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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第2章 ジェロディという少年
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38.黄昏の都にて

 その日、正黄戦争を経て玉座に返り咲いたオルランド・レ・バルダッサーレは、幼いティノを連れてソルレカランテ城の尖塔へ登った。

 城の南側に突き出た二つの鐘楼。東側のそれは日の出を告げ、西側のそれは日没を告げるために鳴らされる。

 ティノはその二本の塔のうち、西側の塔へ案内された。ちょうどその頃、西の地平では今にも沈もうとする太陽が最後の命を燃やし、黄金とも呼べる強烈な輝きで黄都を照らしていたからだ。


「ごらん、ティノ。これが君の暮らしていたソルレカランテという街だ。私はあけぼのの街を眺めるのも好きだが、やはり一番好きなのはこの時間だな。何せここは黄昏の都――その名のとおり黄昏時が最も美しい。そうは思わないか?」


 そう話してみせるオルランドの声には黄帝としての静かな威厳と、底知れぬ慈愛が宿っていた。小さかったティノはそんなオルランドの腕に抱かれて、泣き腫らした眼を見開きながら金色こんじきに輝く街を眺めたのを覚えている。


 彼が見せてくれた故郷の街並みは、とても言葉では形容しきれないほどに美しかった。

 黄砂岩によって築かれた多くの家々に、赤みの強い茶色の瓦屋根。それがどこまでもどこまでも大地を埋め尽くさんばかりに広がり、落日の光に包まれている姿――。


 その姿に見とれるうちに、ティノは胸の内を満たしていた悲しみがすうっと癒やされてゆくのを感じた。

 それはまるで神の奇跡のように、幼いティノの心から母を喪った悲しみを取り払ってくれた。


 だって亡き母は今、この美しい大地に抱かれて眠っている。

 そう思ったら、何だかちっとも寂しくなんてないように思えたのだ。

 世界はあまりに残酷で、こんなにも悲しみに満ちていて――それでもなお美しい。

 だから人は生きてゆけるのだと思った。

 何があっても、世界は美しくそこに在るから。


「いいか、ティノ。父君は君の将来をいささか心配しているようだが、案ずることはない。私には分かる。君はあと数年もすれば、立派な志士となるだろう。私はそんな君に期待しているのだ。この美しい黄昏の都を、君たちのような若い世代がこれからも守り続けてくれることを」


 言って、オルランドは少し悪戯っぽく口髭を綻ばせた。鐘楼へ至る梯子の下では父のガルテリオが落ち着かない様子でこちらを見上げていたから、そんな父をちょっとからかう意図もあったのだろう。

 だから、ティノも笑った。

 笑ってこの国の王と共に、暮れゆく黄昏の都を眺めた。


「陛下。ぼく、強くなります。いつか父さんみたいに強くなって、陛下といっしょにこの街をまもります」


 それを聞くと、オルランドは微笑んだ。

 まるで自分の子の成長を喜ぶような笑顔だった。


「ああ、待っているぞ、ティノ。いつか君が我々を超えてゆくときを――」



              ◯   ●   ◯



 カラン、カラン、と、どこかで鐘が鳴っていた。

 あれは理神の刻(八時)を知らせる教会の鐘だ。市門の開門と閉門を知らせる城の鐘とは、音色が違うのですぐに分かる。


 ティノはその鐘の音を窓の外に聞きながら、首に巻かれたスカーフタイにちょっと指先を引っ掛けた。

 どうにもこういう礼服に慣れていないティノにとって、このタイはやっぱり息苦しい。まるで貴族という型の中にぎゅうぎゅうと押し込められているようで、身動きするのも窮屈だ。


 けれどもそのとき、ティノはふと向かいの腰掛けに座る父の姿を盗み見て、彼もまた渋面を浮かべながら首元を緩めている現場を目撃した。

 ――これじゃまるで父子揃っておのぼりさんノン・ソル・ウォーモだ。

 そう思うと可笑しくて、思わず小さく笑ってしまう。


 そこはソルレカランテ城一階の『曙光の間』。城の最奥に位置する謁見の間の手前――そこで黄帝からお呼びがかかるのを待つための、ごく小さな控えの間だった。

 ティノはそこで父と共に、謁見の時間が回ってくるのを待っている。何を隠そう、ティノはこれから父の推薦という形で黄帝オルランドに拝謁し、今日から一人の武官として国に仕える許しをいただくことになっているのだ。


