37.竈神祭
バタバタと慌ただしい空気が屋敷中を包んでいた。
廊下という廊下を、使用人たちが右へ左へ行き交っている。ある者は両手に水入りの桶を提げながら、またある者は煤だらけになった布を山のように抱えながら、次はどっちだ、あそこがまだだなどと声を上げ、忙しく駆け回っている。
「ティノさまー! 次は食堂をお願いします!」
「ああ、分かったよマリー。今行く」
早朝から続くそのお祭り騒ぎにも慣れた頃。ティノはどこからともなく聞こえたマリステアの声にそう答えた。
目の前では長身のオーウェンが浴室の暖炉にすっぽり収まり、今は立ち上がって煙突に頭を突っ込んでいる。ティノはその足元の灰を掻きながら、オーウェンが差し出してくる布やブラシを洗って返す、という手伝いをしていたところだ。
「ティノ様、ここはもう俺一人でも大丈夫です。次はマリーの方を手伝いに行ってやって下さい」
「本当に大丈夫かい? 何なら誰か代わりのメイドを呼んでくるけど」
「中はもうほとんど綺麗になりましたよ。あともう一踏ん張りでここの作業は終わりそうです」
「それじゃあ、残るは食堂と書斎と厨房か。書斎にはケリーが行ってるからいいとして……」
「よりにもよって一番大変な食堂と厨房が残りましたか。こいつは骨が折れそうだ」
そう言ってひょっこり暖炉から出てきたオーウェンは、頭から爪先まですっかり煤まみれになっていた。腰のあたりを締めたチュニックや結った長髪の上に巻かれた手巾も、元からそういう色だったのではと錯覚しそうなほど黒ずんでいる。
もっともオーウェンはどれだけ汚れたか一目で分かるように敢えて白い古着を選んでいたから、汚れるだけ汚れて本人はむしろ満足そうだった。煙突の中で汗でも拭ったのだろう、額や鼻の頭まで真っ黒なのはさすがに可笑しかったけど。
「オーウェン、今年もひどい顔だ。何もそこまで汚さなくたっていいのに」
「だって今日は年に一度の竈神祭ですよ? 一年分の汚れを全部落とそうと思ったら、このくらいは汚れないと」
「つまりオーウェンには、そんなに汚れないと落とせないほどやましいことがあるってこと?」
「ゴホッ! そ、そんなことよりほら、下でマリーが待ってますよ! 早く行ってやらないと、きっと人手が足りなくて困ってるはずですから!」
オーウェンはあからさまに狼狽しながら、あとは逃げるように暖炉へ引っ込んだ。ティノはそんなオーウェンを見て笑いを零しつつ、ひとまずここは彼に任せていくことにする。
何かやり残したことはないかと見渡した浴室には、猫脚の小さな浴槽が一つ。入浴の際はその浴槽の中に大きな布を広げ、更に厨房の大釜で沸かした湯を汲み入れて使うのだ。
他の国ではどうだかしらないが、トラモント貴族の屋敷ではこのような入浴方法が一般的で、浴室の暖炉は秋から早春にかけて、裸では風邪をひくような季節にだけ火を入れられる。そもそも家に浴室があるというのはかなり裕福な証拠で、一般の市民は街にある公衆浴場なるものを利用しているらしい。
「ティノさま、どちらにいらっしゃいますか~!?」
「二階だよ、マリー。今行くから待ってて」
と、ときに自分を探しているらしいマリステアの声を聞き、ティノは手にしていた箒を暖炉に立てかけて駆け出した。とは言えヴィンツェンツィオ家の屋敷は他の大将軍家に比べてそう広くはないから、マリステアもすぐにティノを見つけただろうけど。
黄都ソルレカランテの中心、ソルレカランテ城。ヴィンツェンツィオ家の屋敷はそんなソルレカランテ城を環状に囲む貴族街、その南東の一角にある。
