表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/350

92.星を読む人

「ここがその儀式場よ」


 とフィロメーナが案内してくれたのは、広間から少し歩いた先にある未知の建物だった。

 それは以前、ジェロディがどこかの貴族の屋敷で見た遠い異国の建造物に似ている。立方体に近い建物の上には特徴的な半球状の屋根が突き出し、その真下から四方へ向かって細い水路が伸びている。

 清水を湛え、さらさらと音を立てるささやかな水路。町中に張り巡らされたそれはどうやらこの建物から始まっているようだった。


 つまりここは儀式場であると同時に、かつてこの町を支えた水源であったということ。とめどなく湧き水を送り出す建物の壁は開放的で、見た目は巨大な四阿あずまやだった。

 フィロメーナと共に中へ踏み込んでみると、内部にもまた常灯燭スカンスの明かりがある。四隅の壁に設けられた古代の灯火具が照らしているのは、建物の真ん中に設けられた水盤だ。


「あれは……」


 縦と横に交差する水路。その中心に佇む杯のような形の水盤に、ジェロディは視線を吸い寄せられた。

 何故なら常灯燭の明かりなどなくとも、水盤自体が仄青く輝いているからだ。月明かりのようにぼんやりとした光は柱の上、円形の皿の中から発せられ、溢れ出る水を幻想的な色に染め上げている。


「この光は恐らく夜光石ね。水盤の内側に、薄く加工された夜光石が螺鈿らでん細工のように貼られているの。美しいでしょう?」

「ええ、とても……だけどここには、他に目立ったものはないみたいですが……フィロメーナさんたちはどうしてここを〝儀式場〟と呼ぶんです?」


 ジェロディがそう尋ねると、水盤の傍らに立ったフィロメーナがくすりと笑った。その笑い方が普段の彼女からは想像もつかないほど妖艶で――そうだった、彼女は今酔っ払っているんだったと、慌てて思考を引き締める。

 何せここで彼女と間違いなど起こそうものなら、ジェロディの首は強制的に胴とさよならさせられるだろう。他でもない、あのイークの手によって。

 そう言えば彼の足止め役として残してきてしまったカミラは大丈夫だろうか。ジェロディがそんな心配をしている間に、フィロメーナの細い指がつつ、と水盤の縁を滑る。


「確かに儀式場という呼び方は正確ではないわね。私たちは普段、ここを『星の間』と呼んでいるわ」

「星の間……?」

「ええ、そう。私たちがここをそう呼ぶ理由は――すぐに分かる」


 言うが早いか、フィロメーナは今度は両手で水盤の皿を掴み、力を込めてそれを回した。ズリズリという石の擦れ合う音を合図に、溢れ出す水の量が増える。

 何だあの仕掛けは。そう思ったのも束の間だった。

 フィロメーナの手の中で突如ガコンと音がして、同時に常灯燭の火が消える。ふっと訪れた暗闇に、ジェロディは「うわっ……!?」と喫驚の声を上げた。


 水盤の仕掛けと壁の常灯燭が連動していたのだろう。明かりが消えると、水音が更に激しくなったのが分かる。

 それにしてもこの暗さは何だ。まさか外の火も消えてしまったのか?

 現在あたりを照らすのは、水盤の中の青白い光だけ。

 その青い薄明かりの中で、フィロメーナが意味深に微笑んだ。

 彼女は白い人差し指を立てると、静かに頭上を指し示す。


「え――?」


 水音と共に、水盤の輝きが強さを増した。光は放射状に広がって長く伸び、大陸の北で稀に見られるという極光オーロラのごとく揺らめき出す。

 だが異変はそれだけではなかった。ジェロディはフィロメーナが指し示す天井を見上げて、思わず声を失った。

 そこに見えたのは、星。

 半球を描く天井に映し出された、無数の星、星、星――。


「こ、れは……? どうして地下に星が……それに今はまだ真昼のはず……!」

「不思議でしょう? ここではいつ、どんなときでもこうして星を眺めることができるの。しかもこれはただの幻じゃないわ。見て。あの半球の頂点付近にあるのがイマの星――」


 言って、フィロメーナの腕が更に高く伸び上がる。彼女の指が示したのは、天井の最も高いところで輝くいっとう大きな星だった。

 あれはイマの星。季節や時間と共に移ろう他の星々とは違い、唯一空の頂点から動くことのない不動の星。

 多くの旅人たちは、星の見える夜にはあの星を目印に方角を知るという。

 フィロメーナはまずその星を指し示すと、それからゆっくり視線を下ろした。白く輝くイマの星の、ちょうど右下あたり。そこにジェロディでも知っているくらい有名な、見覚えのある星の並びがある。


