69.必ず、また
竈神祭のやり直しをしているみたいだった。
廊下という廊下を、使用人たちが右へ左へ行き交っている。ある者は山ほどの衣類を抱えながら、またある者は食糧袋を携えながら、あれはどうした、これは向こうへなどと声を上げ、忙しく走り回っている。
その喧騒を少し遠くに聞きながら、ジェロディは自身の衣裳室にいた。
そこで姿見を前に、カチリと腰の革帯を締める。淡黄色の襟巻きを巻いてくれたのはメイド長だ。
マリステアは西への逃避行に同道することになったため、自身の身支度へ行かせた。ケリーやオーウェンも今はそれぞれに出立の準備をしているはずだ。
「これでよろしゅうございますか、若様」
「ああ、ありがとう。狩猟用に作った軽装があって良かったよ」
「本来は狩猟用であっても、トラモント貴族であればもう少し見映えがするのをお召しになるものですが」
言って、メイド長はちょっと冷ややかな目でジェロディを見る。現在ジェロディはびしょ濡れだった軍服を脱いで、褪せた朱色の上着に黒っぽい脚衣という何とも地味な格好でいた。
脚衣の裾は長靴の中にすっぽりと収め、可能な限り動きやすいようにしている。それはほとんど狩りに行くときと大差ない格好だったが、容赦なく苦言を呈されてジェロディは思わず苦笑した。
「ですが今回は、若様の貴族嫌いが幸いしましたね」
「メイド長、あなたは最後まで変わりませんね」
「何故変わる必要が? すぐにまた元の日常が戻ってくるというのに」
いつもと同じ平板な声でそう言って、メイド長は濡れた衣服をまとめた。そんな彼女を鏡越しにふと見やり、ジェロディは苦笑を微笑へ変える。
ほどなくすぐ傍の衣装掛けへ手を伸ばし、愛用のバンダナをするりと取った。金細工がしゃらしゃらと鳴るのを聞きながら、手早く頭へ巻きつける。
ところがそれを見たメイド長が、鏡の向こうで複雑な顔をした。彼女は改めてジェロディの後ろに立つと、数瞬黙ってから口を開く。
「若様。無粋を承知で申し上げますが」
「何だい?」
「その被り物はいささか目立つので、荷に収めていかれた方がよろしいのでは?」
「ああ、僕もそう思ったんだけどね。だけどさっきのあなたの言葉で思い出したんだ」
「思い出した?」
「うん。そう言えばこのバンダナは十年前、屋敷から逃げ出すときに母さんがくれたものだったなって」
「……そうでございましたね」
「だから、これを身につけていれば何だか上手く行くような気がするんだ。実際、十年前も無事に逃げられたし」
「験担ぎ、でございますか」
「そういうこと」
言いながら、ジェロディは母の形見を頭の後ろできゅっと結わえた。実際はこの上に更に外套を被ることになるから、そこまで目立つということもないはずだ。
そうして改めて鏡を覗くと、十年前のことがまざまざと思い出された。
――〝いきなさい〟。
母の言葉がリフレインする。
行ってきます、母さん。
雨に濡れた窓を――その先にあるはずの墓地を顧み、ジェロディは胸の中でそう呟いた。そんなジェロディを背後から見つめて、メイド長が言う。
「若様」
「うん?」
「どうかご無事で」
ジェロディは彼女を振り向いた。これ以上は不安にさせまいと、笑う。
「あなたもね、ヴァネッサさん」
敢えてそう名前で呼ぶと、メイド長はちょっと驚いたようだった。
けれどすぐ表情を打ち消して、深々と一礼する。
「それでは、わたくしは下の様子を見て参りますので」
「ああ。頼んだよ」
濡れた衣服を携えて衣裳室を出て行く彼女を、ジェロディは見送った。ほどなく近くの椅子に置かれた下着類を抱え、自らも寝室へ引き返す。
窓辺に置かれた円卓には、誰かが用意してくれた油紙がたくさん置かれていた。必要なものはそれに包んで革袋へ詰める。他にも自分の部屋にあるもので、売れば金になりそうなもの――なおかつあまり嵩張らないもの――は迷わず包んだ。
正直言って、今回の旅路はかなり厳しい。ジェロディが出奔したとなれば、すぐに全国の関所へ伝令が走って、見つけ次第捕らえよとの触れが出されるだろう。
それらの関所を避けることは可能だが、そうなると街道が使えない。街道が使えないとなれば、かなりの回り道をして西を目指すことになる。
