85.太陽を抱く民
シュウウウ……と音を立てて漂う白煙を前に、トビアスが複雑な顔をしていた。
一難去ってホッとしたような、けれどちょっと引いているような、無事を喜んでいるような、それでいて恐れ慄いているような――そんな顔だ。
「え、えっと……皆さん、お強いんですね……?」
誰にともなく尋ねたトビアスの眼前には、カミラの神術で吹き飛ばされたりジェロディたちに斬り刻まれたりした黄皇国兵の亡骸があった。彼はそれらを眺めながらどうにか笑みを作ろうとしているようだが、顔面は蒼白だ。
「お怪我はありませんか、トビアス殿?」
「え、ええ、私は大丈夫ですが……」
と、ケリーの問いに答えながら、彼はふらふらと歩き出す。どこへ行くのかと思ったら、数歩と進まないうちに膝をついた。
崩れるように座り込んだトビアスの膝の先には、目を開けたまま物言わぬ骸と化した若き黄皇国兵がいる。トビアスが震える指先でその瞼を下ろすと、白い手套に血がついた。
けれど彼はそれに気づいているのかいないのか、血に濡れた右手を引き戻す。そうして胸に――《星樹》を切った。
「無垢なる神鳥よ、かの者たちの御魂を慈翼に抱き、天樹エッツァードへと導きたまえ。彼らの魂が決して魔に拐かされぬように……」
瞬間、ジェロディの右手がピクリと動く。魂の再生を意味する生命神ハイムの神璽。たった今ジェロディの右手にあるそれは、死者の安息を願う生者の祈り……。
その紋章を胸に抱いて、トビアスはしばし黙祷していた。さすがは聖職者と言うべきか、彼は自らを捕らえようと追ってきた者の死をも悼み、弔意を捧げているらしい。
「律儀なのね、聖職者って。ひょっとしたら自分が殺されてたかもしれないのに」
と、ときにカミラがぽつりと漏らせば、ついにトビアスが顔を上げた。彼は何とも言えない表情のままこちらを振り向くと、木箱を鳴らして立ち上がる。
「申し訳ありません。彼らはあなた方にとって憎むべき相手かもしれませんが……それでもこの世界に、失われてもいい命なんてないと思うんです。それに生者の祈りがないと、死者の魂は魔界に堕ちて、魔物と化してしまうかもしれませんから……」
「それって生前どんな悪いことをした人間でも、祈りがあれば再生できるってこと?」
「はい。故人を想う真摯な祈りがあれば」
「じゃあたとえば、近隣の村を荒らして無抵抗の女子供まで殺したような連中でも?」
単刀直入なカミラの問いに、場の空気が凍りついた。これにはトビアスも目を見張って固まっている。
が、彼はやがてゆるゆる息をつくと、体から力を抜いた。その手が自然と胸元へ伸び、紐で吊られた蹄鉄――これはエマニュエルの聖職者たちが身につけている《母なるイマ》の象徴だ――に触れるのを、ジェロディは見る。
「……はい。道を誤った魂も、天へ昇れば来世で償いの機会を与えられます。それに彼らの中には上官の命令に逆らえず、泣く泣く民へ手を上げた者もいたはずです」
「そのご様子ですと、この郷区を取り巻く事情はすべてご存知のようですね、トビアス殿」
「ええ。私が今ここにいるのも、その一件が理由ですから」
「それをご存知の上でなお、彼らの安息を祈られますか」
「たとえ誰が見放そうとも、私たちは手を差し伸べ続ける。それが我ら光神真教会の信条です」
毅然と答えたトビアスの面差しには、先程までのどこか頼りなさそうな雰囲気はもはやなかった。彼はその藍色の瞳に深い慈愛と決意とを湛え、聖職者然としてそこにある。
光神真教会。
比較的信心深い方だと自負するジェロディも、初めて聞く教会の名前だった。光明神オールは光の神であると同時に希望の神だ。だからこそすべての人間に善性を見出す――曇りのないトビアスの眼はそう言っているように、ジェロディには思える。
「ええと、それじゃあ一応、改めて自己紹介致しましょうか。私は北の群立諸国連合に本部を置きます光神真教会のトビアスと申します。この国へはその真教会を代表して、オルランド陛下へ新年のご挨拶を申し上げるべく参上しました。あなた方は、最近巷で噂の反乱軍の皆様とお見受けしますが……?」
「〝反乱軍〟じゃありません、〝救世軍〟です」