「見える? あれは豊神座。豊作の神であるアサーの象徴、《蝶斧パルゼン》にちなんだ星座よ。この季節、あの星座は東の空に現れる。そして豊神座が輝くあの方角が、地上での日が昇る方角よ。つまりこの星座の並びは現実の方角と符合しているの」

「そ、それって……」

「それだけじゃないわ。時が経つとここに現れる星座は動く。現実の空に見える星とまったく同じ動きをするの。年が明けたばかりの頃、あの場所にはまだ豊神座はなかった。そして来月にもなれば、同じ場所に今度は天神座が現れるはず」

「そ、それじゃあ今見えているあの星空は、現実の空……ということですか?」


 ジェロディが唖然として尋ねても、フィロメーナはやわらかく微笑むだけだった。恐らくはその微笑みが肯定を意味しているのだろう。

 しかしそんなことがありえるのだろうか。ジェロディは過去に読んだ文献の記憶を手繰りながら考える。

 深き地の底にあって、真昼でも天の運行を知ることができる神秘の仕掛け。星というものはたとえ昼間は姿が見えなくても、それは強すぎる太陽の光に隠れているだけで実際は夜と同じくそこにあるのだと聞いた。


 ということはこの仕掛けは、星々が隠れている時間でも天行を見られるようにと造られたものなのだろうか。だがそんな古代のからくりの存在は、今まで読んだどの文献にも記されていなかった。

 だとしたらこれは、クアルト遺跡で見つけた創世の壁画に次ぐ大発見かもしれない。そう思ったらいてもたってもいられなくなって、ジェロディは水盤を覗き込んだ。


 まだ誰も解明したことのない未知のからくり。

 その仕組みと謎を解き明かしたい。

 だが溢れる水の底を覗いたところで、ジェロディはまたも息を飲んだ。

 何故ならそこに、真白い光が漂っている。


(いや、これは――)


 ただの光ではない。それは白く発光する古代文字の羅列だった。

 輝く文字は流れ出る水に揺られながら、水底でふわふわと踊っている。けれど文字の並びが変わることはなく、試しに冷たい水の中へ手を入れてみても触れられない。


「ああ、それは古代文字ね。どういう仕組みか分からないけれど、これらの文字はこうして星を映す度に自然と浮かび上がってくるの。しかも毎回出てくる文字が違うみたいで……」

「文字が違う?」

「ええ。短い一文だけのときもあれば、こんな風にたくさんの文字が並ぶ長文のときもあるわ。生憎救世軍の中には考古学に明るい人がいないから、何が語られているのかは分からずじまいだけれど――」

「――〝神の星が現れる〟」

「……え?」


 そのときジェロディが紡いだ言葉を聞いて、フィロメーナは目を丸くした。

 しかし今は説明している時間も惜しい。ジェロディは食い入るように水底の文字を見つめ、脳が解読するそれを現代の言葉へ置き換える。


「〝青き星は二つに分かたれ、そのいずれかが地に墜ちる。箒星は古き星に寄り添わず、天、大いに乱れて災いを呼ぶ〟……」

「ジェロディ、あなた古代文字が読めるの?」


 急き込んだフィロメーナに肩を掴まれ、ジェロディはようやく顔を上げた。青光を映して揺れている彼女の瞳を見据え、頷く。


「いくつか読めない文字もありますけど、だいたいこんな意味じゃないかと思います。これはたぶん星見の予言です」

「星見の予言?」

「はい。母が遺した文献によると、古代人たちは長い年月をかけて星の動きを記録して、そこから読み取れる変化や法則で未来を占っていたそうです。神話の中では、星とは天樹の実に宿った死者の魂だと言われているでしょう? だから古代人たちは星の動きや変化を死者からのメッセージだと考えていたんです」


 その仮説を固く信じたハノーク人たちは、国を挙げて天体研究に打ち込んだ。星の動きを読むことで天に召された家族や友人と語らおうとした。交信しようとした。存在を感じようとした。

 結果彼らは並外れて発達した占星術を有するようになり、ほとんどの未来を読み当てることができたとか。

 ゆえに星見の予言は彼らにとって非常に重要なものとなった。ときには政治や戦争にも多大な影響を及ぼし、天行を読み解く力を持つ者は『星読人ほしよみびと』と呼ばれて皇帝すら跪かせたという。


