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33.真意のありか

 獣油の臭いがやっぱり嫌だったので、部屋の灯りは吹き消した。

 寝台の端に両足を乗せて膝を抱え、そこに顔をうずめてじっとしている。

 部屋の中には青白い闇と夜の静寂。こんな風に一人になって、どれくらいの時間が経っただろうか?


「――おい、カミラ。起きてるか?」


 しかしやがて暗闇の向こうから声がして、カミラははっと顔を上げた。

 戸板の上がった突き出し窓から月光ひかりが漏れて、部屋の中にあるものの輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。

 梯子がついて二段重ねになった寝台。ちょっとした衣裳箱チェスト。机と肩を並べた戸棚。そしてドアのない入り口に佇んだ、ウォルドの姿。


「ウォルド、フィロは?」

「部屋にいる。万全とはいかねえが、体調は思ったより良さそうだ。今後の方針も決まった」

「誰が残るの?」

「俺とお前だ。イークとギディオンは明日、先に発つ。俺たちが山を下りるのは三日後だ。ただしフィロの体調によっては遅れる可能性も早まる可能性もあるがな」

「そう……」


 カミラは寝台を下りて立ち上がりながら、ひとまずホッと安堵した。あのあとも彼らが揉めに揉めて散り散りになったらどうしようと思っていたのだが、どうにか話はまとまったようだ。


「そのフィロがお前を呼んでる。少し話がしたいんだとよ」

「うん、分かった」

「俺はもう寝る。なんかあれば呼びに来い。部屋の場所はその辺にいる誰かに聞けば分かるだろ」

「う、うん……あ、ウォルド、ちょっと待って!」


 伝えることだけ簡潔に伝えて、あとはそのまま立ち去ろうとしたウォルドを、カミラは慌てて呼び止めた。

 ウォルドは手に砦から拝借したと思しい手燭――いや、もしやあれは壁に掛かっていた燭台をもぎ取ってきたのか?――を持っていて、おかげで「何だ?」と言いたげに片眉を上げた彼の顔がよく見える。


「あ、あの……その、さっきはありがとう。庇ってくれて……」


 カミラは何となくウォルドを見れないまま、前髪をいじってそう言った。思えばウォルドとはこの四ヶ月、憎まれ口を叩き合うことはあってもこんな風に面と向かって礼を言ったりするのは初めてで、何だかちょっと照れくさい。

 ところがそれを聞いたウォルドの方はあっさりと、


「あれは別にお前を庇ったわけじゃねえけどな」


 などとのたまうので、カミラは思わず「え?」と聞き返した。

 対するウォルドの答えはこうだ。


「あれは俺が殴りたかったから殴ったんだ。副帥殿あいつのひねくれまくった言動にはいい加減うんざりだったんでな」

「ひ、ひねくれたって……そりゃ確かにイークのひねくれっぷりは筋金入りだけど、でも、あれは私が――」

「言っただろ。フィロがあんなことになった責任はイークにもある。あいつだってほんとはどっかでそれを分かってるはずだ。あのときあいつが殴ろうとしてたのはお前じゃなくて、自分てめえ自身だったってことだよ。だから俺が代わりに殴ってやった。その方が合理的だろ」


 ……そういう状況を暴力で解決しようとすることが、果たして本当に〝合理的〟なんだろうか。カミラは何かひどく胡散臭いものを見る目でウォルドを見据えた。

 本人はこう言っているが、やっぱりあれは日頃の鬱憤を晴らすためだったんじゃないのか? という気もする。もちろんそれだけが理由じゃなかっただろうし、それはむしろついで・・・だったのだろうけど、とにかく気に食わない相手に一発喰らわせて清々したかったんじゃないの? とか。


 でも、あのときウォルドがイークに言い放った言葉は確かに正しかった。


 なんていうか、このウォルドという男にはそういう〝正しさ〟を貫く力があるのだと思う。たとえそれが相手にとってどんなに残酷なものであっても、躊躇わずに貫いて串刺しにするだけの力が。


