73.最高の一日
冬の雨は、思った以上に冷たかった。
黄砂岩の街並みが灰色に沈んでいる。
黄都ソルレカランテ。
石造りの家々が建ち並ぶその街を、カミラは馬を曳いて歩いていた。
ロカンダを発ってから、二日目の夕方。
夜も寝ず、馬がバテたら自ら歩き、ようやくここまで辿り着くことができた。
だのにこの仕打ちは何だ。
カミラは顔を隠す意味も兼ねて赤いケープのフードを被っているのだが、それでも寒い。刺すように冷たい雨が容赦なく全身を叩いている。
隣でうなだれながら歩いている馬も、白い息を吐いてとても寒そうだ。カミラは途中何度も愛馬の首を摩ってやりながら、久方ぶりに訪れる黄昏の都を見渡した。
(……人がいないわ)
この雨のせいだろうか。初めて訪れたときには腰を抜かしそうなほど大勢の人々で賑わっていた通りが、今日は不気味なほどガランとしている。
聞こえるのは激しい雨音だけ。行き交う人々の足音も、客呼びの声も、馬車の車輪が石畳を噛む音も聞こえない。異様な雰囲気。
カミラは通りの先、彼方にある巨大な尖塔をふと見やった。この国の腐敗の因である黄帝の居城。〝黄金の城〟とも讃えられる名城ソルレカランテ城。
ところが中でもいっとう高い塔の向こうで空が光り、雷鳴がしていた。
――何だか嫌な予感がするんだけど……。
かつて感じたことがないほど重く不穏な空気の中で、カミラがわずか眉をひそめた、そのときだ。
「向こうだ、向こうを探せ! 屋敷にヤツはいない! 街中を隈なく捜索するんだ……!」
降りしきる雨の向こう、突然そんな怒声が聞こえて、カミラははっと足を止めた。とっさに馬の陰に隠れつつ目をやれば、少し先を数人の男たちがバタバタと横切っていく。
その腰には剣。それにあの肩から斜めにかかった赤い綬は。
(憲兵隊……?)
途端にカミラは緊張を覚えた。前にこの街へ連れてこられたとき、イークから聞かされたことがある。黄都の治安を取り締まる黄帝の直属部隊。それでいて贈収賄や不当逮捕の温床になっているという、腐敗の象徴のような組織……。
あいつらにだけは気をつけろ、とイークには言われた。たとえ正当な理由がなくとも目をつけられたら最後、執拗に追い回されて黄都から出られなくなる、と。
それでなくともカミラは既にお尋ね者だ。この悪目立ちする赤い髪のせいで、救世軍に入ってほどなく官軍に目をつけられた。
たぶんその辺を探せばフィロメーナやイークのものと一緒に、似顔絵つきの手配書が出回っているはずだ。
(何だかやばそうなことになってるわね……)
フードの端をきゅっと引っ張り目深に被り直しながら、カミラは内心舌打ちした。さっきの様子から察するに、憲兵隊は現在誰かを探して市内を走り回っているらしい。
街中に人の姿が見当たらないのは、恐らくそのせいだろう。この街に住む者は誰もが憲兵隊を恐れている。こう言うと少し大袈裟だが、たとえばちょっと目が合っただけで罪人の烙印を押される――憲兵隊とはそういう組織なのだ。
そんな連中があちこち走り回っているとなれば、迂闊に出歩けない。この雨の中、まったく人気のない街を一人でうろついていたら、あっという間に彼らに目をつけられてしまうだろう。
それを回避するためには、まず馬をどこかに預けなければ。自分一人ならいざというとき物陰に飛び込んで身を隠せるが、彼が一緒では不可能だ。カミラはゆっくりと瞬きしている愛馬の首を抱いてやる。
「来て。あなただけでも雨を凌げる場所に行きましょう」
それからカミラはまっすぐに、街の中心部を目指した。そのあたりには多くの商店と宿屋が集まっている。
そこであまり派手でなく、どちらかというと質素だけれど、何となくゆったりしていて居心地が良さそうな宿に目星をつけた。ウォルドがそういう宿を好む傾向にあることは、過去二回の捜索で学んでいたからだ。
「ごめんください」
『ミード亭』。そう書かれた看板の下に馬をつないで、カミラは宿の扉を潜った。扉の向こうには住み慣れたチッタ・エテルナより一回りほど小さなロビーがあって、奥に長机のような帳台が見える。
「いらっしゃい! お一人様? この雨の中よく来たね」
大声で迎えてくれたのは、その帳台の向こうにいた大柄な女だった。広い肩幅に逞しい二の腕、そして豪快に髪をまとめるバレッタ。いかにもちゃきちゃきの女将といった感じで話しやすそうだ。女にしてはちょっと大きすぎるけど……。
「すみません、厩を借りたいんですが」
「はいよ。馬房一つにつき一泊二青銅貨だけど、構わない?」
「はい。それでお願いします」