と、両手を腰に当て、ちょっと胸を張るようにしてカミラが言った。どうも彼女は『救世軍』という名前に非常なこだわりを持っているらしい。
非は黄皇国の方にあるのに、〝反乱軍〟と言うと何だか彼女たちの方が悪者のように聞こえるから、それが気に入らないのかもしれない。そんなカミラの矜持を尊重したのかどうか、トビアスはやんわりと言葉を続けた。
「これは失礼。ですがケリーさん、あなた方が彼女たちと行動を共にしているということは、まさかガルテリオ将軍は……?」
「いえ、これには色々と複雑な事情があるのです、トビアス殿。そのお話も詳しくさせていただきたいところですが、まずはこの戦いを収束させ、攫われた村人たちを救い出さなくては」
「村人たち……? ということはあなた方も、地方軍による村落襲撃を聞きつけて?」
「はい。非道を働く郷守を討つべく、一時的に救世軍と行動を共にしています」
「そういうことでしたか……」
と、納得した様子ながらも、トビアスはやはり複雑な表情をしていた。……その目が先程からチラチラとカミラを気にしているように思えるのは、ジェロディの気のせいだろうか?
「ですがそう言うトビアス殿は、どこで囚われた人々の話を?」
「あ、ああ、それはですね……実は私はつい先日まで、地方軍の襲撃を受けた村の一つに滞在していたのです。ですがそこでまんまと事件に巻き込まれまして……」
「そ、それはまた数奇ですね……」
「ははは、いやぁ、ロクサーナのおかげで厄介事に巻き込まれるのには慣れましたから、それはもういいんですけどね? ただ問題は、そのロクサーナがですね……なんと言いますか、その……つまり、生き残った村の人々と共に攫われてしまいまして……」
「……何ですって?」
途端にひくりとケリーが口元を引き攣らせるのを、ジェロディは見た。救世軍の面々が掲げる松明の明かりの中で、彼女の顔色は心なしか青褪めているように見える。
話題に上っているロクサーナというのは、トビアスと同じ光神真教会の関係者だろうか? それにしては乾いた笑いを浮かべている二人の反応が気になるけれど。
「で、ですがあのロクサーナが何故? 地方軍ごときを相手に後れを取るような手合いではないでしょう?」
「そ、それはその……責任の所在は私にあると言いますか……」
「どういうことです?」
「襲撃のあった夜、事情を知ったロクサーナと私は村人の避難誘導をしていたのです。ところがそのせいで村の住人と間違われ……まあ、早い話が、私もうっかり刺されまして」
「え!?」
ははは、と腹部を押さえ、力なく笑うトビアスを前に、ジェロディたちは戦慄した。はっきり言って笑い事ではないし、アルドの話では集落が地方軍の襲撃を受けたのは先月末日のことだ。
ということは事件からまだ半月しか経っていない。本当に腹部を刺し貫かれたのなら、たったそれだけの期間で動き回れるほど回復するのは難しいはず……。
同じ結論に達したのか、隣ではマリステアも蒼白な顔をしてトビアスの腹部を凝視している。
「あ、あの、それではお怪我の方は……!?」
「ああ、傷は自分で癒やしたのでどうにか大丈夫です。ただそのせいでロクサーナまで動けなくなり、彼女は地方軍に攫われることに……加えて私を村から運び出してくれた親切なご家族から、村の事情をお聞きしまして……」
「なるほど、それで単身ロクサーナたちを救うべく乗り込んでこられたというわけですか」
「はい。本当は穏便に話し合いで済ませるつもりだったのですが、何度郷守殿を訪ねても門前払いで……なので仕方なく、私も強硬手段を……」
「しかしロクサーナがいれば、彼女一人でも村人たちを連れて脱出できそうな気がしますが?」
「ええ、ですがここの郷守殿がそこまで敬虔である保証はありませんし、いくらロクサーナと言えど他の村人たちを人質に取られてしまってはどうしようもありません。それで早く助けに来いと、ずっと急かされていまして……」
はははは、と更に情けない声で笑いながら、トビアスはちょっと泣きそうに見えた。けれど何だか話が妙だ。そのロクサーナという女性はずっと郷守に囚われているはずなのに、〝早く助けに来い〟と急かされている?
