42.望まぬ洗礼
緊張で顔が引き攣りそうになるのを、どうにかこらえた。
目の前で、老練の女剣士がじっとこちらを見下ろしている。
その榛色の瞳の冷たさと言ったら。
彼女の眼差しはそれそのものが刃のようで、ジェロディは現在その切っ先をぴたりと喉元にあてがわれている。
おまけにすっと背筋が伸びた彼女の身長はジェロディより二葉(十センチ)ほども高く、上から見据えられると威圧感が半端なかった。
彼女は今日から新たに部下となる新米士官を迎えたところでにこりとも笑わず、まるで天界への入り口を守る門神シャアルの彫像のごとく、凝然とこちらを睥睨している。
「ジェロディ。こちらが今日からお前の所属する近衛軍の軍団長、セレスタ殿だ。現在陛下の側近くお仕えしている黄臣の中では、彼女が最も長く陛下のお傍にいる。奥向きのことや陛下のことで、このお方ほど頼りになる人物はいないだろう。陛下のことで何かあったときには、まず真っ先にこの方を頼るといい」
「は、はい……よろしくお願いします」
正直ジェロディは今すぐにでも身を翻して逃げ出したい気分だったが何とかこらえて、父が紹介してくれた女老剣士――セレスタ・アルトリスタに一礼した。
一方のセレスタはと言えば、そんなジェロディの様子を見ても眉一つ動かさず、ただ無言で目礼を返してくる。それもじっと目を凝らしていなければ見逃してしまいそうなほど微かな所作で、思えばジェロディは昨日謁見の間で聞いた「御意」という短い言葉以外、この将軍の肉声を聞いていない。
「そしてこちらが、お前の直属の上官となるハインツ・ヒュー。今日からお前はこのハインツの下でしばらく士長として働くことになる。ゆくゆくは将官を志してほしいが、まあ、まずはハインツに付いて将校の仕事を学ぶところからだ。分からないことがあれば、遠慮せず彼に教えを乞うがいい」
次いで父が紹介してくれたのは、セレスタの斜め後ろに控えた若い士官だった。歳は恐らく三十がらみ。すらりと背が高く、いかにも近衛将校らしいきらびやかな軍装が嫌味なくらい似合っている。
それでいてセレスタとは対象的な、物腰やわらかそうな印象の男だった。
たぶん、ふわりと癖のある金髪がそんな印象をもたらすのだろう。ハインツと呼ばれたその男はジェロディを見つめて優しげに微笑むと、一度聞いただけで貴族出と分かる上品なハノーク語で話しかけてくる。
「初めまして、ジェロディ様。セレスタ将軍の下で第一部隊長の任に就いております、ハインツと申します。以後お見知りおきを」
「おいおい、ハインツ。それではまるでお前の方がジェロディの部下になるようではないか。今日は息子の初出仕だぞ。もっと上官らしく振る舞いたまえ」
「申し訳ありません、ガルテリオ将軍。しかしやはり将軍のご子息をぞんざいに扱うのは気が引けまして……」
「まったく、そういうところは相変わらずだな。だが今のお前は私の部下ではなくセレスタ殿の部下だ。倅にも余計な気は遣わなくていい」
「もったいなきお言葉。まあ、とにかく善処します」
ハインツは士官らしく後ろで手を組みながら、しかしけろりと屈託なく笑った。父はそんな彼を見て呆れ返っているようだが、他方ジェロディは彼が元は父の部下だったと知って目を丸くする。
何せ父は最初に彼のことを〝ハインツ・ヒュー〟と呼んだ。すなわち彼はトラモント三大貴族に数えられるヒュー家の人間だということだ。
家格で言えば、ハインツの方が父より遥かに上。だのにハインツの言動には偉ぶったところなど微塵もなく、むしろ慇懃で好ましい。
「ジェロディ。ハインツはいつもこんな調子だが、まあ、こう見えて頼りになる男だ。彼はかつて父のコンラートや弟のセドリックと共によく私に仕えてくれた。だから今度はお前がハインツの下で士長としての務めを立派に果たせ」
「はい、父さん」
「では、セレスタ殿。不束者ではありますが、どうか愚息をよろしく頼みます」
