海とうんこ
手を腹部に当てながら、僕は慎重な足取りで演奏部屋の中に入っていく。
腹式呼吸を意識した深呼吸。部屋の明かりをつければ当然のように視界に入る真っ黒なグランドピアノ。下手糞な息継ぎの音だけが聴こえる。
まだ大丈夫だ。まだOIBSは発症していない。
僕はゆっくりと奥に鎮座する彼女の方へ近寄っていく。
うんこに言われた通り、僕はもっと自らと向き合うべきなのだ。
ピアノを目にするだけでは僕の身体は拒絶反応を起こさない。つまり僕はピアノそのものに苦手意識を持っているわけではないということになる。
そっか。僕はやっぱりピアノが嫌いになったわけじゃなかった。
だとしたら、僕はいったい何にうんざりしてしまったのだろうか。
無意識に浅くなっていた息づかいを、再びローテンポに抑える。
何に怯えているのか。微かに震える足をなんとか進めて、僕はピアノの真横まで辿り着いた。
不健康そうに蒼白い指を伸ばし、そっと彼女の上にそわせる。
雪に似た淡い冷たさはすぐに手の温もりに溶かされ、僕を凍えさせて腹を下させることはしない。
まだ何の問題もない。僕を傷つけていたのはやはり彼女ではなかった。
ピアノに触れても僕の身体はぴくりともしていない。どうやらOIBSが発症する条件はまだ満たしていないみたいだ。
ここまで来ると、僕にもだいたい条件の予想がつき始めてくる。
椅子に座り、鍵盤の海に頼りない手を浮かべても体調に異変はない。となればもう理由は一つだ。
――タンッ。
僕が叩けば音が跳ね、薄っぺらな鼓膜に飛び込んでくる。
そして次の瞬間、僕の予期した通り、急激な腹痛に襲われる。
やっぱりそうなんだ。
OIBSが発症するタイミングは、条件は、僕を苦しめている原因は“音色”なんだ。
どうやら僕は、僕が奏でる音を聴くことができない身体になってしまっているらしい。
液状化した不純物を苦痛に喘ぎながら絞り出した後、僕は一旦自分の部屋に戻った。
タンスの奥にしまい込まれた鍵盤ハーモニカ。
少なくない汗をかきながら見つけた小学校低学年以来一度も使っていない代物。それこそが探していたもので、僕は数秒かけて使い方を思い出し、とりあえず吹いてみた。
すると数秒前に凪に戻ったはずの波が再び荒れ狂い、僕はまたもやトイレに駆け込むことになってしまう。
これで確定だろう。どう考えても僕のOIBSはピアノ自体ではなく、その音に反応している。
身体が拒否しているというよりは、僕の耳が自分の音を受け入れられなくなっているみたいだ。
おそらく他人が弾く音だったら問題ないはずだ。それはこれまでの学校生活で、音楽の授業などを通してわかっている。
思考を続けながら、僕はとりあえずもう一度演奏部屋に向かおうと歩き始める。
あと試してみたいのは過去の僕の演奏を聴いてみることだ。実際に現在進行形で演奏する音が駄目なのか、それとも録音再生などでも僕の演奏を受け入れられないのか。そこは気になるところだ。
昔の演奏記録が残っているCDかDVDがどこにあるのかを考えながら、演奏部屋まで戻ってくる。
「……夜月の言う通りね。ここに来れば朝日に逢える」
弛緩していた僕の鼓膜を震わせる、涼し気なコントラルト。
トイレに行く前はたしか僕一人しかいなかった演奏部屋に、気づけば僕と同じくらいの背丈の女性がいた。
遠い記憶を懐かしむような表情を浮かべて、どこか迷いの含まれた瞳を僕に向けている。
「……母さん? ここで何してるの?」
久瀬海佳。
久し振りにちゃんと見る僕の実の母は、記憶の中より何歳か老けて見えた。
「何をしてるってわけじゃないわ。ただ明かりが付いてたから、朝日がいるかなって思っただけ」
「なにそれ。そんなに僕とお喋りしたかったの?」