通常グランサッソ城までの道のりは片道三ヶ月ほどだが、今回はその倍はかかると見ておいた方がいいだろう。そうこうしている間に父と擦れ違わなければいいけれど……と思いつつ、ジェロディは旅嚢の口をぎゅっと締める。
「ティノ様、準備整いました。我々はいつでも出発できます」
そのとき部屋の扉が開いて、旅装に身を包んだケリーとオーウェンが姿を見せた。肩には荷物、背中にはそれぞれの得物を背負い、二人とも覚悟を決めた顔つきをしている。
ジェロディもそれに頷いて、椅子に掛かっていた革の外套を手に取った。
あとはこれを被って屋敷を出ればいいだけだ。ふと部屋の置き時計へ目をやれば、光神の刻(十七時)までまだ若干の余裕がある。
「食糧は?」
「持ちました。とりあえず十日分。保存のきくものをメイドたちが用意してくれましたので」
「十日もあれば、どこかしらの町や村には辿り着けるよね?」
「ええ。まずは街道を迂回しつつ、南のロカンダを目指そうかと思っております。あの町は人通りが多いので身を隠しやすい。馬なら四日の距離ですし、情報を集めるのにも最適でしょう」
「西を目指さなきゃならないのに南へ行くの?」
「ロカンダはベネデット運河沿いの町です。船を使えばすぐにタリア湖へ出ることができる。もっとも客船は出ていないので民間の商船を掴まえることになりますが、定期船の出る港は軍の監視下に置かれるでしょうし、かえって好都合です」
「そっか、船か……確かに陸路で西を目指そうと思ったら、マクランス要塞を通らないといけないもんね」
「ええ。しかもあの要塞はアルコ川を渡る橋梁を兼ねていますので、避けようと思ったらどのみちタリア湖を渡るしかありません。唯一懸念事項があるとすれば、最近タリア湖を荒らしている湖賊の存在ですが……」
「ライリー一味だろ? やつらには皇女殿下も手を焼いてるって話だからな。せめて俺たちがタリア湖を渡り切る間は大人しくしててくれるといいんだが」
ライリー一味か……と、ジェロディは二人の話を聞いて、ちょっと顎に手をやった。その名はジェロディも知っている。何でも元は西のラフィ湖を根城にしていた一味らしいのだが、近頃は東のタリア湖にも出没し、軍の輸送船や商船を手当たり次第襲っているのだという。
当然ながら国もそれを問題視し、皇女殿下率いるトラモント水軍を討伐に当たらせているものの成果は芳しくないようだ。それどころかライリー一味はタリア湖を縄張りにしていたマウロ一味を吸収し、最近ますます手がつけられなくなっているらしい。そんな連中に襲われたら確かに厄介だな……と、ジェロディが微かに眉を寄せたときだ。
「――お、お待たせしましたっ……!」
部屋の外から声がして、皆がそちらを振り向いた。と同時にぎょっとする。
そこには旅の支度を整え、駆けつけたマリステアの姿があった。ところがその荷物の量が尋常じゃない。
こう譬えると何かアレだが、マリステアが背負った荷物袋はぱんぱんに膨らんで、ランドールみたいな大きさになっていた。重量も見た目相応らしく、前屈みになった彼女はふらふらと頼りない足取りでいる。
「ま、マリー、何だいその大荷物!?」
「え? な、何と言われましても、外はこのお天気ですし、傘とか毛布とか代えの外套とか……あ、あとお料理に使う調理道具一式と、ティータイムのための茶花と焜炉と……」
「そ……そんなにたくさん、この短時間でよく用意できたね……」
「はい! アベラやべティが手伝ってくれたおかげです。ですがケリーさんやオーウェンさんは、ずいぶんお荷物が少ないんですね……?」
心底不思議そうな顔をしているマリステアを見て、ジェロディたちは文字どおり三者三様のため息をついた。
アベラとべティというのは、マリステアと特に仲がいいメイドのことだ。しかし彼女らもマリステアの荷造りを手伝うくらいなら、その前に外套の下のメイド服をどうにかするよう忠告してほしかったのだけど……。
「マリー……とりあえずその荷物の中から必要最低限のものだけ取り出してくれる? 小さい袋に移すから……」
「えっ。で、でも、鍋やおたまがなかったらお料理ができませんし、ティータイムも……」
「当面は料理もティータイムも必要はないよ。そもそもそんな大荷物を背負ってちゃ、逃げるに逃げられないだろ? それとも君は一人だけ逃げ遅れて、僕らに置いていかれてもいいのかい?」
