06.事の始まり ☆
「はあっ、はあっ……!」
息せき切らして、カミラは駆けた。駆けていた。
背後からは怒声と足音が追ってくる。
ガチャガチャガチャガチャ鳴っているのは追っ手たちのまとう鎧の音だ。
あの鎧のおかげでカミラは今も何とか捕まらずに逃げられている。
こういうとき身軽であるということは有利だ。カミラはやたらと重い胸当てやら手甲やら脛当てなんかをつけた黄皇国軍の兵士たちとは違い、生成りのチュニックに臙脂色のケープをまとっているだけ。腰に差した大小の剣と肩に背負った旅嚢はそれなりに重いが、持って走れないほどではない。
「ああ、もう! なんでいつもこうなるのよ……!」
左右を漆喰の建物に挟まれた狭い路地で、カミラは空を仰ぎながら叫んだ。
が、当然ながら訴えを聞き届けてくれる者は誰もいない。苛立つカミラを眼下に見下ろしながら、夏の雲が悠々と頭上を流れていく。……虚しい。
「おい待て、クソガキ! 大人しく捕まれば命だけは助けてやるぞ!」
背後から聞こえてくる品のない怒声に、カミラは顔をしかめて振り向いた。だいぶ距離は離れているものの、後方にはまだ体力自慢の黄皇国兵が五、六人はいる──しつこい!
「誰が捕まるもんですか……!」
カミラは再び前を向き、全速力で駆け出した。
珊瑚色の長い髪が風に靡き、ヒュンッと路地の横道へ消える。
この白亜の町ジェッソを逃げ回ること既に半刻(三十分)。
ことの発端は昨夜にまで遡る。
◯ ● ◯
「──い、いや……いや! やめて下さい……!」
それは町中の灯が落ちた夜半のことだった。月の光も届かぬ路地に、か細い少女の悲鳴が響く。少女は先程から切実に助けを求めているが、寝静まった町は要らぬ火の粉が降りかかることを恐れて我関せずの知らんぷりだ。
白い石畳に転がされ、必死に声を上げる少女の抵抗の先には脂下がった笑みを浮かべた三人の男がいた。彼らは町を守る黄皇国地方軍の鎧を身にまとっていながら、住民である少女を地面に押さえつけている。
「へへへ……おい嬢ちゃん、いつまでも騒ぐなよ。栄えあるトラモント黄皇国の官兵サマがこれから可愛がってやるって言ってんだ、光栄だろぉ?」
「そうそう。日頃魔物や賊どもから町を守ってやってるオレたちに感謝し奉仕するのは、ある意味国民の義務ってヤツだ。なのになんでそんなにイヤがる? 反逆罪で牢屋にブチ込まれたいのか? ん?」
「い……嫌です……お願い、やめて……」
地面に転がされた少女はさめざめと涙を流し、儚げに哀願した。彼女の衣服はもう半分ほども脱がされており、やわらかそうな金髪は乱れに乱れている。
しかし素肌を晒した少女が瞳を潤ませて情けを乞う様は、男たちに憐憫の念を覚えさせるどころか劣情を煽り立てた。彼らは揃って鼻の穴を膨らませると、いよいよ少女の細い脚を隠すチュニックの裾をたくし上げる。
「いやぁっ! やめて下さい! やめて……!」
「うるせえなぁ、今更カマトトぶってんじゃねえよ。お前がさっきまでそっちの路地で男と会ってたのは知ってんだ。夜中に人目を忍んで男と密会するようなアバズレには、こういうのがお似合いだろ?」
「……!」
──見られていた。大きな目を見開いた少女の顔にはそんな絶望がはっきりと浮かび上がっていた。胸もとを晒してうちひしがれた彼女の姿はいやに煽情的で、男のひとりが生唾を飲む。お楽しみの時間だ。
薄い唇の端を吊り上げた男の手がついに少女の胸へと伸びた。いやらしくわきわきとした手が迫ってくる。そうしてそこにある小さな膨らみを、
「はい、ちょっと失礼」
「……!? だ、誰だ──ぶッ!?」