「まあ、そうなるかしら。めったにない機会だし」
「僕と喋る機会なんていつでもあるじゃん」
「いつでも、はないでしょ?」
「まあ、そうかもね」
母はそう言うと静かに微笑み、続けてもう少し自分に近づくよう僕を手招きする。
たしかに言われてみれば母とこうして二人っきりになるのは久し振りかもしれない。だけどそれはべつに僕のせいではなく、母が多忙なのがその原因だ。
大学の教員をしている母は誰よりも早く家を出て、誰よりも遅く帰ってくる。いつ作っているのかは知らないけれど、夕飯は作り置きしてくれているので食事に困ることもない。
ここ最近はめっきり会話が減ってしまっていたけれど、だからといって母と僕の仲が悪いわけではなく、単純に時間がなかっただけだ。
無能なうんこである僕とは違って母は優秀な人だし、尊敬もしていた。そんな母が貴重な時間を使って僕なんかと会話をする必要もない。僕は今の母に何の不満も抱いていなかった。
「今日は早かったね。なんかあった?」
「べつに何もないわ。いつもは早く帰ってくる理由がなかったからそうしなかっただけよ。特に今日なんて日曜日だしね」
「へえ、そうなんだ。じゃあ今日はなんで? 今日だって早く家に帰ってくる理由べつにないでしょ? 姉さん関係?」
「いいえ、違うわ。今日はね、朝日とお喋りできるかなって思ったの。だから早めに帰ってきた」
隣り合ってピアノに寄り掛かる僕へ、母は意味のわからないことを言う。
さっき僕と喋りたいから演奏部屋に入ってきたと言っていたけれど、それだけではなくそもそもまだ日が沈む前の時間帯に家に帰ってきたのが息子と会話をするためらしい。
どこの親馬鹿だ。僕は思わず笑ってしまう。これまで僕のことを見てみぬふりをしてきた母が、今更僕と何を話すと言うのだろうか。
「この前ね、夜月が私に言ってきたの。朝日がまたピアノを弾こうとしてるって」
「姉さんが? へえ、意外。姉さんと母さんってあんまり喋らないと思ってた」
「そんなことないわ。私と夜月はけっこう仲良しよ? 毎日ラインしてるし」
「え? そうだったの? 知らなかった」
ワーカーホリックの気がある母と、神出鬼没で普段どこで何をしているのかさっぱりわからない姉が思っていたより繋がっていたことを知り少し驚く。
あまり二人が会話している様子がイメージできず、会話履歴をちょっと覗いてみたい気がした。
「というか母さんラインやってたんだ」
「最近夜月に教えて貰ったの。一応朝日の連絡先も私知ってるわよ」
「は!? なんで!? 僕、母さんに連絡先教えてないよね!?」
「夜月が教えてくれたわ」
「……僕、姉さんにも教えてないんだけど」
知らない間に僕の個人情報が漏えいしていて、驚きを超えて怖ろしくなる。
僕の姉はいったい何者なんだ。あんな無愛想で他人に興味がなさそうな顔をしておいて、ちゃっかりひとの連絡先は抑えてある。
友達の自動追加設定はオフにしてあるはずなのに、いったいどんな魔法を使ったのだろうか。
「なんだ。てっきり私は夜月と朝日もラインしてるのかと思ってた」
「全然。一度もしたことないよ。そもそも姉さんとなんてあんまり喋らないし」
「そうなの? この前もいっぱい朝日とお喋りしたってラインで報告きたけど」
「いっぱいお喋りしたって……たしかにこの前ちょっと喋ったけど、本当にちょっとだよ」
どういう意図を持っているのかさっぱり不明だけれど、どうも僕の姉は自分の弟と仲の良い設定で母と交流しているらしい。
まったくもって意味不明だ。相変わらず姉の考えていることは微塵も理解できなかった。
「まあ、夜月はブラコンだから。朝日に関係することだとすぐ舞い上がっちゃうのね。あの子も昔と変わらないわね」
