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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第2章 ジェロディという少年
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70.凍える雨

「――ティノ様、こちらへ!」


 先導するケリーの呼び声に従い、狭い路地へ飛び込んだ。

 そのまま奥へ、奥へとひた駆ける。響くのは雨音と自分たちの足音、そして弾む息遣いだけ。


 ソルレカランテ西区。無事に屋敷を脱け出したジェロディたちは、ケリーの案内でかつて彼女が暮らしていたという居住区へ逃げ込んだ。

 西区は伝統あるソルレカランテの中でも特に古い街並みだ。景観法が成立する前にできた区画だから、大小様々な家々が乱雑に建ち並び、景色がやけにでこぼこしている。おまけに道が入り組んでいて狭い。一人で迷い込んだならすぐに方角を失っていただろう。


 だが今はケリーがいる。彼女はヴィンツェンツィオ家に引き取られてからも度々このあたりを訪れていたようで、土地勘は確かだ。

 その案内に従って、ジェロディたちはなるべく人目につきにくい路地を渡った。このまままっすぐ西を目指せば、市街地の外へ出られる西門がある。


 しかし門まで無事に辿り着けたとして、問題はそこからだった。

 ここまで来る間にも何度か目にしたが、今は街中を憲兵隊が走り回っている。

 彼らの目的は、言わずもがなジェロディだ。あの様子では街の四門を守る衛兵にも知らせが行っているだろう。〝逃走中のジェロディ・ヴィンツェンツィオを見つけ次第、確実に捕らえよ〟と。


(各門に配置されている兵力は百程度……しかも市門の警備は近衛軍と同じ陛下直属部隊――中央第一軍の管轄だ。簡単に突破させてくれるような相手じゃない。また何か策を講じないと……)


 降りつける雨を顔に浴びながら、ジェロディは暗い空を見上げる。屋敷を出てから既に半刻(三十分)は経っただろうか。

 天候のせいもあり、今日は日没が早かった。今も十分暗いが、あと少しであたりは完全な闇に沈むだろう。


(暗くなればその分、身を隠しやすい。だけど代わりに気温が下がる……)


 今は走り通しで寒さを感じないだろうからいい。だが市門を抜ける見通しが立たず、立ち往生する羽目になったらどうなるか。

 ……間違いなく動けなくなる。

 それどころか下手をすれば、ケリーたちは凍死だろう。


 どこか暖炉のある部屋で温まりながら策を練れるなら話は別だが、今のジェロディたちはお尋ね者だ。憲兵隊だってこちらが逃げ込む先として宿屋なども想定に入れているだろうし、逃げ場のない屋内に長居するのも得策ではない。


 ――僕たちはこれからどうしたら……。


 白い息を吐きながら、ジェロディはきつく拳を握り締めた。

 ところが刹那、背後で不審な物音を聞く。まるで大きな何かが水溜まりに落ちたような、「ビシャッ」という音。

 そこでふと立ち止まり、ジェロディは後ろを顧みた。

 どんどん明度を失っていく路地の真ん中で、マリステアが膝をついている。


「マリー……!?」


 ジェロディが上げたその声で、ケリーも異変に気がつき引き返してきた。とっさに走り寄った先ではマリステアが体を丸めて、荒い息をついている。

 どうやら体力の限界が来たようだった。軍人になるべく訓練を重ねてきたジェロディやケリーと違って、マリステアは走り慣れていない。

 そんな状態で半刻も走り続けたなら、体が言うことを聞かなくなって当然だろう。彼女は苦しげに息をつくと、雨音の中、切れ切れに言う。


「だ……大丈夫、です……ティ……ティノさま、は、お先に……」

「何言ってるんだ、君を置いてけるわけないだろ」

「で……ですが、このまま、じゃ……どんどん、状況が……っ」


 雨が降りしきっているので分からない。

 けれどたぶん、マリステアは泣いているのだろう。

 それは己の不甲斐なさに対する憤りゆえか、あるいは先が見えない不安からか。

 どちらにせよ、彼女をこんな事態に巻き込んだのは自分だ。ジェロディは唇を噛むとすぐにマリステアの体を支え、傍にいるケリーを仰ぎ見る。


「ケリー、どこか近くに休める場所はない? できれば屋根があって人目につかないような……」

「分かりました。探してきます」

「で、ですが、ティノさま……!」

「いいんだよ、マリー。僕もそろそろ一度休もうかと思ってたんだ。何せこのまま西門へ行ったって、脱出する手立てがない。どこかで雨宿りするついでに、何か方策を考えないと」


