93.変な手紙
久しぶりによく眠れたおかげで、昨日は夜が短かった。
こんなにぐっすり眠れたのは、神子になって初めてのことかもしれない。
祝勝の宴が開かれた翌日。ジェロディはチッタ・エテルナの二階にある客室で、一人ぐぐっと伸びをした。
疲れ知らずのこの体は、今やどんなに横になっていたって筋肉がこわばることはない。なのについつい腕を伸ばしてしまうのは、十四年間人間として生きてきた名残の一つだ。
大きな欠伸を噛み殺しながら、薄い窓かけのかかった窓を見やる。春が近いことを実感させる明るい陽光が布の隙間から漏れていた。
それを見たジェロディは寝間着のまま寝台を下り、サッと窓かけを左右に除ける。途端に二羽の小鳥が飛び立って、その羽音に驚いた。どうやら窓辺で囀っていたところに神子が現れ、彼らも仰天したらしい。
「ああ、ごめんよ。気づかなかった」
遠のいていく小鳥の背にそう謝罪して、苦笑しながら窓を開けた。
トラモント黄皇国は北の国々に比べて若干春の訪れが早い。吹き込んでくる風はまだ冷たいが陽射しは既に暖かく、ジェロディは早朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら確かめた――うん、大丈夫。これくらいの冷たさや暖かさなら、神子にもまだ感じられるみたいだ。
「ティノさま、マリステアです」
爽やかな朝の訪れに心満たされた頃。不意に部屋の外から名を呼ばれ、ジェロディは声の主――マリステアを招き入れた。
マリステアは今日も今日とてサンディブラウンの髪に白いヘッドドレスを乗せ、キッチリと整えられたメイド服姿でそこにいる。もうしばらくは屋敷へ戻れないのだから普通の服を着ればいいのに、「これがわたしの普段着です」の一点張りで聞き入れようとしないのだ。
「おはようございます、ティノさま。宿の厨房をお借りしてモーニングティーを淹れて参りました。お邪魔してもよろしいですか?」
「ああ、もちろん。ケリーは?」
「既に起きておられますよ。少し町の様子を見てくると言って、先程散歩に行かれました。すぐに戻る、とおっしゃっておられましたけど……」
「そう」
と表面上は軽く頷きながら、ケリーももう少し肩の力を抜けばいいのにな、とジェロディは内心苦笑した。彼女の場合〝散歩〟というのは建前で、本当は追っ手が来ていないかどうかの偵察と、いざというときの退路の確保に向かったのだろう。
いや、あるいは僕がのんきすぎるのかな……などと思いつつ、ジェロディはマリステアが運んできてくれたソルン・ティーを堪能する。目を覚ますためのモーニングティーはいつも濃いめの苦い香茶。神子には必要のないものだし味もほとんど分からないけれど、それも人間だった頃の習慣として飲み終える。
一服のあとはマリステアに手伝われ、着替えを済ませた。彼女の話ではどうやら宿の主人――確か名前はカールといった――がジェロディたちの分の食事も用意してくれているらしい。
相変わらず食欲はないけれど、その好意を「要らない」と突き返すわけにもいかなかった。ジェロディはマリステアが広げてくれた丈長の上着に袖を通すと、姿見の前に立って襟を正す。
「すみません、わたしが上手くお断りしておけば良かったのですけれど……」
「いいよ。僕には必要なくても、マリーやケリーには必要なものなんだから。二人が食事している間、僕だけ手持ち無沙汰っていうのも何だし」
「だけど正直、わたしもあまりお腹が空いていないんです。昨日の宴でお料理を食べすぎてしまったみたいで」
「へえ。マリーが食べすぎるなんて珍しいね。いつも少食なのに……でも確かに、昨日の料理はおいしかったからな」
「……ティノさま、お味が分かったのですか?」
「うん、いくらか。特にカミラが振る舞ってくれたルミジャフタ料理がおいしかった。あれは『サク』っていうんだってね」
言いながら、更に鏡の前で服装の点検をする。上体を拈ったりしておかしな点がないことを確認すると、最後に母の形見のバンダナを手に取った。
だがそれを頭に巻こうとしたところでふと気づく。……何だかマリステアが不機嫌そうだ。鏡に映った顔は少し膨れているように見えて、思わず彼女を振り返る。
「マリー、どうかした?」
「……え? 何ですか?」
「いや、だって難しい顔をしてるから……」
「……いえ、何でもないです」
「本当に?」
「何でもないですっ!」
珍しく強い口調でそう言うと、マリステアはぷいっと横を向いてしまった。……明らかに何でもある態度だ。もしかしてジェロディがカミラの料理を褒めたのが面白くなかったのだろうか。マリステアもカミラとは歳が近いだけに、料理についてはライバル意識……みたいなものがあるのかもしれない。
「あー、でも、えっと……昨日のあれもおいしかったよ」
「……何ですか?」
「牛乳とレジェムの実の氷菓。あれ、マリーが作ったんだろ?」
「ど、どうしてお分かりになったんです?」
「だって屋敷で食べてたのと同じ舌触りだったから。マリーの料理は口に入れればすぐに分かるよ」
「そ……そうですか。お、おいしく召し上がっていただけたのでしたら良かったです」
