60.どん詰まり
「――い……たたたた……」
一瞬、何が起きたのか本気で分からなかった。
どうやら自分たちは古代人の罠に嵌まり、地下へと続く穴の中へ放り込まれたようだとようやく理解できたのは、叩きつけられた全身が強い痛みを訴えてきた頃のことだ。
急な坂道と化した床の上を転がり落ちている最中は、この穴に底などないのではないかと思った。
しかしどうにか魔界への直行は避けられたらしい。体のあちこちをでたらめにぶつけて、痛みのあまり目が回りそうではあるけれど。
「う……ティ、ティノさま、大丈夫ですか……?」
と、自分を呼ぶマリステアの声がして、ティノはやっと脳が揺さぶられる感覚から抜け出した。
良かった、彼女も無事だったか――と、まずはそのことに安堵する。
が、そこでホッとしたのも束の間、ときにジェロディは気がついた。
……何だか声が近すぎるような?
マリステアの声はジェロディのすぐ耳元で聞こえた……ような気がした。加えて何かひどくやわらかなものが真下にあって、温かい。
鼻先でそう感じた刹那、ジェロディははっと覚醒して跳び起きた――一体何がどうしてこうなったのか。
気づけばジェロディは石の床にマリステアを組み敷いて、馬乗りになっていた。
ということは、さっきまで鼻に当たっていたあの感触は……。
すべてを理解した途端、ジェロディはかああああと顔から火が噴くのを自覚した。マリステアもその段になってようやく目を開き、事態に気がついたらしい。
二人はそのまましばし固まった。ここは地下のはずだがやはり燭台はあるようで、みるみる真っ赤になっていくマリステアの顔が照らされている。
「あっ……ティっ、ティノさま、ご無事で……!」
「ごっ、ごめんマリー、今退くから――」
「ヒュウ、お熱いね。この非常時だってのに、最近の若いのは大胆だな」
刹那、奥から口笛が聞こえて、ジェロディはマリステアの上を飛び退いた。それは自分でもちょっとびっくりするくらいの素早さだった。
そうしてとっさに振り向けば、二人から少し離れたところにジェイクがいる。彼も壁を背にして座り込んではいるがどうやら無事だったようで、ニヤついた口元には明らかにからかいの色があった。
「じ、ジェイク、変なことを言わないで下さい! 今のはただの事故で……!」
「いやいや、別に遠慮しなくていいんだぜ? そりゃまあ当然の反応だろ。何せ人間は命の危険に晒されると、本能的に子孫を残そうとするって話だからな」
「――おい、そこのエセ考古学者! ティノ様に妙なことを吹き込むな!」
「おっと」
そのとき更に奥から怒鳴り声がして、飛んできた棒状の何かをジェイクが躱した。見ればそこではオーウェンが立ち上がり、大袈裟に肩を怒らせている。
その足元にはケリーもいて、座り込んだまま額に手を当てていた。軽く首を振っているところを見ると頭を打ったのかもしれないが、幸い意識ははっきりしているようだ。
「ほ、ほんとにごめん、マリー。さっきのはわざとじゃなくて、その……け、怪我はないかい?」
「は、はい……わ、わたしは大丈夫です……」
言って体を起こすなり、マリステアはうつむいてしまった。
その顔が耳まで真っ赤になっているのを見たジェロディは、自分も熱がぶり返してくるのを感じて目を逸らす。
――そう言えばああやってマリーに抱きついたのは、いつぶりだっけ……。
もう何年も前、まだお互いに子供だった頃だと思うけど、あの頃に比べるとずっと……などと思いを馳せそうになり、慌てて何度も首を振る。
雑念を振り払うために、天井を仰ぎ見た。その空間は巨大な四角柱のような形をしていて、燭台の灯りが届かないのか、頭上には闇が広がっている。
ジェロディはそれを確かめると、知らず深いため息が出た。
――僕たち、あそこから落ちてきたんだな。
やっとそんな実感が湧いてきて、冷静になる。こんな地下――しかも罠の底に何故火のついた燭台があるのかは不明だが、今考えるべきことはそれじゃない。
「天井、閉じてるね……見たところ、ここには他に出口がないようだけど――」
「――ぎゃああああああああ!」