「太古にはそんなすごいものがあったのね……とすればさしずめこれは、星読人がいなくても未来を占えるように造られたからくり、といったところかしら?」

「恐らくは。建造物の細かい装飾を見る限り、この町は始世期後期に築かれた町です。そしてその頃には既に、ハノーク人たちの占星術は完成していた。そう考えれば時期も合いますし、星を映す度に文言が変わっていたというのなら、それらはその時々の星の運行から導き出された予言の可能性が高いと思います」

「なら、今ここに書かれている予言が当たる可能性も?」

「はい。ただ、さっき読み上げた文の続きが読めなくて……僕が持っている知識だけでは、つなぎ合わせても意味が通らないというか……」

「それでもいいわ。なんて書いてあるのか、読み上げてみて」


 好奇心に目を輝かせながら、フィロメーナはそう言ってジェロディを促した。が、ときにふと耳にかかった彼女の吐息で我に返る――近い。何だこの距離は。眺めていると現実感を失うほど美しいかんばせが、ジェロディの視線を釘づけにする。

 特に白い鼻筋の下にある、瑞々しい果実のような唇。そこに意識が吸い寄せられるのを感じて、ジェロディはすぐさま水盤の文字へ向き直った。


 ――このままじゃまずい。酒が入っているせいもあって、うっかり変な気を起こしそうだ。

 それを未然に防ぐため、ジェロディはフィロメーナから意識を切り、水底の予言に集中した。繰り返し言い聞かせる。

 余計なことは考えるな。雑念を振り払え。そんなことよりも、今は……。


「そ、それじゃあ無理矢理読みますけど……〝天と地の川が再びぶつかり、太陽は示された道を辿る。月と矢の落とし子は時の番人の手によって、横糸をあざなう者に託されるだろう〟……といった感じでしょうか」

「うーん……確かに前半と比べると解釈が難しいわね。〝天と地の川〟って、一体何のことかしら?」

「分かりませんね……まあ、それを言ったら前半の〝箒星〟のくだりも意味不明ですけど……」

「だけどそのあとに続く言葉の意味は分かるわ。〝天、大いに乱れて災いを呼ぶ〟というのは、今のこの内乱のことを指しているんじゃないかしら」

「どうしてそう思うんです?」

「簡単よ。ここで言う〝神の星〟と〝青い星〟はきっと同じ意味。だって〝青〟は神々を象徴する色でしょう? その星が二つに分かたれて地上に現れる、ということは、神の魂の一部がこの世に湧現するということ。つまり、ジェロディ――この予言は神子であるあなたの来臨を示しているのよ」


 またも心臓が騒いで、息が止まった。

 この予言が自分のことを指し示している――?

 そんな馬鹿な、と笑おうとして、しかし笑えなかった。

 フィロメーナの仮説は確かに筋が通っている。実際ジェロディが神子に選ばれたことで国はますます混乱を極めているし、そう考えると説得力が高まった。

 〝箒星〟と〝古き星〟というのが何を指しているのかは分からないが、そうなると〝太陽は示された道を辿る〟というのは黄皇国のことを言っているのだろうか。〝太陽〟は太陽神シェメッシュの寵愛を受けたこの国の象徴。それが〝示された道を辿る〟というのは……。


「あとこれはちょっとこじつけかもしれないけれど、〝光陰矢のごとし〟って言葉があるでしょう?」

「……? はい……中世の詩人がうたった有名なうたの一部ですよね?」

「そのとおり。この〝光陰〟とは月のこと。人は月の満ち欠けによって月日の流れを知ることができるから。だから詩人はあっという間に過ぎゆく時の流れを〝光陰つき〟とたとえて、〝矢のように一瞬で過ぎる〟と詠ったのよ」

「じゃあもしかして〝月と矢の落とし子〟って……?」

「後ろに〝時の番人〟という言葉が続いていることから考えたら〝時代〟とか〝時勢〟とか、そんな意味じゃないかしら。そしてそれが〝横糸をあざなう者〟に託される……ここで言う〝横糸〟とは、たぶん運命のこと」