「だとしても、あんな風に本気で殴るのはこれっきりにしてあげてね。イークってああ見えてすごく繊細なの」

「知ってるよ。じゃなきゃあんなにねじくれねえだろ」


 また意外な答えだった。目を丸くしたカミラとは裏腹に、ウォルドは入り口の縁へ背中を預け、どこか呆れたような顔を廊下へ向けている。


「そう言うお前はどうなんだ?」

「え?」

「左頬。まだ腫れてるぞ」


 ああ、と他人事のように思い出して、カミラは自身の頬に触れた。

 途端にじくりと疼くような痛みが広がる。指先で軽く触れただけでも、そこがまだ微かに熱を持っていることが分かった。

 まあ、特に冷やしたりそういう処置をしなかったので当たり前だ。とは言え拳で殴られたわけではないので痣とかにはならないだろうし、さして気にするほどでもないかな、とカミラは思う。


「私は平気。イークに殴られるのは慣れてるから」

「慣れてるって、お前な……」

「別にイークだって殴りたくて殴ってるわけじゃないのよ。イークが殴るのは私が間違ったときだけ。それは自分でも分かってるから、いいの」


 むしろ感謝してるくらい。カミラがそう続けると、ウォルドはますます呆れを濃くした。

 かと思えばさも「付き合ってらんねえな」と言いたげに体をもたげ、今度こそ部屋へと戻る素振りを見せる。


「まあ、確かにあの黄皇国兵に殺されかかった件はお前の落ち度だけどな。それを庇って刺されたのはフィロの問題だ。俺があいつの立場なら、お前の代わりに刺されたりはしなかった」

「……それ、どういう意味?」

「覚悟が足りねえのはお前やイークだけじゃねえってこった」


 ウォルドは最後にそう答えると、あとは手を振って話を打ち切った。おかげで彼の手にした燭台から生臭い獣油の臭いが広がって、カミラは思わず横を向く。

 その隙にウォルドは部屋を去り、足音もすぐ遠くなった。

 カミラがあとを追って廊下に出ても、そこにあるのはもう真っ黒な闇だけだ。



              ◯   ●   ◯



 呼ばれて出ていったはいいものの、最初に何と声をかけるべきか、カミラは迷った。

 そもそも自分のしたことを思えば、情けなくてフィロメーナに会わせる顔がない。あのあとウォルドたちがフィロメーナとどんな話をしたのかも分からないし、フィロメーナが今回のことを怒っていないとも限らない。


 だからカミラはどうすべきか見当もつかなくて、散々躊躇したあげく、まず部屋の入り口からこっそり中の様子を窺うことにした。

 が、悲しいかな、カミラの赤い髪は暗くてもよく目立つ。おかげで物陰から半分顔を出した時点ですぐに気づかれ、寝台の上のフィロメーナとばっちり目が合った。


「カミラ」


 瞬間、驚きと動揺でびくりと跳ねたカミラを見て、フィロメーナが可笑しそうに笑う。そうして零れた彼女の声と笑顔に触れた途端、カミラはじわっと視界が滲むのを感じた。


 ――良かった。生きてる。

 しかもまた、笑って名前を呼んでくれた……。


 そう思うとカミラはもう色んな感情がせめぎ合って、物陰に隠れたままぽろぽろぽろぽろ涙を零した。フィロメーナが困った顔で手招きしてくれるまで、ずっと壁を相手に泣いていた。


「ごめんなさい、カミラ。あなたにも心配をかけてしまって……」


 普段はゲヴラーが使っているというその部屋には、今はカミラとフィロメーナの二人しかいない。

 そこで先程座っていたのと同じ、寝台脇の小さな丸椅子に腰かけたカミラは、ようやく落ち着き始めた目元を拭いながら首を振った。


「フィロは何も悪くない。ウォルドたちから聞かなかった? あれは私が……」

「いいえ。カミラには何の責任もないわ。あんなことは、戦場ではいつでも起こり得ることだもの。そしてあのとき、あなたを庇って刺されたのは私の選択。私がそうしたくてそうしたの。〝今年の豊作を知りたくばまず土を見よ〟よ」