 あまり気に病ませないように、ジェロディはできる限り優しい口調でそう言った。するとマリステアは涙を溢れさせながら、消え入りそうな声で礼を言う。

 ほどなくケリーが軒のある民家を見つけてきてくれて、ジェロディたちはそこに身を寄せた。軒下にはちょうど細い隙間があって、空き樽だの木箱だのが放置されている。


 ジェロディはマリステアと共に、そうした荷物の陰に隠れた。ケリーは二人を送り届けると、「偵察に行ってきます」と告げて元来た道を引き返していく。

 この雨のせいか、居住区だというのに人通りはまったくなかった。しばらくの間、雨音だけが聴覚を支配している。

 ところが不意に、隣で「くしゅんっ」とくしゃみが聞こえた。見れば膝を抱えて小さくなったマリステアが震えている。


「マリー、大丈夫かい?」

「は、はい……申し訳ありません、ティノさま。早速足を引っ張ってしまって……」

「それはいいって言ったろ。マリーは何でも気にしすぎだよ」

「そ、そうでしょうか……? あ、ありがとうございます……」


 口では礼を言いながら、しかしマリステアはしゅん……と更に小さくなった。ジェロディはそんなマリステアを見て笑いながら、そっと手を握ってやる。

 隣から驚きが伝わってきた。けれど今は、こうしていたい。


「ティ、ティノさま……?」

「寒いだろ?」

「は……はい……とても……ティノさまは大丈夫ですか?」

「ああ、僕は平気」

「でも、ティノさまもこんなに濡れて……」

「そうなんだけどね。……不思議な感じなんだ。どうやら神子っていうのは、暑さも寒さも感じないものらしい」


 はっとしたように、マリステアが常磐色の両目を見開いた。けれど余計な心配をかけたくなくて、ジェロディはへらりと笑う。

 ――妙だ、と気がついたのは、城から屋敷に戻った直後のことだった。登城するときは緊張していて意識が向かなかったが、どうも自分は眠気や食欲だけでなく、外気の寒暖も感じられない体になったらしい。

 その証拠に、今もこれだけずぶ濡れになっているというのに、ジェロディはまったく寒気を感じていなかった。それどころかあれだけの距離を走っても、息一つ乱れていない。


 同じだった。

 濡れ鼠になって屋敷へ駆け込んだあのときと。

 

 たぶん、死ぬ心配がないからなのだろうな、と思う。

 暑い寒い、疲れた苦しいという感覚は、言わば人間の肉体が発する警告だ。これ以上無理をすれば倒れるとか、生命の危機に瀕するとか、体は本能的にそれを察知して抑止力をかける。

 けれど神子は心臓を貫かれるか、首を刎ねられない限り死なない。だから体がそういった警告を発する必要がないのだろう。

 そんな風に、冷静に自己分析してみる。

 けれどマリステアは、また泣き出しそうな顔をしていた。


「ごめん。何だか僕だけ楽な思いしちゃって」

「そ……そのような、ことは……」

「でも、確かに体は楽なんだけど……代わりに胸が苦しいよ。君たちをこんなことに巻き込んでおきながら、僕は同じ苦しみを感じられない。痛みを分かち合えない……そう考えると、神様って実は薄情なのかもしれないね」


 だってこれが〝神になる〟ということなら、彼らは人間ひとの感じる痛みや苦しみを理解できないということじゃないか。

 ジェロディがぽつりとそう漏らせば、マリステアが不意に肩へ顔を埋めてきた。


 ――温かい。


 そうして彼女が流す涙の温かみを感じられることだけが、今のジェロディにとって唯一の救いだ。


「ティノ様」


 そのまましばし休んでいると、足音を忍ばせてケリーが戻ってきた。視界の妨げになるからだろうか、いつの間にか外套のフードを外して、頭からずぶ濡れになっている。


「ケリー、どうだった?」

「運良く通行人を掴まえることができたので、話を聞いてきました。それによると憲兵隊は、やはり四門を封鎖したようです。今のままでは黄都を出ることは難しいでしょうね……」

「そ、そんな……」


 話を聞いたマリステアが、震えた声で呟いた。ジェロディもこの展開は予想していたものの、現実として突きつけられるといささか滅入るものがある。

 現状では、黄都脱出は不可能。ならばほとぼりが冷めるまで身を隠すか、あるいは誰かの協力を仰ぐしかない。


 だがこの状況で誰を頼れば?

 事情を話せばきっと助けてくれるであろうファーガスやシグムンドは領地へ帰ってしまっているし、上官のハインツは近衛兵だ。

 彼を信頼していないわけではないものの、上司と部下の関係になってからまだ日が浅い。そもそも薄からず皇家の血を引くという彼が、反逆者の汚名を着た自分を匿ってくれるだろうか……?


「――ティノ様!」


 ジェロディがそんな物思いに耽っていた、そのときだった。

 突然鋭い呼び声がして、意識を現実に引き戻される。

 雨音が戻ってきた。

 視線を上げた先ではケリーが再びフードを被り、背中の槍を抜いている。

 はっとして耳を澄ませた。

 誰か来る。駆け足で――導かれるように、こちらへまっすぐ。


「ティ……ティノさま……!」


 怯えきったマリステアが、とっさに身を寄せてきた。

 ジェロディは彼女を背に庇い、腰の剣へ手をかける。


 動悸が早まった。

 今すぐ逃げるべきか否か?

 ダメだ。頭が回らない。


 ――どうする?






                              (第2章・完)

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