68.西へ
「――ふざけるな! そんな馬鹿な話があってたまるか!」
すさまじい怒号と共に、ドンッ!と卓が悲鳴を上げた。それに驚いたメイドたちがびくりと肩を震わせる。啜り泣いているのはマリステアだろうか。
城から逃げ戻っておよそ半刻(三十分)。ジェロディはケリー、オーウェン、マリステアを始め、屋敷で働く使用人を全員集めて、ついさっき自分が遭遇した出来事を打ち明けたところだった。食堂には重苦しい沈黙が立ち込め、その中でオーウェンだけが怒りをあらわにしている。
「《命神刻》のことを黙ってたから反逆者? そんなふざけた理屈が通ってたまるかよ! だいたいあのジェイクって野郎はどこで何してやがるんだ? こんなことになったのは、あいつがティノ様に大神刻を押しつけたからだろ!」
「オーウェン、気持ちは分かるが落ち着きな」
「これが落ち着いていられるか! あのランドールとかいうクソ野郎のせいで、ガル様とティノ様が謀反人に仕立て上げられようとしてるんだぞ! やっぱりあのとき、あそこであの豚の首をはねとけば……!」
「今ここでそんなことを怒鳴り散らしても、何の解決にもならないだろう。これ以上メイドたちを怯えさせるんじゃないよ」
こんなときでもうろたえず、ケリーが鋭い叱声を上げた。それを聞いてはっとしたオーウェンが初めて周囲に目を向ける。
そこではジェロディの呼び出しに応じて集まったメイドたちが肩を寄せ合い、恐怖に身を竦めていた。ある者は声を押し殺しながら泣き、ある者は真っ青な顔で小刻みに震えている。
ここにいるのはほとんどがあちこちの町や村から出稼ぎに来ている若い娘だった。ガルテリオはいつだって経済的に苦しい思いをしていたり、他に身寄りがないという娘ばかり選んでメイドにするのだ。
つまりここには、ヴィンツェンツィオ家が潰れたら路頭に迷うしかない者たちが集まっているということ。オーウェンもようやくそれに気がついたらしく、ばつが悪そうな顔をすると、あとは黙って元の席へと腰を下ろす。
「だ……だけどそれじゃあわたしたち、これからどうなってしまうんですか……? もうじきこのお屋敷にも、ティノさまを捕まえるための兵士がやってくるってことですよね? そんなことになったら……!」
「ああ、そのとおりだよ、マリー。もうあまり時間がない。こうなった以上は、追われるのを覚悟で逃げ出すしか……」
「ですが、逃げると言ってもどちらへ? 一度逃げ出せば、恐らくもう釈明の機会は与えられませんよ」
「分かってる。だけど今城へ戻ったところで同じだよ。マクラウドたちは何としてでも僕を反逆者に仕立てあげたいはず。そうすればこの《命神刻》を手に入れられるだけじゃなく、息子諸共父さんを始末できるんだからね」
言いながら、ジェロディは自身の右手で輝く《命神刻》へと目を落とした。帰り道で再びびしょ濡れになってしまった手套はもうしていない。服まで替えている暇はなかったので、今は濡れた軍服の上に毛布を巻きつけているだけだけど。
……そのせい、なのだろうか。右手は微かに震えている。
けれど屋敷に帰りついて、不安げな顔をしている皆の顔を見て、思考は冷静さを取り戻した。ジェロディは神の宿る手をぎゅっと握り締めると、ヴィンツェンツィオ家の跡取りとして、言う。
「だけど逃げて時を稼げば、事態は僕の有利に働くかもしれない。もしかしたらジェイクは陛下にちゃんと事情を説明していて、マクラウドたちはそれを知らずに動いている可能性もある。もしもそうなら、陛下がきっと誤解を解いて下さるよ。僕はそれまで捕まらないように逃げ回っていればいい」
「しかし、ジェイクが我々を裏切っていた場合は?」
「そのときは僕自身の手で無実を証明する。それには陛下と直接お会いして、僕に逆心なんてないことを説明しなきゃならない。だけど今の状況じゃ、陛下に拝謁したいと言っても一蹴されるのがオチだ。だから、僕に考えがある」
一息にそう言ってから、ジェロディはまず深呼吸した。
次いで呼吸を整え、食堂に集まった顔ぶれを一望する。
ここにいる皆は、大切な家族だ。
幼い頃から自分を見守っていてくれた。父を支えてきてくれた。――だから。
「メイド長」
