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76.神に背く者

 見れば見るほど奇妙な組み合わせだな、とジェロディは思った。

 ものの美醜をたとえる言葉に〝美女と野獣〟というのがあるが、この二人はまさにそれだ。

 まず、あの伝説の村ルミジャフタの出身であるというカミラ。彼女はちょっとびっくりするほど見目が整っている。歳を訊くとまだ十七だというので、美女というよりは美少女といった感じだが、気を抜くとその造形美に見惚れてしまいそうだ。


 ジェロディも生まれて初めて見る、燃えるような赤い髪。女性らしさを残しつつ、しっかりと鍛え抜かれた体つき。意思の強さを窺わせる鼻筋に、ぱっちりとした空色の瞳。普通に笑っているだけでぱっと周りが明るくなるような、そんな華やかな外見だ。


 それでいて、そういう自分の容姿を鼻にかけたような素振りもない。というか彼女はたぶん、自分が美少女と呼ばれる類の人間であることに気がついていないのだろう。

 そのせいか性格がちょっと、何というか、つまり少々アレなのだが、良く言えばハッキリしていて付き合いやすい。ほんの少しだけ、もったいないな……という気がしなくもないけれど。


 他方ウォルドと名乗った大男の方は、一言で表現するならデカい。とにかくデカい。そこそこ長身のケリーも見上げるほどの大きさで、並べば先日別れた竜父と同じかそれ以上だろうと思われた。

 加えて体中が分厚い筋肉で覆われており、傍に立たれると威圧感が尋常じゃない。極めつけが右頬に走る裂傷の痕だ。


 もうずいぶん古いもののようだが、いわおのような図体とその傷が近づき難さを助長している。言動が飄々としているおかげでどうにか打ち解けられたものの、これがもし寡黙で無愛想な男だったなら、さすがのジェロディもついていくことを躊躇したことだろう。


 で、だ。そんな珍コンビとでも呼ぶべき美女と野獣は、現在ジェロディの目の前で大喧嘩している。

 いや、訂正しよう。より正確に状況を伝えるなら、あれは喧嘩ではない。カミラが一方的に怒り狂っているだけだ。ロカンダから持ってきた六日分の食糧が、一瞬にして底を尽いたという理由で。


「――だいたいね!? 昼間銀貨二枚分も飲み食いした人が、よく平気な顔で残り四日分の食糧を食べ尽くせたわね!? 少しは恥じらいとか遠慮とか反省ってもんを知らないの!?」

「しょうがねえだろ、夕方あれだけ派手に暴れたんだから。動けば動いた分だけ腹が減る。それが自然の摂理ってもんだ」

「あんたの胃袋は間違いなく摂理に反してますけどね!!」


 という具合に、カミラは今にも掴みかからんばかりの勢いだが、ウォルドの方は地面に寝そべったまま欠伸まで漏らしている。そんなウォルドの態度がますます火に油を注ぎ、カミラを苛立たせているようだ。


(この二人、仲が悪いのかな……)


 と、焚き火の向こうで繰り広げられる一方的な舌戦を見ながらジェロディは思う。カミラはとにかくウォルドが憎たらしくて仕方ないようだし、対するウォルドは振る舞いを見るに、カミラのことなんてどうでもいいと思っているかのようだ。


(でも、さっきの憲兵隊との乱戦……)


 あれはとにかく見事だった。何せあの裏路地にウォルドが現れた瞬間、場の流れが劇的に変化したのだ。

 それはウォルドが並外れた腕前の戦士だから――ではない。カミラとウォルドの卓越した連携技があったからだ。


 彼らの戦場での呼吸は、見ていて感動するほどピッタリと合っていた。お互いの足りないところを補い合う、そんな彼らの戦い方が次々と憲兵を薙ぎ倒し、ジェロディたちを救ってくれた。

 あんな芸当は、お互いがお互いを信頼していなければ不可能だと思う。つまりカミラとウォルドの間には固い絆が通っているということか。


(……とてもそうは見えないのが、ますます謎だ)


 ――深更のエオリカ平原。つい三刻(三時間)ほど前、無事に黄都を脱出したジェロディたちはロカンダへ至る間道へ入り、四〇ゲーザ(二〇キロ)ほど南へ下ったところで夜営していた。