「苦しそうだね、父さん」

「そう言うお前もな、ティノ。だがお前はまだいい。今朝の着替えを手伝ってくれたのはマリステアだろう?」

「そうだけど、父さんは?」

メイド長ヴァネッサだ。彼女は私に何か恨みでもあるのか? お前の晴れ姿を見る前に絞殺されるかと思ったぞ」


 憮然とした表情で父がそんなことを言うので、ティノはなおも声を上げて笑った。メイドとしてある程度融通のきくマリステアは、ティノが「苦しい」と言うと慌てて衣装のあちこちを緩めてくれたが、厳格なメイド長であり執事でもあるあのご婦人は、ガルテリオの抗議に一切耳を貸してくれなかったらしい。


 オルランドとの約束の刻限まであとわずか。ティノはもうすぐ黄帝に拝謁できると思うと胸が弾んだが、同時に緊張も覚えていた。

 黄帝の御前に出たときの作法は父から何度も教えられ、練習もしたものの、果たして本番で万事上手くできるとは限らない。いざ謁見の間に臨んだら頭の中が真っ白になって、くどいほど確認した伺候の言葉も跪拝の所作も吹っ飛んでしまう可能性だってある。


 だからティノは昨夜からそわそわしっぱなしで、実を言うと朝食もろくすっぽ喉を通らなかったのだが、こうして父と話していると少し気持ちが落ち着いた。

 思えばこんな風にガルテリオと二人きりになれたのは、かなり久しぶりかもしれない。屋敷では常にケリーやオーウェンや使用人たちが周りにいるし、ガルテリオもたまに黄都へ帰ってくると家長としての仕事に忙殺されて、なかなかティノと親子水入らずで話をするという機会がなかったから。


 ガルテリオもそんな感慨に耽っていたのかどうか。彼は格子窓の外を眺めながら蜂蜜入りの香茶を啜ると、改めてティノを振り返ってくる。


「だがその礼服、よく似合っているぞ、ティノ。仕立て屋は自分で選んだのか?」

「うん。できればあんまり派手な礼服にはしたくなくて、ウィルコックスさんのところにお願いしたんだ。だけど陛下に謁見する用の服だって言ったら、ウィルコックスさんも珍しく張り切っちゃって……」

「ほう。その服はウィルコックスの作なのか? 私はてっきりチェンバレンの作かと思ったぞ」


 と、ガルテリオが言うのも無理はない。ティノがいつも贔屓にしているウィルコックスは、あまりゴテゴテしていない、どちらかというと中流階級向けの――つまり比較的地味な衣装ばかり作る――仕立て屋で、今まで彼がこんな派手な衣装をティノに献上したことは一度もなかった。

 ところがティノを小さい頃から知る仕立て屋は、お得意先の坊っちゃんがいよいよ国に仕官すると知るや大喜びで、やたらとキンキラの肩飾りや、ずいぶん手の込んだ蔦草模様の刺繍や、馬鹿みたいに大きな鳥の羽根で飾った帽子などなど、とにかく豪華絢爛な礼服をこしらえてくれたのだ。


「僕は最初、派手すぎるって嫌がったんだけどね。陛下にお目見えするならこれくらい見栄えがしなきゃダメだって、ウィルコックスさんが……」

「まあ、我が国の貴族はとかく派手さを競い合うようなところがあるからな。私に言わせればとんだ悪習だが」

「僕もそう思うよ。まあ、でも、似合ってるなら良かった。こういう服って滅多に着ないから、自分じゃよく分からなくて……」

「お前の貴族嫌いも筋金入りだからな。とても詩爵家の嫡男とは思えん」

「父さんに似たんだよ。父さんの夜会嫌いは黄都でも有名でしょ」

「まあな。だがうちに来る招待状の数は一向に減らん。少しは返事を書く手間が省けると思ったのだが」


 残念そうに肩を竦める父を見て、これを聞いたら他の貴族たちは顔を真っ赤にするだろうな、とティノは苦笑した。

 何しろ『黄帝陛下の懐刀』とまで呼ばれる父は、居城こそ西の辺境にあるが、この中央でも並々ならぬ発言力を持っている。その父に媚びを売り、いざというとき庇護してもらおうという魂胆の貴族がこの黄都にはごまんといるのだ。


 しかし彼らは不幸なことに、自分たちのおもねりが余計に父を遠ざけているということを知らない。ガルテリオは貴族間の社交や派閥争いといったものにまったくの無関心で、むしろそういうことに巻き込まれるのを嫌っている。

 だから父は彼らの追従に気を良くしたりはしないし、特定の誰かと親密になったりもしない。彼が胸襟を開くのは昔から苦楽を共にしてきた軍の仲間だけだ。

 周りの貴族たちも早くそれに気づけばいいのに、と、ティノは日頃からそう思っている。そうすれば家長代理の自分に擦り寄ってくる迷惑な翼爵よくしゃくも、やたらと娘をティノと婚約させたがる晶爵しょうしゃくもいなくなるのに。