マリステアはそう言いながら朱色のバンダナを手に取ると、ジェロディに代わってせっせと頭に巻いてくれた。その手つきや表情は努めて平静を装おうとしているものの、上気した頬が緩みかけているのを鏡越しに見て取って、ジェロディは小さく笑いを零す。
それから二人で部屋を出て、朝食が用意されているという一階の食堂へ向かった。が、黄砂岩づくりの階段を下りてすぐのところで、外套を被ったケリーと鉢合わせする。
「あ、ケリー。今戻ったの?」
「おはようございます、ティノ様。少し外の空気を吸ってきました。昨日はほとんど一日中、地下に籠もっていましたからね」
そう言ってフードを外しながら、ケリーはにこりと笑ってみせた。外を警戒しに行ったと知れば、ジェロディが不安がるとでも思ったのだろう。
もうそんな子供じゃないのにと思いつつ、ジェロディも「そっか」と笑って相槌を打つ。多少不本意ではあるにしろ、ケリーが自分のためを思ってそうしてくれていることは分かっているのだ。ならばここはそれこそ子供じみた反抗心を剥き出しにして、子供扱いするな、と駄々をこねるべき場面じゃない。
「ところでお腹は空いてる? カールさんが僕らの分の朝食も用意してくれたらしくてね。それで僕たち、これから食堂へ向かうところなんだけど……」
「朝食ですか。いいですね。ではこのまま私も共に――」
「――わっ、と!?」
そのときだった。ケリーの返答を聞いていたら突然背中に衝撃が走って、ジェロディはよろめいた。
すっ転びそうになったところをどうにか踏み留まり、何事だ、と振り返る。そこには同じくたたらを踏んだカミラがいて、彼女はジェロディにぶつかったと気づくなり「あ」と目を丸くした。
「ティ、ティノくん、おはよう! じゃなくてごめん! ちょっと急いでて……怪我はない!?」
「あ、ああ、僕は大丈夫だけど、何かあったの?」
「あーっと、何かあったのかどうかは分からないけど、別のアジトにいる仲間から変な手紙が届いたらしくて……それでフィロに呼ばれてるから、またあとでね!」
言うが早いかカミラは再び体勢を整え、一目散に駆け出した。恐らくさっきもあの要領で階段を駆け下りてきてジェロディとぶつかったのだろう。
ところがその赤い後ろ姿が廊下の角へ消えようかというところで、カミラはまたも「あ!」と声を上げた。
かと思えばそこでぴたりと足を止め、踵を返し、今度はジェロディ目がけて突っ走ってくる。あまりの勢いで迫ってくるので、ジェロディは一瞬気圧されそうになった。
「ティノくん!」
「な、何だい?」
「言い忘れてた。昨日はありがとう!」
「昨日?」
「うん。星の間から戻ってきたあと、フィロ、何だかちょっと吹っ切れたような顔してたから。色々話をしてくれたんでしょ? だから、ありがと」
別のアジトにいる仲間の一大事――かもしれないのに、カミラはそう言うとニッと笑った。やはりまったく屈託のない笑みで。
だが昨日ジェロディとフィロメーナが広間へ戻るまでの間、彼女はイークの尋問にかけられてひどい目に遭っていたはずだ。なのにわざわざそんなことを言うために引き返してきたのか。
ジェロディが呆気に取られていると、その間にもカミラは赤い髪を翻した。そうして再び反転し、びしっと片手を上げながら言う。
「じゃ、そういうことで!」
……まるで強弓で射られた矢みたいだった。カミラは間を置かず超特急で走り去り、あとには彼女が巻き起こした突風とその風に髪を煽られた三人だけが取り残される。
「……だいぶ急いでいたみたいですね」
「う、うん……だけど〝変な手紙〟って何だろう?」
「行ってみますか? フィロメーナたちは既に地下へ下りているそうですから」
ケリーにそう促され、ジェロディはしばし考えたのち頷いた。部外者の自分が首を突っ込んでいいことなのかどうかは分からないが、救世軍に何かあったのなら気になるし、ダメならダメでイークあたりに追い返されるはずだ。
なのであまり期待せず、あの青ずくめの男にまた怒鳴られる覚悟で地下へ下りた。覚悟、というか、正直怒鳴られすぎて慣れが来てしまったのかもしれない。同じく彼と反りが合わないというウォルドも、たぶんこんな感じなのだろう。
「――しかしそのはっきりしねえ言い回し、どうにもスミッツらしくねえな。だいたい今までアジト間のやりとりは伝令で済ましてただろ。なのになんで今度は手紙なんだ?」
「それだけヤバい事態になってるってことなんじゃないの? 伝達屋に速達で手紙の配達を頼んだ方が、伝令を飛ばすよりずっと早いし。手紙の内容がこんななのも、詳しい事情を書いてる時間がなかったのかも」
「もしそうなのだとしたら、北ではスミッツが手を離せないほどの問題が起きているということ……それも私と直接会って話したいと言うくらいだから、焦眉の急なのでしょうね」
022号室から地下へ下り、いつも救世軍の幹部たちが集まるという槍兵屋敷――これは入り口に彫られた槍兵のレリーフからついた名前らしい――に足を向けてみる。すると奥の広間からカミラたちの話し声が聞こえて、三人は顔を見合わせた。
常灯燭に照らされた細い通路の奥では案の定カミラ、イーク、ウォルド、ギディオン、そしてフィロメーナが卓を囲んで何事か話し合っている。そんな彼らの合間を飛び交うある名前に、ジェロディは聞き覚えがあった。〝スミッツ〟って、確か……?