 真冬の深夜帯ということもあり、吐く息がいちいち白い。しかし雨が止んでくれたことが不幸中の幸いだ。

 とりあえず最初の危難は去った。憲兵隊は今もジェロディたちが都内に潜伏していると思っているだろうから、二、三日は捜査を攪乱できるだろう。

 気になるのは屋敷に残してきたオーウェンと使用人たちのことだ。彼らも無事に憲兵隊の追及を乗り切っていればいい、と思う。


「ティノさま」


 と、不意に名を呼ばれ、ジェロディは思案の海から顔を上げた。

 振り向けばすぐ傍でマリステアが微笑んでいる。その手には湯気の立つ銅製のマグ。ジェロディは少し驚いて、マリステアを見返した。


「この香り……レジェム・ティーだね。結局茶花を持ってきたの?」

「はい。何せ外はこの気温ですから、凍えてしまったらいけないと思って……体が温まるように、蜂蜜もたっぷり入れました。ティノさまもこれで――あ」


 と、そこまで言いかけて、マリステアははたと気がついたようだった。

 そう。今のジェロディは《命神刻ハイム・エンブレム》のおかげで凍えない。

 現に今も、吐く息こそ白いが体は寒さを感じていなかった。さっき黄都でそう聞かされたのを思い出したのだろう、マリステアはたちまち焦り出すと、すぐにマグを引っ込めようとする。


「あ、あの、申し訳ありません……! わたしったら、つい――」

「いいよ、マリー。その一杯、もらうよ」

「で、ですが……」

「僕のために淹れてくれたんだろ? ありがとう」


 マリステアが気に病まないように、ジェロディは努めて笑顔で言った。すると彼女は泣きそうな顔になりながら、おずおずとマグを差し出してくる。

 ――そんな顔しなくてもいいのに。

 ジェロディは内心苦笑しながら、温かいマグを受け取った。銅製のマグなので本来は熱いくらいだろうが、《命神刻ハイム・エンブレム》を隠すためにしている手套のおかげでちょうどいい。


 そっと口元へ持っていくと、爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。けれど香茶を口に含んだ途端、レジェムの花独特の酸味も蜂蜜の甘さもサッと色褪せていく。

 ……やはり自分の味覚はかなり鈍くなってしまったようだ。だけど、それでもこのマグを――マリステアの気持ちを温かいと感じられることだけが唯一の救いだ、と思う。


「あの、よろしければケリーさんもいかがですか?」


 と、ときにマリステアがすぐ横で、ケリーにも香茶を勧めた。じっと焚き火を眺めていたケリーはそこでふと我に返ると、「ああ、ありがとう」と少しぎこちない笑顔を浮かべる。

 その反応がいつものケリーらしくなくて、ジェロディは不安になった。さすがの彼女も昼間からの騒ぎで疲れているのだろうか。それとも、黄都に何か心残りがあるとか……?


「ケリー、大丈夫かい? 疲れてるなら、僕のことは気にせず休んでいいよ」

「あ……いえ、申し訳ありません、ティノ様。そういうわけではなく……少し、考えていました。西門を抜けたときのことを」

「ああ……」

「ティノ様もご存知のとおり、ソルレカランテの市門を守っているのは中央第一軍の兵士たちです。彼らは近衛軍にも劣らぬ精鋭中の精鋭……ならば当然、憲兵隊などとは比べものにならないほど風紀も引き締められていると思っていました。それがちょっと鼻薬を効かせた程度で、あんなに簡単に……」


 ケリーの言わんとしていることは、ジェロディにもよく分かった。それはもう頭が深く考えることを拒絶するほど。

 黄都でウォルドが言っていた〝この国で一番確実な方法〟。

 なんとそれは賄賂だった。彼は都の市門を守っていた兵に金を渡して、こっそりと門を開けさせたのだ。


 渡したのは金貨一枚といくつかの酒。これはジェロディたちが手持ちから支払ったものだが、ウォルドの馴染みだという兵は一金貨シール握らされると途端に相好を崩し、門衛だけが使える専用の門を開けてくれた。顔を隠したジェロディたちに誰何すいかすることもなく、「いつもどおり上には黙っておきますから」と笑ってそう言っていた。


