81.マリステアの憂鬱
マリステアはひどくそわそわしていた。
先程からティノが一言も口をきこうとしない。彼とケリー、そしてマリステアの三人がいる部屋の中には重い沈黙が垂れ込めたままだ。
そこはロカンダの地下にある古代遺跡。
かつては古代ハノーク人たちの町だったというその遺跡にはたくさんの建物があって、うちいくつかは大昔の民家のようだった。
マリステアたちは現在、そんな民家の一つにいる。ここならあんまり人も来ないから、とカミラが案内してくれた場所だ。
四方を囲む粗い土壁に、頼りなく揺れる常灯燭の明かり。壁を刳り抜いただけの四角い窓と小さな竃。
数百年前には厨房を兼ねた食堂だったと思しいその部屋の真ん中には木製の方卓があって、マリステアたちはそれを囲むように座っていた。この卓と椅子だけはつい最近運び込まれたものらしく、質素だが決して汚れてはいない。
だけど何だか落ち着かないのは、この静けさのせいだろうか。
そこには確かに生活感が漂っているのに、人の気配がまるでない。あるのは埃っぽい空気と町には似つかわしくない静寂だけ。
日の光もないから薄暗いし、正直言ってかなり不気味だ。少し前に探検したクアルト遺跡とは雰囲気が全然違う。カミラたちは普段こんなところで暮らしていて気が滅入らないのだろうか。自分ならきっと耐えられない、とマリステアは思う。
(やっぱり、反乱なんて企てる人たちの感覚は普通じゃないのかしら)
意味もなく自分の指を弄びながら、そんなことを考えた。
いつもはこんな皮肉を言ったり思ったりしないのだけど、今日はさすがに心がささくれ立っているみたいだ。
だって、マリステアたちはずっと騙されていた。
反乱軍の幹部だというカミラとウォルドに。
彼らは確かにマリステアたちの窮地を救ってくれた。けれどそれは全部この日のためだったのだ。彼らはただの親切で手を差し伸べてくれたわけじゃなかった。本当の目的はティノを味方に引き入れることだった……。
(いい人たちだなって、思ってたのに)
信頼を裏切られた傷は重い。というかこのところ人に裏切られてばかりで、いい加減マリステアは人間不信になりそうだ。
だから本音を言えば、こんなところはさっさと立ち去ってしまいたかった。ウォルドはここならマリステアたちを匿ってやれると言っていたけれど、あの男の話はもう信じない。
色んな理屈や綺麗事を並べ立ててはいたものの、結局彼らの狙いはティノなのだ。反乱軍はティノが持つヴィンツェンツィオの名と《命神刻》を利用しようとしている。マリステアにはそうとしか思えない。
(だから、早く――)
――僕は、反乱軍の仲間にはならないよ。
マリステアはただ一言、ティノにそう言ってもらいたかった。その言葉を聞くためだけに、この息苦しいまでの沈黙にも耐えている。
聡明なティノのことだ。きっと頭の中では既に、反乱軍に入るということがどういうことかちゃんと理解しているだろう。
そんなことをすれば彼は今度こそ本物の反逆者になってしまう。父であるガルテリオを敵に回し、稀代の謀反人として歴史に名を残すことになる……。
なのに彼が何も言わないのは、きっとビヴィオでのことがまだ引っかかっているからだろう。あのときのことはマリステアの胸にもまだ棘のように刺さっている。たぶんこの棘は一生抜けないのだろうな、という予感もある。
だってあの日、ティノはマリステアを守るために罪なき民を手にかけた。
ティノはそれを「君のせいだ」とは言わない。自分の罪として受け止め、背負っていこうとしている。
要するに彼は優しすぎるのだ。だからさっきのフィロメーナたちの言葉にも心を揺さぶられている。民を救いたいと願う彼らの気持ちも分かるから、と。
けれどマリステアは、革命だけが民を救う道だとは思わない。現にガルテリオは己の領地を立派に治め、腐敗の根に蝕まれぬよう心を砕いているじゃないか。
それに、確かにルシーンを追い出すことは難しいかもしれないけれど、彼は彼なりのやり方であの魔女と戦っている。国も民も誇りもすべて守ろうとしている。その辛苦を知らない輩にとやかく言われるのは、はっきり言って我慢ならない。
(ガルテリオさまがどんなお気持ちで戦っておられるのか、知らないくせに)
そう思うと悔しくて、涙が溢れそうになった。血はつながっていなくとも、ガルテリオはマリステアの父親だ。
マリステアは幼い頃、シャムシール砂王国の蛮兵に故郷の村を襲われた。目の前で両親を殺され、自身も砂王国兵に攫われて奴隷として売り飛ばされるはずだった。
そこへ駆けつけ、身を挺してマリステアを救ってくれたのがガルテリオだ。彼は事情を知るとマリステアを憐れみ、養女として迎えてくれた。まるで本当の娘のように、今日まで守り育ててくれた。
(そのガルテリオさまを裏切るなんて……)
自分にはできない、とマリステアは思う。
もちろんティノにだってそんなことはしてほしくない。
(だから、ティノさま)
早く〝こんなところは出よう〟と言って。
マリステアはひたすらに祈った。ティノがダメならケリーでもいい。
いや、何ならもう自分から言ってしまおうか?