というかあのケリーが〝一人でも村人を連れて脱出できる〟などと評するということは、その女性はよほどの豪傑なのだろうか?
とすればロクサーナはトビアスのような普通の聖職者ではなく、光神真教会付の聖堂騎士、あるいは彼を護衛する傭兵の可能性が高い。女性の戦士というのはケリーやセレスタを知っているし、ジェロディも特に驚かないけれど……。
「だけどそれなら私たちが来てラッキーだったじゃない。私たちもちょうどこれから獄舎を攻めるわ。そこにそのロクサーナって人がいるなら、一緒に助け出してあげるけど?」
と、横からカミラが口を挟んだところで、突然場の空気が変わった。
というか正確にはトビアスの顔色が、だ。
彼はカミラの申し出を受けると一瞬驚き、それから申し訳なさそうな顔をした。小さく肩を竦め、胸元の蹄鉄へ視線を落とし、その裏側を眺めるや微かに眉を曇らせる。
「い、いえ、あの、それは大変有り難いお話なのですが……当教会は以前、オルランド陛下より大恩を賜ったことがありまして……その、陛下に弓引くあなた方の協力を仰ぐわけには……」
「はあ? 何言ってんの、今は人命が懸かってるのよ。それにこんな事態になったのだって、元を辿ればその黄帝の責任みたいなもんでしょ。国を導くべき立場にある人が、金や権力にしか興味がないような連中の横暴を黙認してるんだから」
「それは――」
「だいたい黄帝から恩を受けたって、それ一体いつの話?」
「……今から二十年くらい前のことです」
「だったらその頃の黄帝と今の黄帝は別人だと思った方がいいわ。だってこの惨状を見なさいよ。黄帝は今、愛人のルシーンって魔女に現を抜かしてて、国のことなんてどうでもよくなってるの。そんな相手に律儀に義理立てしたところで――」
「ですがいくらお歳を召されたからと言って、あの陛下がそのような暗君に成り果てるとは私には思えません。私は皇太子時代から陛下のことを存じ上げておりますが、あの方はいつだって民のことを最優先に考えるお方でした。ですから黄皇国がこんなになってしまったのには、きっと何か別の理由があるはずです。私はそれを確かめるまで、陛下に背を向けるつもりはありません」
そのときトビアスが発した言葉に、居合わせた全員がぎょっとした。
一息に、叫ぶように言い放ったトビアスは再びうつむいて、蹄鉄の吊り紐をぎゅっと握り締めている。
そんな彼の姿を見て、ジェロディが受けた衝撃は大きかった。だって彼は目にしているはずだ。地方軍に襲われた村々で、酸鼻極まる光景と黄皇国の現状を。
それでも彼はオルランドを信じると言うのだろうか。
黄臣でもなければこの国の民でもないというのに?
いや、あるいはそれはオルランドを信じたいがゆえの祈り?