 そのときジェロディたちが受けた衝撃たるや。この国の腐敗は表層的なものではなく、かなりの深部まで達している。

 ジェロディはその事実に打ちのめされた。何かの間違いだと思いたかったが、門を抜けるときに覗き見た詰め所で衛兵たちが酒盛りしているのを見た瞬間、一縷いちるの希望をも打ち砕かれた。


 都内では黄帝暗殺を企んだ大罪人が逃走中と騒がれているのに、門衛たちは飲めや歌えやの大騒ぎ……。

 酒の匂いが漂う詰め所の机に散乱していたのは、たぶん牌合わせドゥームの牌だろう。数人で机を囲んで熱狂していたところを見ると、賭けでもしていたのか。


 とにかく、おかげでジェロディたちは無事黄都を出ることができたが、その過程で知ってしまったことを思うと気が塞いだ。信じていたものに次々と裏切られ、何だか世の中のものが皆信じられなくなりそうだった。

 現に今も、窮地を救ってくれたカミラとウォルドの二人を信用しきれずにいる。彼らは戦いの腕こそ確かだが、果たして本当に味方なのかどうか……。


 それでも彼らに従うことを決めたのは、ジェロディたちの当座の目的地もロカンダだったからだ。試しにロカンダまでついていってみて、やはり怪しいようならすぐに船を掴まえ逃走しよう。それが三人で話し合って出した結論だった。

 まあ、無傷で黄都を出られたのは彼らのおかげだし、脱出ののち、近郊の農家と交渉して格安で馬を手に入れてくれたことにも感謝している。


 ウォルドが交渉に立ち、値切りに値切って買ってくれた三頭の馬は、いずれも農耕用の老馬だった。人を乗せるため調教された馬ではないので、あまり速くは走れない。

 けれど徒歩かち以外の移動手段が手に入ったのは僥倖だった。遅いと言っても人が歩くよりは速いし、荷も積める。カミラとウォルドもそれぞれ自分の馬を連れているから、これなら間道でも四日程度でロカンダへ移動できるだろう。


「まあ、そんなに落ち込むなよ。黄皇国軍の凋落は今に始まったことじゃねえ、もう何年も前からこうなんだ。中でも黄帝直属部隊の形骸化が著しいってのが、何とも皮肉な話だがな」


 と、向かいから声をかけてきたのは、依然枯れ草に寝そべったままのウォルドだった。あれだけカミラに怒鳴られていたくせに、どうやら耳はこちらの会話へ向いていたらしい。


「で、ですがガルテリオさまの軍隊には、あんな下卑た人たちはいません……! ガルテリオさまのご親友であるファーガスさまやシグムンドさまの軍だって……」

「ま、俺は軍人じゃないんでその辺のことはよく知らねえがな。黄都の軍の腐敗が顕著なのは、要するに平和ボケだろ。前の内乱からもう八年も経ってる上に、最近はエレツエル神領国も大人しいからな」

「……確かに、その意見にも一理ある。他軍と違って黄都の軍勢は、よほどのことがない限り出動しないからな……」

「その間にすっかり世代交替しちまって、実戦を知ってるやつが激減してるってわけだ。今のままじゃ、最近巷を賑わせてる救世軍とやらにも負けるかもな」

「……ウォルドさんたちが所属している傭兵団は、確か四百人くらいの規模だって言ってましたよね?」

「ウォルドでいい。まあ、うちの団の人数はだいたいそんくらいだな」

「その本隊が今ロカンダにいるって話でしたが、あの町に滞在している理由は何ですか? 黄皇国軍に売り込みに来た? それとも……」

「今はまだ日和見だ。このまま内乱が激化するのか、あるいは黄皇国がここから立て直すのか。その間は近隣の魔物退治なんかを請け負ってる。近頃内乱の影響で、魔物が増えてるって話なんでな」