フィロメーナだって無理強いはしないと言っていた。それなら――
「――お邪魔してもいいかしら?」
ついに意を決し、姿勢を正したマリステアがすうっと息を吸った刹那。
突然横合いから声がして、マリステアはその息を吐き出すタイミングを失った。見れば扉のない家の入り口に、何か携えたカミラが佇んでいる。
ようやく三人だけになれたと思ったのに、もう戻ってきたのか。マリステアは心が波立つのを感じながらカミラを見た。彼女が手に持っているのは、四角い……トレーだろうか? 上には白い陶器のカップが乗っている。
縁に青いラインが入っただけの、至極シンプルなカップが四つ。湯気が立っているところを見ると、何か飲み物を運んできたようだ。
「カミラ……それは?」
ティノも気がついたのだろう、うつむきがちだった顔を上げるとしばらくぶりに口を開いた。そのことがまたマリステアの胸を掻き乱す――さっきまでわたしたちには一言も口をきいて下さらなかったのに。
なのにどうしてあの人には声をかけるの?
彼女はずっとわたしたちを騙していたのに。ガルテリオさまの仇なのに……。
「一応お客さまにはおもてなしをね。パピュア・ティーはお好き?」
「カミラが淹れてくれたのかい?」
「ええ、そうよ。お口に合うといいんだけど」
――狎々しくティノさまと話さないで。
マリステアは自分の心がどんどん黒く塗り潰されていくのを感じた。
真実を知った今、カミラに対しては敵意と警戒と軽蔑の気持ちしかない。だからこれ以上、自分たちの領域に土足で踏み込まないでほしい。
(これ以上ティノさまを誑かさないで……)
マリステアが膝の上に置いた拳をぎゅっと握っている間にも、カミラは無遠慮に近づいてきて香茶入りのカップを並べた。
陶器の白さによく映える、深い紫色の香茶。パピュアと呼ばれる紫の茶花を煎じたもので、ソルン・ティーやレジェム・ティーと同じくらいポピュラーな香茶の一つだ。
けれど問題は香茶の種類じゃない。彼女が運んできたカップが四つあることだ。
案の定カミラはマリステアたちに香茶を配り終えると、残りの一つを空いている席――ティノの隣――に置いた。そしてまったく躊躇なくその席に腰を下ろす。途端にマリステアはうなじの毛が逆立った。この人、なんて図々しいの!
「さっきはごめんなさいね。イークが物騒なこと言って……」
「いや……あれは気にしてないよ。ビヴィオでのことを思えば当然の反応だろうし」
「ありがとう。でも、それを言うならもっと先に謝らなきゃいけないことがあるわね」
「謝らなきゃいけないこと?」
「黄都からここまで、ずっとティノくんたちを騙してたこと。今更謝っても遅いけど……こんなやり方で連れ込んじゃってごめんなさい」
マリステアの気持ちは更に波立った。そんなのは本当に今更だ。申し訳ないと思う気持ちがあったなら、もっと早くに真実を打ち明けてほしかった。
なのに今頃になって謝られても、マリステアには彼女の保身としか思えない。一応形だけでも謝罪してこちらの機嫌を取ろうと言うのか。
そう考えたら胸がむかついて仕方なかった。こんなに誰かに対して嫌悪を募らせるのは久しぶりだ。
マリステアは拳を握る力を強めながら、じっと目の前の香茶に目を落とした。普段は心を落ち着かせてくれるパピュアの香りも、今は思考を掻き乱す雑音でしかない。
「――マリーさん。そんなに警戒しなくても、毒なんて入ってませんよ」
「……えっ?」
「何なら私が毒見しましょうか?」
と、ときに向かいに座ったカミラが苦笑して尋ねてきて、マリステアは一瞬きょとんとした。……あ、そうか。香茶を睨んでいたから毒殺を疑っていると思われたのか。
いやいや、だけどそう言われてみれば確かにそうだ。この香茶が毒入りじゃないなんてどうして言い切れる?
