04.旅立ち
「それじゃあな、カミラ。俺たちがいない間もちゃんといい子にしてるんだぞ」
うん、と小さく頷いた少女の頭に、青年の温かな手が添えられた。
今日はルミジャフタ郷の若者が儀式のために旅立つ日。森の中に佇む小さな郷の入り口には族長のトラトアニを始め、村中の大人たちが集まっている。
その見送りの人垣の中心には、珊瑚色の髪の少女とふたりの青年がいた。一方は青い羽根飾りを髪から垂らし、もう一方は少女と同じ珊瑚色の髪をしている。
歳も背格好もほとんど変わらぬ彼らこそ、本日郷を旅立つ若者だった。キニチ族の族長トラトアニは彼らの前に立ち、厳めしい顔でひとつ頷いてから言う。
「ではな、エリク、イーク。我ら一同、お前たちの無事な帰りと儀式の成功を祈っているぞ。カミラのことは我々に任せておきなさい」
「ありがとうございます、トラトアニ様」
「うむ。ふたりとも分かっていると思うが、これからお前たちが挑むクィンヌムの儀というのは、今からおよそ七百年前、部族同士の争いが絶えなかったこのグアテマヤンの地を平定し、のちにフェニーチェ炎王国を築いた我らが祖タリアクリの足跡を辿ることを目的としたもので……」
「あーもう! おとうさん、そういうムダばなしはいいから! おとうさんがはなしおわるのを待ってたら、ふたりが郷を出る前に日がくれちゃうよ!」
と、ときにトラトアニの話を遮ったのは、艶のある赤毛を一本の三つ編みにした少女だった。少女はトラトアニのひとり娘で、歳は十になったばかり。
ところが愛娘から神聖な儀式の歴史を無駄話と一蹴されたトラトアニは、たちまち憮然とした表情になる。
「こら、アクリャ。偉大なる聖祖タリアクリの伝説を無駄話呼ばわりとは何ということだ。お前もまた私と同じくかの英雄の血を引いているのだぞ。いいか、そもそもタリアクリが『グアテマヤンの英雄』と呼ばれるようになったのは、彼がコリ・ワカで太陽神シェメッシュの祝福を受け……」
「おい、エリク。族長の話が終わるのを待ってたら本当に日が暮れる。こうなったら今のうちにこっそり出発しちまおうぜ」
「そうだな。トラトアニ様のあの蘊蓄話もしばらく聞けなくなるのかと思うと、少しだけ名残惜しいが……」
うんざりとした口調で言った羽根飾りの青年イークとは裏腹に、エリクと呼ばれた赤髪の青年はちょっとだけ残念そうに、喋り続けるトラトアニを一瞥した。
が、その彼も旅立つ前に日が暮れてしまうというイークの言い分には同意せざるを得なかったようだ。エリクは気持ちに区切りをつけるように息をつくと、自分と同じ珊瑚色の髪の少女──妹カミラの前に膝をつく。
「カミラ。お前にはしばらくのあいだ寂しい思いをさせてしまうが、俺たちは必ず立派な戦士になって帰ってくる。それまで信じて待っててくれるな?」
「お兄ちゃん……絶対、絶対帰ってくるよね?」
「ああ」
「約束だよ。しばらく会えない間に、私のこと忘れちゃったらやだよ」
「俺がカミラを忘れるわけがないだろ。お前は俺のたったひとりの家族なんだから」
大きな空色の瞳いっぱいに不安を湛えている少女に、エリクは屈託なく笑いかけた。そうして最後に一度だけ優しく妹を抱き寄せる。今にも泣き出しそうな彼女をあやすように。
「じゃあな、カミラ。行ってくる」
「うん……いってらっしゃい、お兄ちゃん」
カミラは大好きな兄の胸に顔をうずめて言った。見送りの声はすっかり潤んでしまっていたが、カミラはぎゅっと眉を寄せ、決して泣きはしなかった。
そんなカミラの髪を愛おしそうに撫でやって、エリクは静かに立ち上がる。
トラトアニの蘊蓄はまだ続いていた。しかし今や彼の長話にも慣れ、笑顔で聞き流すことを覚えた郷の者たちに見送られ、エリクとイークは旅立っていく。
カミラはその背に手を振った。
いつまでもいつまでも、無心に手を振り続けていた。
あれから三年。
あの日肩を並べて旅立ったふたりの青年は、未だ帰郷を果たしていない。