36.銀のけもの ☆
原野に風が吹き渡っていた。
冬。
一面枯れ草に覆われた大地を、一頭の馬が馳せている。
蹄が大地を蹴立てる音が、晴れた空に軽快に響き渡っていた。
艶のある茶色の毛並みに黒い鬣を靡かせたその馬の背には、一人の少年が乗っている。
腰には紅の鞘に収められた一振りの剣。襟や袖口を金糸で縁取られた上等な上着に、いっとう目を引く朱色のバンダナ。
そのバンダナの上で冬の褪せた陽光を浴び、繊細な飾り細工がチラチラと光り輝いている。馬が駆けるのに合わせて賑やかに躍るそれは、華奢な鎖でつながれたいくつもの金細工だ。
彼の行く手にはまるで巨大な亀が寝そべったかのような、ゆるやかな斜面が伸びていた。少年は馬鞭で馬の尻を叩き、その斜面を一気に駆け上がる。
そうして丘の頂へ至ったところで手綱を絞った。馬は少年と同じ白い息を吐きながら足を止め、短い嘶きを上げる。
「――見えた」
そんな愛馬の首を叩きながら、少年はそっと破顔した。その若さと希望に満ち溢れた黒の瞳が見つめる先には、街道をゆっくりと北上してくる巨大なけものの姿がある。
いや、それはけものというより、銀色の蛇に近いかもしれない。陽光を照り返し、一糸乱れぬ動きで進む鎧をまとった人馬の群――それが長く隊列を組み、街道を粛然とやってくるのだ。
「ティノさま~!」
と、ときに後ろから声がして、少年はふと我に返った。
次いで近づいてくる馬蹄の音に振り向けば、丘の麓からえっちらおっちら、走りづらそうに駆けてくるもう一頭の鹿毛がいる。
その背にしがみつくようにして乗っているのは、少年の世話係であるメイドのマリステアだった。彼女はようよう丘の頂までやってくると、馬上でひぃひぃ息をつき、泣き出しそうな顔で少年を見つめてくる。
「も、もう! あれほど待って下さいと申し上げたのに! 途中からわたしには見向きもせずに走っていってしまわれて、ひどいです! マリステアはティノさまを見失わないよう必死でした……!」
「ごめん、マリー。やっと父さんに会えると思ったら居ても立ってもいられなくて……だけどこんな見晴らしのいい平原で、僕を見失うってことはないだろ?」
「ティノさまは分かっていらっしゃいません! マリステアは馬が苦手なのです! それはもう振り落とされないようにするのに必死で、ティノさまのお姿を目で追うなんてとても……」
「だからマリーは屋敷にいた方がいいって言ったのに。それにやっぱりその格好じゃ乗馬は無理だよ」
「で、で、ですが、わたしだってガルテリオさまを一番にお迎えしたいですし、この服はわたしの正装なのです! ティノさまに言われて、ちゃんと下にキュロットだって穿いてきましたし……!」
涙目になりながらそう主張するマリステアは、屋敷でいつも身につけている黒のメイド服にヘッドドレスという姿でそこにいた。上にはもちろん防寒用の外套を羽織っているが、どう考えても馬を乗りこなすような格好じゃない。
おかげで馬の方も相当苦労したのだろう、彼女を背中に乗せた鹿毛はブフン……と不本意そうに鼻を鳴らした。
ティノと呼ばれた少年は苦笑しながら、そんな馬の鼻面を撫でてやる。――まったく、マリーは変なところで強情なんだから。
「分かったよ。じゃあここからは僕が君の馬を曳いていくから」
「す、すみません……」
「いや、そんなに落ち込まなくても……君が馬に乗れないことは、僕だって分かってたし」
しゅん、とうなだれてしまったマリステアを見て、ティノはもう少し気をつけてあげるべきだったかな、とちょっと反省した。トラモント黄皇国の西の果て、シャムシール砂王国との国境を守っている父と半年ぶりに会えると思うと胸が弾んで、つい周りが見えなくなってしまっていたのだ。
そのお詫びも兼ねて、ティノはマリステアが乗る馬の轡を引き寄せた。そうして北風に靡く黒髪を押さえながら、南の方角を指し示す。
「ほら、ごらん。黄金竜を護る獅子の軍旗。間違いなく父さんの軍だ。もうそこまで来てる」
