52.理想と現実と
郷庁に用意された客間へ戻ると、火熨斗を手にしたマリステアが迎えてくれた。
「あっ、ティノさま! ケリーさんとオーウェンさんも、おかえりなさい!」
どうやらマリステアは火熨斗と火熨斗台を借りてきて、ジェロディたちの服の皺をせっせと伸ばしていたところらしい。それも「着ないだろうけど一応」と持ってきた予備の服を引っ張り出しているところを見ると、やはり昼間の戦闘で汚れた衣服は諦めたようだ。
反乱軍及び一揆衆との衝突からおよそ半日。ジェロディたちが戦闘の後始末に追われる傍らで、マリステアはメイドとしての仕事をこなしていた。
というのも彼女は館の洗濯室を借りて、ジェロディたちの衣服についた血を洗い落とせないかと試行錯誤していたのだ。そのために会食への誘いも断り、あらゆる石鹸や洗濯道具を試して頑固な汚れと格闘していた。
が、やはりあれほど大量の血痕はどうにもならなかったのだろう。彼女はジェロディが予備の服へ向けた視線に気づくと、たちまち申し訳なさそうにしゅんとする。
「すみません、ティノさま……やはりあちらのお召し物は汚れが落ちなかったので、館の方に頼んで処分してもらいました」
「ああ、いいよ。この寒いのに、何刻も冷たい水で作業させてごめん」
「い、いえ! あれはわたしがやりたくてやったことですから……それはそうと、いかがでしたか、郷守さまとのお食事は?」
気遣うようなマリステアの質問を受けて、ジェロディたちは顔を見合わせた。今回ばかりはもはや答えたくもないのかオーウェンが肩を竦め、ケリーも深々とため息をついている。
「ま、大方あんたの予想どおりだよ、マリー。とにかくひどい会食だった。あんたは欠席して正解だったね。でないと今頃娼婦まがいの女に紛れて、ランドールの酌でもさせられてたと思うよ」
冗談にしては生々しすぎるケリーの答えを聞いてマリステアは青褪め、「そ、そうですか……」と口元を引き攣らせた。そんな光景は想像するだけで胸糞悪く、ジェロディも思わず横を向く。
「しかしまあ、わざわざ申し上げるまでもありませんがね、ティノ様。あの腐れ郷守、やっぱり俺たちに何か隠してるみたいですよ。言ってることもいちいち辻褄が合わないし、嘘がヘタクソなわりにだんまりだけはお得意ときた」
「うん。この件は後日、憲兵隊が改めて調査するって言ってたけど……」
「そんなの十中八九揉み消されますよ。ティノ様も見たでしょう、あの郷守がランドールにありったけの媚びを売ってるところを。今頃はすっかり気を良くしたランドールが、郷守に賄賂でもせびってるんじゃないですかね」
「あまり考えたくはないが、私もオーウェンに同感です、ティノ様。そして郷守もあの様子では、喜んでそれに応えるでしょう」
――そうして真実は闇に葬られる。
郷区の農民たちが命を懸けた意味も、反乱軍がそれに力を貸した経緯も、最後は全部うやむやになってなかったことにされていく。
そう考えるだけで、ジェロディは腸が煮え繰り返るようだった。
自分たちは事情も聞かずに一揆衆を殺めた時点で、黄皇国の名を汚すという過ちを犯したのだ。それをこの上、事実の隠蔽という罪を重ねろと言うのか。
そんなことは許されない。郷守や憲兵隊が不正なやり方でこの件を揉み消そうというのなら、それを黙認することは自分も悪事に加担するのと同じことだ。
ならばこちらは、その不正と真実を暴く。少なくとも民が蜂起した理由さえ分かれば、証拠を掴むための足がかりになるはずだ。
「ケリー、オーウェン。たぶんあの感じだと、ランドール隊長はまだしばらく食堂にいると思う。その間に今回の件について、僕たちで調査を進められないかな?」
「お気持ちは分かりますが、ティノ様。それでは上官であるランドールの意向に背くことに……」
「いや、できないことはないんじゃないか? 何せこっちには竜父様がいる。あの方に相談して、真相究明は竜父様のご意向だと言えば、いくらランドールでも偉そうな口は叩けない」
「なるほど……確かにそれも一理あるね。竜父様ならきっと私たちの話にも耳を傾けて下さるだろうし――」
「――あ、あのぅ……それなのですが……」
と、ときに遠慮がちな声が上がって、三人の視線がそちらを向いた。
そこにはちょっと首を竦めたマリステアがいて、彼女は以前、屋敷で高価な壺を割ってしまったときのような顔をしている。
「どうかしたのかい、マリー?」
「え、えっと……実は先程、ティノさまたちが会食に行かれている間に、ジェイクさんが訪ねていらっしゃいまして……」
「ジェイクが?」