「数は?」
「一頭です」
「じゃ、この鍵を使いな。ただし今、馬の世話をさせてる息子が留守でね。悪いんだけど、餌やりとかは自分でお願いできるかい? 厩にあるものは全部自由に使っていいから」
「ええ、それで大丈夫です。ありがとうございます」
コテコテのトラモント訛りと、いかにもこの国の人間らしい気さくさの女将に微笑んで、カミラは二枚の青銅貨を差し出した。引き換えに小さな鍵を受け取りながら、ふと左手を顧みる。
その先には扉のないアーチ型の出入り口があって、大勢の人間の話し声と熱気が溢れていた。どうやらあっちは酒場を兼ねた宿の食堂のようだ。入り口からちょっと中を覗いただけでも、かなりの数のお客がぎゅうぎゅうに詰まっているのが分かる。
「ああ、ごめんね。向こうは今満席で」
「……まだ夕飯には早いのに、ずいぶん賑わってるんですね」
「まあね。ウチの自慢の蜂蜜酒が評判だからってのもあるけど――一番はこの雨と憲兵隊だよ。お嬢ちゃんもここまで来る途中に見なかった? やつら今、街中を走り回ってるだろ」
やっぱりそれか。内心そう思いながら、カミラは小さく頷いた。
つまりあの食堂に集まっている人々は、雨と憲兵隊を避けて隠れているということだ。たぶんどの宿の食堂も今はあんな感じなのだろう。
「だけど、一体何があったんです? こんな雨の中、憲兵隊が総出で駆けずり回ってるなんて……」
「さあね、あたしも詳しいことは知らないが、何でも城で謀反人が出たとか言ってたよ。お客さんから聞いた話じゃ、黄帝陛下のお命を狙った不届き者だとか。それで血眼になって逃げたそいつを探し回ってるみたいだね」
「黄帝の命を……?」
へえ、そんな剛気な人間がいるならぜひ会ってみたいですねとは言えず、カミラは口元が緩みそうになるのをこらえた。どうせまた憲兵隊お得意の誇大喧伝だろうが、もし本当に黄帝暗殺を試みた勇士がいるのなら拍手を送りたい。
「ま、そんなわけだから、お嬢ちゃんも外を歩くときは気をつけな。というか、ほとぼりが冷めるまではあんまり歩き回らない方が賢明だよ」
「そうですね、気をつけます。あの、ところでもう一つお尋ねしたいんですけど……」
「何だい?」
「実は私、人を探してこの街へ来たんです。名前はウォルドって言って、歳は二十七歳、右頬のこのあたりに大きな傷のある……そう、たぶん女将さんより大きい大男なんですけど」
カミラが自分の顎から右頬のあたりをなぞってそう言うと、ときに女将が目を丸くした。いや、それは単に驚いたというより〝血相を変えた〟と表現した方が的確かもしれない。
かと思えば女将は突然身を乗り出し、帳台越しにガッとカミラの両肩を掴んできた。そのあまりの形相と素早さに、思わず「ひっ」と悲鳴が出る。
「お嬢ちゃん! あんた、その大男とはどういう関係だい!?」
「えっ……か、関係と言われましてもその……知人以上友人未満と言いますか……」
「つまり身内ってことだね!?」
「え、えーと、そういう言い方もできなくはない、です……」
「ああ、良かった! 実はついさっき、ウチはその大男にまんまと食い逃げされてね! この雨でろくに探せやしないし、大弱りしてたんだよ!」
瞬間、カミラに衝撃が走った。雷が直撃したような衝撃だった。
――食い逃げ。タダ食い。無銭飲食。
ああ、うん。それはつまりアレだ。
間違いなく、ウォルドだ。
「まったくあの大男、食堂で五、六人分もメシを平らげたかと思ったら、部屋に財布を忘れたとか言って取りに戻ってね。だけどいつまで経っても下りてこないもんだから妙だと思って様子を見に行ったら、まあなんと窓からトンズラしてやがったってわけさ!」
「へ、へえ……そ、それはとんだご迷惑を……」
「これが迷惑なんてもんかい! あれだけ飲み食いしといてお代を払わないってんじゃ、こっちは大損だよ! そんなわけで悪いんだけどね、お嬢ちゃん、仲間の誼ってことであの大男の代わりにお代を払っていってくれるかい?」
「え!?」
「締めて四十青銅貨。何なら銀貨二枚でも構わないよ」
カミラに二度目の雷が落ちた。女将は未だカミラをがっちり捕まえたまま、にっこりと微笑んでいる。その笑顔から漂う有無を言わせぬ威圧感……。
だがちょっと待て。四十青銅貨ってどういうことだ。一回の食事で銀貨二枚分って。ありえないでしょ。いや無銭飲食している時点で人として大いにありえないんだけど、それにしても。だって銀貨二枚もあったらちょっとした宝石が買えるんですが? 何してくれてんの、あの筋肉ダヌキ!
