47.お世話係の名に懸けて
城での一部始終を話して聞かせると、マリステアは跳び上がって喜んだ。
「すごいじゃないですか、ティノさま! 仕官からこんなに早く勅命をいただけるなんて!」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
対するジェロディは歯切れが悪い。でもマリステアは興奮気味で、そんなこと気づいてもいないみたいだ。
そこはヴィンツェンツィオ屋敷の二階、西側の部屋。普段自分が寝起きしている天蓋つき寝台のすぐ傍で、城から戻ったジェロディはマリステアに着替えを手伝われていた。
調練で埃に塗れた軍服は脱ぎ捨て、家用のゆったりした衣服に袖を通す。今は通路を挟んだ向かいの部屋でメイドたちが入浴の準備をしてくれているから、それまでの仮の衣服だ。
遠くから聞こえてくるのは、蒼神の刻(十六時)を告げる教会の鐘。しかし窓の外はもうすっかり暗く、粉雪がちらついていた。
ジェロディが城での謁見を終えて帰邸したのは、今から半刻(三十分)ほど前のこと。憲兵隊副隊長ランドールを筆頭としたクアルト遺跡調査隊は、明日の泰神の刻(七時)には出発するという話だったから、準備に割ける時間はもう幾許も残されていなかった。
おかげで一緒に戻ったケリーやオーウェンは支度のために奔走している。だから本当はジェロディも、のんびり湯が溜まるのを待っている場合じゃないんだけど。
「お教えしたら、ガルテリオさまもきっとお喜びになりますよ。何せ遺跡の異変調査なんて重要な任務に加えて、竜父さままでご一緒だって言うんですから。それってつまり、陛下がそれだけティノさまを信頼して下さってるってことですよね?」
「うん……いや、でも、そうとも限らないって言うか……むしろ信頼されていないから、値踏みするために任命された可能性も……」
「何を仰るんですか! あのガルテリオさまとアンジェさまのお子さまであるティノさまを、陛下がお疑いになったりするはずないでしょう? ティノさまが近衛軍に入ることができたのだって、陛下のお許しとご信頼があったからですよ。そうでなくっちゃ、陛下だってまだ成人したてのティノさまに、ご自分の命を守る近衛軍の一隊を任せようなんてお思いにならないはずです」
それだけティノさまは期待されているということですよ、と後ろから無邪気な声がして、ジェロディは「うん……」と曖昧な相槌を返す他なかった。そうするうちに、マリステアが淡い金地の腰帯をジェロディの腰へ回してくる。
彼女の白い手はいつもよりテキパキ動いて、それが心の浮き立ちを表していた。けれどもジェロディは、
(そんな単純な話じゃないんだよな……)
と、思わず零れそうになるため息を飲み下す。
「――やはりただの任務じゃなかったか」
オルランドとの謁見ののち、足を向けた近衛軍の将校執務室。そこで独白のようにそう漏らしたのは、執務席に腰を下ろしたハインツだった。
黄帝が起居するソルレカランテ城の奥――皇居とか後宮とか呼ばれるその場所に、近衛軍将校の執務室はある。奥とは言っても前宮と後宮の繋ぎ目みたいなところだが、そんな場所に執務室を持てるのは近衛軍士官の特権だ。
普通、それ以外の軍に属する者は特別の許可がない限り、後宮へ続く扉をくぐることはできない。ましてや近衛将兵のように帯剣したまま皇居への立ち入りを許される者など、オルランドの信頼厚いガルテリオや同じ皇族のリリアーナくらいだろう。
そんな後宮の入り口を守る近衛軍執務室の中でも、ハインツのそれはちょっと殺風景なほどサッパリとしている。どうも彼はおおらかに見えて意外と几帳面なようで、仮漆のきいた執務机の上には一枚の書類もなかった。
けれどもその上に落ちたハインツの眼差しはどこか深刻で、ジェロディはますます不安が募る。先の謁見で憲兵隊との合同任務を言い渡されたジェロディは、それをまず真っ先に上官へと報告したのだ。