「はい」
「この屋敷と使用人たちのことを、あなたにお任せしたい。今から言う家名を覚えてもらえますか」
「はい」
「マーサー家、メイナード家、ヒュー家、エルマンノ家、アルトリスタ家……」
「はい」
「今挙げた家の屋敷に、ここにいる使用人たちの紹介状を出して下さい。エルマンノ家やアルトリスタ家は正直望み薄ですが、ファーガス将軍やシグムンド将軍の家ならきっとみんなを雇ってくれる。もしも候補が足りなければ、ロッソジリオ家とオルキデア家にも」
「ティ、ティノさま、それは……!」
「ヴィンツェンツィオ家を〝お取り潰し〟にするつもりはない。だけど僕の疑惑が晴れなければ、ここにいるみんなまで反逆者の家の者と見られてしまう。それによって不利益を被る前に、みんなを安全な場所へ避難させてほしい。無事に無実を証明できたら、そのときはまた呼び戻すから」
「で、ですが……!」
集まったメイドたちがざわついた。言葉を失い、泣きながら立ち尽くしている者もいる。
けれどそんなざわめきの中で、年嵩のメイド長だけはしゃんと背筋を伸ばして立っていた。
そうしていつもと同じ切れ長の目で、無表情にジェロディを見下ろし、言う。
「畏まりました」
「め、メイド長……!」
「ですが、若様。一つだけお許し願えますでしょうか」
「何だい?」
「わたくしはお屋敷に残りとうございます」
「え?」
「旦那様も若様もお屋敷を留守にされると言うのなら、誰かが代わりに留守居をしなければなりません。放っておけばすぐにあちこち埃を被ってしまうでしょうし、考えなしの愚か者がお屋敷を荒らしに来ないとも限らない」
「だ、だけどメイド長、それじゃあなたの立場が――」
「若様はお忘れですか。奥様亡きあと、旦那様が再び表の門を叩かれるまで、誰がこのお屋敷を守っていたのかを」
ジェロディは目を丸くした。そうだ。十年前のあの日も、ヴィンツェンツィオ家は取り潰しの危機に陥った。ガルテリオが偽帝フラヴィオに逆らってオルランドを助け、更に母アンジェが人質となることを拒んで偽帝軍に抵抗したからだ。
それから正黄戦争の終結まで、約二年。その間も屋敷は変わらずここにあり、凱旋した主人を迎え入れてくれた。
それはアンジェ亡きあと、このメイド長が偽帝軍の圧力にも屈せず、屋敷を守り抜いてくれたからだ。彼女はその矜持に懸けて、今回も屋敷を守ると言ってくれている――。
「……。あなたは本当にそれで構わないんですか、メイド長?」
「若様はこれから疑いを晴らされにいくのでしょう?」
「ああ。もちろんそのつもりだよ」
「でしたら何を心配される必要があるのです? わたくしの役目はいついかなるときも、お帰りになる旦那様と若様をお迎えすること。ですから今回も、お二人のご帰還をお待ちしております」
きっぱりとそう言って、メイド長は折り目正しく頭を下げた。そんな彼女の言葉にふと、ジェロディは胸が熱くなる。
――ああ、そうか。この人は。
今まで必要以上に厳しくて怖い人だと思っていたけれど、違う。
彼女は愛してくれているのだ。ここにいる誰よりも強く、この屋敷を――ヴィンツェンツィオ家を愛してくれている。
だからこそジェロディが粗相をしないようにといつも目を光らせ、ガルテリオの身なりや言動にもいちいち口を出していた。ヴィンツェンツィオ家の名誉や体面を守るために。
そう思ったら、自然と笑みが零れた。
屋敷のことは、この人に任せていけば大丈夫だ。
いつも外出先から戻る度に聞かされる、無感情な「おかえりなさいませ」。
だけどあれがないとどうしても〝帰ってきた〟という気持ちになれない。
だから彼女はここに残ると言ってくれている。ガルテリオやジェロディの帰還を信じ、待ち続けると――。
「分かりました。それじゃあ、あとのことはあなたに頼みます」
「承りました」
「だけど一つだけ約束して下さい。もしも身の危険を感じたら、そのときは屋敷を捨てて逃げること。あなたの命を守ることを、最優先に考えること」
「若様」
「あなたは僕が生まれる前からこの屋敷にいた。おかげで今じゃあなたのいない生活なんて考えられません。たぶんそれは父さんも同じ。だから、どうか生きてほしい。たとえ一時は屋敷を離れることになったとしても、生きていれば必ずまた会えるから」
