07.尋ね人 ☆
──前夜、そんな騒ぎがあったとは露知らず。
翌日、白亜の町ジェッソはいつもどおりの朝を迎えた。
町の中心部から教会が奏でる鐘の音が聞こえてくる。
あれは朝の礼拝の終わりを告げる真神の刻(九時)の鐘だ。
北西大陸南東部を占めるトラモント黄皇国の夏は暑い。今日も朝からジリジリと太陽が白い石畳を焼き、足もとから来る反射がまぶしいくらいだった。
そうした暑さを少しでもやわらげようと、誰かが水を撒いたのだろうか。
町を貫く目抜き通りには美しく整えられた花壇があり、零れんばかりに咲き乱れた花々が涼しげな水滴をまとっている。
その花壇を後目に商人たちは次々と店を開け、あちこちで気持ちのいい客引きの声を上げていた。礼拝帰りの町人たちは白い町並みを彩る花々を楽しみながら、そうした商店を覗いて朝食を仕入れている。礼拝は毎朝理神の刻(八時)に始まるので、朝食は帰宅後に取るという人も黄皇国には多いのだ。
「あの、すみません」
と、ときにそうして家路に就く人々を道端から呼び止める声があった。
振り向けばそこには──この暑いのに──ケープのフードを目深に被り、顔を隠した怪しげな女がひとりいる。今回呼び止められたのは腰の曲がった、しかし人の好さそうな顔立ちの老人だった。
「私、旅の者で人を探しているんですが、こんな色の髪のエリクという剣士を見かけたことはありませんか? 歳は二十二歳で、背はそこそこ高くて、南のルミジャフタ……あ、いや、太陽の村の出身なんですけど」
言いながら女はフードの中からひと摘み、自らの髪を引き出して老人に見せた。
彼女の髪はすぐそこの花壇に咲いた花にも負けぬ鮮やかな赤色をしている。
この世界において、赤い髪というのはなかなか珍しい部類のものだった。
大陸南部に位置するトラモント黄皇国では比較的黒髪の者が多く、次点を茶髪や金髪が占めている。赤や紫といったいわゆる〝有色〟はまったくいないわけではないが、少なくとも黄皇国の生まれではない場合がほとんどだろう。
だからそんな髪色の人間が町をうろついていれば嫌でも印象に残る。
ただでさえジェッソは石畳も立ち並ぶ家々の壁も白で統一された白亜の町だ。
その白にいかにも映えそうな女の赤い髪を見て、老人は首を横に振った。
するとフードの向こうからわずかに落胆した気配が伝わってくる。
「あ、じゃあ、あの、もうひとり探してる人がいるんです。イークって名前の剣士で、その人もお兄ちゃ……いや、さっきの人と同じ太陽の村の出身なんですけど。歳も同じ二十二歳で、髪はちょっと茶色寄りの黒で、こう、髪からカラリワリ……青い羽根飾りを下げていて──」
「──〝イーク〟? おまえさん、今、イークと言ったのかい?」
と、突然老人から尋ねられ、女は少しばかり驚いた素振りを見せた。
刹那、彼女を見据えた老人の瞳にはギラリと険しい光が宿る。
しかし彼はすぐに目を伏せると、あたりを憚るような声音で言った。
「お嬢さん。悪いことは言わない、このような往来で彼の名を口にしてはいけないよ」
「え……ど、どうしてですか?」
「どうしてって、それは救世軍の──」
そう言いかけて、老人は突如口を噤んだ。
かと思えば慌てたように身を翻し、その場から立ち去っていく。
「あ、ちょっと……!」
と、女は彼を呼び止めようとした。ところが伸ばした手が老人の肩に届く前に、女の方が後ろから肩を叩かれた。「え?」と声を上げながら振り向けば、そこには顔面──ちょうど鼻のあたり──に包帯を巻いた背の高い男がいる。
さらに彼の後ろには、ずらりと並んだ鎧姿の男たち。
