41.祖国のために
現黄帝の実妹ヴィオレッタ・レ・バルダッサーレは、一人の将軍と恋に落ちた。
その将軍というのがかつて北でエグレッタ城を守り、黄皇国で唯一の水軍を率いていたアレッシオ・エルマンノである。
当時アレッシオはエルマンノ詩爵家の家督を継いだばかりの若者で、その若さゆえに多くの軍人貴族たちから実力を疑問視されていた。
実戦も知らぬ若造がエグレッタ城主の座をモノにできたのは、過保護な親の七光りでしかないと陰口を叩かれ、人々の嘲笑と妬心の的になっていたのだ。
けれどもヴィオレッタは、そんなアレッシオに恋をした。周囲の嘲りや侮蔑の眼差しなど歯牙にもかけず、彼の誠実で澄みやかな人柄に惹かれていった。
しかし時の黄帝ブリリオ三世はその頃既に病床へ臥せることが多くなっており、彼は自分亡きあとのエレツエル神領国――かつてこの地を支配していた東の大国――の動向を恐れていた。
病の影響もあってか、ブリリオはトラモント皇家の存続に妄執を見せるようになっていたのだ。だから娘のヴィオレッタは神領国のさる貴族のもとへ嫁がせると言って聞かなかった。そうすることで黄皇国侵攻を目論む神領国におもねろうとしていた。
それを説得し、彼女とアレッシオの結婚を許したのが兄のオルランドだ。
彼は妹が冷酷非道で知られるエレツエル神領国へ贄として捧げられることを哀れみ、あれこれと手を尽くして彼女を残酷な運命から救った。
実は神領国と誼を通じたがっていたのはブリリオよりもその弟フラヴィオの方だったという噂もあり、もしかしたらオルランドはその当時から、叔父の秘めたる野心に気がついていたのかもしれない。
とにかくそんなわけでアレッシオとヴィオレッタは結ばれ、やがてその間に娘が生まれた。その娘というのがたった今ティノの目の前にいる黄昏の姫――リリアーナ・エルマンノだ。
幼くして二人の皇子を失い、妃をも亡くしたオルランドにとって今やたった一人の肉親。トラモント黄皇国の第一皇位継承者。
その輝きは旭日のごとく大地を照らし、天界の神々をも騒がせる――とは彼女の容姿についてどこかの吟遊詩人が謳った歌詞だが、まさしくそのとおりだな、と、ティノは改めてそう思った。
何せ間近で見るこの黄金の姫は、なんというか、眩しい。
眩しすぎて、直視していると目が潰れてしまいそうだ。
碧い宝石のような眼差しも、艶やかな薄紅色の唇も、優雅でしなやかな足取りも。
すべてが眩しい。眩しすぎる。まるで地上の太陽だ。彼女は可憐と言うよりも凛とした剣のような面差しでそこにいて、その白い肢体から、この城の輝きにも負けない煌々たる気配を充溢させている。
「リリアーナ。お前も来ていたのか?」
「はい。軍司令部でファーガス殿とシグムンド殿が既に城へ向かわれたと聞き、慌ててあとを追って参りました。お二人もガルテリオ様とお会いになるご予定だったなら、一言声をかけて下さればよろしいのに」
「いや、すまんな。何しろ俺もシグも独り身だ。男やもめが下手に皇女殿下の執務室になど出入りして、妙な噂を立てられては困るだろう」
「またそのようなご冗談を。いくら下世話な輩でも、お二人ほどの御仁が私のような小娘を相手にするとは思いますまい」
「いやいや、分からんぞ。何せ過去にはあの無私無欲のセレスタ殿と陛下の関係すら疑うやつらがいたほどだ。それでなくとも宮中には暇人が多いからな」
「たとえ暇がなくとも、噂のためなら喜んで暇を作るのが宮廷官吏というものでしょう」
「ほう。お前もなかなか言うようになったではないか、リリアーナ」
「いいえ、まだまだファーガス殿には及びません」
王の居城に集まった四人の将軍たちは、そんな他愛もない会話を交わして当然のように談笑している。ティノにはその光景が信じられず、立っているだけで眩暈がした。
――もちろんティノだって知っている。リリアーナが皇女という肩書きを嫌い、一介の軍人としてガルテリオたちと同等に扱われることを望んでいる変わり者だということは。
だからガルテリオたちもそれを受け入れて、皇女であるはずの彼女を「リリアーナ」と呼ぶ。逆に「殿下」とか「姫様」とか呼ぼうものなら、たちまち彼女の機嫌を損ねることを彼らは熟知しているからだ。