どちらにせよ、そうまでして異国の王に至誠を奉じる彼に比べて、自分は……。
「ですが、トビアス殿。だからと言ってこの混乱の中、あなたを一人で行かせるわけにはいきません。それでなくともロクサーナのいる獄舎には今、警備の兵が集まっていると言います。あなたが身一つで飛び込んでいってどうにかなる状況ではありませんよ」
「そ、それはもちろん分かっていますが……」
「では、そのような状況でどうやってロクサーナを救うおつもりです? 私の記憶が確かなら、あなたの所属する光神真教会では魔物以外の生物を傷つけることが固く禁じられているはずですが」
「え、ええ……確かに、おっしゃるとおりです……」
詰問調とまではいかないものの、急所を狙って的確に飛んでくるケリーの問いを受ける度、トビアスはちょっとずつ小さくなった。文字どおり肩身が狭いのだろう、そのままうなだれるとついには黙り込んでしまう。
「でしたら、我々と取り引きしませんか?」
「と……取り引き、ですか?」
「はい。もしもあなたが牢の鍵を渡して下さるならば、我々はあなたの代わりに命を賭してロクサーナを救出します。その鍵は真教会教徒としてのあなたの誇り。ならば誇りと引き換えに、ロクサーナの命を買いませんか?」
「……ケリーさん、しばらくお会いしない間に屁理屈が得意になりましたか?」
「それはお褒めの言葉と受け取っても?」
ケリーが昂然と眉を上げてそう尋ねれば、トビアスが小さく吹き出した。そうして彼はひとしきり笑うと、困ったように眉尻を下げる。
それは諦めの表情にも見えたし、親愛の表情にも見えた。――不思議な人だ。
聖職者として毅然とした振る舞いを見せたかと思えば結構気弱で、こんな風に年相応の表情を見せたりもする。けれど自分なんかよりずっと大人びて見えるのは、彼の根幹にある信仰心がそうさせるのだろうか。
「分かりました。一時的にとは言え、陛下に背くのは心苦しいですが……仰るとおり、私一人の力ではロクサーナを救い出すことができません。ですが教会も私も、こんなところで彼女を失うわけにはいかない。ならば今は、矜持を捨ててあなた方を頼りましょう」
「ご英断に感謝します、トビアス殿」
言って、ケリーは小さく微笑むと、トビアスの手から束状の鍵を受け取った。互いを見つめる彼らの眼差しには、確かな信頼の色がある。
……ああ、そうか。たぶんトビアスがそれを罪だと知りながら折れてくれたのは、ケリーがガルテリオの養女であることを知っているからなのだろう。
彼からジェロディたちへ向かう信頼は、ひいてはガルテリオへと向かう信頼。
そう思うとジェロディはますます慚愧を覚えた。
自分はその父を裏切ってここにいる。そしてこのまま救世軍と共に戦うべきなのではないかと、迷い始めている……。
「そういうことだ、カミラ。トビアス殿はご自身の身の上を顧みず、我々に協力して下さった。だからあんたたちもさっきのことは水に流して、ロクサーナの救出を手伝ってくれ」
と、ケリーが言葉を投げた先には、カミラを始めとする救世軍の面々がいた。彼らは一目見てそうと分かるほど不穏な剣幕で、トビアスを睨み据えている。
……それもそのはずだ。彼らは黄帝を腐敗の象徴と見なし、打倒黄皇国を掲げて戦う戦士たち。ならば当然黄帝オルランドの肩を持つトビアスの発言は面白くないだろうし、何故そんなやつのために自分たちが命を懸けねばならないのか、と露骨な嫌悪を覗かせている者もいる。
――何も知らない余所者のくせに。
そんな声が聞こえてきそうだった。ましてやそのトビアスを庇うケリーは官軍の人間。それが余計に彼らの不信を募らせているようにも見える。けれど、
(……本当にそうだろうか?)
確かに彼は異邦人だ。長くこの地にいて、黄皇国の変化を肌で感じてきたわけじゃない。
でも彼は地方軍に襲われた人々のために奔走し、自らも生死の境を彷徨った。それでもなおオルランドを信じたいと言う彼の想いを、その想いを殺してジェロディたちに協力するという彼を、〝異国の人間だから〟なんて理由て拒むことができるだろうか?
