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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第2章 ジェロディという少年
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66.それは呪い

 この季節にしては珍しく、雨が降っていた。

 雨粒がぱらぱらと窓を叩いている。けれどその囁きは極小。じっと耳を澄まさなければ聞こえない。その程度の弱い雨だ。

 遠くで雷が鳴っている。それもこの季節には珍しい。何せまだ年が明けて一月も経っていないのだ。例年なら、この時期は雪が降る。


 まあ、だけど雪が降らないということは、今年の冬は暖かいのかな。

 そんなことを思いながら、ジェロディはぼんやりと窓の外の曇天を眺めていた。


 クアルト遺跡の調査から帰還して二日。ジェロディは無事に初任務を終えた労をねぎらわれ、ハインツから三日間の休暇をもらっている。

 オルランドへの報告は、既に済んだ。だがジェロディの口から主に告げたのは、あの日竜父に伝えたのと同じ嘘の報告だけだ。


 もちろん黄帝陛下に虚偽の事実を伝えるなんて、初めはかなり気が引けた。しかしいざ報告の場に臨んでみると、そこには近衛軍団長のセレスタを始め、憲兵隊のマクラウド、ランドール、そしてその他の近臣たちまでもが居並んでいた。

 そんな中で自分の右手に《命神刻ハイム・エンブレム》が宿ったことなど言い出せるわけがない。だからジェロディはひとまず、ジェイクと打ち合わせたとおりの嘘で乗り切った。その共犯者ジェイクは現在城に留まって、オルランドに真相を告げる機会を窺っている。


「事態が進展したら、すぐに屋敷へ報せに行く。それまで大人しく待ってろよ」


 二日前の別れ際、ジェイクからはそう念押しされた。彼としても、ジェロディに勝手に動かれて事態がこじれるのは困るのだろう。

 だからジェロディは、彼を信じて待つことしかできなかった。明後日にはまた近衛軍士官としての任務に復帰しなければならないのだが、それまでに問題は解決するだろうか。


「それじゃあ、我々もオルランドとの約束は果たせたから、これで」


 共に調査任務に当たった竜父一行も、そう言って昨日には黄都を発ってしまった。逃げた海賊たちや古代兵器のことはひとまず不問とされたようだ。おかげでずいぶんあっさりとした別れだった。次に彼らと会えるのはいつの日になるか。もしかしたら一生、そんな機会は訪れないかもしれない。


(いや……だけど、僕は神の力で永遠の命を得た。それなら二度と会えない、なんてことはないか――)


 窓辺で雨音を聞きながら、そう考え直して薄く笑う。それが自嘲のにおいを帯びていることに、ジェロディは気づかない。

 《命神刻》。

 右手に刻まれたその青銀色の神刻エンブレムを、ジェロディは改めて見下ろした。


 地上の命を統べる神、ハイム。この神刻はかの神に選ばれた証。

 おかげでジェロディは不老の肉体を得た。病んでも尽きぬ命を得た。

 かつてこの世に現れたすべての神子がそうであったように、神に選ばれた者はそれ以降年を取らない。加えて肉体には神の恩寵が授けられ、心臓を一突きにされるか首を飛ばされない限り、決して死ぬことはない。


 つまりいかなる手傷を負おうとも、神の力が瞬く間に癒やすということだ。更に数々の文献によれば、重篤な病にかかろうが、食事に毒を盛られようが、神子は死なない。あらゆる危難はすべて神の恩寵が遠ざけてくれる。

 神に愛され、そのかいなに守られし者。それが神子。

 もはや人間とは一線を画した、半神半人の存在――。


(だけど、そんなことが)


 ありえない、と、最初ジェロディはそう思った。

 自分が生命神ハイムの神子? そんなのは何かの間違いだ、と。

 実際に右手の神刻を眺めても実感は湧かず、だから黄都へ戻るなり屋敷の書斎へ引き籠もった。そこであらゆる文献を読みあさり、神子に関する記録を集めたのだ。


 曰く、神子の血は青い。


 それは神の血が青いからだ。かつてふたりの父神に引き裂かれ、肉体を分かたれた神々が流した血は青かった。そのとき溢れた血が地上へ降って海ができたと言われている。

 同じように、神子の血も青い。碧血へきけつは神への忠誠の証。神話の時代、天使となることを望んで神の血を受けた聖女にはやはり青い血が通い、不老の力が授けられたという。