「だけど、地方の治安維持は地方軍の仕事じゃ……?」

「地方軍がそんなに仕事熱心なら、こっちだって苦労しねえよ。なあ、カミラ?」


 頬杖をついたウォルドからそう話を振られても、カミラは半眼のまま彼を睨み続けている。その眼差しにはウォルドへの非難がありありと乗っていたが、やがて深いため息をつくと、彼女は諦めたように口を開いた。


「まあね、少なくとも私は地方軍がまともに仕事してるところなんて見たことないわ。実際、そのせいでこの間もメリ村が壊滅したばかりだし」

「えっ……む、村が壊滅……!?」

「そうよ。去年、トラジェディア地方から消えたアルバロ村と同じ。魔物に襲われたの。二百人くらいいた村人のうち、生き残ったのは百人足らず。私たちも知らせを受けてすぐに駆けつけたけど、間に合わなかった」


 無力感を噛み締めるようにカミラは言い、ジェロディは信じ難い話に凍りついた。村が壊滅。生存者は半分以下。そんなことが去年から続いている……。


「だ、だけど、このあたりの治安は地方軍だけじゃなく、黄都守護隊も守っているはず……確か今は定期的に警邏の部隊を出してるって、シグムンド将軍が……」

「運悪く、その警邏部隊が通過した直後に襲われたのよ。だけど同じように地方軍からも巡回の兵が出ていれば、きっと防げた厄災だった」

「そんな……」


 地方軍の怠慢を責めるような、棘のあるカミラの言葉。それが胸に深く刺さって、ジェロディはうつむくことしかできなかった。

 民を守る盾であるはずの軍が、この国ではもはや機能しなくなっている……。だからこそカミラたちのような傭兵が食い扶持を稼ぐにはもってこいなのだろうが、軍の威厳は損なわれていくばかりだ。


「だけど厄災って言ったら、ビヴィオでの件もそうよね」

「え?」

「私も仲間から聞いたわ。ビヴィオであなたたちが戦った反乱軍の中には、郷守の圧政に耐え兼ねて決起した農村の民もいたって。あなたたち、それを虐殺したんでしょ?」

「おい、カミラ」


 胸に刺さったままの棘を、更に深く打ち込まれた。カミラからの明確な敵意を感じて、瞬間、ジェロディは言葉に詰まる。

 ……そうか。彼女はジェロディたちの窮地こそ救ってくれたが、あのときはまだ自分がジェロディ・ヴィンツェンツィオだと打ち明けていなかった。ならば彼女の態度が黄都を出る前と出たあとではあからさまに違うのも、無理からぬことだろう。


「そ、そんな、虐殺だなんて……! あのときわたしたちは、あの町の郷守さまが悪い人だなんて知らなくて……!」

「いや、君の言うとおりだよ、カミラ。僕たちは黄帝陛下の名の下に、反乱軍と共にいた民を虐殺した。……だけど今は、過ちだったと思ってる。大きすぎる過ちだ。〝知らなかった〟なんて言い訳は通用しない」

「ティ、ティノさま……!」


 マリステアが隣で困惑しているのが分かった。一方、カミラはそんなジェロディの反応が意外だったのか、少しばかり面食らっている。


「ごめん、マリー。だけど僕は後悔してるんだ。あのとき、罪なき民をこの手にかけてしまったこと……僕は父さんから受け継いだこの剣で、守るべき民を……」

「で、ですがティノさまは反乱軍の中に民が紛れていると知って、すぐに戦いを止めさせようとしたじゃありませんか……! あんなに必死に、ご自分の身も顧みず……!」

「でも、結果として僕はあの郷区の民を殺めた。地方軍の暴走をすぐに止めることができなかった……あれ以来、ずっと〝どうしたら償えるだろう〟って考えてるんだ。だけど軍から追放されてしまった以上、それも……」


 詩爵家嫡男という地位も、近衛軍士官という肩書きも失ってしまった今、自分があの郷区の民のためにしてやれることは何もない。そう思うとますます胸が塞いで、ジェロディはそれきり口を噤んだ。

 自分の愚かさのツケが回ってきているのだ、と思う。

 ジェロディはこの八年、分厚い城壁の内側で安穏と暮らし、貴族として最低限のものではあるけれども、贅沢な生活を送っていた。自ら汗水を垂らして働くこともなく、常に父やマリステアたちに守られ、何不自由なく暮らしてきた。城壁の向こうでは多くの民が飢えて苦しんでいるとも知らず――知ろうともせず。