「運命?」

「そうよ、ジェロディ。あなたはきっとこの国の運命を変えるべく選ばれたの」

「ちょ、ちょっと待って下さい。どうしてそうなるんです?」


 この人の頭の中はどうなっているんだ。そう思いながら、ジェロディは滔々と流れ出るフィロメーナの言葉を慌てて止めた。

 あまりにも話が飛躍しすぎて、展開についていけない。酔っていながらこの人はこれだけ頭が働くのか。その早すぎる思考速度に、ジェロディは何とかついていこうとする。


「確かに神子は時代の節目に現れると言われています。それは多くの神子が人心を集め、暴政を布く国家を打倒したり歴史を塗り替えたりするからです。だけど今、この国で時代を変えようと戦っているのは僕じゃない。フィロメーナさん、あなたです」

「だけどこれは予言の書よ。この水盤の中には、これから起こる未来が記されている。あなたも『イマの機織り』の神話は知っているでしょう?」

「《母なるイマ》が、時の神マハルが紡いだ糸と運命神エシェルが紡いだ糸で《ことわり》を織ったというあの神話ですか?」

「ええ、そう。そのときイマはマハルの紡いだ糸を縦糸に、エシェルが紡いだ糸を横糸にした」


 まっすぐに響き渡った彼女の言葉を聞いて、ジェロディははっと目を見開いた。

 時の縦糸、運命の横糸。

 それによって織られた《理》という名のはたで、《母なるイマ》は世界を包んだ。

 だからエマニュエルでは風が吹き、雲が流れる。春が来れば草木が芽吹き、夏が来れば雨が降り、秋が来れば穂が実り、冬が来れば雪と氷に閉ざされる。

 そういう世界の法則は、言い替えれば時の流れがもたらす〝運命〟だ。

 あらかじめそのように定められているから、時は流れる。季節は巡る。


(だからフィロメーナさんは〝横糸〟を〝運命〟と――)


 困ったことになった。

 何が困るって、そう考えると予言の意味がだいたい通ってしまうことだ。

 だけど、この僕が運命を託される? 黄皇国の時代を塗り替える……?

 《神々の眠り(エル・エレヴ)》からおよそ千年。

 その間、多くの神子たちがそうしてきたように――?


「ぼ……くには、無理、です」


 考え出したら意識がぐらぐらし始めて、ジェロディはどうにか言葉を絞り出した。


「黄皇国の運命を変える、なんて……そんな大それたことは、僕にはとても……」

「だけどあなたは実際ここにいる。黄皇国の軍人でも救世軍の兵士でもなく、一人の神子として」

「それは……!」

「まだどちらとも決められていないだけ? いいえ、どちらを選んでも同じことだわ。あなたはもうこの国の真実を知ってしまった。そうでしょう?」


 至近距離からまっすぐに見つめられ、ジェロディはたじろいだ。

 口の中が乾いて声が出ない。圧倒される。

 それこそ矢のごとく突き刺さる、淀みのない眼差しに。


「ジェロディ。この国は今、救世主を求めているの。そしてあなたはきっと民が求める救い主になれる。黄皇国軍へ戻ろうと、私たちと共に戦う道を選ぼうと」

「どう、して……そう、思うんですか?」

「さあ、何故かしら。これだけはさすがに根拠はないわ。だけどビヴィオでのあなたの姿を見ていて、そう思ったの。あなたは私なんかよりよっぽどこの国を救える資質を持っているって」

「そんな、」

「私が今、こうして立っていられるのはね。自分の力なんかじゃないのよ。多くの仲間たちの……イークやギディオンやウォルド……そして、カミラの……彼らの支えがあるから今の私がいる。ひとりでは立っていることもできないの。だから怖くてたまらない。そんな私に託される期待も、彼らを失うかもしれない未来も」


