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大地とうんこ



 コンクールの予選が終わってから三日間、僕は一切ピアノに触れなかった。

 本選の日は刻々と近づいてきているにも関わらず、僕はまた二ヵ月前の状態に戻ってしまったというわけだ。

 あれほどお喋りだった僕のうんこの声もこの三日の間一度も聴いていない。音楽家としての才覚だけでなく、自らの排泄物の声を聴く力さえも失ってしまったようだ。

 もちろん僕の方からうんこに話しかけることもしていないので、案外喋りかけてみれば普通に返事をするかもしれない。

 だけど、今の僕はそんなことを試す気分ではなかった。誰の声も、聴きたくなかったのだ。


 今日も学校から帰ってきた後、僕は演奏部屋に引きこもっている。


 コンクールのあった日曜日以降、僕は郡司真結衣とは言葉を交わしていない。

 見捨てられてしまったのか、単純に話しかける用事がなかったのかはわからないけれど、それはありがたかった。今の僕には彼女に憧れる資格もなければ、隣りに立つ覚悟もないのだから。

 ちょうど二ヵ月前辺りに席替えがあって、それ以来小野塚ともめっきり話す回数も減っていた。若干避けられているような気もしていたが、これまではずっとピアノの練習に集中していたので僕の方から何かするということもしなかった。

 そのしわ寄せが来たのだろう。僕は唯一といっていい学校での友人だった小野塚との接し方さえ忘れつつあった。

 今の僕に声をかける者は誰もいない。郡司真結衣も、小野塚も、うんこでさえも、僕に目を向けない。

 でも、それでいいと思った。誰の声も、僕の耳には相応しくないのだから。


 ぼんやりとした気持ちで静かに佇むピアノを眺める。


 この二ヵ月間、ずっと一緒にいたのに。何度もその鍵盤を叩いたはずのなのに、僕は彼女の音すらも知らない。

 本選の課題曲はモーツァルトのレ・プティ・リアン。予選の課題曲だったショパンの舟歌とは違って、元々知らない曲だ。早く練習をしないと。予選の時以上に必死にならないと。

 結果的には予選突破を決めている。本選の日は刻々と迫って来ている。それでもやっぱり身体は動かず、何もする気が起きなかった。

 そもそもこれまで通り、どっかの誰かの音源を聴き込み、耳栓をしたまま演奏する練習を続けていいのだろうか。

 形のない逡巡に、僕はずっと足を止めたまま。どこに行けばいいのかわからず、途方に暮れるばかり。

 こんな時はいつもトイレにこもっていた。だけど今はそこすら僕の居場所ではなくなってしまった。

 僕のことを助けてくれる、手伝うと言ってくれたうんこも今はもう何も語らない。うんこにすら見捨てられるなんて。僕はうんこ未満だったのか。

 意味もなく目を瞑ってみる。

 穏やかな夜に包まれ、僕はずっと朝が来なければいいのにと思った。



「おー、いたいた。海佳の言ってた通りだな。朝日はここにいる」



 ふいにくたびれていた僕の鼓膜を揺らす、暖かなテノール。

 ずいぶんと長い間聴いていなかったその声。

 僕は驚きに目を開くと、やはりそこにはよく日焼けした男が立っていて、どこまでも無邪気な笑みを僕に向けていた。


「……父さん。こっちに帰って来てたんだ」


 久瀬大地くせだいち

 その筋では著名な画家で、一年中国内外問わず飛び回っている僕の父親は、やけにレンズの大きなサングラスを頭の上に乗せている。

 仕事の関係で日本には半年ほどいなかったが、どうやら知らぬ間にこちらへ戻って来ていたらしい。


「ちょうど今日戻ってきたのさ。それにしても本当だったんだな。また朝日がピアノを弾くようになったっていう話。海佳が喜んでたぞ。夜月はなんか妙な反応だったけど」


 ピアノの足元に座り込む僕の隣りへ、父も同じ様に腰を下ろす。

 どうも母からの情報で僕が再びピアノを弾き始めたことを知ったらしい。

 鈍い痛みが胸に響いた。

 せっかく母や父を喜ばせたのに、僕はまた期待を裏切るのか。


「……ごめん、父さん。僕はやっぱりダメみたいだ。たぶんピアノは、もう弾けない」

「うん? どういうことだ? また弾けるようになったんだろう?」

「違うんだよ、父さん。母さんは勘違いしてる。この二ヵ月の間、僕はピアノをまた弾こうと挑戦してたんだけど、結局ダメだった。僕はまだ弾けないままなんだ」


 僕は父の誤認を修正する。

 たしかに僕はここしばらくの間、ピアノの音を奏でていたかもしれない。

 だけど、それは僕の音じゃない。

 僕はいまだに自分の音色を見失ったままだった。


「……そうか。そうだったんだな。すまんな、朝日。父さん早とちりしてしまったよ。べつにいいさ。謝る必要はない。誰も悪くなんてないんだ」


 それでも父は微笑みを崩さない。

 僕の両親は二人揃って本当に優しい人だ。こんなできそこないの息子に、慰めの言葉をかけてくれる。

 悪いのは僕だ。そんなこと分かり切っているのに。


「……実は父さんもな、昔、絵が描けなくなった事があったんだ」

「え?」


 するとしばらくの沈黙を経てから、父がぽつりといった雰囲気で喋り出す。

 セピアに滲んだ回顧を光に透かすような目つきで、どこか僕には見えない遠くを見つめている。

 

「あれは二十代前半くらいの時だったかなぁ。筆を持つとキャンバスが勝手に真っ黒になってさ、どうしようもなくなるんだ。あれは困ったね。ほんとうに、もう一生絵が描けないもんだと思ったよ」