反乱軍にとってこの場所を知ってしまったマリステアたちは生かしておけない存在のはずだ。現にさっきあのイークとかいう男もそんなことを言ってたし。
それならこの香茶は本当に……とマリステアが青褪めた直後だった。
陶器の触れる音に気づいて顔を上げる。同時に悲鳴を上げそうになった。
何故ならティノがマリステアたちの毒見も待たずに、カップへと口をつけたからだ。
「ティ、ティノさま……!!」
「……。カミラ、これ……」
「どっ、どうされたのですか!?」
「――おいしい」
「えっ……!?」
「これ、すごくおいしいよ。だけどこの酸味は……蜂蜜じゃないね?」
「あ、分かる? 実はそれ、蜂蜜の代わりにレジェム・ジャムを入れてあるの。大陸の北の方ではそうやって飲むのが主流なんですって。ギディオンの受け売りだけどね」
「ギディオン将軍の?」
目を丸くして聞き返したティノの向かいで、ケリーもカップに口をつけた。彼女の方はマリステア同様毒を警戒している様子だったが、その横顔もたちまち驚きに染まっていく。
「……確かにおいしい。てっきり香茶ってのは、蜂蜜を混ぜて飲むものだとばかり思ってたけど……」
「そんな贅沢をしてるのは黄皇国くらいだってギディオンが言ってましたよ。他の国では何も入れずにそのまま飲むか、ジャムやお酒を混ぜて飲むんですって。ギディオンってああ見えてすごく香茶に詳しいんです。だから私も淹れ方を教えてもらって……」
「い、意外だな……あの剣鬼殿が香茶好きとは……」
「香茶というか蜂蜜が好きみたいですけど。どんなに怖い顔をしてても蜂蜜を渡すとにこにこになるし」
「あのギディオン将軍が……!?」
「ていうかカミラ、将軍のことを呼び捨てなんだね……」
「うん。だってギディオンが嫌がるの。自分はもうただの隠居老人だから〝将軍〟なんて仰々しい呼び方はやめてくれって」
「何と言うか、だいぶ丸くなられたのだな、将軍は……ガル様が聞いたら果たして何とおっしゃるか……」
現役時代のギディオンと今の彼を脳裏で比べているのだろう、ケリーは額を押さえながらだいぶ悶々としている様子だった。マリステアは昔のギディオンを知らないから何とも言えないけれど、そう言えば前にガルテリオが、近衛軍時代の上官は特別厳しかったと苦笑していた記憶がある。
あのときガルテリオが言っていた上官というのがギディオンのことなら、きっと当時の彼はとても厳格で恐ろしい人だったのだろう。
けれどそれでもガルテリオは、ギディオンのことをとても尊敬しているようだった。あの方の厳しい指導があったから今の自分がいるのだ、と。
そんな恩師が今では反乱軍に身を置いている……。その事実を知ったらガルテリオはどんな顔をするだろうか。そう考えるだけでマリステアの心はますます翳る。
(これじゃまるで……)
あのときと同じだ、とマリステアは思った。
この国を分断し、多くの人々の絆を引き裂いた正黄戦争。
マリステアはあの戦争で二人目の母を失った。
あんな思いは二度としたくない、と思った。
だから〝家族〟を守るため、右手に水刻を刻んだ――。
なのにまたこの国は分断されようとしている。
大切な家族がバラバラになろうとしている。
現にマリステアたちを逃がすべく囮になったオーウェンやメイド長は……。
そう思うといたたまれなくなって、マリステアは顔を上げた。
このまま流されてはダメだ。唇を引き結んで決意する――言わなくては。
「カミラさん」
「うん?」
「カミラさんは、太陽の村の戦士さまだとおっしゃいましたよね」
「ええ、まあ、一応そうですけど……」
「それなら何故カミラさんは反乱軍に入ろうと思われたのですか? こういう言い方は、その……ちょっと失礼ですけれど、太陽の村はトラモント黄皇国の領土ではありませんよね。なのにどうして関係のない国の事情に干渉するんです?」
「マリー」
咎めるようなティノの声が聞こえたが、マリステアは構わなかった。
たとえティノに嫌われたっていい。それでも自分が守るのだ。
彼のことは、アンジェに託された自分が――
「なら逆に訊きますけど、マリーさんはそこが異国の地なら、目の前で罪のない人が殴られていても助けないんですか?」
「……え?」
「マリーさんも言ってたでしょ。ルミジャフタの戦士は、いつだって弱い者の味方です」
かあっと、たちまち顔が紅潮するのをマリステアは感じた。
――そうだ。今のは愚問だった。彼女はかつて黄祖に〝民を救え〟と告げた神託の村の民。それが黄皇国の現状を無視できるわけがない。
なのに何故あんな訊き方をしてしまったのだろう。彼女が面白半分で内乱に参加しているとでも思ったのだろうか?