「わ、本当です……! ケリーさんやオーウェンさんもお元気にしてると良いのですけれど」
「あの二人が騒がしくないことなんてあるかい?」
「ふふふ、それもそうですね」
でもケリーさんが聞いたらきっと心外だって怒りますよ? とマリステアが悪戯っぽく笑うので、それじゃ今の話は内緒にしよう、とティノもまた微笑んだ。それから二人は速歩で丘の斜面を下りていく。
そうして街道を目指す二人の背後には、たくさんの農園と淡黄色の城壁に囲まれた巨大な都市が聳えていた。
陽の光を浴びて黄金に輝いているようにも見える〝黄昏の都〟――。
そこはトラモント黄皇国の首都、ソルレカランテ近郊に広がるエオリカ平原だった。〝平原〟と言うわりにはあちこちに隆起した丘が見て取れるけれど、いずれもなだらかでそれほど高さがないことからこの大地はそう呼ばれる。
その丘陵の間を縫うように、蛇行して伸びる黄都への道。
ティノとマリステアは、丘の上からその街道へと躍り出た。
そこから南西の方角へ四半刻(十五分)ほど馬を駆けさせると、行く手に整然と隊伍を組んだ三千ほどの軍が見える。
「父さん!」
その軍勢の先頭に白馬を駆る壮年の男の姿を認めたティノは、たまらず伸び上がって手を振った。
すると男もすぐに気がついたようで、馬を歩ませながら手を挙げる。
たったそれだけの合図で、彼の後ろに続いていた人馬がぴたりと止まった。相変わらず見惚れるほどの統率力だ。ティノはその様子から父が半年前と何ら変わりないことを悟って、喜びのうちに馬腹を蹴る。
「おかえりなさい、父さん! お迎えに上がりました!」
「おお、ティノか。それにマリステアまで。久しぶりだな」
「おかえりなさいませ、ガルテリオさま。ティノさまもわたしも、ガルテリオさまのお帰りを首を長くしてお待ちしておりました」
父・ガルテリオの跨る白馬のすぐ傍まで駆け寄ると、まずマリステアが馬上で恭しく頭を下げた。それを見たガルテリオは重々しく頷き、貫禄という名の岩から削り出されたような顔を綻ばせる。
「二人とも元気そうだな。変わりないようで安心した。ただ、ティノは身長まで変わりないのがいささか気がかりだが……」
「これでも夏に会ったときより伸びたよ。この間身長を測ったら、三十二葉(一六〇センチ)はあったんだから」
「本当か? 測るときに背伸びをしたんじゃないだろうな」
「父さん!」
久々に会う父のからかいに、ティノはむくれて声を上げた。するとガルテリオはよく通る低い声で笑って、冗談だ、と息子を宥めにかかる。
トラモント黄皇国イーラ地方の善良なる領主。
黄帝の信任厚く、領土拡大を狙うシャムシール砂王国の攻撃を幾度となく跳ね返し続ける『常勝の獅子』。
それがティノの父、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオの肩書きだ。彼は一年のほとんどを居城である西のグランサッソ城で過ごし、ティノの暮らす黄都へ帰ってくることは指折り数えるほどしかない。
けれどもティノはこの威厳と誇りの塊のような父を幼い頃から尊敬していて、いつ見てもその眩しさに目がくらむような思いがした。
事実ガルテリオのまとう白金の鎧は陽の光を浴びて惜しげもなく輝いていて、知らぬ者が見たらきっと彼を伝説の中から飛び出してきた英雄か何かだと誤解するに違いない。もっともこの国に父の名を知らぬ者など一人としていないのだけれど。
「ねえ、それはそうと、あれからまた砂王国が攻めてきたんでしょう? そのときの話を聞かせてよ」
「ああ、いいぞ。ただしまずは陛下に帰投の挨拶を済ませてからだ。私の口から直接ご報告申し上げなければならないことが山のようにあるのでな」
言って、ガルテリオはふと北東の方角に視線を投げる。嬉しげに細められた瞳には、まるで丘の向こうに聳えるソルレカランテ城の尖塔が早くも見えているかのようだ。