ジェロディがまっすぐに目を見てそう言えば、メイド長は束の間押し黙った。それから再び頭を下げ、「畏まりました」と短く言う。
その両手が腹のあたりできつく握り締められているのを、ジェロディは見た。
だからこそ自分は応えなければならない。
彼女の信頼に。彼女の愛に。
「マリー」
「は、はい……」
「話は決まった。今すぐ僕の着替えを用意してくれるかい。できれば地味であまり目立たないものを。それから、とりあえず三ヶ月は旅できるだけの路銀と、数日分の食糧も」
「そ、それは構いませんが、ティノさま、まさか……」
「ああ。僕はソルレカランテを出て父さんのいるグランサッソ城を目指す。こんな騒ぎになった以上、父さんに黄都への出頭命令が下るのは時間の問題だ。だけどそうなれば、陛下はきっと父さんの口から真実を聞こうとするはず。皇太子時代から陛下をお守りしてきた父さんを、釈明も聞かずに処断したりしたら、今度こそ反ルシーン派が黙ってないだろ?」
「なるほど……だからガル様が黄都へ出頭なさる前に接触して、あわよくば謁見に同行させていただくというわけですか。その方が今すぐ陛下に拝謁させろと乗り込むより、遥かに実現する可能性が高い」
「そういうこと。それにもし事態が僕の想定より悪い方へ転がったとしても、父さんにさえ会えれば少しは状況がマシになる。いざというときは逆心を抱いた息子を捕らえたと言って、父さんに僕を突き出してもらえばいいんだからね」
そうすれば恐らく父の立場は守られる。罪人である息子を捕らえ連行してきたと言えば、少なくとも連座刑は免れるはずだ。
聞けば現在内乱に関わっているフィロメーナ・オーロリーの実家も、当主のエルネストが娘の不祥事の責任を取ったことで存続を許されたらしい。オーロリー家はこの国の建国以来、三百年以上に渡って皇家を支えてきた忠臣の家だ。その功績を鑑みて、今回はエルネストの引責だけで特赦されたのだという。
だとすれば皇太子時代からオルランドに仕え、更に長年に渡って国境の安寧を守っているガルテリオも功績を認められるはず。そもそも今のこの国には、父のような人間がいなくてはならない。
腐敗によって傾きつつある黄皇国を守り、正せるのは父だけだ。ならば父を守って犠牲になる覚悟が、ジェロディにはある。
「でしたら、ティノ様。グランサッソ城までの道中は、私もお供致します」
「……!? だけど、ケリー――」
「黄都からグランサッソ城までの道のりは、ガル様の下にいた頃に何度往復したか分かりません。その私以上に、グランサッソ城への行き方を熟知している者はいないと思いますが?」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「そういうことなら俺もお供しますよ、ティノ様。万が一のときのためにも、案内役は多い方がいいでしょう?」
「オーウェン、君まで……」
二人からの突然の申し出に、ジェロディは思わず絶句した。今回は自分一人で西へ行く覚悟を決めていたのに……。
「……だけど僕についてくるってことは、君たちまで反逆者の汚名を着せられるってことだよ。それでも?」
「当たり前です。俺は、十年前の正黄戦争では偽帝軍の兵士でした。だけど真帝軍に負けて捕虜になって……そこで仲間を庇って、真帝軍の将校を殴っちまった。そのせいで殺されそうになっていた俺を、ガル様は救い出して傍に置いて下さったんです。当時のご恩を、俺はまだ返しきれてない。だからどうか一緒に行かせて下さい」
「私も右に同じです。孤児になるはずだった私を娘として迎え、育てて下さったガル様に恩返しができるなら、どのような茨の道も恐るるに足りません。それに、これからはティノ様を傍でお支えするようにというのが、ガル様のご命令ですから」
「ケリー、オーウェン……」
再び熱いものが込み上げてきて、ジェロディは言葉を失った。こんな状況でも二人は笑っている。まるで罪人となることが至上の名誉だとでも言うように。
それを見てジェロディはうつむき、唇を噛んだ。自分は彼らの忠義に報いることができるだろうか?
