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選ばれたのはうんこ


 


 プルプルとチワワのように震えながら、僕は慣れない地下鉄に揺られていた。

 週末の昼前という時間帯。乗客は多くはないが、少なくもない。

 通っている学校が家から徒歩圏内なので普段僕はあまりこういった公共交通機関は利用しない。そのせいかどこか落ち着かなく、そわそわしてしまう。

 もちろん僕が若干の興奮状態にある理由はそれだけじゃない。これから向かう目的地が一番大きな原因なのは間違いなかった。

 ふいに窓から差し込む光。どうもじきに天使の住む街に辿り着くらしい。

 いつもだったら昼寝をするかうんこをするか程度の休日が、今日だけは瞬きすることすらもったいない記念日に変わっている。

 嬉しいことに運行は非常に順調。待ち合わせ時間までにはまだ余裕がありそうだ。遅刻の心配はなさそうで僕は安堵の溜め息を吐く。

 郡司真結衣の家へと僕を運ぶ灰鼠色の列車が、今だけは白銀に輝く馬車に思えないこともなかった。




「……よ、よし、正露丸も持ったし、手土産のケーキも崩れてない。完璧だ。今のところ何の問題もないぞ」


 無事待ち合わせ駅に到着した僕は、緊張を紛らわせるためにブツブツと独り言を呟いていた。

 ここが郡司真結衣の自宅の最寄り駅だということをすでに知っていて、さらにいえば彼女の住所も特定済みだったけれど、直接家に向かうのは若干気持ち的に憚れる。そういったわけで、駅まで迎えに来てもらうことにしてもらった。

 事前に今日のことはうんこと相談済みだ。何度も協議を重ねてある。

 うんこのアドバイス通りに手土産も郡司真結衣にだけではなく、家族の分まで用意してある。

 服装も気取り過ぎず、無難で清潔感を重視したものにした。

 いける。いけるはずだ。


『なるほど。いきなり自宅デートですか。アサヒのエスコートレベルはうんこレベルなので、ある意味最初にそれを持ってきた方が好感度を稼ぎやすいかもしれませんね。ただ焦ってヘンなことしてはいけませんよ? たしかにアサヒは普段から下半身を露出させる機会が多いですが、時と場所はわきまえないと大変なことになります』


 僕はうんこの言葉を思い返す。

 余計な発言の多いお喋りうんこだけれど、彼女は僕の数少ない味方だ。とりあえずは彼女の言う通りに行動してみようと思う。


『いいですか、アサヒ。女の子はとにかく褒めるのが一番です。相手がそんなことないよぉ、とかうんこみたいな謙遜をしてもそれを無視して、ゴリゴリに褒めまくってください。郡司真結衣さんのキャラクターを考えると、真顔で言うよりは冗談っぽく言った方が自然な雰囲気になる気がしますね。そして褒めつつ自己アピールです。アサヒさんには他人とは違った感性、着眼点があります。それを利用しない手はありません。郡司真結衣さんの顔が整っているとか、そんな当たり前のことだけではなく、アサヒならでは、アサヒしか気づかないような褒めポイントを探すんです』


 とにかく褒める。褒め殺しにする。それこそがうんこが僕に与えたアイデアの一つ目だ。

 しかもただ褒めるのではない。僕にしかできない、これまで言われたことないような意外性のある褒めっぷりを見せつける必要があるという。

 正直言って実現が難しい気は結構しているけれど、弱音を吐いてる場合じゃなかった。もう夏になれば郡司真結衣はいなくなってしまう。僕には時間がないんだ。

 

「……そろそろ時間か。うぅ、緊張してきた」


 改札を出てすぐの高架下で待つこと二十分ほど。信号道路を鍵盤に見立てて脳内で曲を弾いていると、じきに約束の時間が近づいてきた。

 周囲を足早に去って行く人々の中にはまだ郡司真結衣の顔は見つけられない。

 大きく脈打つ心臓に手を当てて大人しくさせようとするが、今のところ効果はなさそうだった。

 そういえば郡司真結衣の私服なんて見たことないな。どうせ可愛いんだろうな。羽根とか生えてそう。



「やあ、こんにちは」



 すると郡司真結衣の私服を妄想しニヤついている僕に、まったく聞き覚えのない声がかかる。

 それは彼女の魂まで震えるようなメゾソプラノとはほど遠いもので、声のした方に顔を向けてみれば案の定見たこともない青年がそこにはいた。


「ど、どうも、こんにちは?」

「君が久瀬くんだよね?」

「あ、はい。そうですけど……?」

 

 青年は女性人気の高そうなベビーフェイスではあったけれど、僕より幾分か年上に見えた。おそらく大学生とかその辺りだろう。

 そんな見ず知らずの二枚目男はどうも僕のことを知っているらしい。でもよく青年の顔を見てみれば、たしかになんとなくどこかで見た覚えがあるような気がしてこないこともない。