 だからジェロディは、試してみた。

 小刀を取り出し、それで己の指を切ってみたのだ。


 結果、ジェロディの血は、青かった。


 ほんの数日前までは確かに赤かったはずの血が。

 今は何度試してみても空のような青色で、しかも傷が瞬時に塞がってしまう。


(僕は化け物になったのか)


 すべてを知ったジェロディが、真っ先に思ったことはそれだった。

 〝神〟ではなく〝化け物〟になった。そう思った。

 だってこれでもう、自分は死ねない。

 マリステアたちと一緒に年を取れない。

 一人だけ違う生き物として生きていく。

 人々が時と共に老い、衰え、次々と神鳥ネスの慈翼に抱かれていく中で。


 自分だけが、死ねない。


『ジェロディ、キミはその呪いに選ばれた』


 遺跡で聞いた、ターシャの言葉が甦った。

 彼女はこの大神刻グランド・エンブレムのことを〝天恵〟だと言い、〝寵愛〟だと言い、〝悪夢〟だと言い、〝呪い〟だと言った。


 その理由が今なら分かる。

 これは神の祝福なんかじゃない。呪いだ。

 そんな風に思えて仕方のない人間を、こんな罰当たりな人間を、ハイムは何故神子に選んだのだろう? 自ら神子になることを渇望している者なら、星の数ほどいるというのに。


(僕は、これからどうしたら)


 真っ白になった頭の中に、時折そんな思考がぽつぽつと浮かんでくる。

 神子が神に選ばれるのは、迷える人々を導くため。世界をあるべき姿へいざない、《神々の目覚めエル・シャハル》をもたらすため。

 昨日読んだ文献にはそのようなことが書かれていたが、果たして自分に人々を導くなんてことができるのだろうか?

 第一誰を、どうやって? この国の腐敗に終止符を打てとでも言うのだろうか? 神子の威光の下、黄帝さえもひれ伏させて。


(そんなことが、僕に……)


 できるのか? そもそもこの国がそれを許すのか?

 とにかく分からないことだらけだ。考えれば考えるほどに思考はもつれ、絡まり、身動きが取れなくなっていく。


(父さん)


 ――僕は、どうすればいい?


 窓際に寄せた椅子の背凭れに身を預け、ジェロディは西果さいはての地にいる父を求めた。

 会いたい。今すぐにでも。父は自分が神子に選ばれたことを喜ぶだろうか? 誇りに思ってくれるだろうか?

 もしそうだとしたら、少しつらい。


「ティノさま」


 と、不意に扉を叩く音がして、ジェロディは現実へ引き戻された。

 軽く返事をすると、ならの木の扉が遠慮がちに開かれる。

 現れたのはマリステアだった。彼女は左手にティーセットの乗ったトレーを持って、そのまま器用に一礼する。


「聖神の刻(十四時)になりましたので、お香茶を。本日は焼き菓子ビスコッティを焼いてみました。ご一緒にいかがですか?」

「ああ、もらうよ」


 ――いらない、とは言えずに、ジェロディは短くそう答えた。するとマリステアは少しほっとした顔をして、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 寝室の隅に置かれた小さな円卓。そこに運んできたトレーを乗せ、マリステアは手慣れた様子で香茶を淹れた。毎日聖神の刻はティータイム。それがトラモント貴族の嗜みであり、ジェロディも当たり前のように受け入れてきた日常だ。


 だから、今日もまた変わらない日常を繰り返すだけなのに。

 香茶の注がれる音と共に漂う、爽やかな茶花の香り。その香りを嗅いだだけで、ジェロディは胸が締めつけられる思いがした。

 ほどなくマリステアが差し出してきた小さなトレーには、澄んだ伽羅色きゃらいろの香茶とたっぷりの蜂蜜が入ったハニーピッチャー、そしてバスケットに入れられた焼き菓子が乗っている。


「ありがとう」


 菓子はマリステアが焼いてくれたものだろうか。そう思いながらトレーを受け取り、ジェロディはいつもどおり蜂蜜を香茶へ回し入れた。

 次いで銀製の匙で軽くカップの中身を混ぜ、まず香茶の香りを嗅ぐ。……今日の茶花は苦味の強いソルンの花か。トラモント黄皇国の伝統菓子であるビスコッティは砂糖をふんだんに使うから、香茶は少し苦いくらいがちょうどいい。