「……初めて聞いた。父さんにもスランプみたいなのあったんだね」

「まあな。おかげで大学四年間を棒に振ったよ。大学で手に入れられたのは少ない友人と、可愛い彼女だけだったな」

「両親の惚気とか反応に困るからやめてよ」

「はははっ、すまんすまん」


 父と母が同じ国立の大学で出会ったことも、母は成績優良者として卒業したのに父は四年間通ったあげくに単位をたったの一つも取らず結局中退したことも、僕はすでに知っていた。

 でも父が中退した理由がスランプによるものだとは知らなかった。

 姉に似て、絵に描いたような天才肌の父は大学在籍時も好き勝手遊びまわって、自由奔放に自分の好きなように過ごしていたのだとばかり思っていた。

 だけど僕の想像は全部間違っていた。

 父の大学での四年間は苦悩に満ちたものだったのだ。


「でもあの頃は本当につらかったさ。何を描こうとしても黒一色に染まるキャンバス。それでもむりやりに絵を描こうとすると、今度はムカデみたいな蟲がどこからともなく沢山湧き出てきて、俺の全身を這いずり回るんだ」


 単位を一つも取れなかったという事は、大学に入学した途端にスランプに陥ったということだ。

 新たな門出。輝かしい未来。それらが一瞬で砕け散り、瞬く間にライバル達と差をつけられていく。

 それはどんな気分だっただろう。想像もしたくなかった。

 ピアノが弾けなくなった時、僕は音楽の世界から逃げ出すことができたけれど、父はきっと違ったはずだ。

 比較的遅咲きの芸術家である父には若い頃の功績がない。

 僕のように過去の栄光に縋ることもできず、芸術系の大学に進学してしまったことで容易に違う世界へ逃げ出すこともできない。

 どんな思いで父がその四年間を過ごしたのか、きっと僕には理解できない。父本人にしかわからないだろう。


「あ、もちろんこの蟲とか黒いキャンバスとかは全部俺の幻覚な。俺にしか視えてないんだ。誰にも言えなかったよ。……俺は、海佳にも言えなかった」

「母さんにも? それなのに僕に話してよかったの?」

「ああ、もちろんさ。俺の息子だからな。でも内緒だぞ? スランプなんて自慢げに他人に話すもんじゃない」


 しかし父は今、スランプを克服して世界的なアーティストとして名を馳せている。

 あらためて凄いと思った。僕は父みたいになりたいと思ったけれど、なれる気がしない。ついでにいえば、スランプ中にさりげなく嫁を捕まえるなんて離れ業もできる気がしなかった。


「あのさ、父さんはどうやってスランプを克服したの? というかそんなスランプの経験があるなら、僕になんかアドバイスとかくれればよかったのに」

「ははっ、そうか? まあ、そうだな。本当はもっと前に話そうかとも思ったんだが、話せなかった」


 父へ純粋に疑問をぶつける。

 見方によれば僕より深刻なスランプに陥った過去を持ち、今は無事克服しているのに、なぜ僕にその事を教えてくれなかったのか。

 どうやってそのスランプを乗り越えたのか、父が僕に教えてくれなかった理由。

 恨みとかそういうわけではなく、素直に不思議に思った。


「それはな、正直言って俺はスランプになってしまった事そのものより、スランプを克服しようとした事の方が苦しかったからなんだ。俺と同じ苦しみをお前に強要するのが、嫌だった。俺はべつにいいと思ったんだよ。お前がピアノを弾かないなら、それはそれで。俺は絵にこだわったが、だからってお前もこだわる必要はない」


 そして父は僕の目を真っ直ぐと見据えると、申し訳なさそうな、困ったような笑みを浮かべる。

 そうだ。きっとそうなんだ。

 ピアノを弾けないこと自体はそこまで苦痛じゃなかった。むしろ僕が望んでいたふしさえある。

 だからたぶん、苦しいのはこの先。

 僕はずっと逃げ続けていた。それは逃げ続けるのが楽だったからだ。


「俺がスランプを克服した方法。簡単だよ。……ただひたすら描き続けたんだ。たとえキャンバスが黒に染まろうと、蟲が身体を這いづり回ろうと、俺はとにかく描き続けたよ。幻覚がやがて痛みに変わって、普段の生活ですら色の識別ができなくなり出そうと、俺は絵を描いた」


 父の語るスランプ克服方法は思った以上にシンプルで、想像を超えて苛酷なものだった。

 ひたすらに描き続けた。言葉では簡単に言うが、どれほどの覚悟と執着を持てば身体中を蟲に這われながら黒いキャンバスに筆を走らせることができるのだろうか。

 

「俺は正直、あの頃のことは思い出したくもないよ。我ながら、よくやったもんだ」


 僕は憧憬の視線で父を見やる。

 見つめ返される瞳には優しくも、強い光が宿っていて、それが僕を安心させた。


「だけど、やっぱり朝日もまたピアノを弾こうとしたんだよな。俺とは違って、なんだか立派な病名まで貰ったのに、結局この場所に戻ってきた。血は争えないな。……朝日、覚悟はあるか? もしお前が本気でまたピアノを弾くつもりがあるのなら、俺は手伝うぞ。海佳は怒るかもしれないけどな」


 父は僕を試すように口角を上げる。

 覚悟はあるか、父は僕に問う。

 弱い僕は返事ができなかったけれど、強い父はその沈黙を覚悟があると受け取ったみたいだった。

 


「よし、俺に任せろ朝日。……この演奏部屋にトイレをつけよう。ピアノを弾こうとするとうんこしたくなるんだろ? それならうんこをしながらピアノを弾ける場所をつくればいいだけさ」






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