50.彼らの名は
※子供が犠牲になる展開があります。苦手な方はご注意下さい。
正直に言おう。
実を言うとジェロディは、ほとんど黄都を出たことがない。
十年前に勃発した正黄戦争。その際に黄都を脱出し、約二年ほど西のオヴェスト城にいたことはあるが、それだけだ。
国に平和が戻ると再びソルレカランテへ戻り、以降はヴィツェンツィオの屋敷でぬくぬくと育った。
他に黄都を出るような用事もなかったし、城壁の中では豊かな資源も娯楽も安寧も約束されていたから、時折気晴らしの遠駆けや狩りに出かける以外はほとんど街を出なかった。
けれど、だからと言って無知ではない。
ヴィンツェンツィオの屋敷には考古学者だった母の蔵書が山のようにあり、ジェロディは幼い頃からそれらの書物に触れて育った。書斎にある書物のほとんどは古代文明やエマニュエル史にまつわるものだったけれど、だからこそその言葉には馴染みがあった。
――〝一揆衆〟。
それは《神々の眠り》から現在までの約千年間において、度々歴史に登場する。一揆というのは何の身分も持たない平民たちが、為政者の抑圧や不条理に耐えかねて武力蜂起に出ることだ。
ただし蜂起と言ってもそのスケールはいつだって小規模で、だいたい局地的なもので終わる確率が高かった。それがより大規模になり、広域化し、やがて組織立って国に対抗する者たちが現れたりすると〝反乱〟とか〝内乱〟とか呼ばれるようになるわけだ。
だから現在ビヴィオを襲撃している面々が、彼らを〝一揆衆〟と呼んだのは。
(あの人たちは反乱軍とはまた別の、郷区に対して蜂起した人たちってことか――)
丘の町ビヴィオの郷庁前で繰り広げられる大混戦。それを茫然と眺めながら、ジェロディはそんな結論に至っていた。
確かに現在地方軍と戦っている集団は、まともな武装もしていない。武器の代わりに振り回しているのはすべて農具の類で、戦い方も滅茶苦茶だ。
一方その場からは既に撤退しているが、反乱軍と呼ばれた集団は確かに軍隊らしい動きをしていた。つまりビヴィオを襲っていたのは反乱軍と、彼らに軍事的協力を求めた一揆衆だったということか――。
(だとしたら反乱軍はともかく、あの人たちは一般の庶民だ)
それも農具を武器代わりにしているところを見ると、この郷庁所在地を中心とした郷区の農民といったところだろう。
その農民たちが団結して蜂起に踏み切ったということは、少なくともこの郷区の政に何か問題があったということだ。
(それならその理由も質さずに、彼らを殺めるわけにはいかない……!)
そんなことをすればこの町の地方軍の名に――ひいては黄皇国の名に傷がつく。
ジェロディはようやく覚醒した。そうして一揆衆との乱闘を繰り広げる地方軍に対し、ただちに声を張り上げる。
「攻撃中止! 全員、武器を収めて……! その人たちは――」
「うわあああああああっ!」
そのときだった。ジェロディの必死の叫びを遮り、突如横から雄叫びが上がった。
見れば鎧も何も身につけていない男が、鉈を振り上げこちらへ向かってくる。己の血か返り血か、血みどろになった顔の上では見開かれた目だけが異様に白く、狂気を帯びてジェロディの姿を映している。
「くたばれ、腐れ軍人……!!」
男は見るからに正気を失っていた。仲間が次々と地方軍に狩られていく中で、気が違ってしまったのかもしれない。
だがジェロディは、男に剣を向けることができなかった。
――どうすればいい。
そう思ったときには既に、男が目の前で刃を振りかぶっている。
「ティノさま!」
どこからかマリステアの悲鳴が聞こえた。しかしジェロディがようよう剣を持ち上げたときには、もう遅かった。
突然視界に黒い影が飛び込んできて、男をバッサリと斬り捨てる。
ジェロディは目を見開いた。
頽れていく男を前に肩で息をしているのは、黒い外套と長い髪を戦場の熱気に煽られた――オーウェンだ。