「ええ、確かに頼まれました。ご安心を」
ガルテリオに頭を下げられたセレスタは、まったくの無感動にそう答えた。その返答はいかにも事務的で何の温かみもなく、ガルテリオもこれにはちょっと苦笑している。
が、二人の階級は対等だし、武官としてはセレスタの方が父より遥かに先輩だ。だからさすがのガルテリオも彼女には意見できないのだろう、用件を済ませるとあとは自分の持ち場へ戻っていった。
で、問題はそんなセレスタの目の前に一人残されたジェロディである。
ソルレカランテ城一階にある『韶光の間』。
そこからついに父が去り、まず第一声に何を言われるか、とジェロディは体を硬くしたが、
「――ハインツ」
と、彼女は至って平板な声色で、まず自分の側近の名を呼んだ。
「あとは予定どおりに」
「畏まりました。本日は城内と司令部を巡り、ジェロディの案内と着任の挨拶をして参ります」
それに対してハインツが明朗な答えを返し――ジェロディの上官への目通りは、それで終わった。
彼女は文字どおり必要最低限の指示だけ出し終えると、あとはもう何も言わずに退室していく。言うまでもなく、ジェロディにかける言葉は何もなし、だ。
ジェロディはそんなセレスタの後ろ姿を呆気に取られて見送り、次いでかあっと頬が熱を帯びるのを感じた。
別に彼女の口から労いや訓辞をもらえると期待していたわけではない。けれども彼女の態度はジェロディのことなど眼中にないと言わんばかりで、何やら存在ごと否定されたような気がしたのだ。
「さて、それじゃあ改めて自己紹介だが――」
と言いかけて、そこでハインツもそんなジェロディの異変に気がついたようだった。
彼は赧然とうつむいたままのジェロディを見ると苦笑する。それからようやく後ろ手にしていた両手を解いて、労りの響きが滲む声音で言った。
「ジェロディ。セレスタ将軍のことは気にしなくていい。というか、あの方は誰の前でもああなんだ。君だけ特別に無視されているとか、そういうことではないから落ち込む必要はないよ」
「そ……そうなんですか?」
「私も長く軍に身を置いているが、あの方は私の知る限り正黄戦争の前からああだ。宮中にはあの方のことを〝母君のお腹に感情を置いてきた〟なんて揶揄する者もいるが、その分軍人としては卓越したものをお持ちになっている。しばらくすれば君にもそれが分かってくるさ。最初はとっつきにくいだろうけれどね」
「そう、ですか……ありがとうございます。それを聞いて、少し安心しました」
ジェロディが素直に眉尻を下げてそう言えば、ハインツは可笑しそうに笑った。その笑い方一つ取っても彼の立ち居振る舞いにはまるで鼻につくところがなく、貴公子という言葉を絵に描いたような人だな、とジェロディは思う。
「あの、それでは改めまして。今日から近衛軍第一部隊第一中隊長として着任しました、ジェロディ・ヴィンツェンツィオです。まだ右も左も分からない若輩者ではありますが、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしく。しかしまさかこの私がガルテリオ将軍のご子息を預かることになるとはね。早速荷が重すぎて胃が痛いよ」
「で、ですが、ハインツ隊長はヒュー家のご出身なんですよね? あの有名な三大詩爵家の……」
「ああ、まあ、一応今は私が本家の当主ということになっているが」
「とっ……!?」
予想だにしていなかったハインツの返答に、ジェロディは図らずも絶句した。彼の年齢と温厚な物腰から、てっきりヒュー家と言っても分家の出か本家の次男、三男あたりだろうと予想していたのだが、当主ともなればこの都で暮らす貴族たちのトップと言える存在だ。
そんな相手が、自分の上官――。ジェロディはその事実をようやく嚥下すると同時に、サーッと顔から血の気が引いていくのを感じた。