「ただの任務ではない――ということは、やっぱり今回のような任務は異例だということですか」
「ああ、いや、今回トンノから報告があったような未確認情報の調査というのは、軍の仕事として稀にある。だがそういう任務は大抵、当該地域の地方軍または中央軍が負うものだ。今回の例で言えば、トンノ地方軍にはピエタ島で海賊と会戦するだけの軍備がないから黄都に話が来たというわけだが、だとすれば本来調査に当たるのは中央第一軍であるべきであって、管轄外の憲兵隊が派遣されるというのは不可解極まりない」
「つまり、この話には何か裏があるってわけだ」
ハインツの説明を引き取ってそう言ったのは、ジェロディの後ろに佇んだオーウェンだった。ジェロディが謁見から戻るとすぐに人払いがされたので、そのとき室内にいたのはハインツとジェロディ、そしてケリー、オーウェンの四人だけだ。
きっとハインツはジェロディが特命を受けると聞いたときから、こんな事態になることを何となく予測していたのだろう。彼がじっと何か考え込んでいるのを見たジェロディは黙っていられなくて、間を置かず口を開いた。
「ひょっとして今回の一件は、数日前、僕がマクラウド隊長に刃向かってしまったことと何か関係があるのでしょうか?」
「いや、そこまでは分からないが……ここだけの話、ルシーン様が陛下に何か入れ智恵をしたことだけは確かだろうな。それもあまり歓迎できない悪智恵だ。でなければ憲兵隊がこんな任務に出張ってくるわけがない」
「そこにティノ様が加えられてるってのが何ともキナ臭いね。ルシーン様は憲兵隊を使ってティノ様に何か仕掛けるつもりか……?」
「仮にそうだとすれば、あの方が最も望んでいるのはガルテリオ将軍の失脚でしょう。あるいは任務中にわざと不祥事を起こして、その責任をジェロディになすりつけるつもりかも知れない。まあ、今回の任務には竜父様も同行されるということなので、よほどの隙がない限りそのような真似はできないと思いますが……」
「――呼んだかい?」
と、そのとき突然背後から声が聞こえて、ジェロディたちは固まった。今は自分たち四人しかいない――と思っていた空間に突如響いた五人目の声に、ジェロディは聞き覚えがある。
まさか、と思って振り向くと、そのまさかだった。
ジェロディたちの背後には、いつの間にか竜父が佇んでいた。
彼はやけにたっぷりとした長衣の袂に手を差し入れ、にこにこと機嫌良さそうにしている。それを見たジェロディたちは即座に竜父へ向き直り、直立不動の姿勢になった。これにはハインツも革張りの椅子から腰を浮かしている。
「りゅ、竜父様!? どうしてこちらに……!?」
「いやぁ、何か私のことが話題に上っていたようだったから気になって。我々竜族というのはいわゆる〝神の耳〟でね。竜の谷には〝竜騎士謗れば竜が来る〟って諺があったりするんだけど、知らないかな?」
「い、いえ、そういう意味でお尋ねしたのではなく……」
「うん? ああ、じゃあどうして私が城内をうろついてるのかってことかな? それはひとえにオルランドのおかげだよ。彼からは〝この城の中では自由にくつろいでくれて構わない〟って言質をもらっているんでね」
――それって一人で城内をうろうろしていいってことではないと思うのですが……とはさすがに言えず、ジェロディはつっこみたい気持ちをどうにかこらえた。どうもこの当代竜父は飄々として掴みどころがない。口にこそ出さないが、これが本当に竜父なのか? と疑問に思ってしまうほどだ。
ジェロディは十年前に彼と会っているというが、残念ながら当時の記憶はあまりなかった。竜という巨大で美しい生き物の姿こそ脳裏に焼き付いているものの、人の姿を取った彼らの記憶は水で薄められたように希薄だ。
だからこのどことなくお気楽でのほほんとした調子の人物を〝竜父〟だと言われても、いまいち実感が湧かない……というか納得がいかなかった。