「……? どういう意味?」

「作物の実りが豊かかどうかは、どれほど手間暇かけてその世話をしたかによって分かるということ。愛情を込めて丹念に畑の世話をすればそれだけ実りは豊かになるし、逆に面倒くさがって手入れを疎かにすればそれだけ実りは少なくなる」

「……つまり、物事の結果は過去の行いによって決まるってこと?」


 彼女が何を言おうとしているのか、あれこれ考えを巡らせてカミラがそう答えを出せば、フィロメーナは頷く代わりに微笑んだ。

 要するにフィロメーナは、自分が重傷を負ったのは自分が選んだ行動の結果だ、と言いたいのだろうか。でも、それを言ったらあのとき敵兵を斬らなかった自分の選択だって……とカミラが難しい顔で考え込んでいると、フィロメーナはなおも落ち着き払った声で言う。


「それにね。あのとき私はあなたを守ろうとしたわけじゃないのよ、カミラ。私が守りたかったのは、他でもない私自身……あのときあなたが黄皇国兵に殺されそうになっているのを見て、私、思ったの。そんなの耐えられない、って。だからあの瞬間、私はこの国の未来よりもあなたを選んだ。救世軍の使命を果たせずに終わることよりも、あなたを失うことの方が恐ろしいと――そう思ってしまったのよ」


 予想もしていなかったフィロメーナの言葉に、カミラは束の間絶句した。厚手の布を何重にも折りたたんだだけの簡素な枕の上で、フィロメーナはうっすらと自嘲している。


「おかげでウォルドに叱られたわ。あんなのは一軍のちょうが取るべき行動じゃないって。私も頭では重々理解しているつもりだったのだけど……」

「でも、おかげで私は生きてる」


 他に言うべき言葉が見つからなくて、カミラはただそう告げた。するとそれまで諦念混じりに天井を見つめていたフィロメーナの視線が、こちらを向く。

 その目がもう一度微笑んでくれて、カミラはまた泣きそうになった。

 確かにウォルドの言い分は正しい。救世軍の、ひいてはこの国の未来を考えるなら、フィロメーナはもっと自分を大事にしなくちゃダメだ。というか、たとえ他の誰を犠牲にしてでも生き残る、それくらいの覚悟がなくちゃいけない。


 でも、たとえ一瞬の気の迷いでも、フィロメーナは自分を失いたくないと思ってくれた。だから守ってくれた。

 それをあなたは間違っていた、なんてカミラには言えない。言えるはずもない。

 カミラにはフィロメーナのその気持ちが嬉しかったし、おかげで自分は今こうして生きている。まだ彼女のために戦える。

 そう思うとカミラの瞳からはまた一雫、ぽろりと涙が零れた。


 ――だから、次は私が。


 私が命に代えても、フィロを守る。


「そうね。ウォルドには〝今回はたまたま運が良かっただけだ〟と言われたけれど……それでも、私もあなたもこうして生きてる。今はそのことを喜びましょう」

「うん。私、次からはもっとちゃんとするから……もうフィロをあんな目に遭わせたりしないって、タリアクリに誓う」

「ありがとう、カミラ。だけどそんなに気負わないで。今回の戦いでも、あなたは十分に働いてくれたわ。イークも本当はそのことをちゃんと分かっているはず」


 と、そこで不意にイークの名前を出されて、カミラは図らずもドキリとした。

 そう言えばあのあと、イークはどうなったのだろう。彼を殴り飛ばしたウォルドとの関係も気がかりだけど、それ以上に亀裂が走っていたフィロメーナとの関係が心配だ。


「あ、あの、そのイークは……」

「彼なら大丈夫。少し時間はかかるかもしれないけれど、あれだけ言われて分からない人ではないわ。さすがに殴るのはやりすぎだと思うけど……」


 と、フィロメーナはちょっと困ったように眉尻を下げて言う。彼女はウォルドとの間に一定の信頼関係を築いているようだけれども、さすがにイークを殴り飛ばすことまでは予想していなかったのだろう。