――皇女殿下は終わりの見えない継嗣問題にいよいよ嫌気が射されたのだろう。
と人は言う。
だからあのようなお振る舞いをして、現実から目を逸らしておられるのだと。
何しろ現黄帝オルランドには子がいない。そのためリリアーナが便宜上第一皇位継承者ということになっているが、三百年以上続くトラモント黄皇国の歴史の中で女が帝位を継いだことは一度もないのだ。
だからここ数年、宮中では次期黄帝についての議論が紛糾している。黄皇国史上初の女帝の誕生を認めるか、あるいはリリアーナの婿を王に据えるか、はたまた皇族の血が混じる貴族の中からふさわしい人物を選ぶべきか、と。
実際ティノの目から見ても、リリアーナはそんなお家騒動に辟易しているように思える。だから彼女は父から継いだ大将軍という職務に没頭しているのだ。そうしている間は、皇家という名の憂鬱な檻から目を背けていられるから。
オルランドがそんな彼女の我が儘を許しているのは何か考えがあってのことなのか、それとも諦念の表れなのか。そうした皇族たちの複雑な胸の内などティノに推し量れるはずもなかろうが、とにかくリリアーナはそういう変わり種だった。
が、いくら本人が生粋の軍人のつもりでいても、その輝かしい容姿から溢れる皇族としての気高さや優雅さは拭えない。おかげでティノはこの皇女とどのような立場で付き合えばいいのか、未だ適正な距離感を掴めずにいた。
幸いにして彼女の謦咳に接するのはこれが初めてではないのだが、会えば会うほど困惑の方が強くなる。何故なら向こうはどうもティノのことを憎からず思っているらしいからだ。
かつて彼女の窮地を救った恩人の息子だからだろうか、リリアーナはいつもたっぷりの親しみを込めてティノに言葉をかけてくれる。
それはもちろん光栄なことなのだが、だからと言ってティノの方まで狎々しく皇女に接するわけにはいかない。そう思ってティノが一歩距離を置くと、彼女は二歩踏み込んでくる――そんな感じなのだ。
まさか十も歳が離れているティノに対して、彼女が間違った感情を抱いているとは思えない……のだが、何にせよ気まずい。ファーガスの言葉を借りるわけではないが、彼女の好意に迂闊な受け答えをして周囲の誤解や反感を招くような真似だけは避けなければならないのだ。
おかげでティノは彼女を前にすると、知らずガチガチに緊張してしまう癖があった。たたでさえリリアーナが全身から放つ煌気と色香で頭がぐらぐらするというのに、このままだと目が回って倒れそうだ。
「ですが、ガルテリオ様。そのご様子ですと、陛下との謁見は無事お済みになったようですね」
「ああ、おかげさまでな。これで息子も晴れてトラモント軍人としての第一歩を踏み出したというわけだ」
「おめでとう、ティノ。いや、今日からはジェロディと呼べば良いのかな。この名は亡き母君がつけて下さったものだと、ガルテリオ様からそう聞いた。ヴィンツェンツィオ家の跡取りにふさわしい、素晴らしい名だな」
「は、はい、ありがとうございます……」
「陛下との謁見はさぞや緊張したことだろう。しかし、そなたが近衛軍の一員として陛下に仕えてくれると聞いて嬉しく思った。本来ならば私も皇女として陛下をお支えせねばならぬ身だが、今はトラジェディア地方の領主という立場ゆえ、なかなか都に留まることができぬ。その私の分まで、どうか伯父上をよろしく頼む」
「も、もったいないお言葉です。未熟者ではありますが、少しでも早く陛下のお役に立てるよう最善を尽くします」
ティノはその場に直立しながら、終始どぎまぎしてそう答えた。リリアーナはそんなティノを見つめる目を細め、やわらかな微笑を湛えている。
――皇女殿下からこんな風に微笑まれたら、大抵の男は天にも昇る心地なのだろうけれど。
正直なところ、ティノはとてもそんな浮かれた気分にはなれそうにない。何せ自分の一挙手一投足には、父であるガルテリオの立場や名誉も懸かっているのだから。
「しかしリリアーナ、ここへはお前一人で来たのか? 副官はどうした?」
「オスカルでしたら、雑務から手が離せないというので仕方なく司令部へ置いてきました。あの男もぜひジェロディに一目会わせたかったのですが」