 これは罰なのだと思う。

 《命神刻》はそんな自分の愚かさを暴くために宿ったのだと。

 神とは常に残酷なほど正しいと、昔どこかで聞いたことがある。その言葉もまた真理だ。自分はあの有名な神話に登場する傲慢な王子――物乞いの苦しみを知ろうともしなかったヘヴェルと同じ。

 だからハイムはジェロディを選んだ。

 古代の王子と同じ過ちを犯そうとしている愚か者を戒めるために。


「それなんだがよ。あんたら、黄帝暗殺を目論んだってのは濡れ衣だっつってたよな?」

「それはもちろんそうだ。私たちは誓って陛下をしいする計画など立てていない」

「けどよ、火のないところに煙は立たねえって言うだろ。そんな嫌疑をかけられるってことは、何かそれなりの理由があったんじゃねえのか。でなきゃあのガルテリオ・ヴィンツェンツィオの身内を謀反人に仕立て上げるなんて不可能だろ?」

「それは……」


 と言い淀んで、ケリーが一瞥を向けてきた。まあ、それも当然だ。何せ理由を話すなら、必然的にジェロディが神子であることを打ち明けなければならない。

 だがこの二人は、その事実を打ち明けていい相手かどうか……。

 神子とはただ崇められるだけの存在ではない。中には籠絡して力を利用しようと目論む人間もいる。あるいはルシーンのように、殺して大神刻グランド・エンブレムを奪おうと企む者も……。

 この二人はそんな邪な人間ではない、とは言い切れない。今は友好的な態度を見せていても、ジェロディが神子と分かれば掌を返すかもしれない。


 けれどジェロディは、賭けてみよう、と思った。


 少なくとも彼らはこの国の民のために戦ってくれている。

 黄皇国の現状に憤ってくれている。

 そんな人たちなら、信じてもいいのではないかと思った。

 それで裏切られたのなら、自分の人を見る目がなかったということだ。


「理由はこれ・・だよ」


 刹那、ジェロディは右手に嵌めていた革の手套を外し、その甲を焚き火の明かりに翳した。マリステアとケリーが息を飲むのが分かった。

 と同時に、カミラとウォルドも目を見張っている。

 この暗夜にあって、ほの青く輝く銀の《星樹ラハツォート》。

 世に知らぬ者などいない、生命神ハイムの神璽みしるし――。


「え……そ、それって……それってもしかして、大神刻……!?」

「そう。これは《命神刻》――僕は生命神ハイムに選ばれた神子だ」

「そ、んな……み、神子なんて、ほとんどお伽噺みたいなものだと思ってたのに……!」

「僕もそうだよ。だけど実際に選ばれた。ビヴィオで反乱軍と戦ったあとに調査へ向かった、古代ハノーク人の遺跡でね」


 揺れる炎に照らされながら、カミラが絶句していた。無理もない。これが逆の立場だったなら、きっとジェロディも彼女とまったく同じ反応をしていただろう。

 だがそのとき視界の端で、ウォルドがついに体を起こすのを捉えた。そちらへ目を向けて、少し驚く。

 ジェロディの正体を知っても、ウォルドは至って冷静だった。いや、内心では彼も驚いていて、それが顔に出ていないだけかもしれない。けれど、


「なるほどな。そういうことか」

「え?」

「あんたらを嵌めたのはルシーンだろ。ルシーン・メーツ・アシュタラク」


 ジェロディは耳を疑った。

 ――ルシーン? この男は今〝ルシーン〟と言ったのか?


「あ、あんた、どこでその名前を……」

「何、あの女とは俺もちょっとした因縁があってな。正確にはあの女の下僕・・にだが」

「げ、下僕って……もしかしてマクラウドやランドール?」

「いや? そいつらは知らねえ。だがあの女が大神刻を求めて、世界中を転々としてるってことは知ってる。なるほど、あの女はその《命神刻》が喉から手が出るほど欲しいだろうな。だからあんたらを嵌めた。謀反人として神子を処刑し、ティノの右手から大神刻を剥ぎ取るために」


 ――すごい。


 ジェロディは呆気に取られた。この男は《命神刻》を見せただけでそこまで理解できてしまうのか。いや、それだけルシーンとの因縁が深いということ……?

