二ヵ月後のうんこ
春の残り香もすっかり消え失せ、梅雨の灰雲の向こう側にはすぐ夏がいる。
傘に打ちつけられる水滴の音を聴きながら、僕は湿った空気を肺いっぱいに吸い込む。
少し伸びてきた髪を切ればよかったと思ったけれど、もう遅い。
郡司真結衣に伴奏者に誘われたあの日から、ついに二ヵ月が経った。
水溜まりを避けながら僕が向かう先は、僕が昔何度か行ったことのあるイベントホール。
都内にしては沢山見える緑に囲まれると、若干の懐かしさを感じないこともない。
辺りには僕と同じ方向に歩いている人も何人か確認できて、いよいよこの日が来てしまったのだと否応なしに自覚を促す。
第一回郡司壮真バレエ・ピアノコンクール。
今日は僕が数年振りにコンクールに参加するまさに当日だ。緊張で全身がこちこちになってしまっているが、それもそうだろう。
この二ヵ月の間、僕にできることは全てやってきた。体調は悪いがコンディションはまずまずだ。頭の中では今日もショパンが無限ループを繰り返しているし、指の動きもあからさまに鈍いことはない。
僕があの画期的なアイデアを思いついてから、今日までピアノに触らない日は一日だってなかった。自分の仕上がりは残念ながらまだ確認できていないけれど、イメージは完璧だ。今日の予選に関しては通過できるんじゃないかと期待できると思う。
『ついに明日ですね、アサヒさん。私としては“そのやり方”は根本的な問題を解決できていないと思いますが、もはや他に手はありません。今のアサヒの力で、行けるところまで行ってください。応援しています』
やけに神妙な様子だった昨日のうんこのことを思い出す。
たしかに僕はまたピアノが弾けるようにはなったが、実際にはOIBSが治ったわけではない。
ただ症状が出ないように演奏する術を見出しただけで、それは今だに僕を悩ませている。
しかし今の僕には時間がなかった。ブランクを埋めるために、とにかく今の僕にはピアノに触る必要があったし、そのためには正しい判断だったとも思っている。
もちろん不安はあるけれど、これが今の僕にできる最善なのだった。
「あ、あれは」
そして曇天の中道を急いでいると、横断歩道の付近で見覚えのある顔を見つける。
スタイルの良い長身に中性的な童顔。どこか貴族然とした雰囲気は僕のパートナーを思い出させる。
郡司結希。郡司真結衣の兄だろう。おそらく可愛い可愛い妹の晴れ舞台を見届けに来たんだ。
僕は無視するのもまずいかと思って、小さく会釈することにした。
「ど、どうも、おはようございます」
「……え?」
いきなり挨拶されたことに驚いたのか、あどけない声を結希さんは漏らす。
しかし僕の聴覚が捉えた声は予想とは異なり、僕は自らの失態に気づく。
しまった。僕としたことが。この人は“結希さん”じゃない。
「ごめん、えーと、君、だれだっけ?」
「あ、すいません! 人違いでした! てっきり結希さんかと……」
「結希? ……ああ、もしかして君が久瀬くん? そういえば弟が会ったって言ってたな」
おそらくこの人は郡司真結衣の双子の兄のうち、結希さんじゃない方なんだろう。
声を聞けば一発なのだけれど、顔は見分けがつかないほど似ている。これが噂の一卵性双生児というやつか。初めてみたけど、本当によく似てる。
「どうも。僕は郡司望結。真結衣の兄で、結希の双子の兄です。いつも妹がお世話になってます」
「い、いえいえ、僕の方こそ! 結希さんと間違えてしまって申し訳ないです。失礼しました」
「べつにいいよ。いつものことだから。この前もなんか、結希の代わりに他大学のサークル会議みたいの出てきたけど、それでも全然気づかれなかったからね」
望結さんはからからと笑う。柔和な笑顔が印象的で、結希さんに比べておっとりしている感じだ。
信号が青になり、僕は並んで歩き出す。イベントホールはすでに見えるところにあって、自然と喉が渇いた。
「それで調子はどう?」
「あ、えと、まあまあです」
「そっか。ならよかった。気負わず、リラックスするといいよ。聞いた感じだと、真結衣にむりやり頼まれたんでしょ?」
「いやそんな。むりやりってことはないですよ」
「隠さなくていいって。真結衣はああ見えてちょっとジコチューっていうか、自信家なところあるからね」
砕けた調子で望結さんはそう話す。郡司真結衣が自己中心的だなんて、実際はそんなわけないし、僕もそんな風に思ったことは一度もない。
おそらく顔が青ざめているであろう僕の緊張をほどくために、気を利かせて冗談を言っていてくれているのだろう。
「それに結希も真結衣をけっこう甘やかしてるから、それもいけないんだろうなぁ。父さんも表には出さないけど、たぶん真結衣にはかなり期待しているし。久瀬くんはどう思う?」
「え? 何がですか?」
「真結衣のこと。君から見て、真結衣はどんな子?」
双子の弟や、少し年の離れた妹である郡司真結衣と同じ様に、初対面にも関わらず望結さんはきさくに話しかけてくれる。
たぶんこれも家系なのだろう。変人揃いの久瀬家とは違って羨ましい。
「郡司さんは完璧ですよ。誰からも好かれるし、バレエっていう特別な才能も持ってる。僕なんかとは比べものにならない。正直まだ、こうやって郡司さんの伴奏者になれるなんて信じられないです」
