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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第2章 ジェロディという少年
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45.閃鬼セレスタ

 その瞬間、ジェロディの視界からセレスタが消えた。


 何だ、と思ったときには、彼女の灰薔薇色の髪がジェロディの懐にある。


 見下ろした先で、姿勢を低くしたセレスタと目が合った。

 感情の窺えぬ切れ長の瞳。

 それが一瞬ギラッと光ったような気がして、とっさに仰け反ったジェロディの睫毛の先を銀の軌跡が掠めていく。


「――っ!」


 ジェロディは瞬時に後ろへ跳んだ。そうしなければすぐにセレスタの二撃目が来て、今度こそ真っ二つにされる未来が見えていたからだ。

 いや、もちろんこれはただの手合わせだし、本当に斬られるとは思えない。

 だが少なくともセレスタは本気だ。彼女の全身から充溢する殺気は、あたかもここが本物の戦場であるかのように研ぎ澄まされている。


 それはハインツが手合わせ開始の合図をしてから、ほんの一刹那の出来事だった。ひとまず初手は相手の出方を見よう、とジェロディが剣を構えかけたところへ、いきなりセレスタが突っ込んできたのだ。

 それもただ懐へ飛び込んできたわけではない。目で追えぬほどの瞬発力。そこに素早く上体を屈める動作を加えて、彼女は一瞬ジェロディの視界から姿を消した。とても老年の騎士とは思えぬ早業だった。


(ていうかこの人、バリバリの現役じゃないか……!)


 決して侮っていたわけではないものの、心の準備をするいとまもない攻撃に動揺が走る。ジェロディはてっきり、彼女が近衛軍団長などという地位にいるのは既に齢が老境に迫って、戦場には出られないからだと思っていた。

 しかし、どうやらそれはとんだ見当違いだったようだ。とにかくこんな速さの剣は見たことがない。セレスタはジェロディが跳びずさった傍から、まるでその動きを見越していたかのようにすっと間合いを詰めてくる。


 再び下段したからの一撃。今度は避けきれないと判断したジェロディは、とっさに己の剣で打ち返した。

 いつの間にか薄雲に覆われ始めた空の下、甲高い鉄のと共に火花が散る。だがセレスタの斬撃は思ったより重く、両手が痺れるような感じがした。

 たたらを踏んで二、三歩下がり、しかしそこから剣を薙ぐ。セレスタには軽々とかわされたが、それで良かった。ジェロディは息つく間もなく繰り出されるセレスタの攻撃を止めるために、狙いも定めず剣を振るっただけだったから。


(速すぎて、動きについていけない――)


 もはや何かを思考している余裕もなかった。まず一旦距離を置いて体勢を整えたいジェロディに対して、セレスタはそんな暇など与えぬとばかりに剣撃を繰り出してくる。

 深く踏み込み、腰を落とし、下方から突き出された刃が頬を掠めた。一瞬ピリッとした痛みが走って、顔をしかめたところへ追撃の一手が来る。


 だが二度目の刺突をどうにかなしたところで、ジェロディはふと気づいた。

 ――そう言えば先程からセレスタが繰り出す攻撃は、下段からのものばかりだ。彼女が修めた剣術はそういう流派のものなのだろうか?

 セレスタは立っているときも屈んでいるときも、常に切っ先を下にしている。基本姿勢は腰を曲げた状態で、まるで敵を威嚇するネコ科の獣みたいだ。


 けれどひたすら下段からの打ち込みというのは、型にレパートリーがなさすぎて読みやすい。

 予想外の速さに翻弄されて気づかなかったが、低姿勢から斬り込んでくるときの彼女の軌道はいつも同じだ。向かってくるのが右か左か、突きか斬りか、その違いがあるだけで。


(もしかしたら、将軍の剣は――)


 ――初撃で決まる必殺の剣なのかもしれない。その斬撃が尋常ならざる速さを帯びているのは、相手が身構える暇を与えずに仕留めるため。

 だがジェロディはその初撃を辛くも躱した。彼女の剣はこうしてじっくり観察されると分が悪い剣だ。だから速さでこちらを攻め立て、一気に決着をつけようとしている――?


 とすれば軌道を見切った分、今はこちらが有利だ。


(よし……!)