建物はこの街ではありふれた黄砂岩造りの二階建てで、一階は社交場、二階が住居。更に屋根裏部屋が住み込みで働く使用人たちの居住空間になっており、厨房や葡萄酒貯蔵庫は地下に設けられている。
そう聞くとそこそこ豪奢な屋敷に思えるかもしれないが、実は部屋数は最低限、一階にあるのも夜会を開くには少々手狭な小広間と食堂、書斎、応接室程度で、一般的な貴族の屋敷に付き物の娯楽室や舞踏室などといった余計なものは一切なかった。
これは年俸五百圃もの大貴族の屋敷としては驚くほど小さい。五百圃と言えば四姓を持つ詩爵家の中でも三大貴族のオーロリー家、ラインハルト家、ヒュー家に並ぶ破格の待遇だが、それでいて屋敷がこんなにこぢんまりしているのには理由がある。
その理由というのが当主ガルテリオの出自だ。父は元々黄皇国軍の下級将校の家の出で、そもそも一姓すら持っていなかった。それが一代で黄帝の信頼を勝ち取り、実力で今の地位まで駆け上がったのだ。
つまり父は平民の出で、だからこそ無駄な贅沢を好まなかった。この屋敷だって元は華爵家――四爵の中で最も下位の爵位――のものだったのを買い取り、ちょっと改装しただけだ。
加えてティノの母も研究のために世界中を飛び回っていた学者だったから、常に身軽であることを好み無駄なものを嫌った。
おかげで使用人の数も極めて少なく、いるのはメイドが数人と馬丁が二人、そして庭師が一人だけ。
大きな屋敷なら使用人たちを取りまとめる執事などもいるのだろうが、ここでは年嵩で厳格なメイド長がその役を兼任している。もっともティノはいつもキリリと眉を吊り上げて、屋敷中に鋭い視線を配っているあのご婦人があまり得意ではなかったけれど。
「お待たせ、マリー」
「あっ、ティノさま! どちらにいらっしゃったんですか?」
「オーウェンと二人で浴室に。あとは食堂と地下の厨房だけだろ?」
「はい。浴室の方は終わりそうですか?」
「あと少しだってオーウェンが言ってたよ。こっちも早いところ終わらせよう」
言って、ティノはざっと食堂の様子を見回した。いつもは白いクロスがかかっている八人掛けの食卓は、今はすっかり丸裸にされている。
その上には隣の食器室から運び出されてきたと思しい金の燭台がいくつも並び、まるで新品みたいに輝いていた。元々メイドたちが毎日丁寧に手入れしてくれているものだが、今日は更に念を入れて磨かれ、作られた当初の美しさを取り戻したかのようだ。
「毎年この時期になるとさ。僕、思うんだ。父さんが無駄に大きな屋敷を建てたりしなくて良かったって」
「ふふ、確かにそうですね。他のお屋敷はどこもてんてこまいみたいですよ。お屋敷が大きいと、その分暖炉や竈の数もたくさんですから」
翼神の月、翼神の日――一年の締め括りとなるこの日は『竈神祭』と呼ばれ、老いも若きも貴族も平民も、誰もが家の暖炉や竈の煤払いに追われる一日だった。
この日の由来となっている竈の神ベートは、一家の繁栄と守護を司っていると言われる。いわゆる〝家の守り神〟というわけだ。
だから毎年最後の日は、どの家でも竈神ベートに一年の感謝を表し、竈という竈、暖炉という暖炉を掃除する。
溜まった灰を掻き出せば床が汚れ、煤まみれの手で壁や家具を触れば汚してしまうことから結局家中の大掃除になるのだが、これぞ年の瀬の風物詩。今頃は黄帝の住まう王城でも召使いという召使いが悲鳴を上げながら駆け回り、無数にある暖炉と竈を磨くことに忙殺されているのだろう。
「ティノさま、気をつけて下さいね」
「ああ、大丈夫だよ、マリー」
やがてマリステアから獣毛製のブラシを受け取ったティノは、首に下げていた布で口元を覆うと、小柄な体をするりと暖炉へ滑り込ませた。