いくら同じ詩爵家と言えど、ヒュー家は折り紙つきの血統貴族。対するヴィンツェンツィオ家は父が一代で地位を築いた新興貴族。
その家格の差は歴然で、彼の前では父の七光りでここにいるジェロディなど素裸の赤子も同然だ。そんな人の下でもし何か粗相をしでかすようなことがあったら……。
「ああ、とは言えうちは正黄戦争の報賞で詩爵に上がった新参者だから、そんなに畏まる必要はないよ。当家が三大貴族などとご大層なものに数えられるようになったのも、ヴィルト家とエルマンノ家がかつての権勢を失ったからに過ぎないし――」
「――おい、邪魔するぞ」
そのとき突然バンッ!と背後で扉が開く音がして、ジェロディは肩を震わせた。何事かと振り向けば、その先から見慣れぬ二人組の男がずかずかと部屋へ上がり込んでくる。
片方は痩せ形でひょろりとした中年の男、もう一人は同じくらいの年代の、丸々と太った短躯の男だった。その見事なまでの凸凹コンビに、ジェロディは束の間ぽかんとしてしまう。
「これはマクラウド殿。それにランドール殿もご一緒ですか。おはようございます」
――何だこの人たち。
ジェロディがそんな疑問を覚えたのと同時に、ハインツが動いた。彼はいかにもさりげない足捌きでジェロディの前に出るや、二人組の正面に立ってにこやかに挨拶する。
が、ジェロディはすぐに違和感を覚えた。何せ突如視界に割り込んできたハインツの背が、凸凹コンビの姿をほとんど隠してしまっている。
これじゃ二人の様子が窺えない――というか、まるでジェロディが二人と関わるのをハインツが拒んでいるかのようだ。
「おお、これはこれは誰かと思えば、裏切り者の恥知らず、哀れなコンラート・ヒューの愛息子ハインツ君ではないか。いつもは奥に隠れてこそこそしているのに、一人でこんなところにいるとは珍しいな。私はてっきり、あの枯れた女将軍と一緒でなければ怖くて表も歩けないのかと思っていたぞ」
「思っていたぞ。ブヒヒヒ」
ふんぞり返って言ったのは、やたらと下睫毛が長いのっぽの男の方だった。その男のやや後ろに控えた肥満体もそれに続いて豚のような鳴き声――いや笑い声を漏らし、二人揃って露骨な嘲笑を浮かべている。
これにはジェロディも眉をひそめた。いきなり部屋に乱入してきたかと思えば、なんと無礼な口をきく連中なのか。
けれども対するハインツは何を言われてもにこにこしていて、二人の侮辱的な態度などまったくこたえていないようだ。
「はは、マクラウド殿は相変わらずご冗談がお好きですね。それはそうと、六聖日も明けてお忙しいはずの憲兵隊長殿が、副隊長まで伴って私に何かご用ですか?」
「フン、用があるのは貴様ではない。何でもあのガルテリオの息子が今日から近衛軍に配属になったというではないか。我々もそれを聞いて、こうして遥々ヤツの倅の顔を拝みに来てやったというわけさ」
「というわけさ。ブヒヒヒ」
なるほど。どうやら凸凹コンビのうち、痩身の男の方がマクラウドで、肉団子みたいな方がランドールというらしい。
しかも今のハインツの言葉が事実なら、こいつらは憲兵隊長とその副官だ。憲兵隊とは近年黄都の治安維持と政治の監視を目的として創設された小さな部隊で、近衛軍や中央軍といった他の部隊とは毛色が違う。
一応黄帝直属の一部隊ということになってはいるが、専門は戦闘ではないから半文半武といった感じの特殊な組織なのだと、ジェロディも事前にそう聞いてはいた。
――その隊長と副隊長がコレ。ジェロディは衝撃のあまり愕然とする。
一体どういう人選をすればこんなのが隊長や副隊長になれるというのだろうか。憲兵隊はその規模こそ小さいが、第一軍や近衛軍と同じオルランド直轄の部隊だというから、もっと格式高く厳格な将官が指揮をしていると思っていたのに。
「で、そこにいるのが件のジェロディ・ヴィンツェンツィオか?」
