53.考古学者ジェイクの見解
どこへ向かうわけでもなく、黙然と暗い廊下を歩いていた。
自分の足音だけがやけに響く。左手にはどこかの部屋へ通じる扉。右手にはずらりと並ぶ刳り抜き窓。
その窓から吹き込む夜風が、闇の底で蜷局を巻いている。ジェロディの足は、まるでそれに絡め取られているかのように重い。
それでもジェロディはいつの間にか、郷守の居館となっている区画から政庁としての役割を持つ建物の中へと移っていた。
そこは郷庁の一階で、人影はない。役人や地方軍の兵士たちは皆帰ってしまったのだろう。
しかしいくら昼間の騒動の事後処理に追われていたからと言って、窓の戸板も下ろさずに帰るとは不用心が過ぎる。郷庁の中には盗まれたら困るものや見られてはまずいものがたくさんあるのではないだろうか。まあ、だからと言ってジェロディが戸締まりをしてやる義理はないのだけれど。
既に人のいない郷庁では火が消され、明かりと言えば窓辺を濡らす月光しかない。それでも足元くらいは辛うじて見えるので、ジェロディは足を止めない。
――僕は何をやってるんだろ。
時折そんな自問がふと浮かんでくるが、黙殺する。
今はとにかく一人になりたかった。頭の中で渦巻く思考をまとめるためにも、ケリーたちに八つ当たりしないためにも。
(今日のことを知ったら、父さんはどんな顔をするだろう)
これまでひた隠しにしてきた内乱の事実が、ジェロディに知れた。父も息子を軍に入れた時点で覚悟はしていたかもしれないが、状況はきっと彼が想定していたよりずっと悪い。
何せ自分の息子が不正を働いていた郷守に肩入れして、無辜の民を殺戮したのだ。しかもその事実を隠蔽しようとしている。それを今まですべて黙っていた父のせいだと言うのは容易い。でも。
(この国がどこかおかしいと気づく機会なら、これまでだって何度もあった)
八年ぶりにオルランドに謁したあのとき。
その帰りに聞いた将軍たちの会話。
憲兵隊のマクラウドとランドール。
彼らの人事の真相。
竜父に心づけと称して賄賂を送った財務大臣――。
それらを見聞きした時点で、ジェロディは気づくべきだった。この国が既に、自分の思い描いていた理想の王国ではなくなっていることに。
一体何が発端だったのかは分からない。けれどこの国は確実に、ゆるやかに腐敗していた。だから反乱軍などというものが生まれたのだ。でなければこの内乱の説明がつかない。
巷では『救世軍』と呼ばれているらしい彼らはその腐敗にいち早く気づき、武器を取って立ち上がった。力なき民を守るために、かつて大陸の覇者とまで呼ばれたこの国に弓引く道を選び取った。
それに引き換え、自分は一体何をやっているのだろう。ようやく軍人になる夢が叶ったと浮かれ、父のようになるのだと盲進し、結果罪なき民を斬った。現実に気がついたときにはもう遅かった。
『あのガルテリオ・ヴィンツェンツィオの倅も、結局は腐れ郷守の肩を持つのか。黄皇国人には失望したぞ』
昼間反乱軍を率いていた、あのイークとかいう男の言葉が甦る。彼に投げつけられた言葉の意味も、殺意の理由もようやく分かった。失望されて当然だった。
もちろんこの国にはまだ父やシグムンドやファーガスや、ハインツやリリアーナのような人々がいる。
けれどその陰で腐敗が根を伸ばしていることもまた事実なのだ。それはまるで地裂から湧き出す瘴気のごとくじわじわと広がり、多くの民を苦しめている。
(なのに僕は、その間も黄都でのうのうと……)
父に守られ、ケリーやオーウェンに守られ、マリステアたちに守られてぬくぬくと過ごしていた。城壁の外にはたまらず命を投げ出すほど追い詰められている人々がいるなどと、想像を巡らせたこともなかった。
そんな自分があまりにも情けなくて、惨めで――憤ろしい。
何が〝父のような軍人になりたい〟だ。〝祖国の平穏を守る〟だ。
そう言って自分がしたことは何だ。
ジェロディは上着の胸のあたりを握り締めて、足を止めた。
このまま心臓を抉り出し、床に叩きつけてやりたい。そして思いきり罵ってやりたい。お前は無知で愚かな大馬鹿者だ、と。
『おまえらなんか……おまえらなんか、みんな死んじゃえばいいんだ――!!』
少年の慟哭が記憶の中で響き渡る。知らず呼吸が乱れ出す自分に自嘲した。
自分はあの少年から父を奪った。人生を奪った。
――本当に、何をやってるんだ。
後悔と悲しみと怒りで眩暈がする。それらは胸の内でドロドロと混ざり合って、もうどれが何の感情なのだか分からない。
「――コツン」
と、ところがそのとき、物音がした。それは人の足音に似ていた。
はっとして顔を上げれば、コツ、コツ、コツ、と更に闇の向こうから音がする。やはり足音のようだ――近づいてくる。
ジェロディは前方の闇溜まりに目を凝らした。こんな時間に郷庁にいるということは、役人か軍人か?