不意に通りがざわめいた。理由は言うまでもなく、女の肩を叩いたのが町に駐屯する黄皇国地方軍の兵士たちだったからだ。
「よう、お嬢さん。ちょいと聞きてえことがあるんだけどよ」
フードの下から覗いた女の口もとが、ひくっ、と小さく引き攣った。
女はこの顔面包帯男に見覚えがある。
見覚えというか、昨夜顔面に会心の回し蹴りを叩き込んだ覚えがある。
しかしここで「あらあら、昨夜に比べて素敵なお顔になりましたね」なんてのたまおうものなら即逮捕だ。女は素早く姿勢を正すと、臙脂色のフードを引っ張って更に目深に被り直した。そうしてにこりと微笑みかける。
「あら、おはようございます。栄えある黄皇国地方軍の皆様が、旅の者に何か御用ですか?」
完全にシラを切る構えだった。何せ女が暑いのを我慢して顔を隠していたのはこのときのためだったからだ。顔面包帯男の背後には同じく地方軍の鎧に身を包んだ兵士たちが十人ほど控えている。トラモント黄皇国の正規軍──〝中央軍〟と呼ばれる──の装備に比べたらずいぶん安上がりな鎧に見えるけれども、それでも黄金竜の国章が刻まれた鎧が目の前にずらりと並んでいるとなかなか威圧感があった。
「いや、実は人を探してるんだけどよ。背中まで届く赤い髪の、小生意気そうな女を知らねえか? 歳は十六か十七くらいで、ちょうどアンタみたいに腰に大小の剣を一本ずつ差してるって話なんだが」
男は包帯の上からじろりと目を動かして、女の腰に差された長剣と短剣を指差した。女は示されたものを一瞥したあと、再びにこりと笑みを刻む。
「さあ、生憎存じ上げません。というわけでもう行っていいですか?」
「いや、まだだ。行く前にちょっとツラを見せろ」
「あら、それはどういう了見で?」
「オレたちが探してるその女はな、昨日の晩、黄皇国兵三人に突然襲いかかって狼藉を働きやがったんだ。恐らく金目当ての犯行だろうが、おかげでオレはこのありさま、仲間もふたりもえらい目に遭った。こいつは立派な反逆罪だ」
「〝金目当て〟? よく言うわ。か弱い女の子相手に狼藉を働いてたのはあんたたちの方じゃない。もしくはあのとき吹っ飛ばされた衝撃で記憶が混乱しちゃったのかしら?」
ざわり、といつの間にかできていた人だかりがまたざわめいた。
ほぼ時を同じくして、顔面包帯男の額に青筋が走る。
「てめえ、やっぱり昨日の……!」
女──カミラはなおもフードの下で微笑んだ。
あーあ、やっぱりこうなっちゃった、という投げやりな自嘲を込めて。
「おい、間違いねえ、コイツだ、捕まえろ! すぐに郷庁まで連行して──」
「テオ・エシュ・クエトラン・アイェクトリ・アトレイカ!」
そのときだった。男の怒号を遮って、カミラはすかさず故郷の言葉を唱えた。
そう、カミラはトラモント黄皇国の人間ではない。
この国の南に突き出たグアテマヤン半島唯一の集落、ルミジャフタ郷の出身だ。
そしてたった今唱えたのはエマニュエルの二十二大神が一──火の神エシュに捧げる祈りの言葉。刹那、その祈りに応えて突然爆風が巻き起こった。
カミラが素早く手を翳した先でいきなり炎が弾けたのだ。
「ぐわぁっ!?」
今にもカミラへ迫ろうとしていた黄皇国兵が吹き飛ばされ、野次馬たちも悲鳴を上げた。突然の爆発は足もとの石畳を砕いてすさまじい砂煙を巻き起こし、あたり一面が真っ白になる。
「げほっ、げほっ……! くそっ! あの女、神術使いか! 逃げたぞ、追え、追えーっ!」
──と、そんなことがあって現在、カミラは町中を逃げ回っているわけだ。
「はあ……せめてもう少しこの町で聞き込みをしたかったのに……」
なんて、自身の右手の甲をそっと摩りながらカミラはぼやく。