(わたし、何て馬鹿なことを)
恥ずかしさのあまりマリステアはうつむいた。今の尋ね方ではただの八つ当たりだ。ままならない現実への苛立ちをカミラにぶつけただけ――。
「――なーんて言えたらかっこいいんですけど、まあ、私が救世軍に入ったのは半分成り行きですね」
「……え?」
「私もウォルドに唆されたんですよ。どうせ国に追われてるなら救世軍に入らないかって。私、ここに来る前はお兄ちゃんを探して一人で旅をしてて……だけど黄皇国のあまりの腐りっぷりに嫌気が射して地方軍の兵士をボコボコにしたら、あれよあれよと指名手配されちゃったんですよねー」
「そ……そう言えばカミラって、お兄さんがいるって言ってたっけ……?」
「うん。だけど四年前に郷を出たまま、ずっと行方知れずで……だから私は救世軍に入ったの。組織の情報網を使えば、お兄ちゃんの消息が掴めるかもしれないと思ったから」
結局今も成果はゼロだけど、と付け足して、カミラは小さく苦笑する。その顔が何だかとても苦しそうで、マリステアは返す言葉を失った。
「あとはまあ、何て言うかその……せっかくイークと再会できたし?」
「イークさんと?」
「うん。イークと私は同郷でね。こう見えて小さい頃から一緒に育ったの。だけどあいつもお兄ちゃんと一緒に郷を出たきり行方知れずだったから……」
「つまりあの男も太陽の村の戦士ということか? なるほど、どうりでビヴィオでは苦戦させられたわけだ……」
「あはは、まあ、イークも剣と神術の腕だけは確かですからねー。剣と神術の腕だけは」
「……そこを強調するのには何か理由があるの?」
「あら、それを敢えて訊く? ティノくんたちなら言わなくてももう分かってると思うけど」
意味深な発言をして、カミラはニヤリと笑った。……つまりあのイークという男は第一印象のとおり気難しくて扱いにくいやつというわけか。
顔はそこそこ整っていたけれど、そう言えば常に眉間に皺を寄せていて、何かこうウォルド以上に近づき難いオーラを放っていた。少なくとも今マリステアが持ち合わせている情報だけでは、彼が笑ったところを想像できそうにない。
「まあ、そんなわけだから私には偉そうなことは言えないんだけど……だけどここへ来て、フィロに出会ってからは心を入れ替えたわ。私もここで彼女のために命を懸けようって」
「……フィロメーナさんのために?」
「うん。救世軍に対するフィロの想いや覚悟を知って……私、この人のためなら死んでもいいって思ったの。あー、いや、でも一番惹かれたのはフィロの人柄かな。優しくて強くて頭も良くて、だけどちょっと抜けてるというか、放っておけないというか……」
そう言って微笑むカミラの眼差しに、マリステアははっと胸を衝かれた。
やわらかくて、温かくて、花の蕾をそっと撫でる春の陽射しのような眼差し。
マリステアはその正体を知っている。
それは人が本当に愛しい者の名を呼ぶときの眼差し……。
「フィロって世間じゃ聖女さまとか救世主とか呼ばれてるけどね。それだけじゃないのよ。こう、なんていうか、崇拝したくなる気持ちも分からないでもないんだけど、そんな超人なわけじゃなくて、私たちと同じ人間で、強いところも弱いところもあって……だけどそれでも人を惹きつける、不思議な人なの」
「……」
「だからもしティノくんたちさえ良ければもう少しだけここにいて、フィロのことをもっとよく知ってほしいっていうのが私の本音。もちろんティノくんたちの立場を考えたら、悠長なことを言ってる場合じゃないっていうのは分かってるつもりだけど……」
「……なら、一つ訊いてもいいかい、カミラ?」
「何?」
「もしも知っているなら、教えてほしいんだ。詩爵家の出身であるフィロメーナさんが救世軍を立ち上げた理由を」
ティノがそう尋ねた途端、カミラの顔色が変わった。
それは驚きとか嫌悪とか、そういう類の変化ではない。
ただただ純粋に、ぱっと彼女の顔に広がっていく――深い悲しみ。
「……そうね。フィロのことを知ってほしいなら、まずそこから話さなきゃいけないわよね。だけどティノくん、一つだけ間違ってるわ」
「間違ってる?」
「ええ。救世軍を最初に立ち上げたのはフィロじゃないの。この軍の初代総帥はジャンカルロ・ヴィルト――黄妃エヴェリーナの甥で、フィロの婚約者だった人よ」