暖炉の中には既に組み立て式の梯子が立てかけられていて、上部へ向けてまっすぐに伸びている。さすがに煙突の外まで抜けるのは無理だが、上端の方は屋根に上った馬丁の二人が既に汚れを落としてくれているはずだ。
ティノは持ち手が鉤状になったブラシを腰の革帯に引っかけて、危なげなくその梯子を上った。ほどなくティノに続いてマリステアも暖炉をくぐり、下から火入りの角灯を手渡してくる。
ティノはそれを受け取ると、煙突の途中にある掛け金にかけて光源を得た。あとはただひたすら煙突の内部を擦るのみ、だ。
「だけど、これが終われば待ちに待った六聖日ですね。今年も神誕祭の移動劇を見に行くのが楽しみです」
「また移動劇を見に行くつもりなのかい? 他のお祭りと違って、神誕祭の移動劇は毎年『エマニュエル創世記』だろ。僕はもう見飽きちゃったよ」
「でもでも、年によって役者さんも装飾も全然違いますし、六聖日で一番盛り上がる催し物ですし、やっぱり見たいじゃないですか!」
「僕は祓魔の日の聖戦の方が気になるけどなぁ。今度の記念試合にはあのベアート聖戦騎士団が出るって言うし」
「それって確か、今年の金竜杯で優勝した騎士団ですよね。そう言えばティノさま、決勝戦の日にお風邪を召して試合を観に行けなかったんでしたっけ」
「そうだよ。僕は平気だって言ったのに、マリーがメイド長に言いつけたりするから……」
「それはティノさまが、わたしにも内緒でお屋敷を抜け出そうとしたからです。あのまま放っておいたら、お一人で聖戦場まで行かれるおつもりだったでしょう? 仮にもティノさまはヴィンツェンツィオ家のお世継ぎなんですよ。なのに高熱を出しながら、供もつけずに外出されるだなんて……」
「あの日は熱が下がり始めてたんだよ。だから大丈夫だって言ったのに……だいたい供なんかいなくたって、自分の身くらい自分で守れるよ。そのために剣を習ってるんだから」
「それはそうかもしれませんが、それでもマリステアは心配なんです! あれに懲りたら、もうこっそりお屋敷を抜け出そうなんて考えないで下さいね」
「僕ってそんなに信用ないかなぁ……」
口を尖らせてぼやきながら、それでもティノは力を込めて煤まみれの煙突を擦り続けた。
六聖日というのは年が明けてからの六日間――すなわち明日から六日間続く祭日のことを指す。この間はエマニュエル中のあらゆる国で新年を祝う祭が行われ、黄都ソルレカランテでも毎日何かしらの催し物が開かれるのだ。
それにしたところで、マリステアの心配症にも困ったものだ、とティノは思う。ティノも明日を迎えれば十五歳――黄皇国では成人と見なされる年齢――になるというのに、マリステアは未だ自分を一人前の男として見てくれない。
そりゃあマリステアはティノより四つ年上で、小さい頃からずっと世話係として傍にいるわけだから、今もティノのことが頼りない子供のように思えてしまうのは仕方がないのかもしれない。
けれど将来は父のような軍人になりたいと思っているティノにとって、マリステアの態度は大変遺憾だった。年が明けたら一日も早く立派な活躍をして、自分の成長した姿を彼女にも示さなくては、と思う。
「ティノ様、どうです? 作業の進捗具合は」
と、やがてティノとマリステアが食堂での作業をほぼ終えた頃、書斎の煤払いを担当していたはずのケリーが現れた。
ケリーも今は肌にぴっちりとした脚衣にチュニックを着ているが、どれもこれも煤まみれだ。顔はオーウェンほど派手に汚れてはいないものの、日に焼けた頬に汚れを拭ったような跡がある。
「ここの掃除はほぼ終わったよ、ケリー。二階もだいたい終わったはずだから、あとは地下の厨房だけかな」
「そうですか。それなら何とか日没まで間に合いそうですね」