カミラの両腕には肘まで届く革の手套──と言っても指は出る仕組みになっている──が嵌められており、普段は隠れて見えないが、そこには真っ赤に燃える炎の刺青のようなものが刻まれていた。
神刻。それが先程の爆発を引き起こした元凶だ。エマニュエルでは時折眠れる神々の力を宿したかけらが見つかることがあり、人々はそのかけらを神刻と呼んでいる。それをこうして体に刻めば、先刻のカミラのように人間でも神の奇跡を起こせるのだ。たとえば火の神エシュの力から生まれた神刻なら炎の奇跡が、水の神マイムの力から生まれた神刻なら氷水の奇跡が──という風に。
エマニュエルには二十二の大いなる神と五十六の小さき神がいる。
しかし彼らは《神世期》と呼ばれる神話の時代に起こった大戦で力を使い果たし、深い眠りについてしまった。その《神々の眠り》からおよそ千年。
未だ神々が眠りから覚める兆候はなく、導く者のいなくなった世界は荒れていた。このトラモント黄皇国がいい例だ。あの下品で卑劣な地方軍の兵士たちを見ればひと目で分かるように、黄皇国はもうずいぶん前から腐りきっている。
黄都ソルレカランテの周辺はどうだか知らないが、地方へ行けば軍人や役人が好き放題し、多くの民が彼らの悪行に苦しめられているのだ。まあ、そんなことは黄皇国の民ではないカミラにしてみれば正直どうでもいいのだが、
「なのにどうしても首を突っ込んじゃうのよね……」
と、カミラはしゃがみ込んだまま頭を抱えて、はあ、と深いため息をついた。
そうして小さくなったカミラの耳に、すぐそこの路地を駆け抜けていく足音が届く。「どこに行った」とか「向こうも探せ」とか喚きながら遠のいていくところをみると、間違いなく黄皇国兵の足音だ。やがて彼らの足音が聞こえなくなり、喚き声も遠くなったところで、カミラはそろそろと横道から顔を覗かせた。
そこは人ひとりがやっと通れる程度の、路地とも呼べない建物の狭間だ。
入り口には民家のものと思しい樽や木箱が積まれていて、カミラはその陰に身を潜め、追っ手が見当違いの方向へ去っていくのを待っていたのだった。
(これでジェッソにももういられないわね……)
と慎重に左右を確認し、カミラはそっとため息をつく。ジェッソにも、という思考が示しているとおり、カミラはジェッソ以外の町や村でもたびたび地方軍や山賊、湖賊の類にちょっかいを出しては散々な目に遭っていた。
それだけ現在の黄皇国は治安が悪いということだが、いくらなんでも悪すぎる。今なら単身郷を出ると騒いだカミラを族長のトラトアニが必死で止めようとしていたのにも頷けるというものだ。
だがカミラの育ったルミジャフタ郷には〝戦士たる者、悪に対しては常に正義を守り、善に対しては其の献身を惜しむなかれ〟という教えがある。郷の開祖である英雄タリアクリが遺した言葉で、それをカミラに教え込んだのは他でもないトラトアニだ。ということはこれは全部族長のせいね、とカミラは内心理不尽すぎる責任転嫁をして、音もなく目の前の木箱を乗り越えようとした。が、そのとき、
「──あ、あの!」
と突然背後から声をかけられて、カミラは不覚にも飛び上がった。どうやら路地の外にばかり意識を向けていたせいで、背後への警戒がおろそかになっていたらしい。カミラは腰の剣を掴み、反射的に振り向いた。だがそこにいたのは、
「あなたは……」
薄暗がりの中に浮かぶ、腰が絞られた白のチュニック。
やわらかそうな金髪に、ゆったりした袖から覗いた華奢な腕。
見間違えるはずもなかった。
カミラを呼び止めたのは昨夜裏路地で黄皇国兵に襲われていたあの少女だった。