「で、どうするんだい? 払うのか、払わないのか」
「え……え、えっと……そのですね、仲間がご迷惑をおかけしたことは平に陳謝しますが、あの、つまりその、手持ちが……」
「ないのかい?」
カミラは必死でこくこく頷いた。実を言うと財布の中にはカールが用意してくれた路銀――銀貨七枚――が入っているのだけれど、こんなことで無駄にしたくない。というか払いたくない。なんであのアホの代わりに私が――
「そうかい……残念だよ。それじゃ、お嬢ちゃんには悪いけど――銀貨二枚分、ウチで働いていってもらおうかね」
「ハイ! 大変申し訳ございませんでした! 謹んで支払わせていただきます!」
カミラは瞬時に二銀貨支払った。それから宿を飛び出すと、雨の中健気に待っていた愛馬を厩へ入れ、鞍を下ろし、体を拭いてやってから猛然と街へ繰り出した。
あの男、あの男、あの男!
今日という今日こそは許さない。堪忍袋の緒が切れた。何がなんでも見つけ出して、その顔面に炎の拳を叩き込んでやる。もちろん比喩じゃなく、本当に燃える拳でギタギタにしてやる。
フハハハハ……!と悪魔のような笑い声を上げながら、カミラは雨の中を突っ走った。雨の冷たさとか、澱のように溜まった疲労なんてどこかへ吹き飛んでいた。
とにかくあの女将の証言で、ウォルドがまだこの街にいることは分かった。だとすれば希望はある。きっと見つけられる。
いや、見つけてやる。必ず。この恨みと鬱憤を晴らすために!
「ああ、もう! ほんっとムカつく、あのアンポンタン……!」
人にこれだけの苦労を強いておきながら、今ものうのうとどこぞをほっつき歩いている男。そもそもあの男が言葉どおり六聖日のあとに戻っていればこんなことにはならなかったし、イークだってあんな目に遭わずにすんだかもしれない。
そう思うと腸が煮え繰り返って、カミラは何かに当たり散らしたい衝動に駆られた。ふと見ると道端に小石が落ちている。
――これだ!
そう思った瞬間にはもう左足を振り上げていた。助走の勢いをすべて乗せ、雨避けが外れるのも構わず、哀れな石ころを思いっきり蹴り飛ばす。
「ウォルドのアホーーーっ!!」
吹き飛んでいく石に向かって、カミラは叫んだ。この雨だし、人気もないし、今なら多少好き勝手しても許されるだろうと、そう思った。
ところが美しい放物線を描いて飛んだ石が落ちた先に、
「――ゴッ……!?」
ちょうど、飛び出してきた人影があった。
石は見事その人物の横顔に直撃した。
「あ」と声を上げた刹那、気づく。
崩れ落ちた人物の肩。
赤い軍綬。
……あれ? もしかして?
「おっ、おい、どうした!? 大丈夫か!?」
「い……今、何か顔面に……」
「血が出てるぞ! 一体何が起きたんだ……!?」
「あ、あっちの方から、何か……」
そう言って顔の右半分を押さえたその人物が、ゆっくりこちらを指差した。指先は震えていたが、彼のまとっている衣服はどこからどう見ても憲兵隊の軍服だった。数人の憲兵が振り返る。
目が合った。それはもうばっちりと。
「そ、そこの女! お前か、さっきの石を蹴ったのは……!?」
「いや……おい、ちょっと待て。あの女、どこかで……」
考え込んだ憲兵の一人が、ふとカミラとは逆の方向を顧みた。そこには小さな商店があって、壁に数枚の掲示物が貼り出されていた。
その中に、カミラとよく似た女の手配書がある。
憲兵たちが、もう一度こちらを振り向いた。
カミラはにこりと笑みを刻む。
「最高の一日になりそうね」