「は、はい。それでティノさまに伝言を頼まれたんです――〝農民がこの町を襲ったのは、どうやら郷守が課した法外な税が原因らしい〟って」
「何だって?」
思いも寄らないマリステアの告白に、ジェロディたちは目を丸くした。いや、郷守がそんな重税を郷区の民に課していたことも驚きだが、それ以上にジェイクがその事実を伝えに来たという意図が読めない。
「あの男はどうしてそんな情報をティノ様に……? というか、その話はどこから仕入れてきたんだい?」
「さ、さあ……わたしも詳しいことは分からないのですが、何でもジェイクさんはあのあとお一人で町へ下りて、色々と聞き込みをされたそうです。それで、その……」
「まだ何かあるの?」
「は、はい……それが、ジェイクさんは〝この件はなかったことにした方がいい〟と仰って……ここで余計な首を突っ込めば事態がより悪化する、だから今は見てみぬふりをするのが一番だ、みたいなことも言っていました。要するに昼間この町を襲ったのはあくまで反乱軍で、そこに一揆衆なんていなかった、と、ティノさまにもそう証言してもらいたいみたいです」
「一揆衆はいなかった、だって?」
それはつまり、郷守が悪政を布いていた事実を黙秘しろということか。冗談じゃない、と、途端にジェロディはうなじの毛が逆立つのを感じた。
恐らくジェイクが郷守との会食を断ったのは、町へ下りてその事実を探り当てるためだったのだろう。そしてジェロディたちより早く真相を掴み、騒がれる前に釘を刺したというわけだ。
そこでジェロディは思い出した。そう言えば昼間ジェロディたちがビヴィオの異変に気がついたとき、戸惑うランドールに地方軍を救う利を説いたのもジェイクだった。
あのとき彼はこう言ったのだ。ここで反乱軍を討てばランドールの武名が上がり、郷守にも恩が売れる、と。
もしかしたらジェイクは、そうしてランドールを焚きつけたことを隠したいのかもしれない。悪徳郷守から甘い蜜を吸うために罪なき民へ手を上げた――などということが知れ渡れば、彼の沽券に関わるからだ。
そんなくだらない保身のために、戦場で散った民の命を踏み躙る……。ジェロディにはそれが許せなかった。気づけば体の両脇で握った拳が震えている。
「いや……けどそいつの言うことにも一理あるかもしれないな」
「はあ? オーウェン、あんた本気で言ってるのかい?」
「だってそうだろ? 最近巷じゃ反乱軍を歓迎する声が増える一方、それと敵対する官軍は悪玉扱いだ。そこにこの上、ビヴィオ地方軍が悪政に反発した領民を虐殺したなんて噂が流れてみろ。そんなの反乱軍にご祝儀をくれてやるようなモンだぞ」
「それは……確かにそうかもしれないが……」
「おまけにその地方軍にあのガルテリオ・ヴィンツェンツィオの身内が肩入れしたなんて事実が知れたら、ティノ様はもちろんガル様の名前にまで傷がつく。そうなりゃガル様を信じて大人しくしてるイーラ地方の民も、いよいよ反乱軍に流れ出すだろう。だから、真相を暴けばより事態が悪化するってヤツの言葉も間違いじゃない。結果としてこの内乱を悪化させる可能性があるわけだからな」
苦り切ったような顔でオーウェンが言い、ケリーもそれ以上は口を噤んだ。二人は元々ジェロディの部下である以前にガルテリオの部下だ。だからこそ敬愛する上官に迷惑がかかることを恐れたのかもしれない。
だがそれよりもジェロディはまず、二人が当然のように反乱軍の存在を認めていることに驚いた。何しろジェロディは今日の今日まで反乱軍の〝は〟の字も知らなかったのだ。それはマリステアも同じのようで、困惑の眼差しをケリーとオーウェンへ向けている。
「……ケリー、オーウェン。その前に一つ訊きたいんだけど」
「何です、ティノ様?」
「今の口振りだと、二人はもっと前から反乱軍の存在を知ってたんだよね。そのせいでこの国が今、内乱状態にあることも」
ジェロディが向き直って尋ねると、二人はたちまちばつが悪そうな顔になった。オーウェンの方は目を逸らして頭を掻き、ケリーもまた物憂げに瞼を伏せている。
「だけど僕は今日竜父様の口から聞かされるまで、そんなことはまったく知らなかった。反乱軍が現れて国が混乱している、なんてことになれば、噂は嫌でも聞こえてきたはずだ。なのにそれが一切なかったのは……」
「……ティノ様のお察しのとおりです。屋敷の者や出入りの商人には、反乱軍の名をティノ様のお耳に入れるなと、ガル様から厳しいお達しがありました。当然ながら、私たちもその例に漏れず……」
薄々勘づいてはいた。しかし、それでもジェロディを襲った衝撃は大きかった。
あの父が、黄皇国の現状を自分にはひた隠していた――。
けれど、何故?