 ジェロディは腹を決め、今度は自分から踏み込んだ。こちらへ向かって地を蹴っていたセレスタは、その動きに不意を衝かれたように横へ逸れる。

 彼女はそのままジェロディから距離を取ると、再び腰を屈めて迫ってきた。弓弦ゆづるから放たれた一本の矢のように、銀の閃きが飛んでくる。


 ――下段。左から。軌道は同じ。

 ジェロディはその切っ先を躱すと同時に、自らも下段から渾身の一撃を放った。

 〝打ち返しヒットバック〟。

 数ある剣術の中で最も基本的な技だ。襲ってくる相手の剣を自分の剣で跳ね返し、間合いを取るための足がかりとする。


 それは同時に、上手く決まれば相手の体勢を崩せる技でもあった。

 そのときジェロディの狙いどおり、セレスタの構えがわずか崩れる。どうやら意表を衝けたようだ。

 彼女は屈めていたはずの上体を仰け反らせ、後ろへ下がる素振りを見せた。

 その一瞬の隙を、ジェロディは見逃さない。切り返しの剣をそのまま構え、素早く懐へ踏み込んでいく。


「はっ――!」


 気合を上げ、ジェロディは鎧に覆われたセレスタの肩口目がけて剣を振るった。

 セレスタが体勢を崩している今ならいける。

 そう思った。

 確信していた。

 なのに、


「――やはり、愚直ですね」

「……え?」


 不意に冷たい声が響いて、ジェロディの両手に衝撃が走った。

 細く高い悲鳴を上げた父の剣が、真下からの強烈な力に吹き飛ばされ、呆気なく宙へ舞い上がる。


 ――〝打ち返しヒットバック〟。


 やり返された。

 ジェロディがそう気づいたときには既に、セレスタの剣が喉元へ突きつけられている。


「そこまで!」


 手合わせの終了を告げるハインツの声が響いた。直後、ジェロディの背後で剣の落ちる音がする。

 麓の兵たちがどよめいた。それどころかあまりに鮮やかなセレスタの手並みに、喝采まで上がっている。


「ま……参りました……」


 まるで毒蛇が首に巻きついているような緊張感。ジェロディがそれに体を強張らせながらそう言うと、ようやくセレスタが剣を引いた。

 途端にどっと汗が噴き出してくる。力が抜けて、その場に座り込みそうになるのをどうにかこらえた。麓にはこちらを見守るケリーやオーウェンもいるのだ。彼らの上官として――あのガルテリオの息子として、二人の前で無様な姿は見せられない。


「お見事でした、セレスタ将軍」

「当然の結果です。賞賛にも追従にも値しません」


 決してそんな意味でかけられた言葉ではないだろうに、セレスタはハインツの賛辞をすげなくあしらった。かと思えばしゃんと背筋を伸ばしたいつもの姿勢に戻り、ゆっくりと剣を鞘に飲ませていく。


「あ、あの、セレスタ将軍……」

「お前の剣は読みやすい。今のまま戦場へ放り出されれば、虚を衝かれ首を掻かれるのがオチでしょう」

「え、」

「私の剣は下段からの攻撃を最も得意としている――とでも思いましたか? 今のはそう思わせるために、敢えてそのような素振りをしてみせただけです。それにまんまと乗せられた上、勝機を見出したと言わんばかりのあの踏み込み。馬鹿正直すぎて話になりません」