瞬間、ジェロディの言葉を遮って、突然悲鳴が谺した。ぎょっとした一同が振り向けば、そこには床に転がった巨大な肉の塊がある。
いや、よく見るとそれはランドールだった。傍には三名の憲兵もいる。彼らは揃って腰を抜かし、真っ青な顔で何かを見ていた。その視線の先にあるものは、ちょうど明かりが届かない暗がりに呑まれてよく見えない。
「今度は何ですか、ランドール殿?」
「また蛇でも出たんじゃないのかい?」
「ばっ、ばっ、馬鹿者! き、きさまらこれが目に入らんのか!?」
「〝これ〟?」
ランドールは必死で何かを指差しているが、やはり見えない。壁には四方を囲むように燭台が設けられているのに、そのあたりだけ火が灯っていないらしい。
仕方なく腰を上げたジェロディは、ランドールの言う〝これ〟を確かめるべく手近な燭台へ手をかけた。壁から慎重にそれを外し、当座の光源にしようとする――そこで、気づいた。
「あ、あれ? この燭台……」
驚いた。
燭台には確かに火が灯っているが、燃料がない。
よく見ると油や蝋燭はおろか、灯芯さえ存在していないのだ。ただ火皿の中心に魚の鱗みたいな薄い石が埋め込まれていて、その上に小さな炎が浮いている――。
「そいつは常灯燭だろ」
「常灯燭? これが……」
「何です、その〝スカンス〟ってのは?」
「古代ハノーク人たちが使っていた灯火具の一つだよ。彼らは神刻石を加工して石の状態のまま使う技術を持っていて、これは火刻の力を利用した燭台なんだ。神力を源としているから、油や蝋燭みたいな燃料がいらない。しかも石が割れたりしない限り、半永久的に火を灯し続けることができる……たとえそれが水の中であってもね」
言いながらジェロディは燭台を傾けて、そこに嵌められた石が文献どおりの赤色であることを確認した。火刻を封じた神刻石は往々にして赤色をしているから、これもその欠片と見てまず間違いないだろう。
ということは、地上の通路などを照らしていたあの明かりも常灯燭によるものだったのか。どうりでどこへ行っても光源には困らなかったわけだ。
ジェロディはそんな太古の利器に感銘を受けながら、とにかくランドールたちの傍まで行った。自然とオーウェンもついてきて、振り向けばケリーはマリステアの安否を確かめている。
ふと目をやったランドールたちも、怯えてはいるが全員無事。多少血を流している者もいるが、見たところ掠り傷程度だろう。
ならば残る問題は、どうやってこの地の底を脱出するか。そう考えながら部屋の隅まで行ったところで、ジェロディは思わず足を止めた。
常灯燭の灯りが闇溜まりを照らし出す。う、と隣でオーウェンも呻いた。
何故なら光を浴びて浮かび上がったのは、真っ白な骨、骨、骨――。
そこでは数え切れないほどたくさんの人骨が、ボロボロになった衣類や鞄、剣などと共に小さな山を作っていたのだ。
「ひっ……!? そ、それ、人骨ですか……!?」
後ろの方でマリステアが息を飲んだ。しかしジェロディは彼女を振り返る間も惜しんで、小山の傍にしゃがみ込む。
足元に落ちていた短剣を拾い上げた。もうすっかり埃にまみれて汚らしいが、それを鞘から引き抜いたところで確信する。
「これ……古代人が使っていたものじゃない。現代の技術で造られた剣だ。ということは、この人たちは……」
「俺たちと同じように罠に嵌まって、上から落ちてきた連中だろうな。ここにはあの天井以外に出口がない。つまりここに閉じ込められて、為す術もなく飢えて死んだってわけだ」
ぞっとして、ジェロディはジェイクを顧みた。いつもと変わらずのんびりと言った彼の手には、先程オーウェンが投げつけた棒状の物体が握られている。
目を凝らしてみて戦慄した。何故ならジェイクが手にしたそれもまた、真っ白な人の骨だったからだ。
そこで改めて、ジェロディは四方を見回してみる。出口のない部屋。あるのは常灯燭と向こうの壁に埋め込まれた大きな石像、そして散乱した衣類や道具や人の骨。それだけ。
