88.女王の帰還
「えっ!? 郷守!? その女装野郎が!?」
というカミラの第一声は、郷守の自尊心をいたく傷つけたようだった。
「だ、誰が女装野郎だ、失敬な! これは貴様らの目を欺くべく、仕方なくだな……!」
と顔を真っ赤にして反論しているが、まあ、女装していることには変わりない。
地方軍に捕らわれた人々を救うべく乗り込んだ郷庁獄舎。ジェロディたちはそこでロクサーナを人質に取った郷守と対峙していた。
顔を隠していた茜色の頭巾を脱ぎ捨てた今、郷守は髭の生えた素顔の下に女物のロングチュニック、そして男物の脚衣という何とも珍妙な姿で佇んでいる。先程はうずくまっていたので分からなかったが、立つとそこそこ上背があるし、筋肉質だしでとにかく不気味だ。
しかし鋭く光を照り返す短剣は疑いようもなく本物で、その切っ先をロクサーナに向けられた今、ジェロディたちは身動きが取れなかった。
通路の奥では怯えた娘たちが泣いている。薄暗い通路に満ちた混乱の中、槍を構えたケリーが「チッ」と舌打ちするのが聞こえた。
「どうりでどこを探しても見つからないはずだよ。まさか自分が攫った女に化けて、こんなところに隠れているなんてね。しかもこの期に及んで人質とは……」
「ケリーさんたちから話を聞いてとんだ恥知らずだとは思ってましたけど、ここまで来るともはや見てるこっちが恥ずかしいですね……」
「う、うるさいうるさい! 貴様ら、この状況を分かっているのかっ!? これ以上ふざけたことを抜かすと、本当にこの娘の喉を掻っ切るぞ!」
下手な男などよりよっぽど武勇も度胸もある女性二人に言われては、郷守はもはや形なしだった。本人も一応その自覚はあるのだろう、逆上して怒鳴り散らすと意味なく短剣を振り回す。
いや、まったく意味がないわけでもないか。あれは一応あの男なりの威嚇だった。この状況で本当にロクサーナを殺すとは思えないが――何せ彼女を失えば郷守を守る盾はなくなる――体の一部を傷つけるくらいはするかもしれない。ジェロディは腰の剣に手をかけたまま、飛び出したい衝動をぐっとこらえた。
「ふ、ふん、しかし驚いたぞ、ジェロディ・ヴィンツェンツィオ。まさかお前が反乱軍に紛れてここへ戻って来るとはな。だがそれがどういうことか分かっているのか? お前はあの大将軍ガルテリオ・ヴィンツェンツィオの身内でありながら、祖国に弓引いたということだぞ!」
「そんなこと、言われなくても分かってる。だけどお前も同じだろう。天領の一部を預かっておきながら、私利私欲のために陛下の民を傷つけ、いくつもの村を焼いた。僕に言わせれば、それだって立派な反逆罪だ」
「ははは! なるほど、それで忠義面して私を討ちに来たというわけか。まったくご立派なことだな。だが思い上がるな。前回下手に出てやったのは、お前があのガルテリオ将軍の息子だからだ。だのに自ら罪人に身を落とすとは……親が優れすぎていると子は愚かに育つと聞いたが、お前はまさにその証明だな!」
「な、何ですって……! ティノさまのどこが愚かだと言うのですか! この方は自らの身を擲って、先日の過ちを償いに来たのですよ! 愚かと言うなら、同じ罪を罪とも思わず保身に走ったあなたの方でしょう! ティノさまをあなたのような卑劣漢と一緒にしないで下さい!」
「ハッ、何とでも言え! 何を喚いたところで貴様らはもう終わりだ。このことはすぐに憲兵隊へ報告させてもらう。貴様らはこの私に盾突いた罪で、一族郎党、末代まで報いを受けるのだ! 残念だったな! ふはははははは……!」
左腕でロクサーナの体を抱え込んだまま、郷守は高らかに笑った。確かに先日の一件で、この男は憲兵隊にコネを持っている。
ゆえにこの男を逃せば、まず間違いなくランドールあたりに尾ヒレのついた報告が行くだろう。そうなれば自分はおろか父の身が……と、ジェロディが切歯した、そのときだった。
「あ、あのぅ……お取り込み中のところ、大変申し訳ないのですが……」
と、不意に横から水を差した者がいる。皆が一斉に振り向くと、そこには心なしか肩を竦め、遠慮がちに挙手したトビアスがいた。
「……何だお前は? その服装、聖職者か?」
「は、はい……わたくし、ソルレカランテに支部を持つ光神真教会のトビアスと申します。オルランド黄帝陛下には以前よりご愛顧を賜っておりまして、今もこれから陛下にご挨拶へ行くところなのですが……」
「それがどうした。まさかその席で私の不正を告発するとでも脅すつもりか? だとしたらやめておけ。どこの弱小教会の者か知らないが、そんな真似をすればすぐに支部ごと黄都から追い払われる羽目になるぞ。何せ憲兵隊は我が国最大の宗教勢力である東方金神会と――」
