77.嵐の前の
あーそうそう、やっぱこれよね、とカミラは思った。
路上で入り交じる鉄や香水や香辛料の匂い。
雑然とした大通り。
怒声、歓声、客呼びの声。
枚挙に暇がないほど様々な人種。
出逢いの町ロカンダのラ・パウザ通り。
その入り口で足を止めて、カミラは「んーっ」と伸びをした。
爽やかな朝の陽射しを浴びながら、思う。
――やっとだ。
やっと帰ってこれた!
「ようやく着いたな。ここがロカンダだ」
行き交う人の流れのど真ん中。
そこで馬を下りたウォルドが、後ろを顧みて言った。
その先では同じく下馬したジェロディたちが、唖然と目の前の雑踏を眺めている。初めてこの町を訪れたとき、カミラもたぶんあんな顔をしていたのだろう。
美神の月、永神の日。その日も日の出を待たず夜営地を出発したカミラたちは、ようよう昇った太陽が教会の時計塔にかかる頃、ロカンダへ入ることができた。
イークから指定されていた期日にギリギリ滑り込んだような形だ。カミラはまず無事に本拠地へ帰ってこれたことに安堵し、次いでこれから巻き込まれるであろう気の重いイベントを思って嘆息する。
「す、すごい……ロカンダって、こんなに大きな町だったんだね……」
「に、賑やかさで言ったら、黄都と同じかそれ以上かもしれませんね……」
そんなカミラの心中など露知らず、初めてこの町へ来たというジェロディとマリステアは感動しきりだった。ケリーは過去に何度か立ち寄ったことがあるというので、それほど驚いてはいないようだけど。
カミラはこれから、この三人を連れて救世軍のアジトへ行く。
もちろん彼らにその事実は話していない。
カミラとウォルドは今も架空の傭兵団の一員を自称している。無論カミラは乗り気じゃないのだけれど、ウォルドにそうしろと念押しされて仕方なく従っているのだ。
(だけどこれ、絶対イークに殺されるわ……)
ジェロディたちが、ではない。
彼らをこの地へ連れてきたカミラとウォルドがだ。
数日前ビヴィオで仲間と民を虐殺したジェロディたちの存在は、言うまでもなくイークの逆鱗だった。彼らにそのつもりはなかった、ということはカミラも先日の話を聞いて理解したが、まあまず怒り狂ったイークがそんな釈明を聞くはずがない。
イークが一度激昂すると手をつけられないことは、幼い頃からの付き合いで嫌というほど分かっていた。彼は元々短気だが、ああ見えて本気で怒るということが滅多にない。だからこそ心底から怒りを爆発させたときが怖いのだ。
だのにウォルドときたら、
「この人混みなら、お前らだけ異様に目立つってこともねえだろ。今時分、頭から外套を被ってるやつなんて珍しくもねえし、何ならちょっと観光していくか?」
などと、えらくのんきなことをのたまっている。何が〝観光〟だ。こっちは不安で胃が捩じ切れそうだというのに!
「あのねウォルド、今はのんびり観光なんてしてる場合じゃないでしょ。そんなことよりさっさと――」
「あ、あの! で、でしたら一箇所、行きたいところがあるのですが……!」
正論を吹っかけようと思ったら、横から遮られてカミラは「えぇ……!?」となった。意外なことに、ウォルドのふざけた提案に乗ったのはマリステアだった。
「そ、その、もしあればで結構なのですが……どこかに人目につかず沐浴できる場所はありませんか?」
「沐浴? 風呂に入りてえってことか?」
「い、いえ、その、わたしが、ではなく、ティノさまに一度お湯を召していただきたくて……黄都からここまで一度も体を洗えていませんし、これから団長さまにお会いするのなら、なおさら身奇麗にしていただきたいのです。ですがあまり人目があるところだと……」
言いながらマリステアがジェロディの右手を一瞥したのを見て、カミラはなるほどと納得した。
今は革の手套で隠れているが、彼の右手の甲には《命神刻》がある。《命神刻》はこの世に二つと存在しない、たった一つの神刻。
そんなものをくっつけて公衆浴場など行こうものなら、あっという間に大騒ぎになることは火を見るより明らかだった。だから人目を忍んで入浴できる場所がほしい、ということだろう。
「いいぜ、そういうことならアテがある。おい、カミラ」
「何よ?」
「お前、こいつらをあそこへ連れてけ。いつも湯を借りてんだ、多少面子が違っても問題ねえだろ」
「えっ……い、いや、それはいいけど、ウォルドは?」
「俺は先に本隊と合流する。お前らが風呂に行ってる間に、こいつらの件、話を通しておくからよ」
カミラは衝撃を受けた。ここからはウォルドと別行動……!?
