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トラウマうんこ


 

 僕は改めて自分がどんな人間なのか考えていた。

 うんこが言うには郡司真結衣に想いを伝える前に、僕という人間について彼女に知って貰う必要があるという。

 要するにプレゼンテーションという奴だ。僕はこんな人です。こんな僕ってどうですか。みたいな感じで自己アピールをしなければならないらしい。

 バレエの伴奏者などという実現困難な願い事を安請け合いしてしまってから、もう一夜が明けている。時刻は早朝で、朝のホームルームが始まるまで残り五分となった教室にも空席はほとんどみられない。

 そんなミドルテンポの喧騒満ちる教室の隅、つまりは廊下側最後尾という自分の席に座りながら己を静かに見つめ直してみる。

 目的なく彷徨う僕の視線の先で、和やかに談笑するクラスメイトたち。彼らと僕との違いはなんだろうか。

 誰かに意見を聞こうにも、僕の一つ前の席はいまだに空席でこの場に頼れる者はいない。机から大量の教科書とプリントが溢れ出ている様子から分かるように、学校での僕の数少ない話相手は非常に怠惰な性格で当然の如く遅刻癖の持ち主だった。

 今度は教室の前方を眺めてみる。

 すると簡単に見つかる小さな人だかり。その中心には慈母の雰囲気漂わせる郡司真結衣の姿があった。さすがに彼女に対して僕ってどんな人ですか? なんて訊くわけにはいかない。


 やはり自分一人で答えを出すしか道はないみたいだ。


 久瀬朝日。身長165センチ。体重53キロ。誕生日は12月5日。血液型はO型。一つ違いの姉が一人。ペットは飼っていない。猫よりは犬派。成績は中の下。スポーツ全般が苦手で、プールでも海でもまったく泳げない。学校では腫れ物扱いというよりはうんこ扱い。コミュニケーション能力は平均未満。顔は美形には程遠く、ナメクジに似てるってたまにいわれる。

 駄目だ。考えれば考えるほど鬱になる。わかっていたことだけれど僕には長所が少なすぎる。いったいこれまでの人生本当に何をしていたんだ。薄っぺら過ぎる。想像以上のうんこ野郎だ。



「は? おい! それどういうことだよ郡司! 本気で言ってんのか!」



 するとその時、自己嫌悪のラビリンスの迷い込んでいた僕の耳に荒々しい怒声が聴こえてくる。

 このバスの音色には聞き覚えがある。そしてその音はこの学校で僕が最も忌避するものだった。


「おいおい、ちゃんとわかってんのかよ? 次のコンクールはただのコンクールじゃねぇ。お前が入賞するためには俺が伴奏者になるべきだ。そんくらい理解してんだろ?」


 小鳥が羽根を伸ばしつつハミングする優雅な朝には相応しくない剣呑な大声が教室中に響き渡る。

 周囲の喧騒もとりとめのないものから、たしかな方向性を持った緊張感あるものに変化していく。

 そんな居心地の悪い雰囲気を創り出している張本人はやはり郡司真結衣の前に立つ背の高い少年のようで、残念ながら僕は彼の名前もよく知っていた。


「ごめんね、菖蒲沢くん。でも私、もう伴奏者見つけちゃったから」


 菖蒲沢圭介しょうぶざわけいすけ。中等部一年生の頃のクラスメイトであり、僕をこの学校で触れてはいけない存在にした張本人である彼は、郡司真結衣の決定的な一言にこめかめをピクつかせている。


「ふざけんな。今度のコンクールは記念すべき“第一回郡司壮真ぐんじそうまバレエ・ピアノコンクール”なんだぞ! 第一位入賞以外は許されねぇ! そんな大事な大会で、俺以上にお前に相応しい伴奏者なんていねぇだろうが!」


 今やもう菖蒲沢は顔を真っ赤にして掴みかからんとばかりの勢いだ。

 しかし郡司真結衣は毅然とした態度を保っていて、少しだけ困ったように口端を歪めるだけだった。

 それにしてもまた何となく嫌な予感がする。というかやけに不吉なワードを耳にした気がする。第一位入賞以外は許されない? いったいどのコンクールの話だろう。


「本当にごめんなさい。でも、もう私、決めたの。だから菖蒲沢くんとは組めない」

「教えろよ。誰なんだ、お前と組むその伴奏者の名前」


 カチ、カチ、と飾られたアナログ時計の針が動く音がはっきりと聴こえるほど、教室は静寂に冷え切っている。

 そして僕の悪寒は加速度的に増していき、若干下腹部が疼き始めるのが感覚的に理解できた。



「久瀬くんだよ。私は久瀬くんに伴奏者をお願いしたの」

「……は?」

 