「い、いえ、問題はそこではなくてですね……その陛下も畏れているものが今、あなたの手の中にあると言いますか……」
「何?」
「あ、あの、悪いことは言いませんので、今すぐお手を放していただけませんか? でないとあなたの身に危険が――」
「――フフ……もう良い、トビー。わーは既に我慢の限界でおじゃる」
「ヒッ……!」
と、ときにトビアスが息を飲んだ。理由は言うまでもない。郷守に捕らわれたままのロクサーナが下を向いて笑っているからだ。
それを見たトビアスの顔がみるみる蒼白になった。彼はまるで世界を滅ぼす邪神を前にしているかのように、震えながら彼女へ懇願する。
「ま、ま、待って下さい、ロクサーナ……! どんな相手であれ、粘り強く対話すれば理解し合えることもあります……! ですからここは平和的に――」
「いんや。わーたちは既に何度も改心のチャンスをやった。それを聞かんと言うのなら、もう神赦の余地はにゃーき」
「も、もちろん気持ちは分かりますよ……!? ですが落ち着いて下さい、このような狭い場所では無関係の人たちを巻き込む可能性が――」
「おい貴様ら、さっきから何をごちゃごちゃ言っている!? 何度も言わせるな、これ以上無駄口を叩くようなら痛い目を見てもらうことになるぞ!」
「フフフ、笑止な――貴様はそろそろ身のほどを知りんしゃい!」
美しい銀髪を逆立て、ロクサーナがそう一喝した、瞬間だった。
カッとすさまじい閃光が走り、居合わせた全員が悲鳴を上げる。
先程外でトビアスが使った神術よりも強烈な光だった。とっさに目を閉じても瞼を貫き網膜を灼くその光の向こうから、うろたえたトビアスの声がする。
「あああああ、まずい……!! 皆さん、伏せて下さい!!」
鬼気迫るトビアスの警告を聞き、ジェロディは伏せた。とにかく伏せた。
他の皆も同じようにしているだろうか。薄目を開けて覗いてみても、あたりは真っ白で状況が掴めない。
だが刹那、その白い世界を裂くような郷守の絶叫が響いた。
――何だ? 一体何が起こっている……!?
混乱したままジェロディは腰の剣を抜きかける。ところが途端に視界を塗り潰していた白が収束した。
再び闇が戻ってくる。直前までの閃光で視界が明滅しているが、とりあえず全員無事だった。あちこちで仲間たちが体を起こしている。
だがその様子を確認した直後、ジェロディは見た。
先程までロクサーナが立っていた場所。
そこに郷守が倒れている。何本もの光の槍で床に縫いつけられて、仰向けに。
「な……何だこれは……!?」
しかし郷守は息があった。というかよくよく目を凝らせば無傷のようだ。
皓々と輝く光の槍は郷守が身にまとっている女物の衣服を貫き、それによって彼を磔にしていた。身動きを取ろうにも上半身がまったく動かず、足をバタつかせるのがせいぜいらしい。
「フフフフ……どうじゃ、恐れ入ったか、小僧。このわーをただの小娘と侮ったが運の尽きよ。きさんにはこれから、この半月の礼をたっぷりとせねばならんのう」
「ぐっ……き、貴様、神術使いだったのか……! だ、だが、私の後ろには憲兵隊がいるのだぞ! その私にこのような狼藉を働いて、タダで済むと思っているのか……!?」
「それはこっちの台詞じゃ、この大うつけめが! きさんはわーを誰じゃと心得る! これを見よ!」
言うが早いか、突如ロクサーナが自らのケープに手をかけ、華麗にそれを脱ぎ捨てた。途端にジェロディはぎょっとする。ケープの下から現れた純白の貫頭衣の襟刳りが、思っていたより深かったからだ。
綺麗な逆三角形を描くその襟刳りによって、ロクサーナは大胆に胸元をはだけていた。ちょっと屈めば小さな二つの丘陵が見えてしまいそうで、ジェロディは目を逸らしかける。
だが、直前で気がついた。ロクサーナが堂々と晒した白い胸元。
そこに銀色の何かが光っていた。
あれは六つの枝を生やし、その先に小さな火を灯した燭台。
トビアスの祭服の胸にあるのと同じ、《六枝の燭台》。
それは他ならぬ光明神オールの神璽――。
「……! ま、まさか、それって……それじゃあ、ロクサーナは……!?」
「いかにも。わーこそはパーシャ・ロクサーナ、この胸の《光神刻》に選ばれし光神オールの神子である! 卑しき人の子よ、きさんが今日までわーに働いた無礼の数々は、すべて神がご照覧じゃ!」
黄砂岩造りの通路を、どよめきが駆け抜けた。愕然としたのはジェロディだけではない。郷守も、救世軍の兵たちも、攫われてきた娘たちまで、皆が驚愕の眼差しをロクサーナに注いでいる。
――《光神刻》。
そんな馬鹿な、とジェロディは思った。
だって《光神刻》は、このエマニュエルにおいてまだ一度も発見された記録のない大神刻だ。ロクサーナがその《光神刻》に選ばれた神子だって?