そのときだった。突然後ろから伸びた手が男の肩に触れ、驚いた彼が振り向いた刹那、右頬に何かとんでもなく硬いものがめり込んだ。そこから生み出された慣性に巻き込まれ、彼は路地の脇に積まれた木箱のところまで飛んでいく。
三人の中では一番小柄だったこともあり、男はろくに減速もせず木箱の山へ激突した。当然ながら衝撃で山は崩れ「ぐえっ」と潰れた蛙人みたいな声を上げたのを最後に、彼の姿は落下してきたいくつもの木箱の向こうへ消える。
「お、おい、何だ──ぐふっ!?」
にわかに仲間を襲った変事に、隣にいた男が腰の剣を掴んで振り向いた。
いや、振り向きかけた。
瞬間、男の顔面にすっ飛んできた靴の底が直撃し、剣を抜く暇もなく吹き飛ばされる。二人目の男も背中から木箱の山に突っ込んだ。
二度目の「ぐえっ」が聞こえたのは、たぶん二人目が飛んできた衝撃で木箱の下にいたもうひとりが改めて潰れたからだ。
「だ、誰だお前は!?」
最後に残ったひとりはさすがに飛びずさり、剣を抜いて身構えた。
そんな男の前にゆらり、思ったよりも小柄な影が立ち上がる。
白い石畳の上にくっきりと引かれた、月明かりと暗闇の境界線。
カミラはそこに佇んでいた。
手には鞘ごと引き抜いた自慢の愛剣。先程一人目をぶん殴ったのはその鞘だ。
そこからついに刀身を抜いて、カミラはにこりと微笑みかけた。笑顔の先にいるのはもちろん、剣を握ったまま呆気に取られている間抜けな黄皇国兵だ。
「こんばんはぁ、お兄さん。ちょっと道をお尋ねしたいんですが」
「な……なんだお前……!?」
男は縮み上がったままもっともな疑問をぶつけた。しかしカミラはにこにことそれを無視し、さりげない足運びで男と襲われていた少女の間に割って入る。
「実は私、今し方この町に到着しまして。旅の者なんですけど、今からでも泊まれる宿屋をご存知ありませんか?」
「は……お、お前、ふざけてんのか……!?」
「いやいや、至って本気ですけど? できれば安くて食事がおいしいところだとなおいいです」
言いながらカミラは淀みなく剣先を男へ向ける。
磨き抜かれた刀身がわずかな月明かりを弾いてキラリと光った。
そこそこ腕の立つ者なら、その丹念に磨かれた剣の輝きや隙のない足取りからカミラがなかなかできると気がついただろう。
だが生憎今回の相手はそうではなかった。むしろカミラの時間稼ぎの狂言を挑発だと受け取ったらしく、みるみる頬を紅潮させた。
こんな小娘にバカにされたままでは黄皇国兵の名が廃る──と男が思ったかどうかは定かでない。しかし彼がせっかくのお楽しみを邪魔されたことは事実であり、それが身勝手な逆上につながったこともまた事実だ。
「こ、のっ……ガキの分際で、ナメんじゃ──ねえよっ!」
怒りで我を忘れた男は怒鳴ると同時に剣を振り上げ、地を蹴った。
カミラは内心「あーあ」と思いつつ、素早く一歩踏み出して叫ぶ。
「逃げて!」
鋭い声に打たれた金髪の少女が、路地に座り込んだままびくりと震えた。
直後、暗闇に火花がほとばしり、剣と剣とがぶつかる甲高い音がする。夜の静寂を矢のように貫くその音が、少女を正気に返らせた。彼女はちょっと頼りない足取りで立ち上がると、脱げかけた衣服を掻き合わせ、大通りの方へと逃げていく。
「あっ、おい、待ちやがれ──」
とそれに気づいた黄皇国兵に、カミラはみなまで言わせなかった。瞬間、逃げゆく少女に気を取られた男の懐へ一気に踏み込み、思い切り剣を振りかぶる。
「おやすみっ!」
男の顔に一瞬の絶望が過ぎった。暗闇の中でニヤリと笑ったカミラの顔は、恐らく命を狩る魔物か何かに見えたに違いない。
一拍ののち、鈍い音と悲鳴が聞こえたのを最後に白亜の町ジェッソは静まり返った。夜の静寂がひたひたと、再び町を満たしていく。