348.僕らのホームへ
「あ、あのさ、コラード……」
と、カミラとイークが去ったあとの病室で、メイベルが困惑気味に口を開いた。
「さっき、カミラがさ……あたしの聞き間違いじゃなければ〝シグ様〟って名前を呼んでたよね? あれって……」
「ああ……十中八九、シグムンド将軍のことだろうな」
と答えたコラードも口振りは確信に満ちているのに、表情は明らかに戸惑っている。無理もなかった。何せカミラは黄都守護隊長シグムンド・メイナードとの面識がない。否、かつて一度だけスッドスクード城を通過した際に言葉を交わす機会があったとは聞いているが、少なくとも「シグ様」などと親密に呼びかけるほどの間柄では決してないはずだ。だというのに、何故?
解けない疑問の壁に行き当たったふたりは顔を見合わせた。彼らの胸の内に渦巻く何とも不穏な、されど正体不明の感情をなんと呼ぶべきだろう。
その答えは神のみぞ知る。
そう、文字どおりの〝神〟のみが。
◯ ● ◯
「──というわけで、残念ながら黄皇国との交渉は決裂だ」
と、竜父の口から改めて突きつけられた現実が、ずしりと重くのしかかってくるようだった。無論、竜父が刺客に襲われたとの報を受けたときから、一切の期待は捨てていたつもりだ。だのにこうも気が鬱ぐのは、やはりどこかで希望を捨てられずにいたということなのだろうか。
それでも竜父さえ無事ならば、まだやり直せるかもしれない、と。
「……ですが、やはり信じられません。陛下は本当に御自らのご意思で竜父殿のお言葉を拒んだというのですか? あの陛下が……」
「……うん。そう思いたくなる気持ちは分かるよ、マティルダ。けれどもこれが現実だ。私では、彼を……オルランドを救えなかった。すまない」
と軍議室の上座に腰かけた竜父が告げるや否や、マティルダは今にも卒倒しそうな顔色で黙り込んだ。当然の反応だ。彼女は救世軍に投降する以前も今も、心の底からオルランドを信じ続けていたのだから。
さらに彼の一連の暴走がルシーンによって呼び出された憑魔の影響だと知ってからは、竜父が青き血によって魔を祓い、オルランドを正気に戻してくれるはずだと誰よりも望みを賭けていた。ところがその竜父からきっぱりと告げられてしまったのだ。オルランドは既に正気であり、救世軍との和睦も望んでいない、と。
「フン。ま、魔物の洗脳が解けてもまだンな寝言をほざくってこたァ、やっぱ黄皇国の腐りっぷりは魔女云々以前の話だってこったな。そもそもこの国は、ルシーンとかいう女が来る前からおかしかったんだよ。だから正黄戦争とかいうバカデカい戦が起きて、今また国が乱れてんだろ」
「なれど正黄戦争前後のバルダッサーレ陛下は、アビエス連合国の初代宗主たるユニウス様も舌を巻くほどの名君であらせられたと伝え聞いておりますぞ。世間にはあまり知られておりませなんだが、あの戦ではユニウス様も真帝軍に加わって、バルダッサーレ陛下と共に戦われたのです。加えて連合国へご帰国後、将来トラモント黄皇国に難あれば、必ずや助勢に馳せ参じるようにと厳命されました。それほどの御仁が、何故……」
とライリーの主張に困惑した様子で返したのは、アーサーと共に列席したデュランだった。現在軍議室にはジェロディとトリエステの他、救世軍と協力関係にある勢力の代表が集結している。
すなわち、ライリー一味のライリー、アビエス連合国軍のデュラン、テレシア、アーサー、元中央第六軍の統帥マティルダ、キリサト一門のシズネ、ソウスケ、そしてツァンナーラ竜騎士領の竜父と竜母、アマリアの十二人だ。
現在のトラモント黄皇国軍において、最も打倒が困難と思われた第三軍との戦いに辛くも勝利を収めた矢先に、休む間もなく持ち込まれたふたつの問題。
それを話し合うために集まった面々に視線を向けながら、ここが救世軍にとっての分水嶺だろうな、とジェロディは思った。何せこれまでジェロディたちを支えていた〝ルシーンさえ討てば内乱を治められるかもしれない〟という希望が潰え、黄皇国を討ち果たす以外に戦争を終結させる手段がなくなってしまったのだ。
もちろんジェロディとて、そうした未来の可能性をまるで考えてこなかったわけではない。しかし頭では分かっていても、まだどこかに残されているかもしれない共存の道に賭けたかった。そんな道はどこにも存在しないと──もはや引き返すことはできないのだと、父をこの手にかけた瞬間に嫌というほど思い知ったけれど。
「……〝神の呪い〟」