だが、そう考えれば納得のいくことがいくつかある。まずトビアスと再会したケリーが〝ロクサーナなら一人でも脱出できる〟と彼女を評していた理由。そしてさっきの、ジェロディを見たときのロクサーナの反応……。
(そうか、神子は不老の存在だから――)
だからロクサーナはジェロディを〝ティノ坊〟と呼んだ。
既に七十年以上の歳月を生きている竜父たちと同じように、彼女もまた見た目からは想像できないほどの時間を生きているのだろう。
つまり今この場には、自分を含め二人の神子がいる。
光の神子と生命の神子。
こんな偶然がありえるだろうか。
《命神刻》の宿る右手が、またもぴくりと反応する。
〝やっと会えた〟――。
まるでそう歓喜しているかのように。
「う、嘘だ……! わ、私は信じないぞ! こんな妙ちくりんな小娘が神子などと――おふっ!?」
「ああ、すまんの、どうもわーは歳のせいか最近耳が遠くてのー。何しろきさんのような小僧の十倍は生きとるき、かさましい言葉は聞こえんようになってしもうたのじゃ!」
「い、いだだだだだだ! や、やめろ! いや、やめて下さい!? 分かった、分かりました、信じるから! 貴様のようなちんくしゃでも神子は神子だと――ぎゃあああああああ!」
ところがジェロディが唖然としている間に、目の前ではバイオレンス極まりない光景が繰り広げられていた。床に磔にされ動けない郷守の鳩尾を、ロクサーナが踵で思いきり踏みつけているのだ。
……あれが本当に神子のやることだろうか?
ジェロディは一瞬、郷守と同じ疑問を抱きかけたが口には出さなかった。何度も言うようだが、ロクサーナを怒らせるのが恐ろしいので。
「ああ、だから忠告したのに……」
と、今度は横合いから弱々しい声がして、ジェロディはそちらを振り向いた。
そこではトビアスが両手で顔を覆い、失意に打ち震えている。……無理からぬことだ。何せ彼は光神系教会の信徒。つまり目の前で郷守に暴行を働いている彼女こそが、彼らの崇める光神オールの化身ということになる。
自分の信じる神がこんなだったら、たぶん誰でも落ち込むだろう。ジェロディは内心トビアスに同情しつつ、同じく隣で呆れているケリーを顧みた。
「……ケリーは知ってたの? ロクサーナがオールの神子だってこと」
「ええ、それはもちろん。十年前の正黄戦争では、我々もロクサーナの持つ《光神刻》の力に幾度となく助けられましたから。まあ、彼女はあのとおり、性格がちょっとアレですが……」
「すみません、本当にすみません……言い訳させていただくと、彼女はかつて小国で多くの家臣に傅かれていた女王でして……そのせいでちょっと常識が通じないというか、言動が歪んでいるというか……」
「そこ! 聞こえとるぞえ! 誰が傲慢オババじゃ!」
「そ、そこまで言ってないじゃないですか! そりゃあ確かにちょっぴりそう思うこともありますけど――ぎゃああああ!」
再び光の槍が飛び、今度はトビアスの耳元を掠めていった。……やっぱり彼女は怒らせない方がいい。今のはトビアスも悪いけど。
「えーっと……とりあえず話が飲み込めないからみんな落ち着いてくれる? ここまで分かったことをまとめると、まずそこにいる変態女装野郎がここの郷守で、今それを踏みつけてる人が光神オールの神子ってことね? ということは今この場には、世界にたった二十二個しかない大神刻が二つもあるってことになるけど……?」
と、さすがに混乱を来たしたのだろう、ときにカミラが額を押さえながら、頭痛をこらえるように言った。彼女のまとめはだいたい合っている。にわかには信じ難いことばかりだけれど。
「ちょ、ちょっと待って下さい。大神刻が二つ? ということはこの場には、ロクサーナ以外にも神子が――?」
「――おい! お前ら無事か!?」
刹那、尋ねかけたトビアスの言葉を遮って、獄舎の入り口から声がした。はっとして振り向けば、そこには数人の兵を従えたイークとフィロメーナの姿がある。