だがそんなジェロディの予想は見事に外れた。廊下の向こうから現れたのは葉巻を咥えた顎髭の男――考古学者のジェイクだった。
「ジェイク?」
思わずそう呼びかけると、何かに視線を落としていたジェイクが顔を上げる。そこで初めてジェロディの存在に気がついたようで、「げ」とでも言いたげに、彼は露骨に顔をしかめた。
その手には何かの書類がある。何冊かは紐で綴じられているようだ。まさか役人の部屋から持ち出してきたのだろうか? だとしても何のために?
「ジェイク、こんな時間にここで何をしてるんです?」
思わず尋問口調になって、ジェロディは尋ねた。するとジェイクは火のついた葉巻を口から外し、一度ふーっと煙を吐く。
「そういうあんたは何やってんだい、未来の大将軍サマ。お楽しみはもう済んだのか?」
瞬間、ジェロディは勃然と顔色を変えた。ジェイクの言うお楽しみとは言わずもがな、郷守が催した祝勝の宴のことだろう。
だがあんな戦いのあとで、勝利の宴など楽しめるわけがない。ジェイクだってそれは分かっているはずだ。
なのに敢えてそんな言い方をしてくるあたり、彼もジェロディに対してあまり良い印象は持っていないのだろう。きっと昼間の一件が彼の気に障ったに違いない。
「ええ、非常に有意義な宴でしたよ。おかげでここの郷守には改心するつもりが毛頭ないと、はっきり分かりましたから」
「そいつは何より。ところであのメイドの嬢ちゃんから話は聞いたか?」
「聞かなければ良かった、と思ってます」
「聞いたんだな。じゃ、止めてくれるな」
そう言うが早いか、ジェイクは手に持っていた書類を突然足元へ放った。
それを見たジェロディが眉をひそめているうちに、キュポンッとコルクが抜けるような音がする。見ればジェイクが何かの蓋を外していた。彼の手の中にあるのは、小さな瓶のようだった。
その瓶から垂れた液体が、書類の上に広がっていく。何事かと思っていると、ジェイクの手から葉巻が落ちて、書類の山に火をつける。
その段になって、ジェロディはようやく理解した。
ジェイクが書類に垂らした液体は油だ。
葉巻の先端から燃え上がった炎はたちまち火柱のようになり、止める間もなく書類を焼き尽くした。あたりは石の壁と床があるばかりなので燃え移りはしないだろうが、しかしとても正気の沙汰とは思えない。
「ちょ、ちょっと、一体何を……」
「何って、隠滅してるんだよ、証拠を」
「証拠?」
「ああ。ここの郷守殿が改竄した収支の報告書やら帳簿やらその他諸々」
「……!? なっ……何てことを――!」
それは他ならぬ不正の証拠。郷守の汚職を暴くための足がかり――。
その事実に気づいたジェロディは慌てて書類へ駆け寄り、消火しようとした。しかし油を吸った紙の山は既に燃え尽きてしまっていて、ジェロディが消すまでもなく悄々と炎が萎んでいく。
そうして闇が戻ってくると、あとにはその闇を固形化したような燃え滓だけが残された。カサカサ音を立てて揺れたそれは、やがて窓からの風に煽られ吹き飛んでいく。ジェロディは他にどうすることもできず、茫然と残りの灰を見下ろした。
「さて、これで郷守殿の不正を暴く明確な証拠はなくなったな。あとは人の噂が風化するのをただ待つだけ。まあその辺は憲兵隊の皆様方が上手くやってくれるだろ。そういうの得意そうだしな、あの人ら」
「あ……あなたは……あなたは母と同じ学者じゃないんですか? なのにどうして憲兵隊の肩を……!」
「勘違いするな。俺は憲兵隊と仲良くしたいわけじゃない。ただ陛下には昔世話になった恩があるんでね。あんただって黄帝の顔に泥は塗りたくないだろ?」
「だからって、郷守が不正を働いていた事実を隠蔽するって言うんですか。それが本当に陛下の名誉を守るとでも?」
「――ほんと分かってねえな、あんた」
思わず身を乗り出して詰問するジェロディに、ジェイクは呆れた顔で言い捨てた――いや、それは呆れたというよりも、心底失望したような。
そんな気配を露骨に漂わせながら、ジェイクは懐に手を入れる。そこから新たな葉巻を取り出して、おもむろに口に咥えた。