ということは騙して連れてきた三人の中に一人残されるということか。それは勘弁願いたい。というか嫌だ。無理だ。気まずいことこの上ない。
ここまでの道ではウォルドがいたから間が持ったものの、軍出身のトラモント人たちと一体何を話せばいいのか、カミラにはサッパリだった。このままでは道中の沈黙に押し潰されて、心がプチッということ間違いなしだ。
「あ、あの、ウォルド? だったら私が先に団長のところへ行ってくるから、ティノくんたちの案内はウォルドが……」
「あそこは元々男子禁制だろ。だったらお前が行った方が話をつけやすい」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「それにお前も一遍風呂に入ってサッパリしてえだろ。馬は俺が預かってやるから気兼ねなく行ってこい」
「いやあのちょっと待――」
「じゃあな、ゆっくりしてこいよ」
有無を言わせず、ウォルドは全員分の馬の手綱をつなぐや否や、さっさと町へ姿を消した。結果ジェロディたちと共に取り残されたカミラは、わなわなと肩を震わせるしかない。
――あ、あの男……!
一番難儀な役割を、サラッとこっちに押しつけられた。つまりここからジェロディたちをチッタ・エテルナへ連れていき、フィロメーナと引き合わせるのは自分の役目だということだ。そんな馬鹿な!
元はと言えば、こんなことになったのはあの男のせいではないか。黄都からの道中、カミラがその真意を質すとウォルドは言った。あいつらを救世軍に引き込めれば勝てる、と。
……話はこうだ。ウォルドは国に追われるジェロディたちを匿い、恩を売って救世軍に引き入れようとしている。
理由は単純明快。オーロリー家の次女であるフィロメーナに続き、あのガルテリオ・ヴィンツェンツィオの息子まで救世軍の理念に共鳴したとなれば、よりいっそうの人心が集まるからだ。
救世軍に賛同する民衆の熱狂は勢いを生み、時代のうねりとなり、やがて黄皇国を打倒する力になる。ウォルドはどうやらそう考えているようだった。
おまけにこれはあとから判明したことだが、なんとジェロディは神子だ。生きている間に一人出会えるかどうか、神子というのは本来そういう存在で、そんな天文学的確率の奇跡が今この国で起きている。
それを利用しない手はねえだろ、とウォルドは言った。時勢という名の味方がいよいよ救世軍に合流しつつある。ならば自分たちは享受すべきだと。
確かに神子が味方につけば、これほど心強いことはない。エマニュエルにおいて神の言葉は絶対。そして神子とは神に選ばれし代弁者だ。
だから彼を味方に引き入れてしまえば勝てるというウォルドの理屈は分かる。
けれどそのために彼らを騙して連れていくのか?
果たしてそれが救世軍のやり方か……?
(ウォルドには〝お前は甘いんだよ〟って呆れられたけど……)
でも、そんな卑怯なやり方をフィロメーナが許すはずない。彼女ならジェロディたちと正面から向き合って、正々堂々語り合おうとするはずだ。
それなのに、あの男の悪事の片棒を担いでしまって良かったのだろうか。こんなやり方ではジェロディたちだってかえって反発するのでは……?
「それでカミラ、ウォルドが言ってた〝あそこ〟って?」
と、そのとき渦中のジェロディに尋ねられ、カミラはビクッと一瞬震えた。
次いで壊れたからくりのようにぎこちなく振り返る。そこには何の疑いもなくカミラを見つめる三人のトラモント人がいた。
「え、えーっとそれが、私たちがいつもお風呂を借りてるところなんだけど……」
「そこは公衆浴場とは違うのかい? 何かさっき、ウォルドが男子禁制とか言ってたみたいだけど……」
「え、ええ……ほんとは男の人は入っちゃダメってことになってるんだけど、ティノくんくらいの年齢なら許してもらえると思う。と、とにかく行けば分かるわ。案内するから、行きましょ」
顔が引き攣りそうになるのを何とかこらえて、カミラは笑顔でそう言った。
そうしてくるりと身を翻し、先頭に立って歩き出す。
――ああ、どうしよう。いよいよ胃がどうにかなりそう。
カミラは泣き言を言いたかった。
だけどここまで来たらもう、引き返せない。
◯ ● ◯
ザブン、と肩まで湯に浸かると、無条件にため息が出た。
体の中で凝り固まっていた旅の疲れが、ゆっくりと溶けて流れ出していくような感じがする。こうして湯船に浸かるのはいつぶりだろうか。思えば魔物退治にウォルド探しと、忙しくてひと月くらい縁がなかったかも?
