トトロのいない森
『トトロのいる森』に近い町に昔住んでいた私は、退職を機に実家へ戻って来た。だけど、私にはもう『トトロ』は見えなくなっていた。
著者:N高等学校「文芸とライトノベル作家の会」所属 Suzuki
子どもの頃は、なんにでもなれる気がした。
スポーツ選手、教師、医者、パティシエ、CAその他いろいろ。夢はいつも楽しい夢だったし、手を伸ばせばそこにあるような気がしていた。自分はいつだって物語の主人公で、キラキラした世界の真ん中だった。
どこにでもありそうな、郊外の街並み。田畑と住宅地が1対1くらいで混ざり合った閑静な街並み。ベッドタウンとしてバスが走り、電車も15分に一本あるくらい。でも、少し山に入ればそのままの自然が残っている。
例えるなら、子どものころ好きで見てた『トトロの森』だ。ご神木の周りでよく同級生の男子たちと遊んだものだった。すごく小さな時だけど。
緑がとても眩しくて、パステル色に思い出が光っていた。だけど、大人になって見た森の景色は私の心と同じように鬱蒼だ。
衝動的に会社辞めてきちゃったしなあ。残業時間長いし、手当てないし、上司セクハラしてくるし。会社の寮にはいられないから東京から地元に戻って来たんだけど、これからどうしようか。こっちで再就職先探すか、それとも東京の友達のところに転がり込んでそっちでアルバイトしながら良い物件を探すか。
ただ、こうして家に帰ってくるとついつい親に甘えてしまって気づかないうちに引きこもってしまいそうだ。
どこで間違えたんだろう。ふとそんなことを思った。そんなこと何でもない。どこかで間違えたわけじゃない。何にでもなれると思ったまま、夢を見たまま育った。
だけどいつか『トトロ』は見えなくなった。高校に上がった時に将来なんて曖昧なものに心を縛られて、大学に行って進む道を決められて。だけど、なぜかレールの上に遮断機が下りた。契約社員になったけど、そこもやめてきた。
友達に頼ろうか。私は友達が多い方だし。でも、元カノに頼るというのも情けない。元カノを自分の家に居候させる彼氏の小説もあるみたいだし。
彼氏も3人いたことあるし、部活もそこそこ真面目にやってた。大会で3回戦負けするくらいには。勉強だって、県内で上から3番目くらいの高校に通ってたし、大学もそこそこの名門に受かった。
いい大学を出て、いい会社に入っていい人と出会うのが幸せなんだって教えられてたけど、そんなレールなんてどこにもないじゃないか。一本しかレールを引かないくせに途中で切れるのはやめて欲しい。
『トトロ』が見えたころは純粋で、敷かれたレールはどこへでも繋がっているように見えてた。だけど時間とともに進む度に分岐を見つけることはできなくて、気がつけば私は会社を辞めていた。
会社を辞めたこと自体は後悔していない。ブラックだったし、あのまま使い潰されてたんじゃないかと思うから。あの場所では幸せに手は届かない。
だけど、他の場所で幸せが届くというのだろうか。純粋でいられないのに。私の前に『トトロ』は見えないのに。
何にもなれたはずの純粋な時間は年齢とともに失っていくだけなのかもしれない。
「あ、お姉さんこんにちは」
「こんにちは、こんなところまで何しに来たの?」
ぼうっとしていたところに声を掛けられる。小学2年生くらいの女の子だ。その目はいつかの私と同じで残酷なまでに無邪気だ。
「あのね、ここがトトロの森みたいだって聞いたからお姉ちゃんと来てみたの」
「こんにちは、あなたも観光に?」
中学生くらいの姉らしき人物が現れる。こちらはほほえましそうに妹を見ていた。
「いえ、私は何となく。ここ、地元なんですよ」
「そうなんですか。でも本当にトトロのいそうな森だ」
「トトロ、トトロ」
『トトロのいる森』か。確かに、このご神木はそう見える。トトロはここに住んでいるのですと言われても、信じてしまいそうだ。
だけど、大人にはトトロは見えない。純粋な心を忘れてしまった私には、見ることはできない。社会に擦れてすっかり煩悩まみれになった私には精霊は囁いてくれないな。私にとってここは『トトロのいない森』だから。
「トトロ、いるかい?」
「うーん、今はお昼寝中みたい。残念」
「そっか、じゃあ仕方ない」
そんなことを言うとお姉さんに苦笑を向けられた。苦労しますねとでもいった具合だった。無言で笑い返す。
妹さんの無邪気さに当てられた。こんなんじゃだめだなと思い返す。そうだ、お昼寝しているだけで、いなくなったわけじゃない。純真な心をなくしたわけじゃない。
ちょうどリスタートするには良い環境じゃないか。仕事をやめて、自由になって。いつかなくした夢を追いかけようと。そうでも思わないとやってられない。
そんな簡単にマイナス思考から変えられるわけじゃないけれど。でもこの森は『トトロのいる森』のはずだから。
「それじゃあ、私はこの辺で帰るね。それじゃあ、楽しんでいって」
「わかりました」
「バイバーイ」
姉妹を残して実家への道を下る。ずっと昔に見ていた夢は何だったっけ。
忘れてしまったのなら、もう一度新しい夢を見てもいいかもしれない。きっと残骸が役に立つこともあるだろうから。
「あ、トトロ……」
白い影を見かけて近寄ってみる。違った、ただの花だった。白い綺麗な花だ。この花は蝦夷菊、別名はアスター。確か花言葉は、
「『信じてください』……か」
しゃがんで茎に触れてみる。目を閉じてみた。いい香りがする。
なんだ、『トトロ』はいるじゃないか。この森は『トトロがいない』んじゃない。『トトロを探していなかった』だけだ。その証拠に、ここに小さな精霊がいるじゃないか。
きっと、今は、今だけは、私は世界にたった一人だ。