燐寸も常備しているようで、手元からシュッと音がする。暗い廊下に束の間の明かりが灯って、そして消えた。
「あんたさ。もしかしなくても、昼間の件はこの郷区だけの問題だと思ってるだろ?」
「え?」
「んなわけあるかってんだ。話にゃ聞いてたが、ほんと世間知らずのボンボンだな。箱入り娘ならぬ箱入り息子ってか?」
ジェイクの突然の嘲笑に、ジェロディは戸惑った。いきなり侮辱されたことには腹が立つが、それよりも今は、彼の意図を理解できない困惑の方が大きい。
「いいか? 知らねえようだから教えてやるが、今日の昼間あったようなことは、今じゃこの国の日常だ。ここに限ったことじゃねえ。どこの郷区でも民が理不尽に虐げられて、毎日戦々恐々としながら過ごしてる。おまけに魔物や賊の類が増えて治安は最悪、他国じゃトラモント貨幣の価値は下がる一方だ。信頼されてねえんだよ、この国はそのうちまともに機能しなくなるんじゃねえかってな」
「そ、んな……」
「信じられねえか? だったらあんたも町に下りて聞いてみろ。今じゃこれはほとんどのトラモント人の共通認識だ。むしろ知らない方がおかしい。余所者の俺でさえその認識に間違いはねえと断言できるんだからな」
「だけど、それならどうして……」
「国はその危機に対応しねえのかって? 仕方がねえさ、この国はデカくなりすぎた。そのせいでこういう末端の郷区まで陛下の目が行き届かない。おまけに、聞けば陛下のお耳に入る情報を操作してる人間がいるって話じゃねえか。たとえば各地方から上がってくる税金を管理監督してる人間とか」
「それってまさか――ヴェイセル財務大臣?」
「及びそいつからお恵みをもらってる財務官や監査官だな。やつらは郷守どもが法外な税を徴収することを黙認する代わりに、そうして集まった金の一部を受け取ってるって話だぜ。もちろん実態と異なる帳簿が上がってきても知らん顔だ。だから地方の不正が陛下の耳に入らない。ま、仮に入ったとしても、よほどのことがない限り無視される可能性が高いけどな」
「どうして? 陛下は民が悪政に苦しむのを看過するようなお方じゃ――」
「ヴェイセル・ラインハルトはルシーン・メーツ・アシュタラクとつながってる」
「な……」
「というより、ルシーンを陛下に紹介したのがヴェイセル財務大臣閣下だと言った方がいいか? ラインハルト家が急に加増されて詩爵家として取り立てられたのはそのためだと聞いた。つまりヴェイセルの裏の顔が公になれば、当然そんな男が連れてきたルシーンにも疑惑の目が向く。そうなりゃ陛下の面目は丸潰れだ。おまけに――」
「保身に走るルシーン派と、国を粛正したい人たちの間で争いが起こる……?」
ジェロディが半ば独白のようにそう言えば、ジェイクがちょっと片眉を上げた。
それから彼は目を細めて葉巻を吸う。吐き出された煙が闇の中を薄く漂い、ゆらゆらと不安を誘うように揺れた。
「なるほど。さすがにそこまで馬鹿じゃねえようだ」
マリステアあたりが聞いたらたちまち激怒しそうな台詞だ。しかしジェロディは、もはや怒る気力もなかった。体温が冷たい床へ向かって滴り落ちて、顔からも血の気が引いていく。
――国の中枢を巻き込む争乱。
そんなことになったらこの国はどうなる? 少なくともあの反乱軍と呼ばれる者たちは、そこに生まれる大きな隙を見逃したりはしないだろう。
彼らはソルレカランテの混乱に乗じ、攻め込んでくる。いや、あるいは反乱軍ではなく、今も泰平洋を挟んで睨み合いが続くエレツエル神領国がこの地を乗っ取ろうとするかもしれない。
そうなれば遠からずこの国は斃れる。
三百年続いた黄皇国の歴史が否定され、まったく別の歴史に塗り替えられる。
そんな話、信じたくない。
いや、信じる信じないを論じる前に信じられない。
だが財務大臣のヴェイセル・ラインハルトが、不正な手段を用いて竜父に近づこうとしていたこともまた事実――ならばたった今ジェイクが話したことは、多少の憶測が含まれるもののおおよそ事実なのだろう。
何てことだ。
この国はそこまで堕ちていたのか。
ならば国を救うためにはどうしたらいい?