入り慣れた石製の湯船は、ちょうど正方形に近い形をしている。女性だけなら四人くらいは一緒に入れそうな大きさで、そこそこ深い。
膝を抱えて座ると顎のすぐ下まで湯が来るから、おかげで全身温かった。カミラは巻き上げるように結った髪を縁に預け、「はあ~」と大息しながら天井を仰ぐ。
「あ~、生き返る……」
「はは、だろうね。だけど驚いたよ。まさかあんたたちが日頃修道院の風呂を借りてるなんて」
と、ときに頭の上から声がして、カミラはふと視線をやった。するとすぐ横を長い脚がすらりと跨ぎ、湯船へ滑り込んでくる。
カミラに続いてやってきたのは、同じく草色の髪をまとめたケリーだった。彼女は目の前で惜しげもなくうなじの後れ毛を晒しながら、ゆっくりと湯に体を沈めていく。
「この町にも公衆浴場はあるだろ。なのにあんたたちは何でわざわざ、こんなところの湯を借りてるんだい?」
「あー、それはですね……私、公衆浴場ってすごく苦手なんです。故郷にいた頃は家にお風呂があったから、大勢の赤の他人の中に素っ裸で入ってくって習慣にどうしても慣れなくて……」
「だからここの修道女たちに泣きついた?」
「まあ、そんなところです。この修道院のシスターたちは、みんな私たちの活動に協力的で……その、なんていうか、つまり色々な面で援助してくれるんで、とても助かってます」
「あんたはこの教会――金神正教会の信徒なのかい?」
「一応そういうことになってるみたいですね。郷の外の宗教のことはよく分からないけど、前にセンレイ? とかいうのを受けて、ここの信徒にしてもらいました」
「改宗ではなく洗礼……ってことは、太陽の村にはこういう教会や修道院はないってことかい?」
「はい。うちの郷にはコリ・ワカって呼ばれる大昔の遺跡があって、そこが教会というか神殿というか、そんな感じの役割を果たしてるんです。だから教派とか聖典とか、そういうややこしいのはなくて……」
「へえ。いつか行ってみたいね、黄祖フラヴィオが神託を受けた伝説の村に」
「あはは……〝伝説の村〟なんて言っても、行ってみると何もないただのド田舎ですよ」
会話の間が不自然にならないよう気をつけながら、カミラはどうにか笑みを貼りつけた。まさかここで「実はお尋ね者なんで公衆浴場は使えなくって~」などと真実を打ち明けるわけにもいかない。
そこはロカンダの外れにある聖オリディア修道院。
普段救世軍の活動を陰で支援してくれている、金神正教会傘下の女子修道院だった。
金神正教会というのは太陽神シェメッシュを主神と崇める教会で、トラモント黄皇国の国教会である東方金神会に比べるとだいぶ規模が小さい。
どちらも同じ金神系の教会なのだが、何でも東方金神会とは聖典や教義が異なるとかで、組織としてはまったくの別物だ。
その金神正教会に属する聖オリディア修道院は、表に礼拝用の小さな聖堂が併設された男子禁制の修道院だった。毎日聖堂で行われる礼拝には男でも参加できるが、それより先への立ち入りは禁じられている。
そういう掟のおかげもあって、ここはカミラたち救世軍のメンバーが身を寄せるのに最適な場所だった。三十数人いるという修道女たちも皆いい人で、救世軍の理念に賛同してくれている。
それで今回も彼女らの好意に甘えに来たというわけだが、まさかケリーたちから一緒に入浴しようと誘われるとは、誤算だった。
修道院への案内を終えて、自分は彼女たちの湯浴みが済むまで院長とお茶でもしていようと思っていたのに、遠慮することはないと押し切られ、断れなくなってしまったのだ。
(ウォルドの話を聞いて、私たちを信用してくれるようになったのはいいんだけど……)
だからと言ってこんな風に、親しみを込めて接されるのは困る。カミラは鼻の下までお湯に沈めて、しばし難しい顔をした。
ここ数日の付き合いで、カミラも彼女たちの人となりはある程度理解したつもりでいる。ジェロディもケリーもマリステアも、みな誠実でいい人だ。
そう、〝いい人〟。
だから困る。
彼らはカミラの知っているトラモント軍人たちとは違った。
真面目で清廉で、カミラたちと同じくこの国の未来を憂えている側の人間だ。
(軍の中にも、まだこんな人たちがいたのね)
そうとは知らず、カミラはジェロディたちが引き起こしたビヴィオでの一件を責めた。彼らが黄帝の命令で竜を連れ、民を虐殺したのだと誤解してしまった。
あのときのことを思うと、罪悪感で胸が疼く。そして同時に困惑する。
自分たちは今後、彼らのように黄皇国を正そうとする者たちとも戦わなくてはならないのだろうか?