「すっ、すぐに言われたとおりにいたします……!」
置いていかれるという一言がよほど効いたのだろう、マリステアはその場でバッと姿勢を正すと、慌てて背中の荷を下ろした。中身をぶちまけ、そこから選り分けた荷物を別の旅嚢へ詰めていく。
そうこうしているうちに、時刻が光神の刻を回った。
一階ホールに置かれた振り子時計が鐘を鳴らす。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
十七回。
そろそろ時間だ。そう思い、ジェロディが荷を提げて立ち上がったところで、階段の方から駆けてくる足音が聞こえる。
「ジェロディ様!」
やってきたのはマリステアと同じメイド服をまとった娘だった。顔面は蒼白で、今にも卒倒してしまいそうな表情をしている。
「どうしたの?」
「そ、それが、お屋敷の前に武装した人たちが大勢……! たぶんあれは憲兵隊だと思います。その中の一人が、今すぐジェロディ様を出さなければ武力行使も辞さないと……!」
「何だって!?」
――遅かった。
ジェロディがぞっと立ち尽くすのと同時に、オーウェンが駆け出した。
そうしてすぐさま身を屈め、廊下の手摺に身を隠す。その下は吹抜けになっていて、玄関ホールが見渡せるのだ。
彼はそこから下の様子を窺うと、ほどなく引き返してきた。かと思えば舌打ちし、苦々しい表情で言う。
「間違いない。あの声はマクラウドです。今はメイド長が応対に出てますが、やつら、今にも踏み込んできそうな勢いですよ」
「……裏門も塞がれてるね。これじゃ逃げ場が……」
オーウェンに続いて、そう声を上げたのはケリーだった。気づくと彼女は廊下の突き当たりにある窓へ張りついて、外の様子を窺っている。
――屋敷の前門も後門も塞がれた。途端に一同を絶望が包み込んだ。
いち早く状況を把握したケリーとオーウェンが、強引に突破できるか否かを話し合っている。が、かなりの数の憲兵がいて厳しいようだ。
表にはマクラウドが来ているというし、やはり城でジェロディを救ったあの現象は一時的なものだったか……。
「他に屋敷を出る道はない。こうなったらあとはどこかに身を潜めるしか……」
「だが隠れるったってどこに? バレずに身を隠せそうな場所なんて、この屋敷にはどこにもないぞ」
「ど、どうしましょう……このままじゃティノさまが……!」
「……。ケリー、憲兵隊にバレずに西側の様子は窺える?」
「え?」
刹那、ジェロディが投げかけた問いに皆の視線が集まった。問われたケリーは束の間考え、窓の外を一瞥してから、言う。
「ここからは無理ですが、浴室の隣の手洗いへ行けばあるいは……」
「その浴室にある使用人用の階段を使えば、誰にも見られず一階へ下りられる。下りた先には勝手口があるだろ? そこから外に出られれば、あるいは……」
「で、ですが、表も裏も憲兵隊に塞がれてるんですよ? そんな状況でいくら外に出られたって……」
「あるんだ、もう一つ。屋敷の外へ出られる抜け道が」
「え……!?」
驚きの声が重なった。ここにいる皆はもう長くこの屋敷に住んでいるから、抜け道があるなら知っているはずだ、という顔をしている。
だけど、あるのだ。彼らも知らない抜け道が。ジェロディはひとまず西側の偵察をケリーに頼むと、残りの皆で自室に隠れながら、言う。
「マリー。僕が去年、聖戦の試合見たさに屋敷を抜け出そうとしたときのこと、覚えてる?」
「は、はい? え、ええと、それはもちろん……あれは確か、金竜杯の決勝戦が行われた日のことですよね?」
「ああ。あのときも玄関から出たんじゃすぐに見つかるし、かと言って裏口を使うには地下の厨房を通らなきゃならないしで、僕も色々考えたんだ。で、思い出した。秋口に庭師から聞いた話を」
「だ、ダニオのやつが、ティノ様に何を……?」
「庭を囲ってる鉄柵のことだよ。ちょうど西にはうちの厩舎があるだろ? どうもそこで馬が暴れたらしくて、そのとき柵の一部を壊されたってダニオが怒ってたんだ。それで業者に修繕を依頼してくれって頼まれて……」
「ティ、ティノさま、まさか……?」