だって竜という生き物はもっと厳かで誇り高く、下界の人間と親しく交わるような種ではないと思っていたから。
「まあ、そういうわけだから君たちもどうか気兼ねなく。私はここに文字どおり翼を伸ばしに来たのでね。あんまり畏まられるとくつろげないから、公衆の目がないところではごく気安く接してほしい」
「は、はあ……」
「ところで、そちらにいるのはハインツじゃないか? しばらく見ない間に見違えたね」
「は。ご記憶賜り光栄です、竜父様。大変ご無沙汰しております」
「こうして会うのは正黄戦争以来か。あの頃はガルテリオの下にいたと思ったが、君も出世したんだね。弟のセドリックも元気にしてるかい?」
「はい。おかげさまで兄弟共々、息災な日々を過ごさせていただいております」
「コンラートのことは聞いたよ。痛ましい事件だったね」
流れるような口調で竜父が言い、瞬間、わずかに頭を下げたままのハインツが口ごもった。それはほんの束の間の沈黙だったが、彼はやがて顔を上げると、いつもと同じ朗らかな笑顔で言う。
「お言葉、痛み入ります。亡父のことまでご記憶いただいていたとは、光栄です」
「うん。彼のことはオルランドも心を痛めていたから。でも、その君になら頼めるかな」
「と、仰りますと?」
「実はさっき、何とかという人から使いが来てね。もししばらく黄都に滞在するようならぜひご挨拶させていただきたい、と言われたんだけど、明日には例の任務に就くし断ったんだよ。そうしたらせめてものお近づきの印にってこんなものを渡されてね」
言って、竜父は長い袂をごそごそとあさると、やがて取り出した何かをハインツへ手渡した。それはジェロディの掌にも収まりそうな、小さな羅紗の袋だった。
ところがその袋がハインツの手に乗った途端、チャリ、と微かな音がする。
金属と金属が触れ合う音――それを聞いた刹那、居合わせた全員が顔色を変えた。
聞き間違いでないのなら、今のはたぶん、硬貨と硬貨が触れ合う音、だ。
「気持ちは有り難いんだけどね。こういうのはちょっと困るというか、我らの谷では無用のものだ。それを強引に押しつけられても、こちらは持て余してしまう。だから鄭重にお返し願いたいんだが」
「も……申し訳ございません。我が国の者が、大変ご無礼つかまつりました。ちなみに、こちらを届けに来た者の名をご記憶ですか?」
「うーん、名前は覚えてないなぁ。ただナントカ大臣……そう、ナントカ財務大臣のところから来たと言っていたような」
「財務大臣……ヴェイセル・ラインハルト卿ですか」
受け取った袋を握り締めて、ハインツは苦い顔をした。ラインハルトと言えば彼と肩を並べるトラモント三大貴族の家の名だ。
しかも現財務大臣のヴェイセルと言えば、他でもないラインハルト家当主のはず。それくらいは貴族嫌いのジェロディでさえ知っている。
その財務大臣が、独断で竜父に接触し金を手渡した……。
つまりあれは賄賂ということか?
けれど何故それを竜父に? 何のために――?
「畏まりました。それではこちらは、私から財務大臣閣下にお返ししておきます」
「うん。そうしてくれると助かるよ。それにしてもこの国は変わったな。以前はこんなにつまらない人間ばかりじゃなかった。私はまだ七十年くらいしか生きていないが、それでもこの国が変わってしまったことは肌身で感じるよ。昔はこの城の空気もこんなに淀んじゃいなかった」
「耳の痛いお言葉です。そのお言葉が、陛下にも届けば良いのですが」
「届いているさ、オルランドには。彼は彼の父や叔父のように愚かではない」
そう言って竜父は黄金の瞳を細め、うっすらと笑ってみせた。けれどもその瞳が動き、ふと視線を向けられてジェロディはぎょっとする。
微笑みの形を作った竜父の双眸には、しかし本当の笑みなど浮かんではいなかった。