「あ、フィロ! それにイークも……なんでここに?」
「あなたからの伝令を受けたあと、このあたりからものすごい光が上がったのが見えたから、心配で様子を見に来たのよ。だけど、これは一体……?」
獄舎内の状況をざっと見回して、フィロメーナが困惑の声を上げた。それもまた無理からぬことだ。何せ今、彼女の目の前では解放されたはずの娘たちが怯え、兵も狼狽し、更に見知らぬ少女がふんぞり返りながら女装した男を足蹴にしている。……カオスだ。
「……! おい、その男……!」
が、そんな中でもイークはいち早く郷守に気がついたようだった。彼は最初のビヴィオ攻めに加わっているから、事前の調査か何かで郷守の顔を見知っていたのだろう。
途端に彼は殺気立ち、素早く腰の剣を抜く。そのまま無言で郷守に歩み寄った。己に向けられた殺意を察知したのだろう、郷守は「ヒッ……」と息を飲む。だがどんなにもがいてもロクサーナはどかないし光の杭も消えることはない。
「お、おい、待て……! 貴様らの仲間を手にかけたことなら詫びる! な、何なら償いに金を出そう! 私に払える額ならいくらでも払う! だ、だから、命だけは……!」
「……そんな風にみっともなく命乞いするくらいなら、初めから思い留まるべきだったな」
そう言い放ったイークの声は低く、背筋が凍るような冷たさを帯びていた。
彼は瞳に殺意を燃やし、頭上へ剣を振り上げる。
郷守が更なる悲鳴を上げた。刃がヒュッと風を切る。
だが直後、あたりにほとばしったのは鮮血の赤ではなく――閃光の白だった。
「……!?」
刃が何か硬いものに当たる音がして、宙空にて剣が止まる。
だがここは薄暗いので、目を凝らさずとも見えた。イークの剣を止めたのは、先程の戦闘で救世軍を敵の神術から守ったのと同じ光の壁だった。
「ほい、そこまでじゃ。今のでこの男は死んだ。あとのことはわーたちに任せてもらおうかの」
淡々と言ったのは未だ郷守を踏みつけにしたロクサーナだ。今の発言を聞く限り、光の壁を展開したのは他ならぬ彼女らしい。
「おい、何だお前……!? この術壁はお前の仕業か!?」
「いかにも。そもじ、この胸の《光神刻》が見えんのきゃえ。わーはオールの神子ロクサーナ。この場は我々光神真教会が預かった。そもじらはこれにて手を引きんしゃい」
「オールの神子だと……!?」
わけが分からないといった様子でイークが呻き、彼についてきた兵たちも動揺していた。
だがどんなに現実を疑おうと、ロクサーナが光の神子であることは胸の《光神刻》が証明している。それで状況を呑み込んだのだろう、進み出てきたフィロメーナが慎重に口を開いた。
「光神真教会の名前は聞いたことがあるわ。確かここ二、三十年の間に北から進出してきた新興教会……だけどその教会がオールの神子を戴いているなんて初耳です。もしもそれが事実であるならば、他の光神系教会が黙っていないはずでは?」
「た、確かにおっしゃるとおりです。ですがいくつかの光神系教会は、既にロクサーナの存在を認知しています。我々はこの二十年、宣教のために各地を転々としておりまして、他の光神系教会にも挨拶をして回っているのですよ。彼女の存在が公になっていないのは、その際に我々が神子臨在の事実を喧伝しないようお願いしているから、というのが大きいでしょう」
「失礼ですが、あなたは?」
「申し遅れました。私は光神真教会特命宣教師のトビアスと申します。こちらにあらせられますのはオールの神子ロクサーナ。つい先日まで、我々はこの郷区の南にある村に滞在していたのですが、そこで今回の騒動に巻き込まれ、事態解決のために動いておりました」
敵意がないことを表明するためだろう。トビアスは帽子を外して胸に押し抱き、丁寧に一礼した。そういう所作をしているところを見ると、やはり彼はずいぶんと大人びて見える。いや、あるいは彼もまたロクサーナのように、見た目と実年齢が合致していない可能性が……?