「カミラ」
そう思ったとき、ジェロディは彼女の名を呼んでいた。
殺気立っている兵士たちを従えたカミラがこちらを見る。彼女が今何を考えているのか、それを表情から読み取ることは難しい。
「僕からもお願いを……いや、君の副官として進言する。今は互いの些細な価値観の差につまずいている場合じゃない。僕たちの目的は地方軍に攫われた無辜の民を救うことだ。その目的を同じくしているのなら、手を取り合う理由は十分なんじゃないかな」
今の僕たちのように。ジェロディが最後にそう付け足すと、カミラの兵たちがよりざわついた。
――すべての元凶が偉そうな口を。誰かがそう零したのが聞こえる。
分かっていた。ジェロディが今ここにいるのはフィロメーナの寛大な措置があったからであって、救世軍に認められたからじゃない。その自分がこんな発言をすれば思い上がりと思われて当然だ。だけど、
「――カフェ・ランポーネの牛乳煮菓子」
「……え?」
突然意味不明な言葉の羅列に思考を遮られ、ジェロディはぽかんとした。
発言したのは他でもない、カミラだ。彼女は兵たちの先頭でなおも両手を腰に当てたまま、何か重大な告白でもするかのように目を伏せ、言う。
「ロカンダの二番街に、そういう名前の菓子工房があるの。そこのパンナコッタがね……とにかくもう、絶品なのよ。一度食べたら毎日通いたくなるくらい」
「へ、へえ……そうなんだ……?」
「だけど世の中って残酷よね。おいしいものほど簡単には手が届かないようにできてるの。そのパンナコッタも一皿二青銅貨もして……いや、別にぼったくりだって言うつもりはないのよ? でも……でも二青銅貨って言ったら二日分のパンが買えるわけでしょ? それってやっぱりちょっと高いんじゃないかしらと思うわけで」
「う、うん……そうだね……?」
「だから――それを奢ってくれたら聞かなかったことにするわ」
「え?」
「さっきの黄帝がどうたらって話。だってそれさえなければ私たちの目的は同じなわけだし?」
「か、カミラ……」
「あー、でも私一人だけ好きなもの奢ってもらったんじゃ不公平だから、みんなも何か奢ってもらったら? それでこの件はチャラにするってことで」
「け、けどカミラさん、こいつらは……!」
「昔、私のお父さんが言ってました。〝歩み寄る前から理解を拒むな。だけど歩み寄ってもダメならぶん殴れ〟って」
「えぇ……」
筋が通っているんだかいないんだかよく分からないカミラの発言に、兵たちは気勢を削がれていた。正直話が突飛すぎて、ジェロディも内容が頭に入ってこないのだが、お構いなしに彼女は言う。
「あとこうも言ってたわ。〝酒と食い物を奢ってくれるやつに悪いやつはいない。何故なら悪いやつだった場合、いなかったことにするからだ〟って」
「何だよそれ……」
「怖い……」
「そしてお兄ちゃんも言ってた。〝父さんの言うことはだいたい正しい〟って」
「マジかよ……」
「なんて家族だ……」
「というわけで、私はランポーネのパンナコッタを食べられるならこの件は水に流すわ。一応言っておくけど、別にこれは食い意地を張ってるわけじゃないからね? あくまで歩み寄りの手段だからね? 別にいいでしょ、聖職者さん?」
「は、はあ……それでロクサーナを助けていただけるのでしたら……」
「だって! ほら、分かったらあんたたちも今のうちに食べたいものを言っておきなさい!」
トビアスの言質を取ったカミラは、たちまち瞳を爛々とさせて兵たちを促した。その様子を見るに、ジェロディなどは「やっぱりパンナコッタが食べたいだけなんじゃ……?」と疑ってしまうが彼女の部下たちはどうか。