ところが刹那、金色の長衣姿で座席に身を預けた竜父が呟いた言葉にジェロディは驚いて顔を上げた。袖手の姿勢で腕を組んだ竜父の表情は暗い。長い睫毛の下の瞳も憂いを帯びて、何もない机の上をただじっと力なく見つめている。
「竜父様……今、なんと?」
「……〝トラモント皇家は代々神に呪われている。ゆえに私の代で終わりにしなければならない〟とオルランドはそう言った。私にはその言葉の意味が分からなかった。どういうことかと尋ねても、彼は一向に答えてくれなくてね。〝天界に仕える竜族にこれ以上は教えられない〟と頑なに言い張るばかりで、結局最後まで真相は聞き出せなかったよ」
「トラモント皇家が……呪われている? そんな話は聞いたことがありません」
「私だって初耳さ。オルランドとの間に秘密はない、お互いがお互いのことを誰よりもよく知る理解者だと思っていたのに……彼は最後の最後で、最も重大な秘密を隠していたんだ。そして私がそれについて知るための時間もチャンスも与えてはくれなかった。まったく、私は竜族の王である以前にひとりの友であると自負していたのに……まさか彼が、あんなにも薄情な男だったなんてね」
そう言って机に肘を預け、目もとを覆った竜父はひどく落胆した様子だった。
命の危機に瀕するほどの重傷を負った直後で、体調が万全ではないというのも理由のひとつなのだろうが、黄都から戻った彼はひどくうらぶれて、ひと回りほど小さくなってしまったように見える。
そこまで彼を打ちのめし、オルランドを変えてしまった──〝神の呪い〟。
その言葉のあまりのおどろおどろしさにジェロディは思わず唾を飲んだ。
何しろ神に選ばれたジェロディには、思い当たる節がありすぎる。
大神刻が大いなる力と引き換えに、神子に与える代償の数々。
あれらを〝呪いのようだ〟と感じたことは、ジェロディとて一再ではない……。
(だけど陛下のおっしゃる〝神の呪い〟って……一体何だ? 確かに建国者のフラヴィオ一世は太陽神の神子だったと言われてるけど、黄皇国を樹立して帝位に就いたあとに《金神刻》を放棄したはず……以来三百年《金神刻》は行方知れずだ。今もトラモント皇家が所有して隠してるとか、フラヴィオ一世が神託を受けた太陽の村に返されたとか、噂は色々あるみたいだけど……)
しかし噂の真偽がどうであれ《金神刻》が再び世に現れ、新たな神子を選んでいないことだけは事実だ。何しろ歴代黄帝は皆、人間と同じように年を取り、病や老衰で命を落としている。また暗殺や事故により非業の死を遂げた皇族の中にも、碧血を持っていたと噂される者がいた例はなかった。
ということはオルランドの言う〝呪い〟とは、神子に課せられる代償とはまた別の事象を指しているのか? だとすればそれはどんな呪いで、皇家はなにゆえ呪われたのか? 何よりその呪いを〝自分の代で終わらせる〟とは、果たしてオルランドは何を考え、どう終わらせるつもりなのか──
(……いや、待て。まさか……)
ところが刹那、考え込んだジェロディの脳裏にふと甦った記憶があった。
あれはいつのことだったか……そうだ。確かジェロディが《命神刻》を刻んでほどなくカミラとウォルドに助けられ、黄都を脱出した直後のことだ。
『あるいはあの女の目的は、大神刻を──神の魂を破壊することかもな』
ルシーンという女の正体を、ジェロディたちが初めて知った日。
彼女が魔界と結託する理由について、ウォルドはそう推測していた。
そして、仮にもし彼の仮説が当たっているとしたら、オルランドがルシーンの専横を黙殺し、彼女を不倶戴天の敵とする救世軍との講和を拒んだのは、まさか、
「そう気を落とすでない、竜父や。オルランド殿がおんしと袂を分かつ決断をされたのは無念じゃが、さりとておんしとの友情が無に帰したわけではあるまい。むしろオルランド殿はおんしのことを思えばこそ、頑なに口を噤まれたのじゃろう……谷の王たるおんしにこれ以上、余計な苦悩を背負わせまいとな」
「……ビアンカの言うとおりですよ、竜父様。そうでなければバルダッサーレ陛下も、わざわざシグムンド殿をソルレカランテまで召し出して、竜父様の警固につけたりはなさらなかったでしょう。あのお方は最後まで、竜父様をお守りするために最善を尽くして下さったのですよ」
「……ああ、もちろん分かっているさ。オルランドがシグムンドを呼び寄せてくれなかったら、私は今ここにはいなかっただろう。けれどそのせいで彼は……いや、彼らはガルテリオの死に目に会えなかった。おかげで私はとんだ恩知らずになってしまったよ。ソルレカランテに呼び出されさえしなければ、シグムンドは竜人など容易に蹴散らして、ガルテリオのもとへ駆けつけることができただろうに……」