「オーウェン……!」
「ティノ様、マリーを連れて下がって下さい! ここは俺とケリーが……!」
無事だったのか。その驚きを口にする前に、オーウェンがジェロディを庇うようにして大剣を構えた。見れば乱戦の中から飛び出してきた男たちが、農具を手に手にこちらへ迫っている。
彼らの形相は決死だ。元より死を覚悟してイークを助けに来たのだろう。
兵学の中には〝死に兵〟という言葉があるが、今の彼らはまさにそれだ。死ぬるために戦場へやってきた戦士たち。
しかしその正体は、何らかの理由で蜂起に踏み切らずを得なかった農民だ。ジェロディはすぐそこに倒れた男を一瞥し、それからオーウェンの背中へ取り縋る。
「オーウェン、待って! 彼らを殺しちゃダメだ! この人たちは……!」
「ティノさま、こちらです!」
ジェロディの制止をみなまで言わせず、駆けつけたマリステアが後ろから腕を引っ張った。マリステアも今は必死なのだろう、普段の彼女からは思いも寄らない力で体を引かれ、ジェロディはそのままたたらを踏む。
その隙にオーウェンは駆け出した。すぐにケリーも合流して、ジェロディへ迫ろうとする男どもをばったばったと薙ぎ倒している。
――ダメだ。ダメだって言ってるのに。
彼らは追い詰められた無辜の民。その彼らを斬り捨てるなんて……!
「おらああああっ!」
瞬間、ジェロディの困惑は背後から聞こえた喊声によって断ち切られた。何事かと振り向けば、ジェロディたちが背にした建物の狭間から、新たに農具を手にした集団が溢れ出してくる。
ジェロディは目を疑った。まさか、他にも農民がいたのか。
彼らは先に飛び出してきた集団と謀ったのかそれともたまたまか、地方軍を挟撃する形で押し寄せてくる――もちろん、逃げ場を失ったジェロディとマリステアにも。
「死ねえええっ!」
「きゃあああ!?」
興奮状態に陥った男に斬りかかられ、マリステアが悲鳴を上げた。その彼女の腕を引き、ジェロディは何とか振り下ろされた鍬を回避する。
だが男は諦めなかった。まるで血に飢えた獣みたいにギラギラした目でこちらを見ると、再び雄叫びを上げて向かってきた。
このままじゃまずい。こっちにはマリステアが。
彼女を守らなくては。
守らなくては。
守るためには――
「……っ!」
土で汚れた鍬が振り下ろされた。ジェロディはその刃の落下地点にいる。
けれども刹那、踏み込んだ。
踏み込みながら、剣を振るった。
視界が一瞬、赤に染まる。
男が驚いたように自分の胸元を見、それからジェロディを見やった。
ほどなく男はゆっくりと、背中から倒れ込んでいく。
あたりには割れんばかりの喊声が轟いているというのに、男の背が地面にぶつかる音が、やけに大きく聞こえた。
「あ……」
ジェロディは茫然と立ち竦み、男を斬り伏せた己の剣を見る。
長年、父と共にこの国を守ってきた剣。
その切っ先が、民の血で濡れている。
「――お父さん……!!」
直後、戦場を貫いたその声に、ジェロディはびくりと小さく震えた。
次いで目を向けた先から、顔中をぐしゃぐしゃにした少年が駆けてくる。
手には短剣。年の頃はジェロディよりももっと下――。
「お父さん、お父さん!! いやだ……!! 死んじゃいやだぁっ……!!」
少年が短剣を投げ出し、倒れた男に取り縋った。男は目を見開いて荒い呼吸を繰り返したあと、少年に何か言おうとしたのか、わずかに唇を歪ませる。
けれどその唇から言葉が紡がれることは、ついになかった。
少年を見つめた男の目が光を失い、濁った硝子玉みたいになる。
慟哭が響いた。
そばかすまみれの少年の顔が、滂沱たる涙に濡れている。
「お父さん……!!」
ジェロディはその一部始終を、茫然と見ていることしかできなかった。
すぐにマリステアに頼めば、水刻の力で彼を癒し、その命を救うことができただろうか?
