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レ・プティ・うんこ


 

 沈鬱な思いに沈みながら数分間呆けていると、やがて廊下の方から精密に一定のリズムを刻む足音が聞こえてくる。

 顔を扉の方に向けてみればすぐに郡司真結衣が姿を見せ、胸元には二つ分のティーカップと僕が用意してきたケーキを二人分を乗せたトレイを抱え込んでいた。


「お待たせ、久瀬くん。変なことしてない?」

「え? だ、だからしてないって!」

「なんだよかった。まだそんな大きな声だせるくらいは元気なんだね。なんかちょっと暗い顔してるからどうしたのかなって思っちゃった」


 僕は言葉を失う。どうやら一目で郡司真結衣は僕の心内を見透かしてしまったようだ。

 羞恥に顔が熱を帯びる。せっかく自宅に、しかも自室に招待してもらったのに辛気臭い顔を晒すなんて申し訳ない。ただでさえ面白味のない顔なんだ。せめて見た人を不快にはさせないようにしないと。


「ご、ごめんごめん。ちょっと緊張しちゃって。ほら、僕あんまり女の子の部屋とか来たことないし」

「そうなの? 私の部屋くらいで大袈裟だよ。じゃあ私こそごめんなさいだね。もっと女の子っぽい部屋の方がよかったでしょ?」

「そんなことないって! 十分女の子感あるよ! こう、ほら、なんかいい匂いするし!」

「ほんと? それはどうもありがとう、久瀬くん?」

「え、えと、どういたしまして?」

「ふふっ、やっぱり久瀬くんって面白いね」

「そ、そうかな?」

「うん。そうだよ」


 僕の要領を得ない反応がお気に召したのか郡司真結衣は花のように笑う。

 それにしてもなんかいい匂いするとかいう台詞はちょっとキモかったかもしれない。芳醇な香りがするとかの方がよかったかな。いやどっちでも同じか。


「じゃあとりあえずちょっと早めだけど、三時のおやつにしよっか。あ、ちなみにこれアールグレイなんだけど大丈夫だった? ダージリンの方がよかったかな?」

「いや、全然大丈夫。僕、アールグレイ大好きだから」

「そっか。ならよかった」


 壁際に立て掛けてあったテーブルを部屋の真ん中に広げると、その上に郡司真結衣はまず最初に紅茶の入ったカップを並べる。

 立ち昇る匂いは香ばしく、僕はアールグレイとダージリンの差もわからないくせに、やっぱりアールグレイはいいねぇ、と適当な事を言っておいた。


「ケーキはどうする? 久瀬くんはどれ食べたい?」

「郡司さんが先に選んでいいよ。もともと郡司さんのために持ってきたやつだし」

「ほんと? ありがと。じゃあ、私はこれにしよっかな」


 郡司真結衣が選んだのは白桃と黄桃があしらわれたフルーツケーキだ。僕が持ってきたケーキは全部の六つあったのだけれど、彼女の好みに合うものがあってよかった。

 しかしいざ僕も自分の分のケーキを選ぼうとするとあることに気づく。ここで僕がケーキを食べてしまったらせっかく家族分持ってきたのに足りなくなってしまうじゃないか。


「ほら、次は久瀬くんの番だよ。変な遠慮してないで選んで。それともただ迷ってるだけ?」

「迷ってるわけじゃないんだけど、なんというか……これ、僕も食べていいの? 一応僕の分は計算せずに持ってきたんだけど」

「そうだったの? うーん、まあでもべつに大丈夫だと思う。うちのお父さんと、あと望結のぞむ兄さんも甘い物好きじゃないし。ちょうど二つ余るだろうから、それが久瀬くんとルートヴィヒの分かな」