隊長の突拍子もない提案に、彼らはまず顔を見合わせた。それから銘々に思案し、互いの顔色を窺い合い、やがてその中の一人が言う。
「……ならオレは、酒場ヤインの蒸留酒で」
「な、ならおれはカンテラ亭の串焼き肉十本!」
「俺は麦酒を浴びるように飲めればそれでいい、かな……」
「じゃ……じゃあおれは、カミラ隊長の手料理が食べたいです!」
「はあ!? お前どさくさに紛れて何言ってんだ!」
「抜け駆けかこの野郎! だったらオレも隊長の愛情料理でいいッス!」
「じゃあ俺とはデートして下さい!」
「むしろ付き合って下さい!」
「おいお前らふざんけんな! イークさんに言いつけるぞ!」
「ええい邪魔すんな! おれは隊長とお近づきになりたいだけだ……!」
かくして、カミラ隊の兵士たちによる隊長争奪戦が始まった。
彼らはここが戦場であることも忘れ、本来の目的も忘れ、取っ組み合いの殴り合いをおっ始める。それも至極大真面目に。
おかげであたりはとんでもない騒ぎになった。もう誰もジェロディがどうとかトビアスがどうとか、そんなことは問題にしていない。
いや、というより女性の気を引くという目的の前ではいかなる問題も些細なものとして霞むのだろう。何しろそれがトラモント男児の性というやつだ――僕は違うけど。
「ぶっ」
と、ときに隣でトビアスが吹き出した。どうしたのかと振り向けば、彼は肩を震わせて必死に笑いをこらえようとしている。
だがその自制も長くは持たなかった。やがてトビアスは腹部を庇うように押さえながら、声を上げて笑った。
どうやら目の前で繰り広げられる救世軍の内輪揉めが可笑しくてたまらないらしい。聖職者は争い事を嫌うはずなのに。
「あの……トビアスさん?」
「す、すみません……ですが少し、ほっとしてしまって」
「ほっとした?」
「ええ。数年ぶりにこの国を訪れて、私、不安だったんですよ。しばらく来ない間に、何だかすっかり雰囲気が変わってしまって……立ち寄る町や村では人々が下を向いて歩いているし、以前の活気やバカ騒ぎもなくなって、ここは本当に私の知るトラモント黄皇国なんだろうかと思っていました。ですが――良かった。黄皇国はまだ、確かにここにありますね」
ジェロディは言葉を失った。今まさに目の前で〝バカ騒ぎ〟している救世軍の面々を、トビアスはひどく眩しいものを見る目で見つめている。
そうだ。そう言えば昔読んだ冒険記に、こんな一節があった。
――トラモント黄皇国。
そこは太陽神シェメッシュに愛された黄金の国。
かの国の人々は皆、心に太陽を抱いている。
陽気で、情熱的で、とても眩しい。
それがかの国をあんなにも輝かしく見せるのだ。
だから私は愛してやまない。
一人の英雄が金色竜と共に空を駆け、築き上げたあの国を――。
「――分かりました! そういうことでしたら、あなた方にこの小切手をお渡しします。金額はどうぞお好きなように。グリーヴ金融商会の支店へ持っていけば、光神真教会の名前で指定した額を受け取れます。そのお金はお好きなようにお使い下さい」
やがて救世軍の仲間割れを仲裁するようにトビアスが言い、あたりの騒ぎがぴたりと止んだ。彼が彼らに差し出したのは、羊皮紙で作られた本物の小切手だ。
振出人の名前は光神真教会。金額は未記入。
味方を代表して進み出たカミラは、受け取った小切手を真剣な顔で見下ろした。それを見た彼女の部下たちもいつの間にか争いをやめ、後ろから一枚の紙切れを覗き込んでいる。
「こ……これが噂の〝小切手〟……初めて見るけど、必要な金額を書いて商会に持っていけばたちまち現金に変わる奇跡の紙切れだって聞いたわ」