すべての壁は垂直にそそり立っていて、足場になりそうな凹凸はない。唯一向こうに見える石像――人の姿を象っているようだが、顔以外はひどく抽象的だ――は足場になりそうだが、高さは四十葉(二メートル)ほど。それでは到底あの天井には届かない。
「ば……馬鹿な……! な、ならばおれさまたちも、このままここで死を待つしかないと言うのか!? そ、そんな話があってたまるか! ジェイク、きさまは考古学者だろう! ならば早く何とかしろ! きっとこの部屋にもさっきみたいな仕掛けがあるはずだ!」
「と言われましてもねえ。見たところこの部屋にそれらしい装置は見当たらないし、そもそもこうなった責任は誰にあると思います? 俺はこういう目に遭わないように、遺跡の物には勝手に手を触れるなと言ったはずですが」
「ぐっ……」
ジェイクのその一言で、皆の視線がランドールへと集中した。本人もそれを察したのだろう、狼狽した様子で皆を見回すと、体中の贅肉という贅肉を震わせる。
「な、何だ……何だその目は! お、おれさまは悪くないぞ! 悪いのは……そ、そう、あのターシャとかいう娘だ! おれさまはあの娘に嵌められたのだ! 現にあの娘だけこの場にいないではないか!」
「ですがターシャは隊長が仕掛けに触れたとき、それを止めようとしていました。だとしたらあの子が僕たちを騙していた可能性は低いと思いますが?」
「うぐっ……な、ならばジェロディ、これはきさまのせいだ! お、おれさまがあの娘についていったのは、きさまがアレは敵ではないと言ったからで……!」
「チッ……このゲス野郎、言うに事欠いて今度はティノ様の責任だと?」
刹那、隣で不穏な気配がした。見ればいつになく険しい顔をしたオーウェンが、背中の剣を掴んでいる。
それを見たランドールが悲鳴を上げた。さすがの彼もオーウェンの全身から立ち上る殺気に気づいたのだろう。
その殺意は言うまでもなくランドールへ向いている――この男はここで殺した方がいい。彼の鋭い眼光が、疑いようもなくそう言っているのだ。
「およし、オーウェン。今は仲間割れなんかしてる場合じゃないだろう」
「仲間? 誰がいつ仲間だって? この豚野郎は徹頭徹尾、俺たちの足を引っ張ってきただけだろうが。俺たちが遺跡に乗り込む羽目になったのだって、元はと言えばこいつが……!」
「だとしてもその男は上官だよ。あんたはティノ様に上官殺しの汚名を着せるつもりかい」
怯えるマリステアに寄り添ったまま、厳しい口調でケリーが言った。彼女の言葉は鞭のごとくぴしゃりとオーウェンの頬を打つ。
それを受けたオーウェンが舌打ちした。彼はケリーには逆らえない。何せ軍歴も年齢もケリーの方が上なのだ。そのケリーに刃のような眼差しを向けられたオーウェンは、不承不承と言った様子で大剣から手を離す。
「チッ……分かったよ」
途端に彼を包んでいた殺気が引っ込んだ。ジェロディはもう何年もオーウェンを見てきたが、彼があそこまで殺意を剥き出しにした姿を見るのは初めてで、正直ひどくホッとした。
だがこの場で最も安堵したのはランドールだろう。彼はケリーが止めなければ、間違いなくオーウェンに斬られていたのだから。
「あーあ、あと少しだったのに……」
「ジェイク、何か言ったかい?」
「いいや何も? それはそうと、こいつを見てくれ」
振り向いたケリーの視線を遮るように、ジェイクが右手で何か掲げた。それは表紙がボロボロに擦り切れた、一冊の手帳だった。
ジェイクの持ち物かとも思ったが、その汚れようを見るに恐らくは違う。黒ずんだ革の表紙はかなり年季が入っている。ジェイクはそれを膝の上に広げ、滔々と読み始めた。
「〝通暦一四五三年、泰神の月、縁神の日。――やってしまった。これまで数多の遺跡を調査してきたにもかかわらず、まさかこんな単純な罠に嵌まるとは思わなかった。このことが知れたら、私は世の学者たちに指をさして笑われるだろう。もっともこの失敗を笑い話にできるのは、ここからの脱出が叶えばの話だが……〟」
「ジェイク、それは?」
その内容に驚いて、ジェロディは思わず尋ねた。するとジェイクは再び手帳を軽く掲げ、中身に目を通しながら言う。