 丁寧に二度焼きされ、細長く切られたその菓子を、ジェロディは一つ手に取った。そうしていつもどおり香茶に浸して食べようとして、


「……」


 右からの視線に気がついた。何となく変な感じがして振り向くと、マリステアがじーっとこちらを凝視している。

 彼女の視線はジェロディの右手に釘づけだ。《命神刻》を気にしているのか。

 だがそれにしては妙だ。ジェロディはクアルト遺跡から戻って以来、《命神刻》が人目につかないようにいつも手套を嵌めている。

 なのにそこまで夢中で右手を見つめるだろうか。試しにひょいとカップからビスコッティを取り上げると、マリステアの視線もそれを追う。


「……。マリー」

「はい、何でしょう、ティノさま」

「そんなに見られてると食べにくいんだけど」

「……は! も、申し訳ございません……!」


 そこでようやく我に返ったらしく、マリステアはぱっと姿勢を正してうつむいた。その顔が耳まで赤くなっている。


「どうかしたの? 今日のビスコッティは自信がないとか?」

「い、いえ、そうではなくて……」

「……そうじゃなくて?」

「そ、その、余計なお世話かもしれませんが……クアルト遺跡での一件があってから、ティノさまがあまりお食事を召し上がっていないような気がしたので……」

「――……」

「それで、その、あの、今日はお菓子を召し上がっていただけるかどうか、心配で……」


 マリステアはなおもうつむいたまま、もごもごとそう答えた。そんなマリステアと手元の菓子とを見比べて、ジェロディは押し黙る。


「け……ケリーさんやオーウェンさんも、心配されていますよ。例の件で、ティノさまが必要以上に思い詰めていらっしゃるんじゃないかって……」

「……」

「あ、あの、ティノさま。本当に余計なお世話かもしれませんが、それでもせめて、お食事だけは――」

「湧かないんだ」

「え?」

「神子になってから、食欲が湧かない。精神的にじゃなくて、生理的に」

「え、えっと、つまり……?」

「つまり、神子はお腹が空かないってことだよ。物を食べることはできるし、食べれば排泄もするけど、体がそれを必要としていない。神子は食事をしなくても死なないから」


 ジェロディがついに白状すると、マリステアがひゅっと息を飲むのが分かった。

 ……できればこのことは黙っていたかったけど。でもこれ以上一人で抱え込んでいたらたぶん皆に心配をかけるし、自分も潰れる。


「……だから、なのかな。前ほどマリーたちの作ってくれる食事をおいしいと思えなくなった。ごめん」

「ティノさま」

「それに、夜も眠れないんだ。神子は睡眠も必要としないから……たぶん、体が今の状態に慣れてくれば多少は眠ることもできるんだろうけど、今はただ夜が長い」

「ティノさま」

「マリー。僕はもう人間じゃないんだ。人間じゃないんだよ。君たちとは違う。この体は半分神のものになった。だから――」


 だからもう、君たちと同じ時間を生きられない。


 ジェロディの口からそんな言葉が零れそうになった、刹那だった。

 突然右手を掴まれて、驚きから菓子を落としてしまう。半分濡れたビスコッティは床の上を転がって、ジェロディから遠ざかっていく。

 振り向けば、そこに跪いたマリステアがいた。

 握られた手が震えている。こちらを見上げたマリステアの瞳が、揺れている。


「ティノさま、お願いです。どうかそれ以上はおっしゃらないで下さい」

「マリー」

「たとえ神子であろうとなかろうと、ティノさまはティノさまです。わたしにとってティノさまは、それ以外の何者でもありません。ですから、どうか……どうか遠くへ行かないで下さい。〝自分はもう人間じゃない〟なんて、悲しいことを言わないで下さい……!」


 喉から声を振り絞るように、マリステアは言った。けれど紡ぎ出された言葉はやはり震えていて、ジェロディの胸にぐさりと刺さる。


「ティノさまの手、こんなに温かいじゃないですか。神子になられる前と何も変わらないじゃないですか。ティノさまがティノさまである証は、それだけで十分です。少なくともわたしには、それだけで十分です……」

「マリー……」

「なのに、ティノさまはわたしを置いていってしまわれるのですか。心まで人間であることを辞められてしまうのですか」

「マリー」

「ティノさま。たとえティノさまが嫌だと言われても、マリステアはティノさまのお傍を離れません。この先どんな苦難が待ち受けていようとも、マリステアはティノさまの味方です。わたしはアンジェさまにそう誓ったのです。ですから……っ」