「い、一応口座にお金がなければ振り出せないので、奇跡ではありませんが……それは我が教会本部の小切手ですから、多少の金額であれば融通がききます」
「でもそんなもの、私たちが受け取ってもいいの?」
「はい。特命宣教師の名に懸けて、全責任は私が負います。その代わり今はあなた方のお力をお貸し下さい。我々の共通の目的のために」
毅然とトビアスがそう言えば、カミラもニッと不敵に笑った。交渉は成立ね、とでも言いたげに。
それから彼女は高々と小切手を掲げる。さっきまですぐそこで争っていた仲間たち、その全員に見えるようひらひらと揺らして、
「ハイ、というわけで小切手いただきましたー! みんな、帰ったら祝杯よ! そのためにもキビキビ働いて、ちゃっちゃと片づけましょ! 私たちの勝利は目の前よ!」
「応!」
カミラの号令を聞いて、一斉に兵たちが沸いた。既に勝利を確信したかのような熱狂。それを見てジェロディは感心する――すごい。あれは故意なのか無意識なのか。とにかくカミラはまんまと話の本題を擦り替えた。
黄帝がどうとか救世軍がどうかとか、今の彼らにとって大切なのはそんなことじゃない。この戦場から無事に生きて帰り、祝勝の宴を開くこと。そしてあわよくばカミラの手料理を食べること。
いつの間にか場の空気がそういう流れになっている。さっきまでの険悪な雰囲気が嘘のようだ。どうしてそういう流れになるのかジェロディには理解しかねるけれど、
(でも、結果としてカミラは僕らを守ってくれたんだよな――)
彼女がそこまで考えた上で突拍子もないことを言い出したのかどうか。付き合いの短いジェロディには分からない。
けれどそのとき、不意にカミラがこちらを向いた。目が合って思わずドキリとする。
彼女はつかつかと、迷いのない足取りで近づいてきた。どうしたのかと身構えていると、目の前に何か差し出される。さっきの小切手だ。
「はい、これ」
「え?」
「これはティノくんが持ってて。私はなくす自信があるから」
「そ、そんな自信満々に……」
「迷惑?」
「い、いや、迷惑ってことはないけど……でも、なんで僕に?」
「だってティノくんならなくさないでしょ?」
「どうしてそう思うの?」
「何となく」
「何となく、って……」
……ますます彼女のことが分からなくなった。何となく、でせっかく手に入れた未記入の小切手を、いつ寝返るともしれない相手に託すのだろうか?
もしそうなら不用心というか、人が好すぎるというか……それこそイークさんが聞いたら激怒するんじゃないかな、と思いながら、ジェロディは最後にもう一度、用心深く尋ねてみる。
「だけど僕が預かったら、逃走資金のために持ち逃げするかもしれないよ?」
「大丈夫よ。そのときは魔界の果てまで追いかけて、パンナコッタ一年分奢らせるから」
「えぇ……」
「それにそもそもティノくんはそんなことしないでしょ?」
「……どうしてそう思うの?」
「何となくよ」
やはり自信満々にそう言って、カミラは笑った。
その笑顔を見た瞬間、ジェロディははたと思う。
……もしかして彼女の〝何となく〟は〝信頼〟の裏返しなのだろうか?
そう考えるのはさすがに自惚れが過ぎるかもしれない。
でも、もしもそうなら――。
何かむず痒いものを覚えながら、ジェロディはついに小切手を受け取った。
やっぱりこれは自惚れかもしれない。でもそんな気がするのだ。何となく。
だからジェロディも彼女を見返して、笑った。
受け取った小切手は、大切に懐へしまう。
「分かったよ。預かる。そして全部終わったら、ちゃんと君に返すから」
その答えを聞いたカミラは、やっぱり嬉しそうだった。
どうしてだろう。
そんな彼女の笑顔が今、ジェロディは無性に懐かしい。