「さっきそこで拾った。恐らくどこかの考古学者が書いた日記だな。通暦一四五三年って言や、今から三十年近く前だ。中身は今読んだページで終わってる」
だいたい読み終えたのだろうか、ジェイクは満足した様子で手帳を閉じると、こちらへひょいと投げ渡してきた。ジェロディは両手で挟み込んでそれを受け取り、改めて化石のような表紙に目を落とす。
「どうやらそれを書いた考古学者も、最後はここから出られずに終わったみたいだな。でなきゃそんなもんがここに残ってるわけがない」
……確かに彼の言うとおりだ。とすればあそこで山を作っている人骨のどれかが、かつてここへ迷い込んだ手帳の持ち主――。
それでもジェロディは手帳を開き、ジェイクが読み上げたページを探した。もしかしたらどこかに何か、この部屋を脱出するためのヒントが書かれているかもしれない。その希望を捨て切れなかったのだ。
「〝海賊どもの目を盗み、ようやく念願叶って辿り着いた先でこんな目に遭うとは傑作だ。だがここで諦めてはこれまでの苦労が無駄になる。きっとこの部屋にも何かしら、脱出のための仕掛けが用意されているはずだ。そう思い部屋中を隈なく調べたところ、石像の足元に彫られた古代ハノーク文字を見つけた。古代人が私のような間抜けを嘲笑うために残した一文かと思われるが、一応記録として書き残しておく〟……」
脆くなった亜麻紙の最後のページ。ジェロディはそこに辿り着き、ジェイクが読んでいた文の続きを音読した。
そのページの最後には、いくつかの古代文字が記されている。恐らくこれが石像の足元にあるという文字だろう。
かなり短い一文で、これならばジェロディにも解読できる。掠れたインクの跡を凝視し、ジェロディはそれを読み上げた。
「〝イェ・ビオン・トリエド・ベ・ファテ〟」
「どういう意味です?」
「この人の言うとおり皮肉として訳すなら……〝運命の審判を受けよ〟、かな?」
尋ねてきたオーウェンを見上げて、ジェロディがそう答えた、直後だった。
突然部屋の奥から噴き出した閃光に、ジェロディたちは悲鳴を上げる。
――何が起きた……!?
思わず日記を取り落とし、わけも分からぬままジェロディは額に腕を翳した。そうしてわずか開いた瞳が光の中で捉えたのは、部屋の奥に鎮座した石像の異変だ。
壁の窪みにすっぽりと収まり、黙然とこちらを見つめていたはずの石像の目。真っ白な光はそこから放たれ、真昼のようにあたりを照らしていた。
刹那、その石像の外形を青白い光がなぞり、光線が弱まっていく。ほどなく代わりにジェロディたちを包み込んだのは、地震に似た遺跡の鳴動だ。
「な、な、な、何だこれはっ!? い、一体何が起こって……!?」
「あ……! ティ、ティノさま、見て下さい! 石像の足元で、何か……!」
ケリーに支えられながらマリステアが指差した先。床に膝をつくようにした石像の足元――そこでも何かが光り輝いているのを、ジェロディは見た。
ここからでは遠くてよく見えないが、あれは恐らく文字……だろうか?
そう言えば先程の日記にも古代文字の記述があった。石像の足元に刻まれていたという文字。〝運命の審判を受けよ〟。まさか、あれは――。
「……! もしかして、さっきの古代語が合い言葉になって……!?」
いつの間にか床に落ちた日記。
ジェロディがそれに目をやった瞬間、一際大きな揺れが一行を襲った。
ズン、と沈み込むようなその震動は、先程遺跡の壁が下りてきたときのものに似ている。だが今度の異変は壁じゃない。パラパラと細かい砂を振り撒きながら、ジェロディの視界で蠢いたのは――
「お……おいおい、マジかよ……」
隣に立ったオーウェンが呻き、口角を引き攣らせた。再び腹に響く低音。それと共に被った砂を振り落とし、石像がぬっと立ち上がる。
そう。
ジェロディが読み上げた古代語によって動き出したのは、石像だった。
白灰色の石を削って創られたそれはまるで命を得たように、右、左とゆっくり両足を踏み締める。
遺跡の揺れが収まった。
背筋を伸ばした石像が、ぐるりと視線を巡らせる。
頭部で光る二つの目。
妖しく明滅するそれが、ジェロディを――捉えた。