黄皇国の内側にも腐敗を嘆く人々はいるのに、彼らも黄臣だからという理由で命を奪わなければならない……?
「だけど、何だかちょっと運命的なものを感じるね」
「……え?」
「だってそうだろう? 私は運命論とか精霊とか、そういうスピリチュアルなものはあまり信じないタチの人間なんだけどね。今回ばかりは、さすがの私も神のご意思とやらを感じずにはいられないよ。神子となったティノ様の前に突如現れたのが、かつての太陽神の神子フラヴィオを支えた太陽の村の戦士だなんてね」
依然膝を抱えたまま、カミラはズキリと胸が痛むのを感じた。
――違う。本当はそんなんじゃない。
彼女たちは誤解している。
自分はジェロディを助けるために現れた神託の戦士なんかじゃない……。
「あのときあんたが私たちの前に現れたのは偶然か必然か……私が入会している東方金神会の司祭なんかは、〝この世のすべては神のご意思に導かれしもの、そこに偶然は存在しない〟なんてよく説教してるけどね。ずっと眉唾ものだと思ってたその話を、少しは信じる気になったよ」
「……だけど私、ティノくんにひどいこと言いました」
「ひどいこと?」
「ビヴィオでのこと。ティノくんも他の腐れ軍人どもと同じで、自分の名誉や保身のために民を虐殺したんだろうって……ずっと、そう思ってて」
「ああ……まあ、だけどそれはある意味真実だからね。だからティノ様も否定しなかったろう?」
「真実?」
「そう。私たちはあの戦いの真相を知ったあとも公表をためらった。そんな真似をすればヴィンツェンツィオの名に傷がつくと思ったからさ。そしてガル様やティノ様の信用まで地に落ちれば、いよいよこの国は終わりだと……」
「……」
「だけどそれも無駄な足掻きだったのかもしれないね。この間のウォルドの話を聞いて、さすがの私もそう思ったよ」
――こんなことになるのなら、臆せずビヴィオの真実を明かせば良かった。
ケリーは何もない石の壁を見つめながら、自嘲気味にそう言った。
そんなケリーの横顔が、ますますカミラの胸に刺さる。
この人たちは、やっぱり自分の知る軍人たちとは違う……。
「それはそうと、マリー。あんた、いつまでそこでそうしてるつもりだい?」
「ひっ……!」
と、ときにケリーが振り向いて、まだ湯船の外にいるマリステアに声をかけた。
見れば彼女は浴室の隅っこで、前を隠してしゃがみ込んでいる。てっきりまだ体を洗い終えていないのだろうと思っていたが、実はさっきからそうやって、こちらの様子を窺っていたらしい。
「いつまでもそんなところにいると風邪ひくよ。あんたも早く湯に浸かったらどうだい」
「あっ、あああああああのっ、でもっ、や、やはりティノさまより先にお湯をいただいてしまうのは気が引けると言いますか……!」
「そのティノ様が先に入れとおっしゃったんだから、別に気にすることはないだろう。主命だよ。あんたはそれに背く気かい?」
「う、うぅ……で……ですがわたしはその、ケリーさんやカミラさんみたいに、スタイルが……良くないので……」
「何言ってんだい。別に女しかいないんだから気にすることないだろ」
「わ、わたしは気にしますぅ!」
湯気に見えつ隠れつしながら、泣き出しそうにマリステアは叫んだ。そんな風に言われるとつい気になって、カミラは隣のケリーを眺めてしまう。
……女性にしては日に焼けてる方だと思ってたけど、脱ぐと意外に白いのね。
まず初めにカミラが思ったのはそれだった。しかしその一方で、ケリーの体はいかにも歴戦の戦士らしく引き締まっている。
きゅっと絞られた足首やうっすらと割れた腹筋……まるで戦うために生まれてきたと言っても過言ではないような、洗練された体つき。それでいて女性らしさを失っていないのは、つまりなんというかその……アレだろう。うん。
そこでカミラはつい自分の胸元へも目を落とす。これは大きくも小さくもない方だと自負してきたが、まさにそのとおりだ。マリステアよりは大きいけれど、ケリーに比べたら小さい。そんな感じ。
加えてカミラも一応は戦士だから、余計な肉は可能な限り削ぎ落とされている。マリステアはそれを見て〝スタイルが良い〟と言ったのだろう。