「だけどウォルドも分かっていたのね。私がイークに言いたくても言えなかったこと……」

「言えなかったこと?」

「ええ。たぶん、イークはね。どこかでずっとジャンと自分を比べているの。そして自分はジャンの代わりにはなれないと、そう思って苦しんでいる……」


 ――イークが、ジャンカルロと自分を。


 またも思いもよらないフィロメーナの言葉に、カミラは目を丸くした。


 ジャンカルロ・ヴィルト。

 救世軍の創設者にして初代総帥。

 かつてのフィロメーナの恋人であり、イークの友人だった人。

 それくらいのことは、カミラもこの四ヶ月の間に人伝に聞いて知っている。


 いや、もっと正確に言うならば、ジャンカルロはフィロメーナの婚約者・・・だった。フィロメーナが救世軍に入った理由がそれだ。

 フィロメーナもジャンカルロも元は黄都の詩爵家の出で、二人とも十代の頃から互いを知っていた。双方の家が取り決めた許嫁として、婚前から親密な関係を築いていた。


 けれどもそのジャンカルロが救世軍へ奔り、フィロメーナは一人黄都に取り残されたのだ。

 それはジャンカルロの、愛する人を危険に巻き込むまいとする最後の気遣いだった。けれどもフィロメーナはその事実を受け入れることができず、彼を追って黄都を飛び出した。


 彼女がイークと出会ったのはその頃だと聞いている。フィロメーナはジャンカルロの消息を追ってあてどもない旅を続けている最中にイークと出会った。それから様々の事情があって、二人は共にジャンカルロを探す旅を続けた。

 そうしてついに彼との再会を果たしたのが二年前。

 二人はそのまま救世軍の一員となり、フィロメーナはジャンカルロと結ばれた。それからジャンカルロが命を落とすまでの数ヶ月、二人は過酷ながらも幸せな時間ときを過ごした。


 イークはその当時のフィロメーナとジャンカルロを知っている。

 おまけにジャンカルロはフィロメーナに勝るとも劣らない優れた指揮官で、フィロメーナも常々「私はジャンには遠く及ばない」と零すほど、上に立つ者としての資質に恵まれた人だったそうだ。


 イークが、そのジャンカルロと自分を。

 改めてその言葉の意味を反芻し、途端にカミラはきゅうっと心臓が縮むような思いがした。


 ――ああ、そうか。だからイークは。


 先程のウォルドの言葉が甦ってくる。

 イークがこのところやけに苛立っていたのは、ウォルドや彼を擁護するフィロメーナに対してではなくて。

 彼はずっと、自分に腹を立てていたのだ。

 最愛の人ジャンカルロを失ったフィロメーナを隣で支えたい――けれどその喪失を埋めるにはあまりにも非力で矮小な自分自身に。


「私がいけないのよ。そんな彼の気持ちを知りながら、ウォルドに裏方の仕事を頼んだりして……それが余計に彼を傷つけた。自分が未熟だから信用されていないのだと、そう誤解させてしまったの。そうなる前に、彼ともっとちゃんと話し合っておくべきだった。あなたは十分に私を支えてくれているって……」

「でも、言えなかった?」

「ええ。彼の性格を考えたら、私が何を言っても気休めと取られるような気がして……そのせいで余計に彼を傷つけるのが怖かった。彼を慰めるつもりが、更に惨めな思いをさせてしまうんじゃないかって、自信がなかったの。この世にジャンの代わりが務まる人なんて誰もいない。同じように、あなたの代わりになる人なんていない……そう伝えたくても、上手な言葉が見つからなくて」