そこにあるのは祈りか、諦念か。それでいて何かを訴えかけるような眼差し。
けれども竜父とほとんど初対面に近いジェロディには、その眼差しの真意を汲み取ることができなかった。ただ困惑のうちに立ち尽くしていると、やがて竜父の方がくるりと体ごと向き直ってくる。
「それはそうと、明日からはよろしく頼むよ、ジェロディ。私も君には期待している」
「あ、ありがとうございます。そのご期待に背かぬよう、全身全霊を賭して任務をまっとうする所存です」
「うーん、やっぱり堅苦しいなぁ。そんなに肩肘張らなくたっていいじゃないか。人間も竜も、気負いすぎると疲れてしまうのは一緒だろう? だったらもう少し肩の力を抜いても罰は当たらないよ。この私のようにね」
「――竜父様は力を抜きすぎです」
そのときだった。笑顔の竜父の後ろから突然鋭い声が上がって、ジェロディたちは再び固まった。
それは若い女の声だったように思う。けれどジェロディの知らない声だ。――誰だろう? ずいぶん棘のある声だったけど。
ところが竜父の方はさして驚いた様子もなく、それでいて背後を振り向こうともしなかった。ただ何を思ったのか軽く己の耳を叩いて、
「おや、いけない。私も疲れているのかな。何だか幻聴が聞こえた気がする。せっかく秘密裏に谷を抜け出してきたというのに、こんなところでまでアマリアの小言を聞くなんて、ぞっとしない冗談だよ」
「そんなに小言を聞きたくないのなら、少しは歴代の竜父様を見習ってはいかがです? 少なくとも先代竜父様は、出発の日取りを偽って騎士を谷に置いたまま、こっそり砦を抜け出したりはしませんでしたよ」
「とは言っても、私は先代の竜父を知らないからなぁ。見習おうにも、言葉を交わしたこともなければ顔を見たこともない相手じゃどうしようもない」
「竜父や、得意の屁理屈を捏ねるのもそのあたりにしておくことじゃ。さもないとこの母でも仲裁しきれぬ事態になるぞえ」
次いで聞こえたのは何とも艶めかしい、妙齢の女性の声。
その声に窘められると、さすがの竜父も観念したように肩を落とした。そうして彼が身を翻した先に――見たことのない二人組の女性がいる。
一人はジェロディと同じくらいの身の丈の、軽鎧をまとった小柄な女性。
もう一人は雪を被った峰々のように波打つ銀髪の、長身の女性。
歳は前者が二十代半ばくらいで、後者が一回り上くらいだろうか――否。そんな予想を立てかけて、ジェロディは即座に自分の思考を否定した。
何故なら小柄な女性の方は、竜の頭を模した珍しい兜を被っている。竜頭兜と呼ばれるそれは、他ならぬ竜騎士の証だ。
加えてもう一人の女性に至っては、額に美しい青の宝石が嵌まっていた。
つまり竜父の後ろから現れたこの二人は竜と竜騎士――人間の常命とはかけ離れた寿命を持つ、竜の谷の住人だ。
「これは竜母様。それに『翼と牙の騎士団』団長のアマリア殿まで……」
「お久しぶりです、ハインツさん。この度はウチの竜父がお騒がせしたみたいですみません」
ハインツが上げた驚きの声にハキハキと、それでいてにっこり応えたのは小柄な女性の方だった。たぶん彼女が〝アマリア〟だろう。ハインツの言葉どおりなら、彼女はツァンナーラ竜騎士領を守る唯一の騎士団『翼と牙の騎士団』の団長ということになる。
だがジェロディは、彼女の振り撒く満面の笑みに戦慄した。さっきの竜父ではないが、アマリアと呼びかけられた女の笑顔は笑顔なのに笑顔じゃなかった。
たぶん、彼女は憤怒している。笑いながら憤怒している。その証拠に、彼女の手中では黒くて太い縄のようなものが引っ張られ、パシン!と音を立てていた。もしかしてあれが先程竜父の言っていた〝黒鉄蔓〟というやつだろうか?
だとすればその憤怒の対象は言わずもがなだ。
ジェロディがふと視線をやると、案の定と言うべきか、竜父は部屋の主として応対に出たハインツの背にサッと隠れていた。
……あれが本当に竜の王なのだろうか?