真実を知れば自分が傷つくと思ったのだろうか? それとも……。
「で、ですが、反乱軍のことはわたしも今日までまったく知りませんでした。ガルテリオさまはティノさまだけでなく、わたしにもそのことを隠しておられたのですか?」
「ああ。あんたが嘘をつけないことはガル様も重々承知だからね、マリー。もしもこのことを知ってたら、あんた、ティノ様の前で黙ってなんかいられなかったろ?」
「そ、それはそうかもしれませんが……!」
「ガル様はあんたたちに心配をかけたくなかったんだよ。国が内乱状態にあるなんてことが知れれば、ティノ様もあんたも不安になるだろうからね。それに、内乱と言ってもそれを主導する反乱軍はまだそこまで大きな組織じゃない。だからガル様も無駄に騒ぎ立てたくなかったのさ。軍が本腰を入れて乗り出せば、すぐに鎮圧できる程度の火種。そんなもののためにティノ様のお心を煩わせたくないってね」
なるほど。父はこの内乱が比較的早期に収まると思っているわけか。
だからジェロディに明かす必要を感じなかった。ジェロディが反乱軍の存在を知る頃には、内乱などとうに下火になっていると思ったのかもしれない。
けれど、本当にそれだけだろうか?
父は今年、新年の祝賀に関わる行事を終えるとすぐさま領地へ引き返した。理由は西の情勢が不安定で、いつまたシャムシール砂王国が攻めてくるか分からないから――と言っていたが、その問題の根本には反乱軍の存在があったのではないか?
それにジェロディがガルテリオ率いる第三軍ではなく近衛軍へ配属になったのも、内乱を理由に考えれば合点がいく。
つまりガルテリオは、軍人としてまだまだ未熟な自分を戦場に出したくなかったのではないか? だから実戦とは程遠い近衛軍にジェロディを置き、内乱が収束するまで様子を見るつもりだったのではないか――?
(要するに僕は、そんなに頼りないってことか)
内心そう結論づけて、ジェロディは淡く自嘲した。そうだ。その方が遥かに納得がいく。父は反乱軍との戦いからジェロディを遠ざけたかった。だから内乱の事実も隠していた……。
そう考えたらこれ以上ないほど惨めな気分になって、ジェロディは再び拳を握った。指の爪が掌に喰い込む。けれど今はその痛みより、頭の中でガンガン鳴っているものの方がうるさい。
「まあしかし、そういうことなら今回の件はしばらく様子を見た方がいいかもな。あの赤豚野郎の肩を持つようで癪だが、黄都に帰還するまでまだ時間がある。その間に今日の件をどうするか、じっくり考えるってのも悪くないだろ。何なら竜父様方に相談してみてもいいし」
「そうだね……郷守が重税を課していたという裏づけなら、この郷区内にある集落を回ればすぐに取れる。だったら憲兵隊の出方を窺って、それから行動に出ても遅くはないだろう。事を急いてしくじるよりは、その方がずっと――」
「――ごめん。みんなは先に休んでて。僕は少し外の風を浴びてくる」
「……ティノさま?」
そのときオーウェンたちの会話を遮って、ジェロディは身を翻した。すぐに後ろからマリステアの声が追いかけてきたが、今はそれに応えてやれる余裕もない。
ドアノブに手をかけると、ティノさま、とマリステアがもう一度名前を呼んだ。
けれどジェロディは振り向かず、与えられた客間をあとにする。
「ティノさま、お待ち下さい――」
呼び止めるマリステアの声は、扉を閉めて遮った。
まるで誰かの怨嗟のように、闇の中で風が唸っている。