まずは後顧の憂いである反乱勢力を一掃し、それから政治の粛正を図る……?
(だけどそれじゃあ、この国が立ち直るまでとても長い時間がかかる)
その間も民は悪政に喘ぎ、多くの犠牲が出る。反乱軍と戦っている間に、また新たな反政府勢力が出てこないとも限らない。
そうなれば堂々巡りだ。それどころか度重なる戦いで国は更に疲弊していく。
だったら、最も迅速にこの国を変える手段は――
「――黄皇国の打倒と新国家の樹立」
はっと息を飲んで、ジェロディは顔を上げた。見ればジェイクはいつの間にか窓枠に腰を預け、のんびりと葉巻を吹かしている。
「それが反乱軍の目的だ。まあ、国がこの有り様じゃそんな極論に傾くのも無理はねえと思うが」
「……ジェイク。あなたは陛下と反乱軍、どっちの味方なんですか?」
「さあ、俺は陛下に借りがあるってだけで、あんたみたいな家来じゃねえからな。ただ、反乱軍を率いてるフィロメーナ・オーロリーってのはとびきりの美人らしい。そういう意味では反乱軍の方に興味があるかな」
「フィロメーナ・オーロリー……〝オーロリー〟? まさか……!?」
「ああ。フィロメーナはあの有名なオーロリー家の次女らしいな。何て言ったか、父親は天才軍師って噂の……」
「エルネスト・オーロリー。正黄戦争でオルランド陛下を勝利させた、『神謀』と呼ばれる人です」
「あー、そうそう、エルネストさんね。ま、あの人も今じゃ娘が謀反した責任を取ってオーロリー家当主の座を辞去、それきり雲隠れして行方知れずだって話だが」
ジェロディは何だか眩暈がしてきた。ジェイクは元々この国の人間ではないからだろうか、その語り口は淡々としているものの、話の内容がとんでもない。
だって、反乱軍を率いているのがあのエルネスト・オーロリーの娘だって――?
〝オーロリー家〟と言えば、貴族社会に疎いジェロディだってよく知る家名だ。トラモント黄皇国の建国に尽力した軍師エディアエル・オーロリー――かの家はそのエディアエルの末裔だと言われている。
ジェロディの上官であるハインツと同じく、トラモント三大貴族に数えられるほどの歴史と栄誉を誇る家。そんな名家の出身者が、この国を見限った……。
(だとしたらそのフィロメーナという人も、それが民を救う最短の道だと考えたんだろうか……)
ジェロディはフィロメーナという人物に会ったことがない。普通、詩爵家の嫡男ともなれば一度や二度会ったことがあって然るべき相手だが、ジェロディの夜会嫌いは筋金入りだ。
だから彼女の名前も初めて聞いたし、顔も人となりも知らない。けれどジェロディには、彼女の並々ならぬ覚悟が嫌でも分かった。何せ彼女は、自分の先祖が打ち立てた国を滅ぼそうとしているのだから。
「ま、そういうわけだ。これで分かったろ。とにかく今、この郷区の問題を公にするのは得策じゃねえってことが」
「……」
「分かったら今日のことはさっさと忘れて寝るこった。どう足掻いたって、今のあんたにゃどうしようもねえ問題なんだからな」
ジェイクはそう言い捨てると、葉巻の先を窓辺で潰した。そうして最後の紫煙を吐き、腰を上げて歩き出す。
そのジェイクが自分の横を通りすぎていくのを、ジェロディは止めることができなかった。再び訪れた静寂の中に立ち尽くす。
ジェロディはそれからしばらくの間、歩き出すことができなかった。
夜の闇はジェロディの無力さを物語るかのように、次第に深くなるばかり。