本日何度目になるとも分からない問いが、ジェロディの頭を占拠する。
「母上~、到着が早すぎますよ……愛する我が子の自由のために、もう少し時間を稼いで下さっても良かったのでは?」
「すまんの、竜父。しかしアマリアが本気で怒り狂えばもはやわらわの手には負えん。契約者のいないおんしと違って、わらわは血の契約を交わした者と感情が同期してしまうのじゃ。それはおんしとて知っておろう」
「それはそうですけど……」
と、しっかりハインツを盾にした竜父は子供のように口を尖らせている。彼が母上と呼んでいるのはあの銀髪の女性だ。だからハインツは彼女を竜母と呼んだのか。
数百年に一度、竜の谷に生まれるたった一頭の雄竜。次代の王となるその竜を生み落とした雌竜は〝竜母〟と呼ばれ、谷中の竜たちから敬われる。そして竜母となった雌竜を駆る竜騎士は、谷を守る『翼と牙の騎士団』の団長となる――そんな話はジェロディも知っていた。
だからそれは即座に理解できたのだが、一部理解できないこともある。
何が理解できないって、竜母と呼ばれたあの雌竜の服装だ。
竜母はその白い肌、額の竜命石、側頭部からわずか覗いた銀の鱗と立派な角――は竜父とほぼ変わらないのだが、服装についてはまったくの正反対だった。何がどう反対なのかというと、裾を引きずるくらい長い衣をまとっている竜父とは裏腹に、とんでもなく露出が多かった。というか、ほとんど服を着ていなかった。
あれってもう服を着ている意味がないんじゃないだろうか? と首を傾げたくなるくらい、竜母の体を覆う布地は少ない。下手をしたらジェロディの頭ほどあるかもしれない大きな胸と、下半身の一部分と、両手両脚の先の方だけ。
そこに白い布が当てられている……というか、申し訳程度にぶら下がっているだけで、たぶん屈んだり反り返ったりされたら色々見える。
何がどう見えるのかは具体的には言えないが、とにかくあの服装はまずい。直視できない。直視したら、何か大切なものが音を立てて切れる気がする。もしくは、崩れ去るか失われるか。
「――もし、ときにおんし」
ところがそう思って顔を背けた矢先、いきなり両頬を挟まれてグギッと正面を向かされた。痛みと驚愕で悲鳴を上げたつもりが、声は唇から零れる前に再び喉を転がり落ちる。
何故なら顔を向けられた先には、問題の豊満な丘陵があった。
ジェロディと竜母の身長差では、どうしてもそうなる。竜父もそうだが、竜という一族は人の姿を取ると得てして高身長になるものなのか。
だとしてもこれは近い。近すぎる。ちょっと離れて下さい、と言いたいところだが、早くも喉がカラカラに乾いて声が出ない。
そんなジェロディの顔を、竜母が何か物言いたげな顔でジッと覗き込んできた。
ああ。額の宝石と同じ、美しい青の瞳だ。まるで宵の空を星ごと閉じ込めたみたいで、ずっと見つめていると意識を吸い込まれそうになる。
だけどやっぱり近い。このままだと唇と唇が触れる。というか、向こうは背の低いジェロディを上から覗き込む形になっているので、なんというかその、要するに――谷間が。
「おんし、もしやティノ坊かえ?」
「ハ……」
「ガルテリオの倅の、ティノ坊ではないかえ?」
「ハ……ハイ、そう、です……」
「ほう、やはり。ほんの十年見ぬ間にずいぶんと大きくなったのう。しかしこれはまた穢れなき魂を持っておる。――なるほど、行く末の楽しみな男子よの」
竜母はそう言って瞳を細めると、熟れたように赤い唇に笑みを刻んだ。
そこからハインツの執務室を辞すまでの記憶がちょっと怪しいのだが、たぶん意味が分からないなりに「ハイ、ガンバリマス」とか「ゼンショシマス」とか何かしら当たり障りのない返事はしたような気がする。
「……」
そこでようやく一刻前の記憶から帰還したジェロディは、額を押さえて首を振った。思い出さなくていいことまで思い出してしまったせいか、頭が痛い。あと自己嫌悪がひどい。
しかしそれはそれとして、自分は明日からあの竜父竜母と行動を共にしなければならないのか。そう思うと何だか気が遠くなってきた。
もしかするとこれは憲兵隊のランドールの相手をするより難儀なことかもしれない。まだふたりの竜に出会ったばかりだが、これまでジェロディの中にあった気高く触れ難き生き物という竜のイメージは早くも崩れ去りつつある――さすがは〝奔放〟の代名詞・自由の神が創り給うた一族と言うべきか。