 どちらにせよ、彼の洞察力が並外れて鋭いことは間違いない。その証拠に隣のカミラは、まだ話を飲み込めない様子でどぎまぎしている。


「ちょ、ちょっと待ってよ、そのルシーンって誰? もしかして、今の黄帝をたぶらかしてるって噂の……?」

「ああ、そうだ」

「だ、だけどその人、所詮は黄帝の愛人でしょ? お妃様でもないのに大将軍の身内を勝手に謀反人にするなんて、そんなこと可能なの?」

「可能なんだよ、それが。情けないことに我々黄臣の中にはルシーンに靡く者が多くいて、あの女は今や宮中でかなりの発言力を持っている。さっきティノ様が挙げたマクラウドやランドールというのは憲兵隊の最高幹部だが、そいつらもルシーンの狗だ。だからあの女は憲兵隊を利用して、私たちを謀反人として検挙することができた。それでなくともルシーンは、自分に従わないガル様を失脚させたくて仕方がないようだったしね」

「なるほど。つまりティノを罪人に仕立て上げれば、父親のガルテリオ・ヴィンツェンツィオも排除できて、あの女にとっちゃ一石二鳥だったってわけか」


 呆れ果てたようにウォルドが言い、ケリーがそれに頷いた。この男はいちいち話が早くて助かる。カミラの方はまだ困惑している様子だったけど。


「だけど、ルシーンが大神刻を求めて世界中を旅してるなんて話は初耳だよ。あの人はどうしてそこまでして大神刻を……?」

「さあな。さすがの俺もそこまでは知らねえ。だがあるいはあの女の目的は、大神刻を――神の魂を破壊することかもな。何せルシーンは、魔界と通じてる」

「え……?」

「城では上手く隠してるんだろうがな、あの女はれっきとした魔女だ。その証拠に魔物を意のままに操ったり呼び寄せたりできる。それにあの女に昔から仕えてる下僕どもも全員魔人の類だ。邪神と契って不老の力を得た死霊使いカニバル殺戮者ブッチャー……そのせいかあの女を受け入れた国はことごとく滅ぶ。北のパルタ大王国や、南西大陸のシャマイム天帝国みたいにな」


 ジェロディはまたも耳を疑った。ルシーンが魔女? 不老不死? パルタ大王国やシャマイム天帝国を滅ぼした――?

 そんな馬鹿な。ジェロディの記憶が確かなら、シャマイム天帝国が滅んだのは今から四十年も前……パルタ大王国に至っては六十年も前の話のはずだ。

 つまりルシーンは当時から生きている? あの若く妖艶な姿のままで?


 それが事実だとすれば、彼女が魔女であることを証明する何よりの証拠だ。

 邪神と契った者の血は黒く染まり、その血が契約者に不老の力をもたらすという話は有名だから。


 ならば黄皇国は、懐深くに魔女や魔人を飼っているということ……。

 魔のものどもを受け入れるということは、神に対する最大の裏切り。

 それを思えば、国が滅ぶのも当然というものだ。背信は眠れる神々の怒りを買い、加護と慈悲とを最も遠ざけるものなのだから。


(それじゃあ、そのルシーンに政治の中枢を握られているこの国は――?)


 茫然と座り込んだジェロディの全身から、サーッと血の気が引いていった。喉が震えて、声を絞り出すこともできない。


「ま、そういうわけだ。その大神刻をあの女に渡しちまったら、何が起きるか分かったもんじゃねえ。こいつは急いでロカンダまで行く必要がありそうだ。あんたらはもう休みな。見張りは俺とカミラでやる。夜明け前には出発だ」


 ウォルドに促され、ジェロディはどうにか頷いた。

 けれどそれ以上は何も言えないし、何も考えられない。

 ケリーもマリステアも、青褪めた顔で言葉を失っていた。

 冬の風に吹かれた焚き火が、不安定に揺らめいている。

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