人々がこの父を呼ぶときのあだ名に、もう一つこんなものがある。
『黄帝陛下の懐刀』。
その呼び名が示しているとおり、父は現黄帝オルランドの二人といない腹心だった。かつてオルランドがまだ皇太子であった頃、父はその身辺を護る近衛軍の将校として側近く仕え、幾度となく彼を襲った危難を退けたのだ。
ゆえにオルランドも父には全幅の信頼を置いており、だからこそ西果ての国境の守備を任せている。
隣国シャムシール砂王国はとかく好戦的な国だ。表向きには領土拡大という名分を掲げてはいるものの、あるいは彼らの真の目的は戦そのものにあるのではないかと疑ってしまうほど。
そうして間断なく攻め寄せてくる砂王国軍を、こうも悉く打ち払える指揮官はガルテリオをおいて他にはいない。
砂王国軍は金に目がくらんだ獰猛な傭兵どもの集まりであり、更には人喰い獣人として名高い竜人とも同盟している。その戦力は侮れず、彼らはちょっとでも気を抜くとすぐに国境に敷かれた防壁を食い破り、黄皇国の領土へ押し寄せてくるのだった。
そんな砂王国軍に領土を蹂躙されぬようにと、国内で最も要の大地をオルランドはガルテリオに託している。
ティノにはその事実が誇らしくてたまらなかった。父と年に数回しか会えないのは確かに寂しいけれど、今はそれ以上に、自分もいつか父のような軍人になるのだという想いの方が強い。
だからたとえ父とほとんど会えなくたって、今の生活を不満に思うことはなかった。既に亡き母だって、きっとそんな父を誇りに思っていたに違いない。
「――ティノ様、ご無沙汰しております」
と、ときに父の後ろから声がして、ティノはそちらを覗き込んだ。
そこから騎獣を歩ませて現れたのは、一組の男女だ。女の方は草色の長い髪を結い上げて背中まで垂らし、男の方は切れ長の目に鋭い眼光を湛えながらも、その視線の先にティノを見つけてふっと目元を綻ばせている。
「ケリー! オーウェン! おかえり!」
その男女は女の方がケリー、男の方がオーウェンといった。二人はゆえあってヴィンツェンツィオ屋敷に居候している身で、ティノにとっては姉や兄のような存在だ。
それでいて彼らはガルテリオの忠実な部下であり、どちらもその麾下で一隊を率いていた。
しかも、二人が今跨っているのは馬ではない。硬い鱗に長い尻尾、そして鋭い角を生やした二足歩行の生き物――。
ティノたちの傍へやって来るなり「ピギャッ」と甲高く鳴いたそれは『亜竜』と呼ばれる竜の親戚だった。
もっとも本物の竜に比べたらだいぶ体が小さいし、翼もなければ人語も解さないけれど、それでも直立した背丈はガルテリオの跨る白馬にも並ぶ。頭頂から背中にかけて流れるように生えた鬣も少しだけ馬に似ていて、普段は群で行動する生き物という点も同じだ。
この亜竜と呼ばれる小さな竜は、父が治めるイーラ地方の西部、そこに広がるルチェルトラ荒野にしか棲息していない極めて珍しい生き物だった。
父はこれを手懐けて軍用の騎獣としている。皆一様に銀色の鎧で身を固めた亜竜たちの群は『竜騎兵団』と呼ばれ、その勇猛さから国内でも最強の部隊と謳われているほどだ。
「ステファノとマルチェロも久しぶり。元気だったかい?」
ティノがそう言って鼻面を撫でてやれば、二匹は嬉しそうに足踏みして喉を鳴らした。
この亜竜の軍用化に貢献したのが生物学者であり考古学者でもあったティノの母親で、彼らはまだ母のことを覚えているのか、面差しの似ているティノに会うといつもこんな風にはしゃいでみせる。
「ははっ、こいつらも久しぶりにティノ様と会えて嬉しそうだ。おい、ウィルとリナルドはどうした?」
「ここに」
と、そのときティノの身の丈ほどもある大剣を背に負ったオーウェンが声を上げ、後方に控えたガルテリオの手勢を顧みた。
するとそこから黒馬に跨った二人の青年が進み出てくる。黒髪で赤い外套を風に靡かせている方がウィル、やや長めの金髪をうなじのあたりで結った緑の外套の方がリナルドだ。