いや、報いなければならない。彼らを罪人のまま死なせはしない。
必ずこの手で汚名を濯ぎ、彼らのことを守ってみせる……。
「……ありがとう。それじゃあ二人もすぐに――」
「――お、お待ち下さい、ティノさま! それならわたしもお供いたします……!」
「マリー? 君まで何を……」
「先程も言ったじゃありませんか、マリステアは何があってもティノさまのお傍を離れませんと……! ティノさまをお守りするためなら、わたしはどうなっても構いません! ですから……!」
――置いていかないで下さい。
そう言って涙ぐんだマリステアを見て、ジェロディは数瞬言葉に詰まった。
本音を言えば、ジェロディだってマリステアにはついてきてほしい。片時も彼女と離れたくない。
だが自分についてくれば、マリステアまで危険な目に遭ってしまう。前回の調査任務とはわけが違うのだ。
今回は他にジェロディたちを守ってくれる者はいない。それどころか国中を敵に回すことになる。そんな苦難の旅に、マリステアを……。
「ティノ様。私からもお願いします」
「……ケリー?」
「マリーを巻き込みたくないという、ティノ様のお気持ちは分かっているつもりです。ですが本人もこう言っていますし、何よりグランサッソ城までの道のりは長い。黄都を出れば、賊や魔物に襲われることもあるでしょう。そんなときマリステアの神術があるのとないのとでは、やはり安心感が違います」
……そうか。マリステアの刻む神刻は水刻。ケリーたちのように戦うことはできないが、癒やしの術を使うことはできる。
実際前回の任務では、ケリーもオーウェンもその力に助けられた。ジェロディには神の力があるから癒やし手は必要ないが、生身である二人はそうもいかない。
「……分かったよ。ケリーがそう言うなら」
「え……! そ、それじゃあ……!?」
「ああ。一緒に行こう、マリー。ただし君も約束して。絶対に無茶はしないって」
「ティノさま……」
「君には君にしかできない役割がある。だから無理にケリーやオーウェンみたいに戦おうとしないで。いざというときは、僕も君を守る。その約束を守れるかい?」
「はい……!」
マリステアは瞳を潤ませたまま、胸に手を当てて頷いた。――彼女だけは、巻き込みたくなかった。けれどこうなってしまったからには仕方がない。
ケリーの言うとおり、マリステアの神術は頼りになる。それに食事や身の回りのことで彼女の世話になることもあるだろう。
ジェロディは、覚悟を決めた。
ここから一人も欠けることなく、必ずまた戻ってくると心に誓った。
「よし、それじゃあ早速準備を始めよう。光神の刻(十七時)にはここを出るよ。最後にみんなの力を貸してほしい。今、この瞬間を乗り切るために」
「はい……!」
マリステアを始め、その場にいた全員が頷いた。彼らの真剣な眼差しがジェロディの背中を押してくれる。
ここにはジェロディを疑いの目で見る者など一人もいない。皆が信じてくれている。
――どうか彼らに神のご加護を。
瞑目して、ジェロディは祈った。
右手に宿る神に祈った。