「ああ。だけど、父さんがまだ……」
「そう言えばガルテリオさま、朝から司令部に出仕されたきりお戻りになりませんね。何かあったのでしょうか」
しゃがみ込んで雑巾を洗っていたマリステアが、ちょっと心配そうな顔で手を止めた。ちょうどそのとき、ホールに置かれた振り子時計が出番を見計らったかのように鳴り始める。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……。
鐘は全部で十三回鳴った。
つまりたった今、時刻は聖神の刻(十四時)を迎えたということだ。
「聖神の刻……ってことは、日没まであと二刻(二時間)くらいしかないよ。屋敷中の煤払いが終わっても、父さんが戻ってこなきゃ清めの儀ができない。竈神祭で最後に祈りを捧げるのは家長じゃなきゃいけないんだから」
「も、もしガルテリオさまが夜までお帰りにならなかったら大変です。きちんと清めの儀を行わなかった家はベートさまに見放されて、翌年から災いに見舞われるって言いますし……」
「そもそも竈神祭の日は毎年休日のはずだろ。なのに司令部もどうして急な呼び出しなんか……」
ガルテリオが軍装に身を包んで屋敷を発ったのは、今から四刻ほど前。ティノや使用人たちが日の出と共に起き出して掃除に取りかかり始めた頃に、屋敷の玄関を司令部からの使者が叩いた。
父はその召集に応じて屋敷を出ていったきりだ。幸い休日を返上して駆けつけたウィルとリナルドが随伴を申し出てくれたので、道中何かあったということはないだろうが、それにしても遅すぎる。ガルテリオは屋敷を発つ際、「日没までには戻る」と確かにそう言っていたのだ。
何しろ竈神祭の最後には、家長が暖炉に火をくべて供物を捧げ、竈の神ベートに翌年の多幸を祈る『清めの儀』なるものがある。竈神祭の日は家中の掃除とこの清めの儀を日没までに済ませなければならないというのが教会の教えだ。
その教えに背いたらどうなるか……。迷信と言われてしまえばそれまでだが、マリステアが怖々と告げたとおりのことが起こらないとも限らない。
だからティノはこんな大事な日に父を呼びつけた軍司令部にも腹が立っていたし、果たして今年の竈神祭を無事終えられるかどうか、気を揉まずにはいられなかった。そこで、
「いっそ司令部まで様子を見に行った方がいいかな?」
と尋ねれば、ケリーが慌てた様子で口を開く。
「お、お待ち下さい、ティノ様。何もそこまでなさらなくても、きっともうじきお帰りになりますよ。ガル様も今日が竈神祭だということをお忘れのはずがありませんし、儀式を執り行わなければならないのは司令部のお歴々も同じでしょうから」
「でも、それにしたって遅すぎませんか? このままじゃガルテリオさまが穢れを祓う時間がなくなってしまいます」
相変わらず眉の下がった心配顔でマリステアは言う。実はこの竈神祭の意義は、家の守り神たるベートに感謝と祈りを捧げることだけではなかった。
家中の煤払いをすることによって体につく汚れを一年の厄や穢れに見立て、それらを清めの儀で払い落とす――。それもまた竈神祭が数ある祭日の中で特に重要視されている所以だ。
だからオーウェンなどはあんなに張り切って体中を汚していたわけだが、体を汚す暇がなければ当然ながら穢れは落とせない。
マリステアが心配しているのはまさにそれだった。穢れは神々の加護を遠ざけ災いを招く。いくら父が高潔で誇り高い人間であろうと、軍人として数多の敵兵の血を浴びている父は争いを嫌う神々にとって〝穢れた存在〟なのだ。
それを許してもらうには、父もまたティノたちのように煤まみれになってベートに奉仕するしかないのだが……。
