言った。「オウカ王国のことなんだけど……」
「ああ、確か領土の半分以上を魔王軍に取られたんだよね」
「うん、魔王軍はオウカ王国を征服したら、共和国に攻めてくるんじゃないかって……」
「それは大丈夫だよ。この国には、聖女が――チヒロがいるからね。魔の者にとって、聖なる力は抗いがたいものだから、この国に攻めることなんてできないよ」
「それなら、安心」
二人が花屋で話していると、客がやってきた。
まだ朝早い時間だ。といっても、街にはたくさんの人々が行き交っている。花が欲しい人に時間は関係ない。
「「いらっしゃいませ」」
「久しぶりだな、トレイ……。そして、チヒロ・サトウ」
店に入ってきたのは、オウカ王国の国王だった。
彼は一年前と比べて随分やせ細っていて、顔からは生気が抜け落ちている。まるで、ゾンビのようだ。大きな双眸が、ぎょろりとチヒロを見つめる。
「父上……どうしてここに……?」
トレイは警戒心をにじませて尋ねた。
「聖女よ、オウカ王国に戻ってきてくれ」
「……」
「このままではオウカ王国は滅びる。魔女――リコ・カグラのせいで、オウカ王国はめちゃくちゃだ。アインもヴァイスも、あの女のせいで死んだ。他にもあの女のせいでたくさんの者が死んだ。そうだ、あの女だ。全部あの魔女のせいなのだ……」
ぶつぶつと呟くと、再び同じセリフを言う。
「聖女よ、オウカ王国に戻ってきてくれ」
「嫌です」
チヒロははっきりと拒否した。
「私はこの国でトレイと二人で平和に暮らしているんです。いまさら、オウカ王国に戻るつもりはありません」
「貴様、私の命令に逆らうつもりか?」
弱弱しさが消え、傲慢な本性をむき出しにした。
「私はオウカ王国の国民ではありません。だから、あなたの命令に従う義務はないんです。帰ってください」
「くそっ!」
国王は諦めて店から出て行った――と思いきや、チヒロの腕を強く掴んで、店から連れ出そうとした。
「やめてください!」
「やめろ、親父!」
トレイは国王を引きはがそうとした。しかし、執念からか恐ろしいほどの腕力で、びくともしない。悪魔が憑依しているかのような、狂気の形相だ。
国王は二人を引きずって店の外に出る。そして、トレイと蹴り飛ばすと、チヒロを乗ってきた馬車に叩きこもうとした、のだが……。
街を行き交う住人たちが、様子を窺っていた。チヒロを――聖女を誘拐しようとしている不届き者の老人を認識すると、彼らは国王を取り囲んだ。
「なんだ、貴様ら! 邪魔だ、どけ!」
「おいクソ爺。聖女様をどうするつもりだ?」
「そんなこと、貴様らが知る必要はない!」
「んだと!?」
筋骨隆々の男が国王の顔をぶん殴った。
国王は鼻血を流しながら、地面に倒れこんだ。痛みに呻きながらも、鼻を押さえてよろよろと立ち上がる。
「貴様、この私をオウカ王国の国王と知っての狼藉か!?」
「お前がどこのどいつだろうと、そんなことは知ったこっちゃない。重要なのは、お前が聖女様を誘拐しようとしたってことだけだよ!」
囲まれてタコ殴りにされた国王は、這う這うの体で馬車に乗りこむと、オウカ王国へと逃げ帰った。
◇
国王がオウカ王国に戻ると、国は魔王軍に占拠されていた。
「くっ……遅かったか……」
「貴様、オウカ王国の国王だな」
「――っ!?」
なんとか逃げようとした国王だったが、あっけなく捕まって、魔王軍による拷問を受けることとなった。とくに意味のない拷問だ。何かを聞き出そうとしているわけではなく、ただ国の長を痛めつけて遊ぶだけ。
「うわああああああ! ああああああ! あああああああ!」
国王は果てしなく続く拷問の中で、聖女を召喚した時のことを思い出した。あのとき、トレイの意見に耳を傾けておくべきだった。リコの容姿に騙されてしまったのだ。彼女がニホンの姫だというのも、真っ赤な嘘だった。
二分の一の選択肢を、見事に間違えたのだ。
後悔の中、精神が摩耗し、やがて崩壊した国王は、最終的に処刑された。こうして、オウカ王国は地図上から姿を消した。
その後、魔王軍は共和国に侵攻しようとしたが、聖女に近づくにつれて魔の力を失い弱体化し、共和国の兵士によっていともたやすく殲滅された。
終わりは呆気ないものだった。
◇
それから一年後。
世界が平和かどうかはわからないが、共和国は聖女の力によって平和を保っている。人々は幸福を享受している。
チヒロとトレイは結婚し、相変わらず花屋を営んでいる。
「ねえ、トレイ」
「なんだい?」
「もしも、あの時――国王がトレイの意見を聞いていたら、オウカ王国は今でも健在だったのかな?」
「父上が僕の意見を聞くような人だったら、聖女を召喚する前にうまいこと魔王軍を退けてたんじゃないかな。隣国と戦争もしなかっただろうし」
隣国との戦争で兵の大多数が死に、弱り切っていたからこそ、魔王軍が攻めてきたのだ。そうでなければ、魔王軍は攻めてこなかっただろう。
隣国との戦争はオウカ王国が――国王が仕掛けたものだった。まず、隣国に戦争を仕掛けたこと自体が間違いだったのだ。
「だから、そんな『もしも』はあり得ないよ」
「そうかもね」
チヒロは頷いた。
「本当、一国の王にふさわしくない、愚かな父親だったよ」
兄たちも、父親によく似た性格だった。
「でも、そんな国王だったからこそ、私は聖女としてこの世界に召喚されて、トレイと出会うことができて、結婚して花屋も営んでいる」
「そう考えると、父親があの人で良かったように思えちゃうね」
今日も仲良く、聖女の祝福を受けた花を売る。この花を買った人に幸福が訪れるといいな、なんて思いながら。
これからも、二人の人生は続く。死がふたりを分かつまで――。