 一息にそう言ったところで、ついにマリステアのから涙が零れた。

 それは一度溢れるとあとはもうダメで、とめどなく頬を伝い続ける。

 彼女はそれきり泣きじゃくった。しゃくり上げて泣いた。

 部屋中にマリステアの泣き声が響き渡る。

 ジェロディはそこでようやく、目が醒めた。


「マリー。マリー、ごめん。謝るよ。だからもう泣かないで」

「……っティノさま……」

「君の言うとおりだ。神子であろうとなかろうと、僕は僕だ。それ以外の何者でもない……なのに君たちを遠ざけてしまうところだった。ごめん」


 自分はジェロディ。ジェロディ・ヴィンツェンツィオ。

 常勝の獅子ガルテリオの一人息子で、マリステアの義弟おとうと

 神子になったからといってその名が変わるわけではないし、生まれが変わるわけでもない。過去がなくなるわけでも、記憶が書き換えられるわけでもない。自分は自分だ。


 なのに人間でなくなったことへの恐怖から、マリステアたちを拒絶してしまうところだった。

 ――そんなのは僕じゃない。

 ジェロディ・ヴィンツェンツィオは、自分を愛してくれる者たちに仇で報いるような恩知らずじゃない。


「だけど、マリーも変わらないね」

「え……?」

「だってそうだろ? 僕が泣きたいとき、君はいつだって真っ先に泣き出すんだから」

「ティノさま」

「知ってる? おかげで僕が今日までどれだけ救われてきたか」

「ティノさま……」

「だから、マリー。君もどうかそのままでいて。そうしたら僕も僕を見失わずにいられる。そんな気がするんだ」


 それに泣き虫じゃないマリーなんて、今更想像できないしね。

 ティノが笑ってそう言えば、マリステアは更に顔をくしゃくしゃにした。そうしてぽろぽろぽろぽろ泣いた。

 綺麗だな、とジェロディは思う。できればマリステアには笑っていてほしいけど、でも、彼女の流す涙はいつだって綺麗だ。そんな宝石みたいな涙を、マリステアはいつだってジェロディのために流してくれる。


 ありがとう。

 ジェロディがそう伝えると、マリステアはふるふる首を振った。

 それからジェロディの右手をぎゅっと握って、祈るように額に当てる。


 ところがそのときだった。突然軽快なノックが響き、先程マリステアが入ってきた扉から、今度はケリーが現れる。


「ティノ様、失礼します。お知らせしたいことが――」


 と、言いながら一歩踏み込んで、そこでケリーは固まった。泣いているマリステアを見てぎょっとしたのだろう、彼女とジェロディとを見比べると、珍しく腰が引けた様子で言う。


「も、申し訳ありません……お邪魔してしまいましたか?」

「ううん。むしろ助かったよ、ケリー。今の僕が口を開くと、余計にマリーを泣かせちゃうみたいでね。どう慰めたものか困ってたんだ」

「す、すみません……たぶん、すぐに、落ち着きますので……っ」

「そういうことでしたか。でしたらとっておきの方法がありますよ、ティノ様」

「とっておきの方法?」

「これはリナルドの受け売りですが――女性が泣いていたら黙って抱き寄せる。それがトラモント紳士の嗜みだそうです」

「えぇえぇえ……!? そ、それは結構ですぅ……!!」


 ケリーが笑顔で言うが早いか、それまですぐ傍にいたマリステアがものすごい速さで後ずさった。

 ……そんなあからさまに逃げ出すほど嫌なのだろうか。ジェロディは行き場のなくなった右手を浮かせたままそう思う。

 ついでに少しリナルドを恨んだ。それはどこからどう見ても逆恨みだったが、ウィルと共に巷で〝美青年〟と騒がれる彼にはきっと、今のジェロディの気持ちは分かるまい。


「……。それでケリー、僕に知らせたいことって?」

「はい。それが――」


 にわかにケリーの表情が引き締まった。彼女は軍人らしく直立不動の姿勢を取ってジェロディを見据えてくる。


「たった今、ソルレカランテ城より使いの者が参りました。――陛下がティノ様をお呼びとのことです」


 遠雷が聞こえた。


 気づけば窓を叩く雨音が、さっきより強さを増している。



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