「あはは。べた褒めだね。うちの妹をそこまで買ってくれるのは嬉しいけど、あんまり期待し過ぎないでね。真結衣は完璧なんかじゃないからさ」
僕にとって郡司真結衣はいつだって太陽より輝かしい存在だったし、それは今も変わらない。
それなのに自分の妹のことを話す望結さんはどこか心配そうな声色を奏でていた。僕にはその理由がわからない。
彼女が今回のコンクールで不本意な結果を残すとしたら間違いなく僕の方なのに。どうしてこの人は彼女の方ばかり案じているのだろうか。これも一種のシスコンなのかもしれない。
「噂をすればなんとやらだね」
そしてついに今日のコンクール会場に辿り着くと、シックなドレス姿を着込んだ美少女がこちらの方に手を振っている姿が見えた。
湿った雨粒降らせる空の下、眩しい笑顔を輝かせる彼女に向かって僕は小さく手を振り返す。
「おはよう、久瀬くん。あと望結兄さんも」
「お、おはよう、郡司さん」
髪も丁寧にまとめられていて、形のよいおでこが今日はよく見える。
一応学校では毎日顔を合わせてはいたけれど、やっぱり外で会う彼女はいつも以上に魅力的に思えた。
「おはよう、真結衣。父さんにはもう会った?」
「ううん、まだ会ってない。たぶん会場の中のどこかにはいると思うんだけどね」
「そっか。なら僕はちょっと父さんを探してくるよ」
今更だが今日はただコンクールに出るわけではなくて、郡司真結衣の実の父に僕の演奏を聞かれるのだ。もし醜態を晒すようなことがあれば、彼女に対して接触禁止令のようなものが出されるかもしれない。
僕は怖ろしさに大きい方ではなく小さい方を漏らしそうになるが、それをなんとか堪える。
「それじゃあ、久瀬くん、真結衣、頑張ってね。二人のパフォーマンス、楽しみにしてるよ。僕は音楽に関しては素人だから、良し悪しはわからないけどね」
「は、はい! 頑張ります」
「うん、ありがとう。また後でね望結兄さん」
最後まで爽やかな笑みを保ったまま、そして望結さんは先に会場の中の方へ去っていった。
失敗は許されない。だけど今の僕は自分が失敗しているか、成功しているのか一人で判断することができない。
この二ヵ月間の努力が無駄じゃなかったのかどうか分かるのは、全部終わったあとだ。
「久瀬くん、いよいよだね」
「そうだね。郡司さんためにも、全力を尽くすよ」
「ふふっ、ありがとう。でも大丈夫。久瀬くんは自分の弾きたいように弾いて。私がそれに合わせるから」
いつもように郡司真結衣は僕に好きなように弾けという。
優しい人だ。こんな僕を気遣ってくれている。
僕は改めて彼女の足を引っ張らないことを誓い、並んで会場の中へ向かう。
「とりあえず今日の目標は本選出場の上位八ペアに入ること。頑張ろうね、久瀬くん」
「そうだね。今日はまだ予選。本選はまだ一ヵ月後。夏が来る前に負けるわけにはいかないよね」
すでに人生で一番の緊張を感じてはいるけれど、これはまだ序の口だ。
元々今日の課題曲であるショパンの舟唄は僕の得意な曲。こんなところでつまずくわけにはいかない。
さすがに同世代トップのバレリーナである郡司真結衣が予選落ちだなんてしたら、それはもう伴奏者に問題があるに決まっている。切腹ものだ。
「なあ、この“郡司真結衣”っていうの、もしかして郡司壮真の娘かなんかか?」
「は? そうだよ。てかなんでお前知らねぇんだよ。郡司真結衣は今回のコンクールの優勝候補だぞ。父親のコネ抜きでも、入賞筆頭っていわれてるんだからな」
「へえ。そうなんだな。じゃあこの伴奏者の“久瀬朝日”ってのも有名な奴?」
「いや、そいつは知らないな。あれ、でもどっかでこの名前見たような……」
傘を閉じて会場内に入ると、ひしひしとした熱気を感じる。
演者の親族か、関係ない一般人かは不明だけど、意外に観客らしき人たちも数多く見えた。
入場口の何カ所かにはコンクールの簡単な概要が貼ってあり、出場者の名前の中に当然僕の名も含まれている。
そしてやはり郡司真結衣は有名人なようで、会場に入ると様々な方向から視線を感じた。
彼女の輝きが大きいせいか、それとも数年の時は長いのか、僕の方には注目は集まっていない。
周囲には年齢が近い少年少女がところどころにいて、誰もかれもが才あるピアニストに見えて仕方がない。
「久瀬くん、大丈夫? 控室はあっちだよ」
「あ、うん。大丈夫だよ。いこっか」
久し振りのコンクールの雰囲気にのまれていた僕の肩を、郡司真結衣が叩く。
僕はここに来て、また不安で足下が竦みそうになっていた。
落ち着きを取り戻すために、この二ヵ月間ずっと使い続けていた“耳栓”をポケットの中にちゃんとあるか確認する。
OIBSが発症するのは、自分の奏でた音を聴いた時。
ならば音を聴かずにピアノを弾けばいい。それが僕がピアノ弾くために見出した作戦だった。
だけれども、やはり危惧を抱かずにはいられない。
果たして本当に僕はこのまま郡司真結衣の伴奏者として役割を果たすことができるのだろうか。僕にはそれを確かめる術すらない。
なぜならコンクールの当日になった今も、僕は自分が弾くショパンの舟唄を聴くことができないままなのだから。