彼女は決して太っているわけではないものの全体的にふっくらとしていて、どこをつついてもやらわかそうだ。おまけに肌も白いから、何となく六聖日のお祭りで見かけた綿飴とかマシュマロとかいうお菓子を連想してしまう。
「なんていうか……あれですよね。マリーさんて食べたらおいしそう」
「たっ、食べる……!?」
「あ、すみません訂正します。おいしそうというか、抱き心地が良さそうです」
「だっだっ抱き心地……!?」
「ああ、それ、何となく分かるね。抱き枕にしたら気持ち良さそうだ。あ、抱き枕と言えばこの間、遺跡で罠に落ちたときティノ様が……」
「わーっ!! わーっ!! その話はやめて下さいぃ!!」
罠に落ちた? とカミラが首を傾げている間に、悲鳴を上げたマリステアがいきなり湯船へ飛び込んできた。
かと思えば彼女はそのまま鼻の上まで沈み込む。そうして真っ赤になっている彼女を見て、ケリーが可笑しそうに笑った。
「相変わらずあんたは扱いやすいね、マリー」
「ケリーさんひどいです……」
「そんなに恥ずかしがることないだろ。むしろ名誉だよ、あのときはあんたのおかげでティノ様がお怪我をせずに済んだんだから」
「そういう問題じゃないです! それはその、ティノさまにお怪我がなかったことは何よりですけど、あんな破廉恥な……破廉恥な……!」
「あれは不可抗力さ。だいたい変な空気になったのはあのジェイクとかいうエセ考古学者のせいで……そう言えばあの男、今はどこで何をしてるんだろうね」
「ま、まったくです! わたしたちを散々ひどい目に遭わせておきながら、自分は真っ先に逃げ出すだなんて……! 元々胡散臭い人だと思ってはいましたけど許せません! 次に会ったら絶対に文句を言ってやります……!」
目の前を行き交う二人の会話を聞きながら、ジェイクって誰だろう、と、カミラはぼんやり考えた。胡散臭い男で、誰よりも真っ先に逃げ出した?
……。
(それを言うなら私はともかく、ウォルドも相当胡散臭いと思うけど)
おまけに彼も真っ先に逃げ出した。ジェロディたちを救世軍のアジトへ案内するという、最も憎まれそうな役をカミラに押しつけて。
思い返すと腸が煮え繰り返りそうだったが、今は脇に置いておく。問題はこの修道院を出たあとのことだ。
あまり観光気分で町をぶらつくわけにもいかないから、用が済んだら今度こそ彼らをチッタ・エテルナへ連れていかねばならない。
だけど本当にそれでいいのだろうか?
やはり彼らには真実を話すべきではないのか……?
(……この人たちなら、わざわざ騙さなくたってフィロの話を聞いてくれるんじゃないかしら)
――そうだ。彼らはフィロメーナと同じくこの国の腐敗を嘆いている。ならば立場は違えど同志だ。そんな相手をフィロメーナは拒まない。
それならジェロディたちは? 彼らだってこの国の現状をもっとよく知るために、彼女の話を聞いてみたいと思うのではないだろうか?
その後救世軍に加わるかどうかは、彼らが選んで決めるべきだ。
恩を売りつけて退路を塞ぎ、無理矢理仲間に加えるなんて、やっぱり救世軍のやり方じゃない――。
「あ……あの、ケリーさん――」
「――さて、それじゃあ私はそろそろ上がるよ。もう十分温まったし、あまりティノ様をお待たせするわけにもいかないからね」
そのときだった。やはり真実を話すべきだと切り出したカミラの言葉は、大きな水音に掻き消された。
湯の中からケリーが立ち上がり、浴槽を出たせいだ。その音に遮られ、カミラの言葉は彼女に届かなかったらしい。ケリーは短く「お先に」と言うと、日に焼けた肩に手巾を下げて、浴室をあとにする。
「あ、でしたらわたしもそろそろ上がります。カミラさんはどうされますか?」
「え……あ、ああ、じゃあ私も、上がります……」
尋ねてきたマリステアに、尻すぼみになってそう答えた。
すっかり出鼻を挫かれて、カミラはぎゅっと口を噤む。
何だか胸がモヤモヤした。
◯ ● ◯
この世に偶然は存在しない。
すべては神の意のままに。