「それならガル様がお戻りになったときのために、少しだけ竈の煤を残しておけばいい。最後にそれをガル様に払っていただいて、清めの儀を執り行えばいいんだ」
「うーん……それだけで本当に大丈夫でしょうか? まるで取ってつけたみたいで、ベートさまがお怒りにならないか、マリステアは心配です」
「どうしても忙しいときは仕方がないだろう。その分、私たちが心を込めてベート様にお仕えすればいい。そもそもガル様には、オーウェンのように体中を真っ黒にしてまで落とさなければならないような穢れはないからね。神々とてあの方の日頃の行いはご照覧さ」
「おい、ケリー。俺が何だって?」
と、ときに食堂の入り口から不機嫌そうな声が上がって、皆の視線がそちらへ向いた。
そこには仏頂面で扉の前に立ったオーウェンがいる。どうやら浴室の掃除が終わってこちらを手伝いにきたようだが、その顔といったら、ティノが最後に見たときよりもひどい有り様だ。
「わっ、オーウェンさん、どうしたんですかその汚れよう! まるで真っ黒お化けみたいですよ!?」
「俺には真っ黒お化けみたいに人の魂を抉り出して食べるような趣味はない。これはその……いつもよりちょっと張り切りすぎただけだ」
「何だってまた今年はそんなに張り切っちまったんだかねぇ。何かよっぽどやましいことでもあったのかい?」
「あ、ケリーも僕と同じこと言ってる」
「心外です、ティノ様。俺はただ、日頃お世話になっているガル様のお屋敷を徹底的に綺麗にしてやろうと……」
「本当かい? 私はてっきり、夜な夜なマリーのあんな姿やこんな姿を――」
「わーっ!! わーっ!! ケリー、馬鹿なことは言うな!! そ、それはそうと、作業の方はどうなってる!?」
「あとは地下の厨房だけだよ。だけど父さんがまだ帰ってこなくて……」
「あ、ああ、それで揉めてたんですか。大丈夫ですよ、来年はティノ様もついに仕官されるわけですから、ガル様もそのことで綿密な打ち合わせをされているんです。何せ六聖日が明けたら、すぐに陛下に謁見なさるのでしょう?」
「うん。父さんはそう言ってた」
「年始は祝賀の挨拶に訪れる客でソルレカランテ城がごった返しますからね。その日程の調整とか、ティノ様に預ける隊の編制とか、きっと色々と忙しいんですよ。ですからご心配なさる必要はありません」
――何かさっきケリーが言いかけていたことが気になるが、まあ、そういうことなのだろうか。確かにティノは年が明けたら、成人を機に黄皇国軍へ仕官する。
父はその準備で忙しい素振りなどティノには微塵も見せなかったが、普段から家族に心配をかけるようなことは極力口にしないし態度にも出さない人だ。もしかしたらティノが思っている以上に、父は息子のために骨を折ってくれているのかもしれない。
そう考えると合点がいって、
「そっか。それじゃあみんなで最後の竈に取りかかろう。ケリーの言うとおり、父さんのために一つだけ残して、あとは全部綺麗にするんだ。来年もこの家がベート様に見放されないように」
と、その場にいた皆に号令した。それを聞いたマリステアが真っ先に元気のいい返事をして、集まっていた使用人たちもテキパキと動き出す。
けれどそのとき視界の端に佇むケリーとオーウェンが、物憂げに顔を見合わせた――ような気がした。
ティノはそれに気づいて二人を振り返る。が、再び目が合うと、二人はいつもどおり微笑むばかり。
ガルテリオが帰邸したのは、それから約一刻後のことだった。
その姿を認めるなり「遅いよ、父さん!」とティノが叱責すれば、ガルテリオは謝罪と共に苦笑する。日没まではあとわずか一刻だ。
