03.有漏路に惑う
「何度も言ったはずよ、フィロメーナ。私があなたのためにしてあげられることは何もない。トリエステ・オーロリーは正黄戦争の終わりに死んだの。死人にできることなど何もないわ」
突き放すように言ったトリエステの声が、小さな家の中に響いた。壁際に佇んだフィロメーナは、そんなトリエステを睨むように見据えている。
数年顔を見ない間に、妹はすっかり変わってしまった。トリエステはそう思った。以前のフィロメーナなら決してこんな目はしなかったはずだ。
誰からも花のようだと褒めそやされ、愛されていた妹は、いかなる場所でも笑顔を振り撒き、笑うと本当に花が咲いたようだった。されど今の彼女はにこりとも笑わず、手負いの獣にも似た危うさを漂わせている。
「姉さん。姉さんはいつまでそうして屁理屈を捏ねているつもりなの? 姉さんにも見えているでしょう、黄皇国の腐敗に苦しむ人々の姿が。なのに見ないふり、聞こえないふりを続けるのは彼らを見殺しにしているのと同じことよ。姉さんには彼らを救う力があるのに、それを振るわないのだから」
「私は敗軍の将なのよ、フィロ。六年前の戦いで私は多くの人を死なせた。私には誰も救えなかった。そんな人間に一体何を期待しているの?」
「いいえ、姉さんはそうやって逃げているだけよ。これ以上傷つくのが嫌だから。だから自分を守るために他者に犠牲を強いている。自分が死なせた人々を言い訳にして」
「フィロ。私は」
「やっぱり父さんの言ったとおりだわ。姉さんは口先で正義を語るだけの卑怯者だって。あの人は残酷だけどいつも正しい。だから六年前も──」
「──あの人の話はしないで」
父の話をされた途端、トリエステは思わずカッとなって言った。思ったよりもきつい口調になってしまい、すぐに後悔と自己嫌悪の波がやってくる。けれども一応の効果はあったようで、あれほど語気鋭かった妹がついに押し黙った。トリエステはそんな妹と目を合わせるのも億劫になり、額に手を翳しながら言う。
「悪いけれど、何を言われようとあなたに協力するつもりはないわ。もう帰ってちょうだい」
「……分かった。そうするわ。安心して、もう二度とここへは来ないから」
フィロメーナがきっぱりと告げたそのひと言が、トリエステの胸を衝いた。
本当にもう彼女と会うことはないのだろうか。
そう思うとトリエステの心は騒ぎ出す。
二度と会わない覚悟なら、六年前、すべてを捨てたあの日に決めたはずなのに。
これが妹との今生の別れになるのなら──自分は。
「フィロメーナ。あなたは」
「姉さん。姉さんが何と言おうと私は知ってるわ。六年前、姉さんが何のために戦い、何を守ったのか。あれを敗北と呼ぶのなら、今まで姉さんに感謝してきた私が馬鹿みたい。だったらいっそあのときに大人しく殺されてしまえば良かった」
そうすればこんなことにはならなかったのに。
フィロメーナがぽつりと零したひと言が、トリエステの胸を抉った。
今にも部屋を出ていこうとしていたフィロメーナが足を止め、顔を上げる。
そうして彼女は振り返り、最後に一度だけ笑った。
「さようなら、姉さん」
呼び止める言葉が出てこなかった。
トリエステは座り込んだまま遠のいていく足音を聞いているしかない。
泣いているようなフィロメーナの笑顔が瞼から離れなかった。
トリエステはこのときの選択を、それから一生悔やみ続けることになる。