「しかし、お前が陛下とお会いするのはかれこれ八年ぶりか。あれからもう八年も経ったのだな」

「うん。僕、今でも覚えてるよ。陛下が偽帝フラヴィオを討ち果たしてソルレカランテに凱旋した日、僕をこの城に連れてきて下さったこと……正黄戦争中のことは正直よく覚えてないけど、あの日この城から眺めた街並みだけは、昨日のことみたいに思い出せる」


 言って、ティノは八年前に望んだあの美しい街並みを再び脳裏に思い描いた。


 十年前に勃発し、二年の歳月をかけてようやく終息した内乱――正黄戦争。


 その発端は、先帝ブリリオ三世の子として皇位を継いだ若き日のオルランドを、叔父であるフラヴィオ六世が一方的に廃嫡し、亡き者にしようとしたことにあった。

 当時、権益に群がる貴族たちを言葉巧みに籠絡したフラヴィオは、オルランドの身体的特徴が皇家のそれと一致しないと難癖をつけ、〝新帝オルランドは先の黄妃こうひフェルディナンダが不貞によって設けた子である〟と騒ぎ玉座から引きずり下ろしたのだ。


 当然ながらフラヴィオの主張はまったくの事実無根であり、オルランドは確かに先帝ブリリオ三世の子であった。彼が歴代黄帝と同じ豊かな金髪を湛えて生まれてこなかったのは、ティノと同じく母系の血が濃く出たからだ。

 それに彼の力強い瞳は、遠目に見れば確かに黒と思えるが、間近で見れば深い紫黒色であることがすぐ分かる。皇家の瞳は代々紫色である――という認識は、彼の場合も当てはまるというわけだ。


 もっとも下々の者が皇族の尊顔かおをまじまじと拝見できる機会などまずないから、彼らがそれを黒だと信じ込んでしまったのが悲劇の始まりだった。

 フラヴィオと彼にくみする貴族たちに皇位詐称の罪をなすりつけられたオルランドは、命を狙われ黄都を追われた。


 もしも異変を察知したガルテリオが兵を連れてこの城へ雪崩れ込み、身命を賭して彼を救い出さなければ、この国は今もフラヴィオの治世であったことだろう。

 そのガルテリオに護られて黄都を脱出したオルランドは、遥か西のオヴェスト城に拠って自らを信じる者を募り、彼らと共に戦った。現在黄皇国軍内で重要な位置を占めている将軍たちのほとんどは、その戦いで真っ先にオルランドの下へ馳せ参じ、果敢に戦った者たちだ。


 ガルテリオが平民の出でありながら西果さいはての地を守る大将軍に抜擢された理由もそこにある。真の黄帝を命懸けで死地から救い出したガルテリオの功績は、今なお吟遊詩人たちの歌に謳われているほどだ。

 同じような伝説を、自分もこの国に残せる――とまでは、さすがのティノも自惚れていない。

 けれど、いつかは自分も〝さすがはあのガルテリオ将軍のご子息〟と言われたい。父の名に恥じない軍人になりたい。


 あの日見た黄金の街並みを思い出す度、ティノの胸にはそんな想いが燃え上がった。いわばあの日はティノの人生の原点だ。

 そしてオルランドは、決して崩れぬ心の柱をあの日ティノに与えてくれた。自分はその大恩に報いることができるだろうか――とティノが考え込んでいると、ときにガルテリオが口元を綻ばせながら言う。


「あのあとも陛下は私の顔を見る度に、ティノは元気にしているか、とお前のことをいつも気にかけて下さった。そのお前が立派に成長し、こうして再び会いに来たのだ。陛下もきっとお喜び下さるに違いない」

「そ、そうかな?」

「そうだとも。だから御前では恥じることなく胸を張れ。陛下のご期待に背くなよ」


 毅然とした父の言葉に背中を押され、ティノは深く頷いた。

 そのとき軽快なノックの音が響き、扉の向こうから取り次ぎ役の文官が現れる。


「第三軍統帥ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ様、並びにご子息ティノ・ヴィンツェンツィオ様。謁見の準備が整いました。どうぞこちらへ」


 ティノに負けず劣らず、きらびやかな礼装をまとった父が一瞥をくれた。ティノもそれに視線で返し、二人は同時に立ち上がる。


「では行くぞ、ティノ。お前をこう呼べるのも今日が最後だ。堂々としていろ」

「はい、父さん」


 文官の案内に従って、父子は曙光の間をあとにした。向かい合う竜の姿が描かれた扉の向こうには、ピカピカに磨かれた金縞石きんこうせきの廊下が広がっている。

 ティノはその黄金の輝きの中に立ち、大きく息を吸い込んだ。


 この先で、金色王こんじきおうが待っている。



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