宣戦布告するうんこ
夏の匂いが風に運ばれて、僕の身体を軽く揺らす。
まだ朝方だというのに、ちょっと歩くだけで額に汗が滲んだ。
一ヵ月振りにやって来る緑溢れる都心の街。イベントホールに向かう人の数はまだそこまで多くない。第一回郡司壮真バレエ・ピアノコンクールの本選までまだ時間が沢山あるせいだろう。
僕は人気の少ない歩道を意識的にゆっくりとなぞり、憎らしいくらいの快晴を見仰いでみる。
前にここへ来た時より何となく身軽な気がしていたけれど、それはたぶん今回は傘を持ってくる必要がなかったからだ。
「やあ、おはよう朝日くん」
いつかのように信号待ちをしていた僕に、形容しがたい独特な声がかかる。
アルトを思わせる落ち着きに、メゾソプラノに似た浸透感。
男性のものと分かるけれど、どこか中性的な響きを含んだその音色に、僕は残念ながら聞き覚えがあった。
「……お、おはようございます、郡司さん。初めまして。いつもお世話になっています」
「そうか。一応、初めましてになるのか」
郡司壮真。
今回僕が参加しているコンクールの審査委員長であり、国内でも名高い大音楽家。そして何より僕の想い人でありパートナーでもある郡司真結衣の実の父だ。
吸血鬼のように真っ白な肌に、娘と同じダークグレイの混じった鋭利な瞳。
銀縁眼鏡の奥から僕を観察するその目に宿る感情を読み取ることはできず、僕は若干の怯えに視線を外す。
「すまなかったよ、朝日くん。本来なら娘のパートナーにはもう少し早く挨拶するべきだったのだが、なかなかタイミングがなくてね」
「いえいえ、こちらこそすいません。挨拶が遅れてしまって」
「君が謝る必要はないさ。それにお世話になっているのも私の方だからね」
信号が青に変わり、僕と郡司さんは並んで歩き出す。
まさかこんなところで郡司真結衣の父と出くわすとは思わなかった。
不敵な笑みを浮かべる郡司さんは何を考えているのかまるでわからない。予選であの失態を晒した僕のことをどう思っているのか、想像しただけで肛門が消えてなくなる勢いで細くなった。
「元々真結衣は今回のコンクールにはあまり乗り気ではなかったからね。あの子がコンクールに出れたのは君のおかげだよ、朝日くん。感謝しているよ」
「そんなことないです。僕なんてべつに何もしていません。予選の時だって僕は足を引っ張ってばかりで……」
僕が自虐的な言葉を漏らすと、僅かに郡司さんの横顔に冷たく暗いものが混じるのが分かった。
夏だというのに悪寒が走り、真冬の最中にいるかのような凍えを感じる。
「……まあ、それは否定できないね。予選での君の演奏は本当に酷いものだった。あれほど私を苛立たせる演奏も珍しい」
前触れなく僕に突き立てられる才気ある者の怒り。
相変わらず準備不足の僕はただ口を噤むばかりで、ただ足を動かす速度を上げるだけ。
「正直言って私は、君と真結衣を予選で落とすつもりだった。他の審査員たちの意見に従って、最終的には本選へ進ませたが、本意ではない」
「……す、すいません」
「いや、謝る必要はないさ。これはあくまで私の感性の問題だからね。だけどこれだけは言っておくよ、もし予選と同じような演奏を今日も繰り返すのならば、私が君を認めることはないだろう。そして最も軽蔑すべきピアニストとして君を記憶する」
薄笑いを顔に携えたまま、郡司さんは拒絶と軽蔑を僕に対して示す。
娘がコンクールに出場してくれて嬉しいと言っていたのに、周囲の意見を押しのけ予選で落とすつもりだったと郡司さんは言う。
それはよっぽど僕の演奏が気に入らなかったということだろう。この人ほどの音楽家にここまで直接否定されると、さすがの僕でも結構心に傷がつく。
あと数時間で本番だというのに、ぼろくそに貶すならば出番が終わった後にしてくれればよかったのに。
「しかし同時に、君にはまだ期待もしているよ。君は青木の息子だろう?」
「え? 青木、ですか?」
「ああ、すまない。今は青木海佳ではなく、久瀬海佳だったね」
青木の息子と言われていったい何の話かと思ったけれど、どうやら母の旧姓のことを言っているらしい。
どうやら母と郡司さんは知り合いみたいだ。
「君の母親は私の大学での後輩なんだよ。だからよく知っている。今はたしか大学の准教授だったかな?」
「あ、はい。そうです」
「ふむ、初めて彼女を見た時から才能があるのは分かっていた。同時に魅力的でもあった」
郡司さんと母が同じ大学出身だとは知らなかった。ということは父とも顔見知りなのだろうか。
まさかこんなところで繋がりがあるとは。どうにも芸術の世界は狭いらしい。
「だから君には期待をしているんだ、朝日くん。あの優秀な彼女の血を引いているのだからね。……もっとも、同時にあのろくでなしの血も引いているみたいだがね」
しかしそこまで郡司さんが言葉を続けたところで、僕の心にさざ波が立つ。