だが、彼一人の命を救ってどうなる。既にこの戦場では、多くの民が命を落としている。
子供がいるからという理由で、彼の命だけ救うなんてそんなのはエゴだ。
自分の罪悪感を癒すためだけに振り撒く、醜いエゴ。
「よくも……よくも、お父さんを……!」
そのとき朦朧とする意識の底で、ジェロディは怨嗟の声を聞いた。
目をやれば動かなくなった男の傍らで、少年がこちらを見上げている。
幼さを残す大きな瞳。
その奥で憎悪が燃えていた。
――年端もいかない少年に、こんな表情ができるのか。
そう思わずにはいられないほどの、おぞましい顔で。
「おまえらが……おまえらみたいなヤツがいるから……!!」
少年の手が、一度は手放した短剣を掴んだ。
そうして頼りない足取りでふらり、立ち上がる。
刹那、ジェロディは気づいた。少年が穿く粗末な脚衣――膝のあたりまでしか丈のないそれから覗く両脚は、ひどく痩せ細っていた。
なのに踏み出したその一歩は、あまりにも力強い。
まるで憎しみという名の、まったく別の魂を吹き込まれたかのように。
「おまえらなんか……おまえらなんか、みんな死んじゃえばいいんだ――!!」
血を吐くような少年の叫びが谺した。
その足が地を蹴り、まっすぐにジェロディへ向かってくる。
――斬らなければ。
ジェロディの後ろにはマリステアがいる。
彼女を守るためには少年を斬らなければならない。でも。
(そんなの、無理だ)
足が震えた。震えて一歩も踏み出せなかった。
僕には無理だ。
この子は……この子だけは、どうしたって斬れない――
「――えっ……?」
そのときだった。今にもジェロディ目がけて短剣を突き出そうとしていた少年の動きが、不意に止まった。
彼はまるでさっきの父親を真似るように、自分の胸元を見下ろしている。
その視線の先に、赤く濡れながら突き出した銀色の閃きがある。
「な――」
ジェロディは言葉を失った。そうして愕然と立ち竦んでいる間に、銀色がサッと引っ込んだ。
途端に少年が血を吐き、倒れ込む。
たぶん、即死だった。うつぶせに倒れ、血の池に沈んでいく少年の背後には、青い襟つきシャツに革のベストという軽装の男――ジェイクが佇んでいる。
「じ……ジェイク、さん……どうして――」
「俺のことは〝ジェイク〟でいい」
と、赤銅色の短髪を風に靡かせた考古学者は言った。
「危ないところだったなぁ、ジェロディ殿。相手がガキだからって甘く見ちゃいけねえぜ。やつらはこっちを殺す気で来てるんだからよ」
「ど……どうして……」
「あ?」
「どうしてそんな、平気な顔でいられるんです……? あなたは今、こんな小さな子供を殺したんですよ。なのに……!」
「だから何だ? ここは戦場だぞ。命を懸けたやりとりに大人も子供もあるか。殺される方だって当然、そういう覚悟でここに来てる」
ジェロディは冷たい氷の塊で頭を殴られた気分になった。一般的なそれよりやや短い剣を握ったジェイクは、刃についた血を払い、どこまでも無感動に言ってのける。
「戦場にのこのこ出てきておいて、〝殺されるとは思っていませんでした〟なんてバカがいるかよ。アンタがもしそうならすっこんでな。そんな中途半端な覚悟で味方の指揮なんか取られたんじゃ、かえって迷惑だ」
――ったく、これじゃどっちが護衛だか分かりゃしない。
ジェイクは最後にそうひとりごちると、気を削がれたように踵を返した。そうして新たに向かってきた敵を鮮やかに一刀両断し、再び戦場へ消えていく。
ジェロディはなおも茫然と立ち尽くした。
頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
目の前では乱戦が続いている。
不意に、頭上で羽音がした。
巨大な影が降ってくる。ジェロディの傍らに建つ建物の上へ降り立ったその影の主は――竜父だ。
「ジェロディ、どうした? 何故戦わない?」
黄金の翼を掲げ、長い首を傾げて、竜父はこちらを見下ろしていた。
ジェロディはそんな彼を仰ぎ見ると、辛うじて生きている思考力の残りを振り絞り、どうにか言葉を紡ぎ出す。
「竜父様……僕は、どうしたら……彼らは反乱軍じゃない、この郷区に暮らす民です。僕たちは今、その民を虐殺している……!」
「何だって?」
竜父は元々傾げていた首を更に傾げた。けれど彼が見せた反応はそれだけで、事実を知っても取り乱した様子は微塵もない。
「ならば戦いをやめさせるべきじゃないのか、ジェロディ? 君だって黄皇国の民を手にかけるのは本意ではないだろう?」
「それは……」
「私は君の判断に従う。――この戦場の指揮官は君だ、ジェロディ」
そのときジェロディの脳裏で、何かがパチッと火花を上げた。
その火花が呼び水となり、死んでいた脳がみるみる息を吹き返す。
――そうだ。この戦場の指揮官は自分だ。
戦いを止められるとしたら、自分だけ。
なのに何をぼんやりしている。
こうしている間にも一人、また一人と民が命を落としているのに――!
「――ケリー、オーウェン! 戦闘は中止だ! こちらは兵を下げる! その援護を!」
我に返ったジェロディは、ついに駆け出した。マリステアのことは竜父の近くで待たせ、まずはケリーとオーウェンを止めにかかる。
手短に事情を説明し、自分がどうしてほしいのか指示を出すと、二人はすぐに従ってくれた。彼らは乱戦の真っ只中へ突き進み、ジェロディのための道を開く。敵の手からは武器を奪い、味方のことは「下がれ」と押し留めて。
ジェロディもまたその道へ飛び込んだ。頼もしい二人の部下に守られながら、声の限りに絶叫する。
「戦闘、やめ! 地方軍は武器を引け! そのままただちに後退を……!」
「なっ、何だと?」
しかし当然ながら、ジェロディの命令を聞こうとしない者がいた。その筆頭とも呼べるのが、何もしていないのに階級とプライドだけは高いランドールだ。
「おいっ、ジェロディ! きさま、何を寝惚けたことを言っているっ!? 今はこちらが優勢なんだぞ!? なのにどうして兵を下げる必要が……!」
「今はジェロディの指示に従え、ランドール! これ以上無益な血を流す必要はない!」
ジェロディに代わって吼えたのは、屋根の上の竜父だった。これにはランドールも「ひゃっ!?」と身を竦めると、屈辱に震えながらもついに従う素振りを見せる。
そこから先の、一揆衆の撤退は鮮やかだった。というか、その指揮を執るイークの引き際が見事だった。
義民を庇って戦っていた彼は、地方軍の動きが鈍ったと気づくや否や滝のような雷を降らせ、こちらの意気を挫いたのだ。
そうして濛々と立ち込めた砂煙の中、一揆衆は姿を消した。
たぶん、イークの指示に従って退却したのだろう。煙がすべて晴れる頃には、丘の上にはジェロディたちの他、地方軍と夥しい数の死体だけが残されている。
こうしてビヴィオの戦いは幕を閉じた。
多くの犠牲は払ったが、形としては地方軍の勝利だ。
ビヴィオの丘には、戦勝に湧く兵士たちの喝采が谺した。
けれどジェロディの心は鉛でも飲み込んだかのように、ひどく重い。
◯ ● ◯
まったくどうして、できすぎた話だ。
彼らがちょうどかの地を攻めたところへ、少年が竜を駆って現れるだなんて。