「……おっしゃるとおり、シグムンド殿がスッドスクード城を離れることなく黄都守護隊の指揮を執っていれば、竜人の大群といえども大した時間稼ぎにはならなかったでしょう。ですがそうなった場合、救世軍は恐らく敗北していたのですよ、竜父殿。つまりあなたは間接的に我々を救って下さったのです。ですからどうかお気に病まれませんよう……」
と、ビアンカやアマリアに続いて竜父をそう諭したのはトリエステだった。
確かに彼女の言うとおりだ、とジェロディも思う。何せシグムンドは父の隣で長年国境を守り、砂王国軍と共に押し寄せる竜人とも幾度となく渡り合ってきた戦巧者だ。とすれば当然彼も竜人の弱点や生態、戦い方を知悉しているはず。
そんなシグムンドが第三軍にも劣らぬ精鋭揃いの黄都守護隊を率い、迅速に対応に当たっていれば、いかなファリドとて手も足も出せなかったことだろう。
「だが問題はその竜人だろ。さっきの野郎の話は結局どうすんだよ?」
「承服か拒絶か……日没までに答えを出さなければ、コルノ島が未曾有の危機に晒されるという話でしたな。先程、転移術を使ってターシャどのが島に戻られたと伺いましたが、やはり警告だけではいささか心もとないかと……」
「ええ。何しろファリド王子の発言を信じるなら、コルノ島付近に待機している竜人の傍にはナギリ一門がついています。とすれば仮に厳戒体制を取ったとしても、ナギリ一門の奇襲や妖術によって容易に攪乱され、竜人の上陸を許してしまう可能性がある……」
「ううむ……ならばナギリ一門なる者どもの暗躍を、貴君らの忍術で食い止めることはできぬのか、シズネ殿?」
「……申し訳ございマセン、デュランさま。同じシノビ同士であれバ、互いの存在を感知するコトも可能なのデスが、生憎コルノ島には現在、キリサトの者がヒトリも残っておりマセン」
「昨年秋からの連戦で諜務隊からも多くの欠員が出ておりますゆえ、コルノ島の防諜に回せる人員がおらず……ファリドもそれを見越した上で、既に多数のナギリを島に潜伏させているものと思われまする」
「……ということは、一時的にでも彼奴の要求を受け入れる他ないというのが現状じゃな。仮に要求を拒んで島も守り抜けたとしても、冷遇された腹いせにと、今度は砂王国軍を率いて国境に押し寄せられでもしたらたまらんじゃろう?」
「チッ、確かにな。国境からガルテリオが消えた今、連中がまたぞろ攻めてくりゃあ面倒なことになるだろうぜ。救世軍にゃ直接の害はねえにしても、イーラ地方が砂賊どもに荒らされまくることになるからな」
「そうですね。その可能性まで考慮するのであれば、ナギリ一門とは今後一切手を切ることを条件に、王子を我々の監視下に置くというのもひとつの手かもしれません。一度コルノ島に閉じ込めてしまえば暗殺も比較的容易になるでしょうし……」
「いやお前、サラッととんでもねえこと言いやがるな……そういやレナードから聞いたんだが、お前、ファリドとの交渉では俺の暗殺もほのめかしてたんだって?」
「さあ、何のお話か分かりかねます。して、ジェロディ殿。ファリド王子の処遇、いかがなさいますか?」
見るからに殺意の籠もった眼差しで睨むライリーを華麗に無視し、トリエステは涼しい顔でジェロディに意見を仰いできた。
しかし状況から考えるに、ここは皆の言うとおりだ。
コルノ島に残る仲間やイーラ地方の民を守るためには、節を屈してファリドの要求を飲む他ない。それが想定し得る中で、最も犠牲を出さずに済む道だろう。
「正直、まったく気は進まないけど……ツァンナーラ竜騎士領も味方につけた今なら、王子や竜人を島に置いてもさしたる脅威ではなくなるし、僕も一旦王子の要求を飲む方向でいいと思うよ。そもそも王子が連れていた竜人も、トラモント人と歩み寄るのが目的であって、無用な争いは望んでいないみたいだったからね。僕らが彼の望みを叶えてやれば竜人もこちら側について、王子は島で孤立する。そうなれば今度は僕らの方が有利に立ち回れるようになるだろう」
「そうですね。王子の処遇を本格的に考えるのは、その段になってからの方がよろしいかと思います。王子の傍には常時監視をつけ、島に滞在する間は救世軍の規範に従ってもらいましょう。無論わずかでも背くことあらば、即刻お命を頂戴すると事前に通告した上でです」
「うん。王子の脅迫に対して救世軍が一方的に折れる形だと、今後の力関係に影響が出てしまう。そうならないためにこちらからもいくつか条件を提示して、それが飲めるなら受け入れるという流れに持ち込んだ方がいいだろうね。そこでまた王子がゴネるようなら、こっちにも考えがある」