彼らもまたガルテリオの下で一隊を率いる青年将校で、父と同じ帝立士官学校の出身だと聞いていた。どちらも若いが優秀な士官であり、何より実力で下級将校から大将軍にまで昇り詰めた父にとことん心酔しているらしい。
「ご無沙汰しております、ティノ様。マリステア嬢もお元気そうで」
「う……り、リナルドさん、その呼び方は恥ずかしいからやめて下さいと、以前から申し上げているじゃないですか」
「ああ、申し訳ありません。マリーさん、とお呼びすればいいのでしたね。どうもお会いする度に美しくなっておられるので、私もつい畏まってしまって」
「うっ、うつっ、美しく……!?」
「おい、リナルド。仮にもマリーさんはガルテリオ様のご養女だぞ。それをよくもそんな軽々しく口説けるな」
「そう言うお前は野暮すぎるぞ、ウィル。トラモント紳士たる者、見目麗しい女性に会ったらこれくらいの挨拶はするものだ」
「だそうですよ、オーウェン殿」
「おい、ウィル。何でそこで俺に話を振る?」
「いやぁ、そういうことは俺よりオーウェン殿の方が疎いような気がして」
「確かに、それは言えてる」
「ケリー! お前まで変なことを言うな! 余計なお世話だ!」
鞍上で肩を怒らせたオーウェンが声を荒らげ、八つ当たりと言わんばかりにウィルの首元へ腕を回した。そうしてギリギリと締め上げられれば、さすがのウィルも「落ちる! 落ちる!」と馬の背で騒ぎ出し、そんな二人のやりとりを見た将兵たちがどっと哄笑を上げている。
――相変わらずいい軍だ。
同じく声を上げて笑っている父とその傍に控えた凛々しい将兵たちの姿を前にして、ティノは改めてそう思った。
まるで一つの大きな家族のような――ガルテリオが率いる軍勢には、いつもそんな温かさと将兵たちの絆が見える。
いつか自分もこんな軍を。
ティノはそう思いを馳せる度に、未来への期待と逸る気持ちで胸がいっぱいになるのだった。
世界は冬を迎えて色褪せているというのに、何だかここだけ鮮やかで一際強い光に照らされているみたいに見える。彼らとこうして共にいると、先程まで感じていた北風の冷たさなど夢か幻のようだ。
「それはそうと、ティノ様。年が明けたらティノ様もいよいよご成人ですね。少し気が早い気もしますが、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう、リナルド」
「何でも聞いたところによれば、ガルテリオ様の中では既にご成人後のお名前も決まっているとか。どんな名前をいただけるのか、今から楽しみですね」
「本当かい? 父さんはその話になると、僕には何も教えてくれないんだ」
「まあまあ、その話はここでしなくてもいいだろう。そんなことより、いつまでも街道の真ん中で軍を止めていたのでは通行の邪魔になる。そろそろ黄都へ向けて出発するぞ」
「ほら、またはぐらかした」
「年が明けてからのお楽しみ、ということですよ、ティノ様。さ、それよりまずは温かい我が家へ帰りましょう」
軍人であることを忘れてしまいそうなほどやわらかな笑顔でそう言ったのは、土色の瞳を優しげに細めたケリーだった。子供の頃から姉として慕ってきた彼女にそんな顔で微笑まれると、いつまでも口を尖らせてはいられない。
ティノは頷いて父の隣まで馬を歩ませるや、その場でくるりと馬首を返した。それを見たガルテリオはちょっと驚いたような顔をしたあとに、見事だ、とティノの手綱捌きを褒めてくれる。
「どうやらこの半年の間に、馬術もずいぶん上達したようだな。これは屋敷に戻って手合わせするのが楽しみだ。――よし、全軍進軍開始!」
父の号令に応えて、将兵が一斉に呼号した。途端に銀のけものが動き出し、ティノたちは十幹(五キロ)ほど先の黄都を目指して馳せ始める。
騎馬や騎竜たちの立てる足音が、勇ましく大地を鳴らしていた。
黄暦三三五年、翼神の月。
新しい年が、もうすぐそこに迫っている。