「そ、そう? ならいいんだけど」


 頭の端に郡司家の男たちの内二人は甘味が苦手とメモをしておく。もし次また家に呼ばれることがあったら気をつけなくては。

 僕はビターチョコレートのケーキを自分の方に寄せて、ありがたく頂くことにする。


「でもそういえばよく久瀬くんは私の家が六人家族だって知ってたね」

「えぇっ!? そ、それは、あ、うん、そうだね、ちょっと、その、噂的ななんかあれっぽいドレミファソラシドみたいな……」

「もしかして周から聞いたの?」

「え? ……あ、そう! その通り! 小野塚からたまに郡司さんの話聞くから! それで!」

「そうなんだ。ちょっと意外。周が私の話するなんて」

「そんなことないよ。小野塚は口を開けば郡司さんの話ばかりだよ」

「久瀬くんの嘘つき」

「う、嘘じゃないって」

「ふふっ、そう? まあ、それはどうでもいっか」


 郡司真結衣は僕を試すような悪戯な笑みを浮かべる。

 今の嘘つきという言葉が彼女の話ばかり小野塚がするというものに対してなのか、それとも僕という人間そのものに対してのものなのか判断がつかなかったが、僕は前者であることを祈った。


「あ、このケーキ美味しい。久瀬くんいい趣味してるね」

「そう言ってくれるとありがたいよ」


 紅色の唇を小さく開き、郡司真結衣は桃とクリームのたっぷり練り込まれたスポンジを口に含む。

 彼女が小動物のように咀嚼する様子に見惚れていた僕は、そんな不埒な視線を誤魔化すようにうんこ色のケーキにかぶりついた。

 満腹指数を刺激する糖質と胃腸を暖める紅茶の組み合わせは最高で、僕はリラックスのあまり対面に座る彼女のワンピースから覗く太ももの方が、ケーキの上の桃よりよっぽど美味しそうだなんてふざけたことを考えてしまう。


「けっきょく久瀬くんには今回のコンクールの事まだほとんど話してないよね?」

「あ、うん、でもここに来るまで結希さんにだいたい教えて貰ったよ」


 しばらくの間フォークとお皿の当たる音以外聞こえない心地の良い静寂が続き、ケーキを食べ終え紅茶で一息ついたところで郡司真結衣は本題に入る。

 口元をティッシュペーパーで拭う仕草すら可愛らしく、僕は脳味噌まで砂糖まみれになってしまう。


「結希兄さんなんて言ってた?」

「聞いた感じだと、たしか審査委員長がお父さんなんだよね? それで郡司さんはめちゃくちゃ才能のあるバレリーナだから足引っ張るなよ的なこといわれたよ」

「もーう、やっぱり結希兄さん余計なこと言ってる。久瀬くん、べつに私は大したことないし、コンクールもたしかにお父さんがちょっと関わってるけど、全然そんなこと気にしなくていいからね?」


 郡司真結衣は頬をマカロンみたいな形に膨らませる。

 さすがにこれほどの賞状を部屋中に飾っておいて自分を大したことないと言い切るのは謙遜が過ぎて、他のバレエをやってる子からしたら嫌味に聞こえる気がしたけれど、唇を尖らせる姿がとても可愛いのでそれもあまり気にならない。

 ただ父親の名前がコンクールタイトルに含まれているのにちょっと関わってるだけというのはさすがにどうかなとは思う。


「……今更なんだけどさ、どうして僕なの? 郡司さんってすごいバレリーナなんでしょ? だったらもっと、僕より相応しい伴奏者がいたんじゃない?」

「だからべつに私はすごくないって。それに前から久瀬くんのことは知ってたよ。小学生くらいの時まではコンクールに出るたび賞を総なめにしてたって」

「ぼ、僕だって郡司さんが思ってるほどすごくないよ。たまたまその頃は調子がよかったんだ。それに今はもうピアノ弾いてないし」


 弾いていないのではなく、弾けない。

 僕は真実を中途半端に濁しながら郡司真結衣を伏し目がちに窺う。

 彼女はどこか儚げで困ったような顔をしていて、その表情の理由が僕にはわからなかった。


「私さ、あんまりピアノの方には興味なかったんだけど、そんな私でも久瀬くんの名前は知ってた。同世代にとんでもないピアニストがいるって。まあ結局、ちょっとした理由があって久瀬くんのピアノを聞くことは一度もなかったんだけどね。ちょっと今はそれを後悔してる。一回くらい聞きに行けばよかったなって」