「ティノさま? どうかなさいましたか?」
そうして落胆とも徒労感ともつかぬ感情の沼に嵌まっていると、脱ぎ終えた衣服を抱えたマリステアが不思議そうに尋ねてきた。
けれどもジェロディはぐったりしたまま「何でもない……」と答えを返す。とにかくマリステアはジェロディに勅命が下ったことを喜んでくれているのだから、余計なことを言って不安にさせる必要はないだろう。憲兵隊のことも、自由極まりない竜たちのことも。
「それはそうと、マリー」
「はい、何でしょう?」
「やっぱり直らないね、その呼び方」
「え?」
「〝ティノさま〟って、僕のことずっとそう呼んでるだろ。ケリーとオーウェンもそうだけど」
「あ」
言われて初めて気がついた、とでも言うように、マリステアはその場に固まった。かと思えば彼女はみるみる頬を赤くして、あたふたと意味もなく手を振り始める。
「も、も、も、申し訳ありません……! わたしったら、ついうっかり……!」
「いいよ、僕もその方が呼ばれ慣れてるし。改めて〝ジェロディさま〟って呼ばれるのも何だかくすぐったいというか、ちょっと抵抗があるしね」
「で、ですが、せっかくアンジェさまが遺して下さったお名前ですもの。早く改めた方がよろしいですよね……」
「それを言うなら〝ティノ〟だって母さんがつけてくれた名前だよ。幼名としてはありふれた名前だけど、僕はそっちも気に入ってる」
「そ、そうですか? それじゃあもうしばらくの間だけ〝ティノさま〟ってお呼びしても構いませんか……?」
「ああ、構わないよ。ケリーやオーウェンも、どうせすぐには直らないだろうしね」
ジェロディが手近な椅子に腰掛け、笑いながらそう言うと、マリステアもぱっと顔を明るくして微笑んだ。
ジェロディは昔から彼女のこの笑顔に弱い。マリステアも新年を迎えて齢十九になったというのに、そのそそっかしい性格とあどけない笑顔だけは幼い頃と変わらない。
そして今日までジェロディは、そんなマリステアの存在にずっと支えられてきた。嬉しいときも悲しいときも――楽しいときも苦しいときも、いつも傍にいてくれたのは他の誰でもない、彼女だから。
「だけど、ちょっとだけ楽しみですね。大事な任務なのにこんな言い方をしたら不謹慎かもしれませんが、古代文明の遺跡を探検できるだなんて」
「ああ……それは、確かにそうだね。クアルト遺跡のことは母さんの論文を読んで知ってはいたけど、実物を見られる機会なんてないと思ってたから」
「わたしも昔、アンジェさまから色んな遺跡を冒険したお話を聞いて、一度でいいから行ってみたいと思ってたんです。一体どんなところなんでしょうね」
「え?」
「はい?」
そこで二人の間を流れる時が静止した。ジェロディは背凭れ椅子に腰かけたまま唖然とマリステアを見つめ、そんなジェロディをマリステアもきょとんと見つめ返してくる。
「い、いや……マリー? まさかとは思うけど、君……今回の任務についてくるつもりじゃないよね?」
「え……? わたしもお供できるのではないのですか……?」
「だ、誰かにそう聞いたのかい?」
「いえ、そうじゃありませんけど、マリステアはティノさまのお世話係です。でしたら当然、任務であってもティノさまのお傍にいるべきですよね?」
ティノは再び額を押さえた。頭の奥から頭痛がぶり返してくるのを感じつつ、待て、待つんだジェロディ冷静になれ、とどうにかこうにか自分を抑えた。
だって今の口ぶりからして、マリステアは本当に自分も任務に同行できるものだと信じきっている。それが揺るぎないこの世の摂理だと、たった一つの真実だと言わんばかりの一途さで。
だけど普通に考えて、軍属でもない彼女を軍の任務に同行させられるわけがない。というかそもそも士官が任務に執事やメイドを伴うなんて、古今東西一度も聞いたことがない。なのに何故マリステアは、自分も共に行けると信じてしまったのか。
(僕も人のことを言えないくらい世間知らずだって自覚はあるけど……)
マリステアはそんなジェロディの世間知らず度とでも呼ぶべきものを、易々と飛び越えていってしまった。まるで羽でも生えたかのような軽やかさで。
「いや、その、マリー……気持ちは嬉しいんだけど、やっぱり軍属でもない君を任務に連れていくことは……」