予選の時に晒した醜態。そのせいで批難めいた言葉をかけられるのは仕方がない。あの演奏は何度か聞き返したが、僕でも酷いものだと思う。だからそれはいい。
母のことを知っていて、その息子である僕に期待してくれるのは素直に嬉しい。何も不満はない。僕だって母の名は穢したくない。だからこれもいい。
でも、今郡司さんが口にした“ろくでなし”、この言葉を聞き逃すことはできない。それはできなかった。
「……あの、今のろくでなしって誰のことですか?」
「決まっているじゃないか。君の父親のことだよ。名前は久瀬大地だったかな? あれはどうしようもない男だったよ。私は美術方面には詳しくないが、学生時代の彼はかなりの出来そこないだったからね。授業にもろくに出席せず、毎日放蕩三昧。正直言って、今でも彼女に相応しい男だとは思っていない」
郡司さんは僕の父のことを特に悪気もなさそうに貶していく。
さも当たり前の事実を述べているだけみたいな顔で、淡々と僕の父親を馬鹿にする。
何も知らないくせに。僕の父がどれほどの苦難を強いられていたのか、知りもしないのにろくでなしだと決めつけている。
「撤回してください」
だから僕は会場に向かう足を止めて、郡司さんの方へ視線を飛ばした。
何もわかっていない。この人は僕のことも、父のことも何一つ理解していない。
「僕の父はろくでなしではありません。撤回してください」
もちろん馬鹿なことをしているとは自覚している。
これから出場するコンクールの審査委員長に、しかも片想いしている相手の実の父親相手に喧嘩を売るなんて正気の沙汰じゃない。
だけど僕は認めるわけにはいかなかった。人生の汚点である学生時代のスランプを僕に語ってくれて、しかも自身のお小遣いを使って僕のためにリフォームまでしてくれた父を蔑ろにされることだけは許せなかった。
「……ふむ。自らの音楽を否定された時は微塵も見せなかった怒りを、家族が侮辱された際には発露させるのか。真結衣とは正反対だな」
僕に合わせて立ち止まった郡司さんは、目を細めながら丹念に剃り整えられた顎を撫でる。
灰黒の瞳に渦巻く思慮の影。
僕は底知れぬ闇に吸い込まれそうな錯覚を覚えたけれど、決して目を逸らさなかった。僕はこれから先、どんなものからも逃げないと一ヵ月前に決めたからだ。
「わかったよ、朝日くん。いいだろう。もし今日、私を納得させられる音楽を奏でてみせたら君に頭を下げて謝罪しよう。君も音楽家の端くれならば、音で示してみせなさい。私が間違っていて、君が正しいということを」
傲慢な物言いだとは、思わなかった。
どれほど傍若無人な態度だとしても、この人はそれに相応しい実力と地位を手にしている。僕みたいな何も成し遂げていない子供が文句をつけていい相手ではないんだ。
もちろん他人の親を平気で馬鹿にする人間性はどうかと思うけれど、それを批難することは今の僕には少し難しい。
「わかりました。今日のコンクールで僕は一位を取ってみせます。僕が優勝したら二度と僕の父を馬鹿にしないと約束してもらいます」
そして僕は思わず出過ぎたことを口にしてしまう。
これではまるで宣戦布告だ。しかも相手は審査委員長兼好きな女の子の父親。
調子に乗ってしまったと後悔する時にはもう全て手遅れだった。
「ほう? あの菖蒲沢くんと梶くんのペアに勝つつもりなのかい? プロである私から見てもあの二人の完成度は想像以上のものだったが、彼らを超えるというのか」
「……はい。僕と真結衣さんなら、必ず勝てます」
ここで初めて郡司さんは歯を見せて嗤う。
糸のように細まっていた瞳が大きく見開かれ、好奇心一色に染まった瞳が僕に注がれる。
本能的な恐怖を僕は感じたけれど、尻穴に力を入れ何とかそれを抑え込んだ。
「そうか。今日は正直言って優勝ペアの決まり切った消化試合になるかと思っていたが、少し楽しみができたよ。そこまで大見えを切るんだ。余程の自信があるんだろうね」
当然自信なんて全くない。郡司真結衣とは合わせた練習を一度もしていないし、OIBSは結局治っていないのでいつ演奏中に糞を漏らしても不思議じゃない。時限爆便を腹に抱えて演奏することは決定的だ。
「それじゃあ表彰式で会えることを楽しみにしているよ、久瀬朝日くん」
やがてふと身体に纏っていた威圧感をどこかに霧散させると、郡司さんは僕を置いてコンクール会場の正面入り口とは別の方向へ歩き去っていく。
そこでやっと僕は呼吸の仕方を思い出し、肺に空気を入れることに成功する。
なんだかまた余計な重荷を背負い込んでしまった気がする。
「……行くか」
だけど僕もまた、再び前に歩き始める。
もう二度と、足を止めないと決めたからだ。
どれほどの痛みがあろうとも、逃げることはしない。
第一回郡司壮真バレエ・ピアノコンクール本選当日。
予選突破ペア中最下位だった僕らは、この日の演奏順で一番最初だった。