そこでまずマリステアが軍装のまま戻ったガルテリオを部屋まで引っ張っていき、素早く古着に着替えさせて厨房へ舞い戻ってきた。その頃には残る竈も一つだけになっており、ティノたちはその掃除を皆で手伝うことになる。
日頃メイドたちが食事の用意のために使っている、三連になった腰高の竈。ガルテリオは仰向けに寝転ぶとその一つに頭を突っ込んで、慣れた様子で中の煤を拭い始めた。
ティノやマリステアの膂力では簡単に落とせなかったような汚れも、ガルテリオの逞しい腕にかかれば剥がれ落ちるのはあっという間だ。その様を横から覗いていたティノは思わず感嘆の声を上げて、翳していた角灯を更に竈へ近づける。
「やっぱり父さんはすごいや。これを全部落とすにはもっと時間がかかると思ってたのに……」
「ははは、いずれはお前もこうなってくれなければ困るぞ、ティノ。そんな細い腕では、戦場でろくに剣を振るうこともできんからな」
「これでも毎日剣を振ってるんだけどな……」
どうも父と違って筋肉がつきにくいらしい自分の二の腕を見て、ティノは何だか情けない気分になった。直接会ったことはないが、何でも母方の祖母が大層小柄な人だったとかで、ティノはそちらの家系に似たのではないかと言われている。
――こんな自分が、果たして父のような軍人になれるのだろうか。
ティノはちょっと自信喪失しながら父を見た。
――でも、いつかなってみせたい。
その夢はいよいよ仕官の日を間近に控えたティノの中で、これまでにないほどの輝きを放っている。
「――炎と加護を司りし、慈悲深きベート。我ら一同、その御手の守りに衷心より感謝し、これより先も変わらぬ神愛を賜れることを祈らん……」
やがて夕日が西の地平に沈む頃。
着替えを終えたヴィンツェンツィオ家一同は食堂に集まり、家長であるガルテリオと共にベートへの祈りを捧げていた。
すっかり暗くなった食堂で、暖炉の火が明々と燃えている。祈りの儀式が無事終わると、ティノたちはその中へ汚れた衣類を投げ入れて、神への感謝を口にする。
厳粛な、それでいて暖かい儀式だった。
清めの儀の行程がすべて終わると、ガルテリオは集まった皆を見渡して、春のタリア湖のように穏やかな笑みを湛えてみせる。
「皆、今年も一年ご苦労だった。去年と変わらぬ面々と今年も年を明かせること、家長として嬉しく思う。来年からは我が息子ティノもオルランド陛下にお仕えする身だ。若輩者ゆえまだまだ迷惑をかけることも多いと思うが、どうかこれからも皆で息子の成長を支えてやってほしい」
ガルテリオは厳かにそう言うと、隣に立つティノの背中をポンと叩いてみせた。
すると真っ先に頷いたのは、胸の前で両手を合わせたマリステアだ。
「お任せ下さい、ガルテリオさま。たとえいかなる苦難が待ち受けていようとも、マリステアはこれからもティノさまのお傍を離れません。それが亡きアンジェさまとの約束でもありますから」
「ありがとう、マリステア。ティノがここまで立派に育つことができたのも、お前たちが今日まで傍で見守ってくれたおかげだ。アンジェもきっと喜んでいると思う。これからも息子を頼んだぞ」
「はい!」
それからティノたちは皆で少し遅めの夕食を囲んで、祝いの杯を交わした。
生まれ変わった暖炉の火に照らされた食堂は、いつもよりずっと暖かく満たされている。
そうして深夜、賢神の刻(零時)。
深い闇に覆われた黄昏の都に、あちこちの教会が鳴らす祝福の鐘が響き渡った。
ティノたちは寒空の下へ出てその音色を全身に浴び、笑顔で顔を見合わせる。
こうして激動の一年が始まった。
期待に胸膨らませて迎えた新たな年が、自らの運命を大きく狂わせていく一年となることを、このとき、ティノはまだ知らない。