 水盤が放つ青光ひかりに照らされて、フィロメーナは笑った。瞬間、ジェロディは胸がぎゅうっと締めつけられて、呼吸の仕方を忘れそうになった。

 ――どうしてそんな苦しそうに笑うんだ。

 さっきまではあんなに無邪気に笑っていたのに。

 おかげで見ているこっちまで苦しくてたまらない。

 こんな悲しみと共に笑う人を、ジェロディは初めて見た。


「人はみんな、私を救世主とか聖女とか呼ぶけれど……私はそんな人間じゃないの。本当はいつだってここから逃げ出したいと思ってる、弱くて卑怯な臆病者よ」

「それ、なら……それならどうして、フィロメーナさんは今も戦っているんです?」

「そうね。何故なのかしら……たとえ逃げ出しても、もうどこにも行くところなんてないから? あるいは今あるものを投げ捨ててまで逃げ出す勇気がないだけかも」

「ジャンカルロさんの願いを叶えるため、ではなく?」


 ジェロディが思わずそう尋ねると、フィロメーナは驚いた顔をした。どうしてその名を知っているのか、と言いたげな表情だ。


「すみません。カミラから聞いたんです。フィロメーナさんが救世軍に入った理由を」

「そう。カミラが……」

「僕が勝手に詮索したんです。カミラは悪くありません」

「ふふ、いいのよ。それは別に気にしてないから。だけど……そうね。あなたも事情を知っているのなら、話してもいいかしら」


 言って、フィロメーナは両手を水盤の縁にかけたまま、天井に浮かぶ星々を見上げた。白い喉を晒し、長い髪を揺らし、彼女はまた小さく笑う。


「今の私はね。ジャンの真似事をしているだけよ。そうしていると彼を感じることができるから。彼も一人でこんな風に悩んでいたのだろうとか、彼はこんなことに心を痛めていたのだろうとか……」

「真似事……?」

「そう、ただの真似事。彼と同じ夢を見るための。だけど彼ほど上手にはできなくて、いつも行き詰まってしまう。私はきっとその程度の人間ということなのでしょうね。だから父も愛してはくれなかった……」

「エルネストさんが――?」

「まあ、私の父はちょっと歪んでいたから、あの人にも問題はあるのだけれど。私がジャンを追いかけて屋敷を飛び出したのは、そんな父に反発したかったから……なのかもしれないわね。だけどそのせいでジャンを死なせて、イークやカミラにも――」


 ジェロディは息を飲んで彼女の言葉の続きを待った。

 しかし泣き出しそうに歪んだフィロメーナの口から、その先が紡がれることはついになかった。

 次に水盤へ視線を落としたときには、彼女の様子はいつものそれに戻っている。ほどなくジェロディを振り向いて、フィロメーナは苦笑した。


「ごめんなさい。私ばかり話してしまって」

「い、いえ、それは……」

「やっぱりお酒が入るとダメね。つい愚痴っぽくなってしまって」


 何と返すべきか分からず、ジェロディは小さく首を振った。こんなとき気のきいた言葉一つ浮かばない自分がもどかしい。


「だけど不思議ね。こんな話、ウォルドにもしたことないのに。何故だかあなたには話しておきたいって思ったの。カミラの言うとおり、酔っているだけかしら?」

「……僕でよければ、いくらでも。部外者の僕だからこそ話せることもあるでしょうし」


 辛うじてジェロディがそう言えば、フィロメーナはちょっと目を丸くした。

 それからまた破顔する。困ったような、けれど少しだけ嬉しそうな、そんな顔で。


「ありがとう。だけどあまり弱音を吐いて、あなたをほだしちゃダメね。あなたにはあなたの神子としての使命があるのだから」

「そんな、僕は……」

「さっきカミラが言っていたでしょう? ジェロディ、あなたは自分の意思で、自分が正しいと思う道を選びなさい。たとえその道が私たちの道と交わらなくても、それでいいの。選べる道があるということは、とても幸福なことなのだから」

「……フィロメーナさんには、なかったんですか?」

「ええ、なかったわ。私はあまりにも無知だったから。気づいたときには何もかもが遅かったの。だからどうか、あなたは私のようにならないで」


 ――考えなさい。己の選んだ道を決して後悔しないように。

 フィロメーナの瞳はそう言っていた。言葉にされなくとも、分かった。

 彼女は後悔しているのだろうか。黄都を飛び出してきてしまったこと。ジャンカルロを死なせてしまったこと。他の道を選べなかったこと……。

 けれどそれでも彼女は戦っている。

 弱さや悲しみを抱えながら、逃げ出すことを選ばずに。


「……フィロメーナさんは、自分は弱いって言いましたけど」

「え?」

「僕は、それで十分だと思います。逃げ出す勇気はなくても、逃げ出さない勇気はあるんですから」

「ジェロディ」

「カミラたちもきっと、そういうフィロメーナさんが好きだから戦っているんじゃないでしょうか。彼女たちが求めているのは、たぶん救世主なんかじゃなく――フィロメーナさんの、本当の幸せなんだと思います」


 ……なんて、ちょっと偉そうだったかな。

 言葉にしてしまってから、ジェロディは少し不安になった。

 けれどそんな思いは杞憂に終わる。

 だってまた泣き出しそうな顔で、彼女が笑ってくれたから。


「ありがとう」


 そのときジェロディは確信した。

 ああ、やっぱりそうなんだ。

 カミラたちが戦う理由。


 それはきっと、この笑顔なんだろうなって。



              ◯   ●   ◯



 神の星が現れた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