 いったいこの人は誰だろう。僕は困惑に海馬をほじくるが、答えは一向に出てこなかった。


「真結衣から話は聞いてるよ。まあ、話に聞いてた通りにはあまり見えないけどね。ははっ」


 スタイルの良い謎の好青年は爽やかに笑う。しかしたった今そんな彼の口から出てきた名前に僕は驚く。

 どうもこの人は郡司真結衣と関わりがある人のようだ。

 そこまで理解すると、無駄に勘の良い僕は青年の正体に見当をつける。

 初対面なはずなのに、なんとなく見覚えがある気がしたのはそういうわけか。

 僕の目の前にいるこの人もまた、天使の眷属なのだった。


「どうも初めまして、俺の名前は郡司結希ぐんじゆうき。郡司真結衣の兄だよ。よろしくね、久瀬朝日くん」


 郡司結希。郡司真結衣に双子の兄がいることは知っていたので、僕は青年の正体自体にはそこまで驚きはしなかった。

 だけどこの時間帯、しかもこの場所に郡司真結衣の兄が来たというのは偶然だろうか。それとも可愛らしい妹の代わりに案内役を務めるとでもいうのか。


「これからうちに来るんだろ? 家までの道案内は俺が請け負うよ。真結衣にも久瀬くんは俺が連れてくるって言ってある」

「すいません。わざわざありがとうございます」

「いいのさ。真結衣の伴奏者の顔を一度見ておきたかったんだ」


 僕の推測は後者が正解だったようだ。郡司真結衣に代わりのその兄である結希さんが僕の迎えに来てくれたらしい。

 しかも話を聞く限り、愛しの妹に頼まれたわけではなく、自分から進んでその役目を引き受けたみたいだ。


「真結衣が夏には日本を離れて、オーストリアに行くって話はもう聞いたかい?」

「はい。一応、聞いてます」

「そうか。じゃあ、今回のコンクールが真結衣にとって、というよりは郡司家にとって特別なものだって話は?」

「え? 特別? いや、まだ詳しくは……」

「なるほどね。まあ真結衣の方から言うのもあれか」


 信号が青になると、結希さんはゆったりとしたペースで歩き出す。

 僕は遅れないようにそんな彼の斜め後ろについて行く。


「今回君と真結衣が出ることになってるコンクールは“第一回郡司壮真バレエ・ピアノコンクール”というものなんだけど、この表題にもなってる郡司壮真ってのが、俺たちの父のことなんだよ」

「表題になってるってことは、もしかして主催も郡司さんのお父さんってことですか?」

「そういうこと。父は審査委員長も務めてる。それに第一回っていう文言からわかるように、これは父の名前を冠したコンクールの記念すべき初年度大会ってことさ」


 僕は冷や汗に脇を湿らせる。

 以前、菖蒲沢圭介に絡まれた時から薄々勘付いてはいたけれど、意図的に考えないようにしていた。

 しかしもはや逃れようのない事実となってしまった。今回僕が参加しようとしているコンクールは普通のものではなく、郡司真結衣にとって通常とはまた別の意味合いを持つものなのだと。

 それなのに僕はまだピアノを弾ける状態になっていない。憧れの子の家に招かれ浮かれていた気分が一気に沈んでいく。


「もともと真結衣はこの大会に乗り気じゃなかった。身内びいきってわけじゃないけど、真結衣のバレエの実力は日本の同世代の中じゃ頭一つ抜けてる。それなのにこんなオーストリア行きの直前っていう大事な時期に、こんな過剰なプレッシャーがかかるだけの大会に出る意味をあまり感じないってね。実際俺も同感さ。審査委員長は実の父だ。よっぽど圧倒的なパフォーマンスをしないと、たとえ実力で優勝しても邪推をしてくる輩が出てくるはずだからね」


 人混みを潜り抜け細い路地に入ってしばらくすると川がみえてくる。

 桜の花は大部分が散ってしまっていたが、もう少し早くに来れば綺麗な景色が見えただろうことは容易に想像できた。


「それなのにこの前いきなりコンクールに出るって真結衣は言い出した。しかも伴奏者もすでに決まってるってね。正直驚いたよ。あんなにコンクールに対してやる気を出してる真結衣は久し振りに見た」


 結希さんの言葉に僕の胸はチクチクと痛む。

 自己アピールだのなんだのと、くだらないことばかり考えていた自分が恥ずかしくなる。

 郡司真結衣は、僕のピアノに惹かれただけなんだ。

 もうあの頃の音を奏でられないと知らない彼女は、純粋にピアニストとして僕のことを見ている。

 そんなこと当たり前のこと、わかっていたはずなのに。

 

「伴奏者、君の方から頼んだのかい? それとも真結衣から?」

「……郡司さんの方から、お願いされて」

「そうか。まあ、そりゃそうだよね。でも意外だな。もし真結衣が今回のコンクールに出るとしたら、“あの子”が伴奏者を引き受けた時だけだと思ってたよ」

「あの子? 誰か他にあてがあったんですか?」

「ああ、、真結衣が世界で一番好きなピアニストがいてね。てっきりその子に伴奏者を頼んだのかと」


 郡司真結衣が世界で一番好きなピアニスト。そんな人がいたなんて。いったいどんな人なのだろう。僕には想像もつかなかった。

 穏やかな風が流れるたびに、かろうじて残っていた桜の花が舞い落ちていく。

 すでに涸れてしまった僕にまだ鮮やかな色は残っているのだろうか。



「だけど真結衣は君を選んだ。俺が想像してたより、なんだかチンチクリンで覇気のない奴だけど、君は選ばれた。だから期待してるよ、久瀬朝日くん。君が真結衣の横に立つ人間に相応しいことを」



 郡司真結衣の兄は、僕に期待していると言う。ただの自動うんこ製造機に過ぎない僕へ、彼女に似たダークグレイの瞳を向ける。

 選ばれる資格なんて、本当は今の僕にない。


 でも僕は曖昧に笑って誤魔化すばかりで、期待を肯定することも、否定することもしなかった。

 

 

 

 

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