「うん。そのあと色々忙しくて、業者を呼ぶの、すっかり忘れてた。だからそこから抜け出そうって思ったんだよ。あのときは結局メイド長に見つかって無理だったけど――でも、おかげで柵は壊れたままだ。つまりそこから逃げ出せる」
ジェロディがそう言えば、「はは」とオーウェンが気の抜けた笑い声を漏らした。隣ではマリステアも脱力した様子でぺたんと座り込んでいる。
もしもジェロディが二人の立場なら、同じように〝できすぎだ〟と笑っていただろう。何しろ壊れた西の柵は、一見するととても折れているようには見えない。ずらりと並ぶ鉄柵は上部が横棒で接合されていて、折れたのは根元の部分なのだ。
だから押せばぷらぷらと動くが、放っておけばしゃんと立っているように見える。黒い艶消しのおかげもあって、さしもの憲兵隊もその損傷には気づいていないだろう。
更に言えば、屋敷の裏口や勝手口は植え込みによって外からの視線を遮られている。そうしないと玄関以外の侵入経路を人目に晒してしまうことになるからだ。
加えて本日の天候は雨。雨脚は強まる一方で視界は悪い。これなら裏門にいる憲兵たちも、こちらの動きに気づきにくいはず……。
(まるで何もかもが、この日のために用意されてたみたいだ)
見えざる神の手の導き、とはこういうことを言うのだろうか。ほどなくケリーが戻ってきて、西側に憲兵がいる気配はないと教えてくれた。
それならば上手くいく。ジェロディたちがそう確信し、いよいよ浴室へ移動しようとした、そのときだ。
「――おやめなさい! ここは天下の大将軍、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ様のお屋敷です! 主人の許可のない者は、何人たりともこの先へは通しません!」
一階から鋭い怒声が聞こえて、ジェロディたちはびくりと静止した。何事かと手摺の間から覗き見れば、今にも武器を抜いて押し入ろうとする憲兵隊を前に、メイド長が怒りをあらわにしている。
その様子を見たメイドたちの悲鳴。マクラウドの怒号。階下は混乱を極めている。あれでは憲兵隊が乗り込んでくるのも時間の問題だ。
「ど、どうしましょう、あのまま放っておいたらメイド長が……!」
「ちっ……マクラウドの野郎、女子供でも容赦しないつもりか――おい、ケリー」
「何だい……って、おい……!?」
ケリーの当惑した声が聞こえ、ジェロディは身を屈めたまま振り向いた。そこではオーウェンが自分の旅荷をケリーへと押しつけている。
「持ってけ。無事に屋敷を出たら食糧だけ取って、あとは捨てていい」
「オーウェン、あんた、一体何を……!」
「メイド長たちを見捨てて行けないだろ。ティノ様、俺が下へ行って時間を稼ぎます。ティノ様はその間に脱出を」
「だけど、オーウェン……!」
「安心して下さい。やつらを適当に追い返したら、俺も急いでグランサッソ城へ向かいます。いざというときの合流場所は、さっきケリーと話し合いました。初めからご一緒できないのは心苦しいですが――ケリー、マリー」
「は、はい……!」
「ティノ様を頼んだぞ」
そう言ってニヤッと笑うや否や、オーウェンは立ち上がった。くるりと身を翻し、憲兵隊の気を引くように、ジェロディたちがいるのとは真逆の方向へ歩き出す。
「おい、マクラウド、ランドール! 一体何の騒ぎだ? ガル様のお屋敷でこんな騒ぎを起こして、タダで済むとは思ってないよな……!?」
そう叫ぶオーウェンの声が遠くなっていく。
隣でマリステアが口を押さえて泣いている。
最後にオーウェンが、ちらりとこちらへ一瞥をくれた。
目と目が合う。
瞬間、ジェロディはぎゅっと両の拳を握り締める。
「オーウェン」
声を出さずに、呼んだ。
「必ずまた会おう」
口の動きだけでそう言った。それがオーウェンに伝わったのかどうか。
たぶん、伝わったのだろう。
彼はもう一度不敵にニッと口角を上げて、あとは悠然と階段を下りていく。
ジェロディはそんな彼を見送った。唇を噛んで見送った。
――必ず、また。
心にそう刻み込み、惑う自分を振り切って、言う。
「行こう」
ジェロディたちはそのまま浴室へ飛び込み、階段を駆け下りた。一階に着いたところで廊下に出、勝手口から外へ出る。
たちまち全身を雨が濡らした。しかしジェロディは止まらなかった。
何度も胸中で繰り返す。
必ず、また。