「とにかく詳しい状況を知るためには、北へ行くしかないようね。すぐに出発の支度を整えるわ」
「待て、フィロ。向こうで何が起こってるかも分からないのに、お前が直接様子を見に行くなんて危険すぎる。ここはまず早馬を出して……」
「そんな悠長なことをやってる場合かよ。もしもカミラの言うとおり、向こうでなんかやべえことが起きてるなら、早馬なんか出してる間にトラジェディア支部が潰滅するかもしれねえぜ」
「だがフィロにもしものことがあって、救世軍丸ごと潰れるよりはマシだろう――」
と、イークの反論が聞こえた直後だった。
突如奥での会話が途切れ、シン、とあたりが静まり返る。あ、と思ったときには遅かった。広間に集っていた面々が一斉に、ジェロディたちを振り返る。
「あ、ティノくん……!」
そこで初めてこちらの存在に気がついたらしいカミラが驚きの声を上げた。何だか立ち聞きしていたみたいな空気になって気まずく、ジェロディは苦笑と共に手を上げる。
「や、やあ……お邪魔してもいいかな?」
「……機密情報の盗み聞きか。ヴィンツェンツィオ家のお坊ちゃんってのは、ずいぶんお行儀がいいんだな」
今日は怒声よりもまず痛烈な皮肉が飛んできて、ジェロディは内心「うっ……」と思った。イークもただ怒鳴るだけでは芸がないと思ったのだろうか。まさか別の角度から攻めてこられるとは思わず、ジェロディの胸に彼の敵意が突き刺さる。
が、こちらも負けてはいなかった。何がってマリステアだ。
彼女は今日も今日とてイークの言い草にカチンと来たらしく、眦を決して前へ出る。
「失礼な、盗み聞きとは何ですか! わたしたちはたった今こちらへ伺ったところです、変な言いがかりはやめて下さい!」
「言いがかりも何も事実だろう。ここは救世軍の作戦会議室だ。そんなところに部外者が勝手に入ってくるな、叩き出すぞ」
「ちょ、ちょっとイーク……」
乱暴な物言いがますます癇に障ったのだろう、たちまち顔を真っ赤にしたマリステアを見て、カミラが慌てたようにイークの青い外套を引っ張った。だが挑発に乗ったマリステアが更に何か言い募ろうとしたところで、
「まあいいじゃねえか、イーク。そうカリカリすんなよ、そいつらはもう半分こっち側に足を突っ込んでんだ。今更部外者呼ばわりするのは無理があるってもんだぜ。なあ、ティノ?」
と、ニヤついたウォルドの擁護が入った。……あれは明らかに悪いことを考えている男の顔だ。そんなウォルドの発言が、今度はイークの癇に障ったらしい。
「ふざけるな、こいつらはジャンを殺した黄皇国側の人間だぞ! まだこっちにつくとも決まったわけじゃないのに、お前はそうやってまた……!」
「待って、イーク。これは逆に好機かもしれないわ。ねえ、ジェロディ。確かあなたたちはここへ来る前、ガルテリオ将軍と合流するために西へ行こうとしていたのよね?」
「は、はい、そうですが……?」
「それなら北へ向かうでしょう? ガルテリオ将軍率いる第三軍は、黄都へ向かう際にはいつもトラジェディア地方を通過するから」
「ええ。確かに、そうですね……」
「だったらいい話があるの。船はこちらで用意するから――これから私とボルゴ・ディ・バルカへ行ってくれないかしら」
「はあ……!?」
イークが頓狂な声を上げ、カミラたちも目を見張った。平常なのは発言者のフィロメーナだけだ。
実際、ジェロディも驚きでとっさに声が出なかった。
――ボルゴ・ディ・バルカ。
それはジェロディたちがロカンダの次の目的地としていた、タリア湖畔の港町だ。