「ま、まさか……できないのですか……!?」
「うん……まさかも何も、できるわけないよ」
「で、ですが、マリステアはティノさまのお世話係です! わたしがお供しなかったら、ティノさまの日頃のお世話は一体誰が……!?」
「それはその、僕ももう成人したんだし、自分のことは自分で……」
「そ……!! そ、それはつまり、マリステアはもう用済みということですか……!?」
「えぇ……!?」
どうしてそうなる、とつっこみを入れたいところだったが、マリステアは一度こうなるともうダメだった。彼女はジェロディの衣服を力一杯抱き締めるや、ふるふると震えて瞬く間に涙を溜めていく。
――ああ、まずい。このままじゃ決壊する。何がってマリステアの涙腺がだ。
マリステアはこのとおり思い込みが激しい上に、とかく涙脆い。ちょっとしたことでも一度泣き出すとぽろぽろぽろぽろ泣き続けて当分は泣き止まない。
更に厄介なのは、泣き始めると大抵の場合ジェロディの前から脱兎のごとく逃げ出すことだ。泣き顔を見られたくないとか落ち着くまでそっとしておいてほしいとか、そんな理由で。
だからここで何とか彼女を説得しないと、ジェロディはまた誤解を解くためにマリステアと屋敷中を走り回ることになる。新年早々そんなのは御免だ。ましてや彼女を――マリステアを無意味に泣かせたくない。
「い、いや、マリー、聞いてほしい。僕は君のことを用済みだなんて思ってないし、これからも君が必要だよ。だけど僕も軍人になった以上、公私の区別が必要なんだ。それに今回の任務は、海賊のいる島に乗り込むっていう危険なものだし……」
「で、ですがわたしには水刻の力があります。ケリーさんやオーウェンさんみたいに戦うことはできなくても、神術でお役に立つことはできます。そ、それにわたしは、危険と分かっているからこそティノさまと一緒に行きたいのです。マリステアはアンジェさまとお約束したのです。この先何があっても、ティノさまのことはマリステアがお守りしますと……!」
頼りなく震えた涙声で、しかし叫ぶようにマリステアは言った。その常磐色の瞳も涙で潤んではいるものの、奥に宿る決意や覚悟まで滲んではいない。
――アンジェとの約束。
その言葉を聞いて、ジェロディは少し胸を衝かれた。
そうか。マリーは母さんと別れたあの日の約束を、まだ……。
正黄戦争勃発の日。偽帝軍に囲まれたこの屋敷で、アンジェは幼いジェロディを義姉であるマリステアに託した。もちろんマリステアだって、当時はまだ十歳にも満たない子供だった。
だけど彼女は誓ったのだ。命懸けで自分たちを逃がそうとする継母に。
そしてその誓いどおり、マリステアは今日までジェロディを守り続けてきた。共に黄都を脱出したあの日から、片時も傍を離れずに――。
「ですから……ですからティノさま、お願いです。無理を承知で、どうかわたしも一緒に――」
「分かったよ」
「え……?」
「さすがにこの件は僕の一存じゃ決められないけど、明日、出発の前にランドール隊長に掛け合ってみる。それでもし許しが出たら一緒に行こう。その代わり、軍の規律に照らしてダメだと言われたら、そのときは聞き分けてくれるね?」
ジェロディがまっすぐに見つめてそう言えば、たちまちマリステアの表情に笑顔が戻った。
彼女は笑いながら泣くという器用な芸当をしてみせながら、何度も首を縦に振る。その瞳の端から零れる雫と、それを拭う指先の白さが、何だか妙に眩しかった。
「ありがとうございます、ティノさま……! たとえどんなに過酷な任務でも、マリステアは粉骨砕身、必ずお役に立てるよう頑張ります……!」
「まだ一緒に行けると決まったわけじゃないけどね。まあ、だけどそのときは、頼りにしてるよ、マリー」
「はい……!」
同行を許されたことがそんなに嬉しかったのか、マリステアはまるで宝物を探し当てた子供みたいに微笑んだ。
――これじゃどっちが年上か分からないや。
そう思いながらもジェロディは自覚している。自分がマリステアには特別甘いってことを。
(これじゃまたケリーにからかわれるな)
なんて内心苦笑しつつ、ようやく椅子から腰を上げた。
さて、それじゃあ甘んじてそのからかいを受けに行こうか。
裏にどんな思惑があろうとも、明日は記念すべきジェロディの初任務だ。