 よし。トイレに行こう。

 急激な胃腸の痛みを自覚した僕は静かに席を離れ、トイレに向かうことを決意する。

 もう駄目だ。これ以上この場にいてはいけない。

 一秒でも早く、一ミリでも遠くに行かなくては。


「おい、待てよ、ウンコクセ。どこ行くつもりだ?」


 しかし願いは叶わず、重苦しく腹底に響くバスが僕の背中に投げつけられる。

 最悪だ。

 どうしてこうなった。僕は思わず頭を抱えるが、この窮地を脱するための策は一向に思い浮かんではくれなかった。


「驚いたぜ、ウンコクセ。まさかお前が郡司の伴奏者だとはなぁ?」


 大股でこちらの席まで近寄ってきた菖蒲沢は、僕より十センチ以上は高い長身で、軽蔑の色を隠そうともせず睨みつけてくる。

 両の拳が強く握り締められていて、プルプルと微かに震えていた。僕の方は震えることすらできずに石造のように硬直している。


「本当なのかよ。あの・・お前が、郡司の伴奏者をやるって話」


 菖蒲沢は薄笑いを浮かべながら、僕との距離を詰めてくる。

 教室の壁に追い詰められる形になった僕は、悪夢のような過去を思い起こし、すぐにでも朝食のシリアルを吐きそうだった。


「今でも思い出すと笑えるぜ。なあ、ウンコクセ? お前も笑えよ。お前が大好きなピアノの前で盛大にクソを漏らしたあの時のこと、お前も覚えてるだろ? あれは傑作だったよなぁ!?」


 菖蒲沢の哄笑が思い出したくない記憶と重なり、僕は黙り込んだまま俯くことしかできない。

 今から三年前。あれは僕が中学一年生の時のことだ。

 この学校では年に一度合唱コンクールというものが開かれるのだが、その伴奏者を決める時に僕の学校生活を決定づけるあの出来事が起こってしまったのだ。



『おい、久瀬朝日! お前、ピアノが得意なんだろ! 弾いてみろよ!』



 当時からすでにクラスの中心的人物だった菖蒲沢になぜか目を付けられた僕は、合唱コンクールの伴奏者をやるように強要された。

 この頃にはすでにOIBSを発症していた僕はもちろん断ったのだが、運の悪いことにこの体格の良い横暴な猿は非常に執念深い猿だったのだ。


『むりだよ。僕には弾けない。ごめん、むりなんだ』

『嘘ついてんじゃねぇ。またお前は俺を馬鹿にしてんだな。弾けっつってんだろ』


 結局菖蒲沢に押し切られた僕は、嫌々ながらもピアノを弾くことにした。

 一小節を弾ききる前に、鍵盤に数回触れただけで、僕は発狂しそうになるほどの激痛を覚えたが、それをむりやり我慢して、なんとかピアノを弾いていった。

 でも自らの奏でる音が鼓膜に響けば響くほど、僕は首を絞められるような息苦しさを感じて呼吸ができなくなっていた。


『ああああああああぁぁぁぁぁっっっっっっっ!!!!!!!』


 そして結論を言うと、最終的に僕は絶叫しながら気絶してしまった。これでもかと下痢便を撒き散らしながら。

 目が覚めた時には僕の周りから誰もいなくなっていて、それからというもの僕は学校中からクソ漏らしのウンコクセとして扱われ、一部の例外を除き僕と関わろうとする人は現れなかった。



「あれ? なんで菖蒲沢がここにいんの? クラス間違えてるよ」



 しかし、苦々しい糞塗れの過去に溺れる僕の横から、空気の読めないアルトが聞こえてくる。

 それは何とか遅刻を寸前のところで免れた、僕の知る数少ない一部の例外から発せられたものだった。


「くそが。俺は絶対お前を認めない。覚えとけ、久瀬朝日。後悔させてやるよ。お前がまた俺の前に立とうとしたことを」


 予想外の闖入者を一瞥すると、菖蒲沢は踵を返す。

 どうやら間一髪、僕はまたもや彼女に助けられてしまったようだ。


「……小野塚。俺はお前も認めてねぇからな」

「は? なんの話?」

「ちっ」


 最後に舌打ちを残し、軽く僕を肩で突き飛ばしてからそして菖蒲沢は去っていった。

 すると同時に前方の扉の方から担任の先生が入って来て、教室にまた弛緩した空気がゆっくりと戻っていく。


「ねえ、久瀬。なんかあったの? もしかしてまたうんこ漏らした?」

「……はぁ、その余計な一言さえなければ、僕は小野塚に今日お昼ご飯を奢ろうと思ってたのに」


 菖蒲沢がいなくなった後、何食わぬ顔をして自席に座った小野塚は、まじで? らっきー、なんて調子のよいことを口走っている。きっと彼女は難聴なのだ。もちろんお昼ご飯を奢るつもりはない。

 でもジュースくらいなら奢ってもいいかなと、僕は実際に口にはしなかったけれどそう思った。 

 

 

 

 


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