 再び全身から汗が噴き出した。まるで後ろから心臓を蹴っ飛ばされたような心境だった。

 今のセレスタの言葉を信じるなら、自分はまんまと彼女の策に乗せられた、ということ――。

 つまり最初からジェロディに勝機などなかった。唯一の隙だと思われたそれは、セレスタが鼻先でちらつかせた幻でしかなかったのだ。


「ジェロディ。お前は正直であることこそが美徳だと考えている。ですがそんなことでは、この先生き残れませんよ」


 セレスタは最後にそう吐き捨てると、あとはこちらに一瞥もくれなかった。代わりに目だけで部下を呼び、曳かれてきた白馬の背に颯爽と足を回す。


「では、ハインツ。私は先に城へ戻ります」

「畏まりました、将軍」

「調練の成果報告書は別途提出するように。報告書はジェロディに書かせなさい。お前の報告は参考になりませんから」


 馬首を返しながら毒を吐かれ、ハインツは苦笑していた。しかしセレスタはそんな彼の反応を気にした素振りもなく、供を連れて走り出す。

 数騎分の蹄の音が、徐々に遠くなった。丘を駆け下った一行は、そのまままっすぐ黄都を目指して去っていく。


「――ティノ様! お怪我はありませんか!?」


 ほどなくセレスタが去ったのとは逆方向から声がして、ジェロディはぼんやり、その質問はさっきもされたな、と思った。

 おぼつかない足取りで振り向けば、馬を置いたケリーとオーウェンが丘を駆け上がってくる。途端にケリーから「頬が――」と言われ、ジェロディはようやく右頬に走る微かな痛みを思い出した。


「ああ、これは……大丈夫。ちょっと掠っただけだよ」

「他にお怪我は? 痛むところはありませんか?」

「平気。少し手が痺れてるくらいさ」


 ――本当は、すこぶる心臓が痛いんだけど。

 とは言えずに、ジェロディは頬を濡らす血を拭ってうつむいた。

 ようやく鼓動が落ち着き始めた左胸にはしかし、今なおセレスタの残した言葉が刺さっている。そこからもだくだくと血が溢れて、今にも貧血を起こしそうだ。


 〝そんなことでは、この先生き残れませんよ〟――。


「しかしティノ様、あの閃鬼せんき相手によく腰を抜かさずにいられましたね。最後のアレは、下で見てた俺でさえ足が震えましたよ」

「……閃鬼?」

「知らないんですか? 先代の近衛軍団長は『剣鬼』と呼ばれる天才的な剣の使い手だったんですけど、その跡を継いだセレスタ将軍も負けず劣らずのおっかない剣を使うんで、今じゃ『閃鬼』ってあだ名がついてるんですよ。現役を張ってる将軍たちの中で一番相手にしたくない人は誰だって訊かれたら、俺は間違いなくあの人の名前を挙げますね」


 そう言いながらオーウェンが差し出してきたのは、先程セレスタに弾き飛ばされた父の剣だった。ジェロディは礼を言ってそれを受け取りつつ、そうだったのか、と半分他人事のように思う。

 〝閃鬼〟――閃光のごとき早業で剣を振るう鬼。

 まさにあのセレスタにぴったりの異名だった。黄皇国軍には優れた軍人にこういう称号あだなを贈る風習があって、ジェロディはそのように呼ばれている者たちを何人か知っているが、その中でも『閃鬼』は『常勝の獅子』に次ぐ絶妙さだ、と思う。


「何はともあれ、今回は災難だったな、ジェロディ。セレスタ将軍は時々ああいう気まぐれを見せることがあるんだ。あの方のお心を読めるのはエマニュエル広しと言えど陛下だけと言われているから、まあ、ちょっとした嵐みたいなものだな。あまり深刻に考えなくていい」


 間もなく自分の月毛とジェロディの鹿毛、その二頭を曳いたハインツがやってきて、もう一度苦笑を覗かせた。

 次いで彼が軽く合図すると、麓で待機していた兵たちが改めて整列する。ハインツが率いていた二百騎と、ジェロディが率いていた二百騎。合わせて四百の騎兵が足並み揃えて丘を登ってくるのを見ながら、彼は続けた。


「とは言え何の考えもなしに突飛なことを言い出すお方でもないんだが……」

「ひょっとして、ティノ様の初出仕のときのことがお耳に入ったとか?」

「いや、アレについては私が……というか弟が丸く収めてくれましたので、将軍を煩わせるようなことは何もなかったと思うのですが……」

「ハインツ殿、敬語」

「え?」

「いつまで私たちに敬語を使う気ですか。今の我々の立場は兵長相当です。その私たちに対して上官がそんな態度では、隊が締まらないでしょう」

「ああ、すみません、つい癖で……それにケリーさんは他ならぬガルテリオ将軍のご養女ですし、オーウェンさんも――」

「それを言ったらティノ様はヴィンツェンツィオ家のご嫡子です。そのティノ様に上官として接するのなら、我々にも同じように接していただきたい」

「ははは、それもそうですね。善処します」

「善処って……ハインツさん、あんたなぁ――」


 ついにはオーウェンまでもが呆れた様子で声を上げ、その後も三人は何か話し合っている様子だった。

 けれどもジェロディは上の空で、ぼんやりとエオリカ平原の彼方を眺めている。頭の中では延々と繰り返されるセレスタの言葉。


 父や自分に足りないもの。

 愚直。

 馬鹿正直。

 正直であることは、美徳ではない――。


(じゃああの人は、僕に図太く狡猾になれって言いたいのか? ルシーン様や、あのマクラウドって男みたいに――)


 だが、それじゃあまるであいつらのやり方を肯定しているみたいじゃないか。近衛軍士官として城で上手くやっていくためには、欺瞞や阿諛あゆを容認し、自らも巧みに操れるようにならねばならないと?