「そうだったのですか。この度は我が国の事情にあなた方を巻き込んでしまい、申し訳ありません。ですがオールの神子の臨在を公にしないというのは何故……?」
「光神真教会はこの大陸の北、群立諸国連合に本部を持つ教会じゃ。そして連合は長年に渡り、東から攻めてきよるエレツエル神領国の脅威に晒されておる。ここまで言えば分かるでおじゃろ?」
「連合内に神子がいると知れれば、神領国の侵略がより苛烈になるから――ということですか?」
「さよう。ゆえにわーとトビーはお忍びの旅を続けておる。あまり大手を振って歩き回っておると、いつまたエレツエル人がわーを殺しに来るか分かったもんではにゃーからのう」
――エレツエル人が殺しに来る。その一言を聞いたジェロディはぞっとして、思わず自身の右手を押さえた。
……そうか。言われてみれば確かにそうだ。大神刻を狙っているのは何もルシーンだけじゃない。二十二の神の御魂を集め《神々の目覚め》を実現させようとしているエレツエル神領国もまた、神子や大神刻を血眼になって探しているのだ。
ということはこの右手の《命神刻》の存在が知れたら、自分もまた命を狙われる羽目になるのだろうか。
そう考えると腹の底が冷えて、ジェロディは緊張に身を硬くした。そんなジェロディの様子を、マリステアが不安げに見つめている。
「だがそれとその男を助けるのに一体何の関係があるんだ。事態解決のために動いてたってことは、あんたらも知ってるんだろ? そいつが何をしたのかを」
「もちろん、すべて承知しておる。じゃけんこやつはこれから黄都へ連れてゆき、オルランドの前に突き出して公正な裁判を受けさせる。こやつに最もふさわしい罰は、その裁判によって下されるじゃろう。まあ、軽くて無期懲役といったところじゃがのう」
依然踵でぐりぐりと郷守の腹を押しやりながら、事もなげにロクサーナは言った。それを聞いたイークはますますわけが分からないとでも言うように、眉間の皺を深くする。
「だったらここで殺されても同じだろ。それをなんでわざわざ裁判なんかにかける? こいつのしたことに情状酌量の余地なんかない!」
「そもじらは知らんのきゃえ。神の法では裁判にかけることなく、独断で罪人を裁くことが禁じられておる。いかなる愚か者にも償いの機会を与えようという、神々のお慈悲でおじゃる。わーは光神オールの神子として、その法を遵守せねばならん」
「馬鹿を言うな! そんな戯れ言のために、これまで何人の汚吏貪官が無罪にされてきたと思ってる? 今の黄皇国じゃ、罪人を裁判にかけるってことは釣った魚を川に戻すのと同じだ。金と権力に目が眩んで領民を虐殺した男を、あんたらは許すつもりか!?」
「誰もそうは申しておらん。そもじ、釣りをしたことがにゃーのきゃえ?」
「は? 何の話だ?」
「そもじが今申したのでおじゃろ。この男は釣られた魚じゃと。ならばわーはその雑魚を使うて大魚を狙う。――この国を裁判にかけるためにの」
ジェロディは思わず息を飲んだ。つまりロクサーナはこの件を餌に、オルランドを試すと言っているのか。
神に選ばれし存在である神子の前では、いかなる国の王であろうと跪く。いや、跪かなければならない。神子への恭順はすなわち、神々への服従を意味しているのだから。
そのロクサーナが郷守を連れて黄都を訪ねれば、オルランドは嫌でも取り合わざるを得ない。そこで彼が郷守にどのような裁定を下すのか。
ロクサーナはそれを〝裁判〟と呼んだのだ。この郷守ではなく、彼を裁くオルランドの正邪を見定める、と。
「……それでもし、黄帝があなた方の言葉に背いたらいかがなさるおつもりですか?」
「さて、の。そこまではまだ考えておらぬ。こう見えてわーたちはオルランドとは旧知の仲じゃ。できれば今はあの男を信じたい。――と、トビーがそのように申すのでな」
と、フィロメーナの問いにロクサーナが答えれば、後ろでトビアスが赧然とうつむいた。……なるほど、ロクサーナは彼の願いを聞き入れたというわけか。