「というと?」
「こちらの条件を飲まずに自分の要求だけ押し通すつもりなら『翼と牙の騎士団』を差し向けて砂都と死の谷を滅ぼすと伝えるよ。王子は別に砂王国が滅んでも困らないだろうけど、あのグニクという竜人はきっと動揺するだろ?」
「なるほど。さすれば王子と竜人を反目させ、後者を我らの側へ寝返らせることができるというわけですな」
「うん。そうなれば王子も要求を取り下げるか、こちらの条件を飲まざるを得ないはずだよ。ちなみに……シズネ。諜務隊士の補充については、既にキリサト一門に打診してもらってるんだよね?」
「ハイ。ここから倭王国までは距離があるのデ、やりとりに時間がかかっていマスが、春マデには何とか増員デキるかと」
「なら、諜務隊に王子の動向を見張ってもらうのも無理なくできそうだ。王子とナギリ一門のつながりを断つことができれば、彼らの大陸進出の足がかりをひとつ潰せることにもなるし……」
「では、ファリド王子をコルノ島に迎え入れるという結論でよろしいですか?」
「うん、そうしよう。ただし事前にしっかり周知して、仲間への注意喚起を念入りにすること。特にトリエとカミラは王子に目をつけられてるみたいだから、充分に気をつけてほしい。せっかく戦がひと段落したのに、気が休まらない状況が続いて申し訳ないけど……」
「いえ。私はここにいる仲間を信頼していますし、カミラにもイークやヴィルヘルム殿がついています。ご心配には及びませんよ」
そう言って微笑してみせたトリエステの反応に、ジェロディは少し驚いた。
彼女ならまず自らを差し置いて、カミラの安全を優先させるような発言をするのではと思っていたのだが、しかしトリエステは今、仲間が自分たちを守ってくれると信じている、と言ったのだ。
『これからは喜びも悲しみも仲間と分かち合いなさい』
そのときふとジェロディの脳裏をよぎったのは最期の瞬間、父が彼女に贈った言葉。おかげですぐに合点がいった。
ああ、そうか。父は今も彼女の中で、確かに生きているのだと。
「ふむ、では決まりですな。多少の不安要素は残るものの、一方ではこうして竜父どののご無事も確認できたわけですし、ようやくコルノ島へ帰ることができそうです。余所者の私が言うのも何ですが、実はデュランどのやテレシアどのをあの島へお連れできる日を、ずっと心待ちにしていたのですよ」
「あ……そっか。デュランたちとはポンテ・ピアット城で合流したから、まだ一度もコルノ島を見せたことがなかったよね。だけど島に残ったみんなも歓迎してくれると思う。今や救世軍は人種も種族も身分も問わない、小さなひとつの国みたいなものだから」
「ほう、それはますます楽しみですな。恐らく春頃には我がアビエス連合国からの増援も到着するでしょうし、ますます賑やかになりそうです」
デュランがそう言って破顔すれば、相変わらず無口なテレシアも、彼の隣で興味深げにくいと眼鏡を押し上げた。アーサーの言うとおり、ジェロディたちもコルノ島へ帰るのは実に六ヶ月ぶりだ。本当に長い──長い戦いだった。
けれど今なら少しの迷いもなく、言える。
「よし。みんな、帰ろう。僕らの家へ」
いつもご愛読ありがとうございます。作者の長谷川です。先日、活動報告の方でお知らせさせていただきましたが、このたび諸事情により、活動場所を「小説家になろう」から「Nolaノベル」へと移転させていただく運びとなりました。
つきましては本作の連載も、続きはNolaノベルで、ということになります。
中途半端なところで移転となってしまい大変申し訳ありませんが、場所が変わっても連載を追いかけるよ、と言って下さる読者様がいらっしゃいましたら、引き続き新天地でもよろしくお願い申し上げます。
なお、次回以降の更新はNolaノベルで行いますので、今後なろうで本作が更新されることはありません。1話から全話転載しているととてつもない時間がかかってしまうため、今のところ最新章のみの転載となっておりますが、続きが気になる方は下記URLから飛べる作品ページをチェックしていただけますと幸いです。
▼【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―(Nolaノベル版)
https://story.nola-novel.com/novel/N-bd20173f-b73d-4cce-b8c0-093687924098
長い間、大変お世話になりました。ありがとうございました!