 そんなのは間違ってる。そもそもルシーンやマクラウドのような輩と折り合いをつけて付き合っていくつもりなど、ジェロディには毛頭ない。


 あいつらはこの国に巣くうがんだ。ああいう人間がのさばることで、国は腐敗と崩壊の一途を辿っていく。

 現にこれまでのエマニュエル史をかんがみれば、同じような理由で滅んだ国は数知れず。ハノーク大帝国の支配を唯一逃れたシャマイム天帝国然り、エレツエル神領国に攻め滅ぼされたペダング剣王国然り――。


(祖国がそれと同じ末路を辿ろうとしているのを、黙って見てることなんてできない。たとえ愚かだとわらわれようと、僕は――)


 ジェロディは愛馬のくつわを掴む手に、思わずぐっと力を込めた。そのとき、愛馬がまるでそれに反応したように、ぴくりと頭を高くもたげる。

 が、結果から言えば、彼はジェロディの心の波に反応したわけではなかった。

 次の瞬間、ジェロディたちの頭上を何か巨大なものが高速で通りすぎて、大地を引き剥がすかのような突風が吹き荒れる。


「うわっ……!?」


 丘の頂に集まろうとしていた兵が、ハインツが、ケリーとオーウェンが――皆が一斉に悲鳴を上げた。

 見れば突然の暴風に煽られ落馬する兵や、驚いて棹立ちになる馬があとを絶たない。小柄なジェロディもその突風に体が浮いて、危うく吹き飛ばされそうだったが愛馬に抱きつき難を逃れた。


 砂塵と枯れ草が舞い上がる。風が耳元で絶叫する。

 やがて巻き上げられた砂や枯れ草がバラバラと音を立てて落ちてくる頃、ジェロディたちはようやく顔を上げることができた。


「な……何だ、今の――いてっ」


 と、ときに傍らでオーウェンが悲鳴を上げる。見ればちょうど彼の頭頂から、降ってきた小石が転がり落ちるところだった。

 更にジェロディは、愛馬に抱きついていたはずの自分がいつの間にかケリーの腕の中にいることを知る。どうやら突然の暴風の中、彼女はジェロディを守ろうと、とっさに抱き竦めてくれたようだ。


「ティノ様、大丈夫ですか?」

「あ、ああ、ありがとう、ケリー――」

「――おい、あれを見ろ!」


 そのとき誰かが、馬群の間から声を上げた。何事かと振り向けば、既に複数の兵が黄都の方角を見やり、動揺と驚きの声を上げている。

 ――まさか黄都に異変が?

 はっとして目を凝らした先で、ジェロディは見た。


 地上に烈風を巻き起こしながら、雲の下を悠然と飛翔する巨大な影。

 その影からは一対の大きな翼が生え、更に長い尾が大蛇おろちのごとく波打っている。

 それらを覆うは、まばゆいばかりの黄金の鱗。

 刹那、その生き物の発した咆吼が、平原に轟き渡る。


「あれは――竜……!?」


 既に遠く離れていながら、比類なき気高さと強靭さを聴覚に刻みつける吼声こえ。その残響を聞いているだけで体の底から畏怖の感情が引き出され、腹の中で暴れ回る。


 間違いない。


 ジェロディはかつてオルランドが皇位奪還のために戦った正黄戦争で、一度だけ本物の竜を見たことがあった。

 当時の記憶は時を経るごとに掠れていくが、それでもあの巨大で美しい生き物の姿を忘れたことは一度もない。

 トラモント黄皇国の北、竜牙山脈の奥地にあるというツァンナーラ竜騎士領。

 あの竜はそこからやってきた賓客だ。何せ黄祖フラヴィオの故郷であるツァンナーラ竜騎士領とトラモント黄皇国とは、建国以来三百年以上続く同盟関係にある。


「あれは竜父りゅうふ様だな」


 と、そこでハインツが漏らした言葉を聞いて、ジェロディは目を丸くした。


「竜父様? あの竜が? どうして分かるんです?」

「どうしても何も、ツァンナーラ竜騎士領は始世期から存在するいにしえの土地だが、その長い歴史の中でも黄金竜と言えばふたりしか前例がない。ひとりはこの国の祖であるフラヴィオ一世――その騎竜だった黄妃オリアナ。そしてもうひとりは、当代の竜父であるあのお方だ」