と、ときにマクラウドの方が不躾にこちらを覗き込んできて、ジェロディは思わず後ずさりそうになった。何せこのマクラウドという男、やたらと背が高い上に――その、なんというかこう言っては大変失礼なのだが、醜い。
鼻の下には先端がくりんと上を向いた口髭。ややしゃくれた顎の先は割れていて、目はちょっと垂れ気味だ。
だが何より絶望的なのはその髪型だった。マクラウドはハインツのそれに比べると色素が薄くパサついた金髪を、何故かキノコみたいな形にしている。
頭頂から耳のあたりまでの髪はフサフサと残っているのに、そこから下、うなじのあたりまでのそれは綺麗に剃り落とされているのだ。彼が何を思ってそんな奇妙な髪型にしているのかは見当もつかないが、もしもその方が貫禄が出るとかイケてるとか思ってやっているのなら、ジェロディと彼の間に横たわる美的感覚という名の溝は、地裂と同じくらい深いと言って差し支えないだろう。
けれどもジェロディがそんなことを思っている間に、
「ほう。貴様があの成り上がりの小倅か。思った以上に父親にそっくりだな。特にそのいかにも貧乏くさい目鼻立ちが」
「目鼻立ちが。ブヒヒヒ」
といきなり予想だにしていなかった言葉が飛んできて、ジェロディは「は、」と漏らしたつもりが声にならなかった。
代わりに口の端がわずか引き攣り、自分でも何か不穏な表情になっているのが分かる。何とか平静を装わなければと思ったが、得意顔でふんぞり返ったマクラウドの暴言は止まらない。
「だってそうだろう? 陛下より五百圃もの家禄を賜っておきながら未だにあんなボロ屋敷で暮らしているとは、いかにも平民らしい貧乏性が剥き出しじゃないか。おまけに、あー、なんと言ったか、貴様の母親……」
「ブヒヒ、アンジェです、マクラウド様」
「そうそう、アンジェだ。聞けばあの女も元は雲民だったという話じゃないか。仮にも詩爵の地位を持つ貴族が出自も定かならぬ浮浪者を嫁に取るとは、まったく大将軍としての自覚やら品格やらが不足しているにも程があるな」
「程があるな、ブヒヒヒヒ」
今にも前身頃で釦がはち切れそうになっている哀れな軍服ごと腹を抱えながら、ランドールが下品に笑った。
途端にジェロディは拳大の氷でも呑み込んだみたいに、腹の中が冷たく凍りついていくのを感じる。しかしそれとほぼ同時にカアッと頭が熱くなって、眩暈にも似たものがジェロディを襲った。
マクラウドが言う〝雲民〟というのは、戦や天災で住む場所を失い、エマニュエルを彷徨う難民のことだ。
行く宛もなく風が向くまま気の向くまま流れていくことから雲民と呼ばれているが、実際はそんな優雅なものではなく、彼らの大半は物乞いやゴミ拾いなどで細々と日銭を稼いでいる。中には追い詰められて強盗や殺人に及ぶ者も少なくないという話だ。
だから人々は常に彼らを蔑み、穢らわしいものとして遠ざける。〝雲民〟という言葉も元々は彼らの境遇を哀れんで、〝乞食〟とか〝食いつめ者〟とか呼ぶのを避けるためにつけられたというが、やはりその根底にあるのは差別と迫害の感情だ。
マクラウドやランドールはそれを隠しもせずに下卑た笑いを浮かべている――瞬間、ジェロディの中で何かがプツンと音を立てた。
「お言葉ですが、僕の母は雲民ではありません。考古学者だった祖父母と共に、各地の遺跡を巡る旅を続けていた研究者です。それに祖父母亡きあとは、亜竜の生態研究のためイーラ地方に定住していました。誤解を招くような言い方はやめて下さい」
「誤解? いやはや、果たしてそうかな。だいたい定住していたと言っても、貴様の母親がいたのは未開の野蛮人どもの集落だろう? しかもその野蛮人どもは、後年シャムシール砂王国に肩入れして我が国を脅かした。つまり貴様の母親は反逆者の一味だったということだ」
「砂漠の民は野蛮人なんかじゃない。彼らが蜂起したのは、黄祖フラヴィオが約束した彼らの自由と父祖の地を黄皇国が侵したからだ。なのに国は彼らの言い分を聞きもしないで、一方的に滅ぼした。野蛮なのは当時の黄皇国の方だ」