「は? 姉さんがブラコン? どこがだよ。あの人は僕に全然興味ないでしょ」
「まさか。むしろあの子はあなたのことしか考えてないわよ。ラインだっていつも朝日の話しかしないし」
「嘘だよ。そんなわけない」
「本当よ。今度本人に訊いてみれば?」
完全に騙されている母は呆れたような目で僕を見つめている。
あのデンパ女め。弟想いの姉を演じて何の得があるのかわからない。
今度顔を合わせる機会があれば問い詰めてやる。
「それにしてもやっぱり朝日は、色々誤解してるのね」
「誤解してるのは母さんの方だよ。姉さんは僕のことなんてまるで気にしてないし、むしろ足を引っ張る邪魔者くらいに思ってる」
「やっぱり誤解してるわね。夜月のことも、きっと私のことも、……そして、あなた自身のことも」
僕に注がれる優し気な母の眼差しには、何かを悔いるような響きが含まれている。
そっと僕の頭の上に伸ばされたのは、か細い年老いた女性の手。
力強いクラシックブラックだった母の髪には知らない間に白いものが混じっていた。
「私ね、ずっと朝日に謝らないといけないと思ってたの」
「……ピアノのことならもう謝ってもらったよ。それにあれは母さんたちのせいじゃない。僕がいけないんだ。むしろ謝るべきは期待を裏切った僕の方だよ」
「違うわ。違うの。私が謝りたかったのはその事じゃないし、朝日が謝る必要もない」
いつかの日のように、母の瞳にさざ波が立つ。
僕はそれに気づかないふりをして、何も言わずに目を伏せた。
「私、もっと朝日のことを知るべきだったのよ。昔の私はあなたにはピアノしかなくて、それだけあれば十分だって思ってた。あなたにはピアノの才能があって、私はその後押しをすればいいと思ってた。……でも、それだけじゃだめだったのよ。私はもっと、朝日のことを知るべきだった」
僕のことを知るべきだったと、母は繰り返す。
懺悔するかのようにつらそうな表情で、言葉を紡ぎ続ける。
それを僕はただ聴いているだけ。耳を済ますこともせず、ただ流れゆく音を拾うだけ。
「……夜月に教えて貰ったわ。朝日はケーキだったらチョコレート味が一番好きだって。あと猫ふんじゃったを弾くといつも嬉しそうな顔をするから、きっとその曲も好きなんだって。私は知らなかった。あなたの好きなケーキの味も、好きな曲も」
拒絶できない音色の波は腹部に痛みを与える代わりに、僕の目頭をどうしようもなく熱くさせる。
かつての母は僕のことを何も知らなかった。
だけどそれと同様に僕もまた、母のことを、そしてきっと姉のことも何も知らなかったし、知ろうとしてこなかったのだ。
「ごめんね、朝日。無知なお母さんで。でもわからなかったの。どうすればあなたのことを知れるのか。だって朝日のことを知ろうとした頃にはもう、あなたはどこを探しても見つからなかった」
ふと、この前姉が弾いていた猫ふんじゃったのメロディが頭の中に流れる。
僕はずっと家族に自分が避けられていると思っていた。
もしかしたらそれは違ったのかもしれない。
避けていたのは、僕の方。
家族の期待を裏切ってしまい、何の価値もなくなった自分が恥ずかしくて、僕は自分自身を皆から隠していた。
でも、闇夜に逃げ込む僕をずっと探してくれていた人もいたし、夜空からいつだって僕を見守ってくれていた人もいたんだ。
「……ねえ、母さん。今日の夕飯はなに?」
「え? ……そうね、何が食べたい?」
唐突に話を変える癖のある僕に、母は何も言わずについてきてくれる。
きっとこの悪癖を、母はとっくの昔から知っていたのだろう。
僕はここにいるよ。
そんな恥ずかし過ぎる台詞の代わりに、僕は自分の好きな食べ物を母に伝える。
母のラインを知りたいと思ったけれど、それは今度姉から教えて貰おうと思った。