 僕が想像していたより前から郡司真結衣が自分のことを知ってくれていたとわかり嬉しくなるが、その分だけ今の惨めな自分との差が情けなくなる。


「でも本当に僕でいいのかな。僕、ずっとピアノを弾いてないんだ。正直言って、郡司さんを勝たせてあげられる自信はないよ」

「べつに私は勝ちたくて久瀬くんに伴奏者を頼んだわけじゃない。ただ純粋に、久瀬くんのピアノで踊ってみたいなって思っただけ。もし日本に心残りがあるとしたら“それ”かなってずっと思ってたから」


 郡司真結衣は何の迷いもなくそう言い切る。怯んでしまうのは僕の方。

 どうして彼女はここまでして僕にこだわるのだろうか。過去に僕の演奏を聞いたことがあるわけでもない。少し噂を耳にしたことがあるだけ。さらにいえば学校で僕がうんこ扱いされてることにも気づいているはず。

 泥水の奥底に沈殿する僕には、空で踊る天使の考えが見通せなかった。


「それに私もう申し込んじゃったから、いまさら久瀬くんが何言ったって遅いよ?」

「え!? 申し込みの締め切りもう終わっちゃったの!?」


 そして聞き捨てならない爆弾発言を郡司真結衣はあっさりと口にする。

 ピアノが弾けないという現実から逃避していた間に、なんと彼女は僕と自らの運命を決定づけてしまったようだ。

 僕はもう逃げられないのだ。僕は自分が思っていた以上に追い詰められていた。


「うん。予選が二ヵ月後で、もし本選に残れたらそれは予選のさらに一ヵ月後。大丈夫大丈夫。時間はあるよ」

「……ちなみに曲とか決まってるの?」

「あ、大会の要項があるから今持ってくるね」


 しかも予選まで残された時間はたったの二ヵ月。

 郡司真結衣の時間感覚がすでに海外基準になっているのかわからないけれど、どう考えても時間が足りない。もし僕がふつうにピアノを弾ける身体だったとしても、曲次第ではどう考えても間に合わないように思えた。


「はい。これ大会の要項のコピーだから、久瀬くんにあげるね」

「ありがとう。……予選も本選も課題曲のみか。きついな」


 そして今になってとんでもない焦燥感に苛まれ始めた僕は、急いで要項に目を通す。

 とりあえずOIBSのことは置いていて、自由曲ならば自分の得意なものを選べばなんとかなると思ったのだけれど、音楽の神はどこまでも僕に厳しかった。

 予選も本選でも演奏する曲は指定されていて、僕の浅はかな希望は秒で打ち砕かれた。


「予選の課題曲はショパンの“舟歌”……これは知ってるし好きな曲だ。今日から頑張ればギリギリなんとかなりそうかな?」

「あ、そうなの? ならよかった。私はもうそれ練習しはじめてるんだけど、知らない曲だったからけっこう苦戦してるんだよね。たぶんふつうはバレエに使われない曲なんだと思う」


 幸運というべきか、二ヵ月に迫っていると予選で指定されている曲の方は僕の体質さえなんとかなれば弾くくらいは可能に思えた。

 もちろんブランクのことを考えると楽観はできないけれど、曲を覚えるところから始めなくて済むのは大きなアドバンテージだ。代わりに郡司真結衣との相性的が悪いらしいが、そっちを心配している余裕は僕にはない。僕はべつに優勝を目指してるわけじゃない。彼女の足を引っ張らなければそれでよかった。


「でも本選の方の“レ・プティ・リアン”っていう曲は知らないな。本選っていうのがせめてもの救いだけどさ」

「久瀬くんこの曲知らないの? バレエの方じゃそれなりに有名な曲だよ。作曲者はモーツァルト」

「モーツァルト? ……ああ、これバレエ曲なのか」


 モーツァルトという有名どころの曲なのに僕が知らないことから、どうも本選の課題曲の方は元々バレエのために作られた曲みたいだ。となるとピアノ用に曲を起こすところから始めないといけないのだろうか。

 僕は暗雲立ち込める未来を憂い、胃の中のチョコレートを上の肛門から漏らしてしまいそうだった。



「ちなみにこのレ・プティ・リアン、っていうの“小さきつまらないもの”っていう意味らしいよ」



 小さきつまらないもの。要するにうんこか。

 まさに僕にぴったりの曲だと思ったけれど、少しも嬉しくはなかった。

 

 

 


 

 

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