「おお、なんと! 聞いたかランドール、なんとガルテリオ将軍のご子息は祖国よりも敵国に与した連中の肩を持つそうだぞ。これは捉えようによっては祖国への反逆の意思ありということではないか?」
「馬鹿馬鹿しい。間違っていることを間違っていると言うことが反逆なら、世の中はとっくに反逆者だらけだ。王が道を誤ろうとしているなら、それを諫めるのが真の忠臣だって父さんもそう言ってた」
「ほほう! そうかそうか、なるほどな。ということはやはりガルテリオにもまた陛下への叛意があるというわけだ。これは聞き捨てならん、早速ルシーン様に報告だ」
「報告だ、報告だ! ブヒヒヒ」
「は? どうしてそこでルシーン様が――」
出てくるんだ、と言い募ろうとして、しかしそのときジェロディの視界を一本の腕が遮った。
啀み合うジェロディとマクラウドの間に割って入ったのは、他でもないハインツだ。彼は小柄なジェロディを押し退けるようにして自分の背後へ追いやると、垂れ目を眇めたマクラウドへにこりと柔和に微笑みかける。
「マクラウド殿、どうかお戯れはそれくらいで。ジェロディも今日が初めての出仕日で、まだ戸惑っているのです。これ以上はからかわないでやって下さい」
「ハン、からかうだと? ハインツ、貴様の目は節穴か? こいつは上官であるこの憲兵隊長様に盾突いたあげく、国への叛意をほのめかしたのだぞ。これは然るべき教育だ。それを貴様は――」
「ジェロディにはこのあと私からよくよく言い聞かせておきます。ですので此度の無礼はお許しを」
「いいや、貴様のような軟弱者の指導などアテにならん。ここはこの部将マクラウド・ギャヴィストン様がキッチリと――」
「そう言えば、マクラウド殿。昨日はどこかへお出かけでしたか?」
「はあ? 何を急に……」
「実はシグムンド将軍のご厚意で、先日から愚弟も黄都に帰省しておりましてね。その弟が昨日、新年のご挨拶のためにマクラウド殿のもとを訪ねたそうなのですが、一日待ってもお会いできなかったと嘆いていたものですから」
ハインツが終始にこにことしてそう言えば、刹那、あれほど饒舌だったマクラウドがぴたりと黙った。
かと思えばその額にふつふつと汗が浮かび始め、まるで潮の引くように顔から血の気が引いていく。見ればガニ股気味の足もガクガクと震え出していて、今にも膝から崩れ落ちそうだ。
「そっ……そ、そ、そうか、セドリックが……はは、はははは! いやすまん! 実は私はこう見えてしばらく多忙なのだ! なので気持ちは嬉しいが挨拶は結構だと伝えてくれ! 忙しいのでな!」
「そうですか。それは残念です。ですがさようにお忙しい中、こうして部下の着任を祝いにきて下さり光栄に存じます」
「う、ううううむ! まっ、まあなんだ、ガルテリオもあれで国のために十分な働きをしているしな! それについて、私もたまには敬意を表しておこうと思っただけだ! だからあまり気にするな、はははは!」
「お気遣い痛み入ります。あ、ですがお待ち下さい。確か弟もそろそろ登城してくる頃で――」
「ああっと! いかん! そう言えば私もこのあと急ぎの用があるのだった! というわけで悪いが失礼させてもらう! くれぐれもセドリックに余計な気遣いは無用だと伝えておけよ! 必ずだぞ!」
マクラウドは叫ぶようにそう言い置くや、すぐさま扉をぶち破らんばかりの勢いで駆け去った。
一方取り残されたランドールはきょとんと立ち尽くしたあと、ようやく置いていかれたことに気づいたのだろう、慌てて左右を見渡すと上官のあとを追っていく。
「……。あの、ハインツ隊長……弟さんとマクラウド隊長の間に何が……?」
「ああ、うん……気にしなくていい。というか、世の中には知らない方が幸せなこともあるんだ」
あまりにも含蓄のあるハインツの答えに、ジェロディは何かとてつもなく不穏なものを感じて、それ以上踏み込むのをやめた。