 言って、ハインツは黄都上空を舞う竜の姿をじっと見据える。膜のようなものが張った翼を広げた黄金竜は、まるで自らの到来を知らしめるように城の真上を旋回し、またも咆吼を上げている。

 あれが竜父――。

 竜父とはツァンナーラ竜騎士領で暮らす竜族の中で唯一の雄竜だ。その他の竜はすべて雌で、かの地ではたったひとりしかいない雄の竜が代々領地を治めている。


 つまり竜父とは王国で言うところの王のような存在で、その王が今、ソルレカランテに現れ飛び回っているということだった。

 だがジェロディは今日、竜父が黄都を訪ねてくるなんて聞いていない。一応は他国の王を迎えるという形だから、それなら王城の警備を司る近衛軍に知らせがあって然るべきなのに、そんな話は誰の口からも出ていなかったのだ。


「ですが、竜父様はどうしてソルレカランテに? ハインツ隊長は竜父様がいらっしゃることをご存知だったんですか?」

「いや、私も何も知らされていない。それに竜父様がおひとりでいらっしゃるなんて異例のことだ。あの方のお傍には常に『翼と牙の騎士団』が付き従っているはず……なのに護衛の竜騎士の姿が見えないというのは妙だな」


 ハインツの言うとおり、現在黄都上空を飛んでいるのは黄金竜一匹だけ。北の空を顧みても、彼に続いて現れる竜たちの姿はない。


「ひょっとして……ツァンナーラ竜騎士領で何かあったのでしょうか?」

「分からない。だが只事じゃないことだけは確かだ。とにかく急ぎ城へ戻ろう。竜父様が御成りになったなら、すぐに近衛軍われわれも召集される」


 ハインツの言葉に頷いて、ジェロディたちはすぐさま帰投の準備に移った。先程の突風で未だ興奮状態にある馬たちを宥め、一路ソルレカランテを目指す。

 ところがその使者が現れたのは、黄都の西門まであと少し――と、ジェロディが気を張っていたときだった。


「――ジェロディ殿! ジェロディ・ヴィンツェンツィオ殿!」

「……え?」


 黄都の周辺を囲むように点在している大規模農園。その畦道を駆けていると、不意に前方から斑馬に乗った男が現れ、しきりにこちらへ手を振った。

 男の胸には近衛軍士官であることを示す剣の紋章と階級勲章がある。更に腕には伝令の証である赤い腕章――。

 それを見たハインツが先頭で馬を止め、ジェロディたちも彼に倣った。まるで見覚えのない顔だったが、伝令の方はジェロディを見つけると心底ほっとした様子で、足早に馬を進めてくる。


「ジェロディ殿、お探ししておりました。貴殿に陛下より勅諚ちょくじょうを賜っております」

「陛下から僕に?」

「はい。何でもこの度、貴殿に特別の任務を授けたいとのこと。よって速やかに謁見の間へ出頭せよとの仰せです」


 伝令は胸を張ってそう宣言し、ジェロディは呆気に取られた。

 皆の視線が一斉にジェロディを向く。が、ジェロディもわけが分からない。

 だって、軍に入りたての下級将校に黄帝から勅命が下るなんてことが有り得るだろうか? それならまず上官であるハインツが呼び出されて然るべきだ。

 ところがそのハインツを飛び越えて、直接自分にお声がかかった。そんなのは何かの間違いではないかと、ジェロディはハインツを顧みる。


「あ、あの、ハインツ隊長……」

「……。とにかく、まずは城へ向かおう。話はそれからだ」


 そのときジェロディの胸の内で、何かざわめくものがあった。


 じっと前を見据えたハインツの横顔に、不穏な影が落ちている。



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