しかしあるいはロクサーナもまた、心のどこかでオルランドを信じているのかもしれない。何せケリーの話が事実なら、彼らもまた正黄戦争ではオルランドと共に戦った仲間だというのだから。
「……分かりました。それでは、神子様」
「わーのことはロクサーナで良い」
「では、ロクサーナ様。そちらの郷守の処遇は、あなた方に一任致します。どうぞよしなにお取り計らい下さい」
「おい、フィロ!」
まだ納得がいかない様子でイークが叫んだ。話を聞いていた兵たちの中にも、顔色を変えている者がいる。
けれどフィロメーナは動じなかった。彼女は手だけで静かにイークたちを押し留めると、その場で一度息をつく。
そうして次に顔を上げたとき、彼女は別人になっていた。
そう錯覚するほどの鋭い眼光を湛え、気配と表情を研ぎ澄まして、フィロメーナは言う。
「ですが、これだけは覚えておいて下さい。我々にはたとえ神の法に背いても、やり遂げなければならないことがあります。いずれその報いを受けるときが、必ずや訪れるでしょう。それでも、この地には我々の力を必要としている人々がいる。ならば私たちは自らの良心に懸けて、彼らの声に耳を塞ぐことはできません」
――同じだ、と思った。
この既視感はたぶん、初めてフィロメーナと出会った日、ロカンダの地下で彼女に見据えられたときの……。
彼女の言葉の端々に宿る、ぞっとするほどの覚悟。
その覚悟の刃が容赦なくジェロディの胸を刺す。
あの日フィロメーナには〝真実から目を背けるな〟と言われた。
そのときから分かっていた。分かっていたつもりでいた。
けれど今、改めて思い知る。
彼女は、彼女たちは、本気なのだ。
本気でこの国を転覆させようとしている。
戦う力を持たない弱き人々のために。
自由と解放を願って死んでいった、愛する者たちのために――。
「……。そもじ、名は?」
「救世軍二代目総帥の、フィロメーナ・オーロリーと申します」
「オーロリー? ということはそもじはもしや、あのエルネストの身内きゃえ?」
「はい。エルネスト・オーロリーは私の父です」
「わーはあの男が大っ嫌いじゃ」
言下に吐き捨てられたロクサーナの言葉に、ジェロディは図らずもぎょっとした。恐らく彼女は真帝軍にいた頃、エルネストとも行動を共にしていたのだろうが、だとしても実の娘の前で父親を非難するとはどういう了見か。
性格がはっきりしているにもほどがある、とジェロディは束の間慌てた。だが次の瞬間、目を疑う。何故ってそれを聞いたフィロメーナが、にっこりと嬉しそうに微笑んだからだ。
「あら、奇遇ですね。私もです」
「そうであろうの。そもじはどうやらエルネストとは天と地ほども違うようじゃ。あの男はとんだ思い違いをしておる。いかなる行いをしようとも、人は決して神にはなれぬ。そもじもそれを胆に銘じよ。間違ってもアレのようになってはならぬぞえ」
「はい。お言葉、確かに胸に刻みました」
……正直、呆気にとられた。エルネスト・オーロリーと言えば、今後数百年は歴史に名を残すだろうと言われている軍師の中の軍師だ。けれど目の前に、その『神謀』を嫌う女性が二人。一人は神子で、もう一人は実の娘だ。
彼は何故そこまで嫌われているのだろう? そう言えば父も真帝軍時代の話はよくするが、エルネストの話題を自ら出したことはないような気がする。
(……そんなに嫌われるような人なんだろうか?)
ジェロディがそう思って立ち尽くしている間にも、救世軍は動き始めていた。
郷守は捕まり、囚われていた村娘たちも解放した。ということはもうここに留まる理由はないので当然だ。
救世軍の兵士が縄を持って現れて、郷守をぐるぐる巻きにしていた。少し向こうではカミラがフィロメーナと共に娘たちの傍へ行って、改めていたわりの言葉をかけている。
そんな慌ただしい景色の中で、ジェロディはロクサーナの姿を盗み見た。
再び夜明け色のケープを被った光の神子は、通路の端でトビアスと話し込み、微かな笑みを浮かべている。