彼の弟だというからきっと温厚で優しい人なのだろうと思ったのだが、どうやら現実は違うらしい。あのマクラウドが名前を聞いただけで逃げ出すくらいだから、少なくともただの貴公子でないことだけは確かだ。
「しかし君も不用意だぞ、ジェロディ。まさかあのマクラウド殿に正面から食ってかかるとは……」
「あれは向こうが無礼なことを言うからです。ハインツ隊長もあんな風に好き放題言われて、何とも思わないんですか?」
「気持ちは分かるが、マクラウド殿はあれでも憲兵隊長だ。階級的には君の二つ上。いくら所属が違うとは言え、あんな風に口答えしていい相手じゃない」
ぴしゃりと撥ねつけるようにそう言われ、ジェロディは二の句を継げなかった。さっきまであんなに物腰穏やかだったハインツに強い口調で叱られたから、というのもそうだが、何よりようやく冷静になったから、というのが一番の理由だ。
確かに先刻、マクラウドは〝部将〟と自称していた。黄皇国軍内において部将とは兵力二千以上の連隊を率いる将官のことを言い、たった今目の前にいるハインツもその階級だ。
対するジェロディは士長――たった二百人の中隊を率いる下級将校でしかない。戦力で言えば相手はジェロディの十倍もの兵力を擁する上級将校。自分はその上官に真っ向から噛みついた……。
「その様子だと知らないようだから教えておくが、憲兵隊というのは今から三年前、黄都の粛正を名目に発足した新鋭部隊だ。だがその発足には裏がある。陛下がにわかにあのような部隊を編制されたのは、ルシーン様が憲兵隊の創設を強く望まれたからなんだ。そして憲兵隊幹部の人事はすべて――ルシーン様がご提案された」
「え……?」
「表向きには司令部の肝煎りで創設されたかのように言われているが、実態は違う。いわば憲兵隊は政治警察の肩書きを冠したルシーン様の私兵だ。つまり彼らに逆らうということは、ルシーン様に逆らうということ。それが何を意味するか……そこまでは言わなくても分かるな?」
刹那、ジェロディは全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。
憲兵隊はオルランドの寵姫ルシーンの私兵――。
つまり憲兵隊に少しでも刃向かえば、その報せはただちにルシーンのもとへ飛ぶということだ。ルシーンがそれを聞いて機嫌を損ねれば、オルランドの耳元で何を囁くか分からない……。
いや、そもそもそれ以前に、憲兵隊にはこの国の軍事政事に介入する権限があるのも問題だった。彼らは法に照らし合わせて不正だと判断した黄臣をいくらでも検挙、逮捕することができる。
だがこの場合の〝法〟とは果たして黄祖フラヴィオが定めたトラモント黄皇国の法律だろうか?
あるいは彼らにとってはルシーンこそが〝法〟であり、彼女の意にそぐわない人間を〝罪人〟として裁こうとしているのでは……。
――城中の人間が彼女に靡いているという原因はそれか。
ジェロディはようやく合点がいった。
彼らは単に黄帝の寵姫へ取り入ろうとしているのではなく、そうすることで己が身を守ろうとしているのだ。何があっても口を閉ざし、見ないふりをすることで。
「も……申し訳ありません。そうとは知らずに僕、とんでもないことを……」
「いや、過ぎてしまったことはもういい。その代わり、これからは憲兵隊に対する言動には十分に注意してくれ。――こんなくだらない政争のために、ガルテリオ将軍ほどのお方を失うわけにはいかないからな」
ため息混じりに吐き出されたハインツの最後の言葉が、ぐさりとジェロディの胸に刺さった。
確かに彼の言うとおりだ。ここではジェロディの言動が父親であるガルテリオの処遇に直結しかねない。だからハインツは自分を庇ってくれた。かつての上官を守るために……。
そう思うとジェロディはもう立ち尽くすことしかできなかった。
窓の外で、雪雲が空を覆い始めている。