「そう言えばシグムンド、お前もアンゼルムはどうした? あの男にはぜひ息子を紹介したいと言っておいたはずだが」
「ああ、いえ、それが、どうもウィルやリナルドと共に六聖日中、羽目を外しすぎたようでしてな。おかげで風邪と二日酔いをこじらせ、今は屋敷で寝込んでおります。あの様子では当分再起不能でしょう」
「何? ということはウィルとリナルドもか?」
「ええ、三人仲良く倒れたようで。あの二人もしばらくは欠勤かと思われます」
「いい男が揃いも揃って何をやっているのだ。ウィルだけならまだ分からなくもないが、リナルドやアンゼルムまで……」
「ははは、まあいいではないか。むしろ俺は、あいつらもたまにはそんな馬鹿をするのだと分かって安心したぞ」
「少なくとも私は、自分の副官にファーガス殿を見習ってほしくはないのですがね」
「おい、シグ。それはどういう意味だ?」
「言葉どおりの意味です」
シグムンドがしれっと答え、またもファーガスが口元を引き攣らせた。しかしティノは将軍たちの口から出た知らぬ名に思わず小さく首を傾げる。
今の会話の流れからしてオスカルというのがリリアーナの副官で、アンゼルムというのがシグムンドの副官か。ティノも父の側近であるウィルやリナルドとは面識があるが、思えばそれ以外の将軍の部下についてはよく知らない。
これまではそれでも特に問題なかったが、いよいよティノも黄皇国軍の一士官となったからには話が別だった。
これからは軍の中でも付き合うべき同僚とそうでない者を選り分けてゆかねばならない。黄臣でありながらあのルシーンという名の寵姫に靡く者も少なくないというならなおさらだ。
誰が黄帝に真の忠誠を誓う者で、誰がそうではないか。それを見極めるのが近衛軍士官となった自分のこれからの仕事だ、と、ティノはそう思い定めた。
もっともティノはこのときまだ、祖国の腐敗がもはや手の施しようもないほど深刻化しているとは露知らず、その無知こそが運命を狂わせていくのだが――。
「まあ、何はともあれ、これで誉れ高きトラモント五黄将のうち半分が揃ったわけだ。となればハーマンやマティルダもその辺からひょっこり現れるのではないか?」
「ああ、あのお二人でしたら、私が司令部を出てくるときにお会いしましたよ。そろそろガルテリオ様の謁見が終わる頃だとお教えしたら、今は軍務が立て込んでいるのでのちほど屋敷に伺うと」
「えっ……そ、そんな、ハーマン将軍とマティルダ将軍まで? それでなくとも将軍方はお忙しいのに……」
「それだけお前が期待されているということだ、ジェロディ。黄皇国広しと言えど、天下のトラモント五黄将から揃って門出を祝われる者などそうはおるまい。この国にもいよいよ、お前のような若者たちの時代が訪れようとしているのだ。お前がいずれ私たちの跡を継ぎ、この国の歴史を塗り替えてゆくのを楽しみにしているぞ」
そのとき微笑と共に注がれた父の言葉が、ティノの胸を熱くした。
いつかあの黄昏の鐘楼で、黄帝の口から紡がれた言葉が甦る。
――待っているぞ、ティノ。いつか君が我々を超えてゆくときを――。
そうして皆が信じてくれている。
ティノたちの世代が、この国に新しい時代の風をもたらすことを。
果たして自分にそんな大任が果たせるのか、まったく不安がないわけじゃない。
けれど今はそれ以上に、彼らの後継者となれることが誇らしい。
ティノはトラモント黄皇国が好きだ。
偉大な父たちが血と汗を流し、支え守ってきたこの国が。
だからいつかきっと、彼らの期待に応えたいと思う。
そのための新たな一歩が、いよいよ明日から始まるのだ。
「さあ、ではそろそろ行くか、ジェロディよ。今頃屋敷ではマリステアが首を長くしてお前の帰りを待っているぞ」
「はい、父さん」
促してきた父に頷き、ティノは将軍たちへ感謝と別れの言葉を告げた。そうして父のあとに続き、黄金の廊下を歩き出す。
中庭から斜めに射し込む陽の光が眩しかった。振り仰いだ窓の向こうを、鳥たちが囀りながら羽ばたいていく。
――この国の平和は、僕が守ろう。
ティノは改めてそう思った。
そう、思っていた。