 そうして迷っているうちに、イークをこれ以上ないところまで追い詰めてしまった。そんな自分が情けない、と、フィロメーナは痛みを吐き出すようにそう言った。

 彼女だって、イークを傷つけたくて傷つけていたわけではないのだ。むしろその逆で、フィロメーナが誰よりもイークのことを想っているのはカミラだって知っている。


 現に救世軍の資金繰りのためイークに盗賊の真似事をさせたことを、彼女はあんなにも悔やんでいた。イークだってそれが分からないほど馬鹿じゃない。

 それでも、最後の最後で彼らは自分に自信が持てなかった。

 自分の存在が相手の重荷になっているのではないか、と。


「要するに、フィロとイークはお互いを大事にしすぎてすれ違ってたってことね」

「ええ。本当に馬鹿だったと思うわ。だけどおかげでようやく彼と話ができた。私の気持ちをちゃんと伝えることができた……」


 あとはすべて彼次第だけれど。そう言って天井を見上げたフィロメーナの横顔を、カミラもじっと見つめた。石の床を支える立派な梁を見据えたフィロメーナの表情は、この期に及んでまだ少し物憂げだ。

 ――もしかしたら自分は、とっくに愛想を尽かされているかもしれない。彼女がそんな不安と闘っているのを見て取ったカミラは、そこでようやく微笑わらえた。

 そうしてフィロメーナの左手を取る。それに気づいたフィロメーナが、まるで迷子の少女みたいな眼差しを向けてきた。


「大丈夫だって、フィロ。私、こないだも言ったでしょ。イークはフィロのためなら死んでもいいと思ってるって」

「……本当にそう思う?」

「もちろん。だって私、イークのあんな顔初めて見たもの。フィロが私を庇って倒れたとき、イーク、ほんとに泣きそうだったのよ。フィロはイークが泣いてるとこ見たことある?」

「いいえ、ないわ」

「でしょ。私も過去に二回だけ。イークのお母さんと、私のお父さんが死んだとき」


 イークはあまり他人に弱さを見せるタイプじゃない。むしろ大抵の苦労や悲しみは押し隠そうとするタイプだ。

 郷で〝父なし子〟と呼ばれていたイークは人前で無様な姿を見せて〝やはりあいつはダメなヤツだ〟と嘲弄されることを嫌ったのだろう。

 だから人に甘えるということをしないし、自分に厳しい。今回のすれ違いの原因もたぶんそれだ。


 イークはフィロメーナの前では強い人間でありたいと願い、そのために身の丈に合わない努力を重ねてきた。

 だけど柄じゃないことはやっぱり長くは続かない。それでぽっきり折れてしまった。だからちょっと自暴自棄になっていただけで、本質が変わってしまったわけじゃない。


「それにイークはフィロのことが憎いわけじゃなくて、自分で自分を許せなくなってるだけだから。それもあんな風に殴られたらさすがに冷静になるでしょ」

「……そうね。そうだといいのだけれど」

「それでももしイークが分からずやを言うようなら、今度は私がお尻に火をつけてあげるから大丈夫。もちろん物理的な意味でだけど」

「まあ。それはいくら何でもかわいそうじゃない?」

「それくらいしないと折れないでしょ、あの頑固者は」

「それじゃあ私はイークが座る度に悲鳴を上げなくていいように、やれるだけの努力をするわ」


 冗談めかしてフィロメーナが言い、そうして二人は笑い合った。当の本人はまさか裏でそんな恐ろしい計画が進行しているとは夢にも思っていないだろうが、まあ、それもすべてはイーク次第だ。


「ありがとう、カミラ。あなたと話せて、少し気持ちが楽になったみたい」

「ううん、私の方こそ。庇ってくれて本当にありがとう。次は私がフィロの楯になるから。あ、もちろん死なない程度にね?」


 カミラが思い立ってそう付け足せば、フィロメーナは穏やかに頷いた。不安がほどけたようなその笑顔を見ていると、カミラも少しホッとする。

 けれどもう遅い時間だ。あまり長居をしてフィロメーナに無理をさせてもいけないので、カミラはそろそろ自室に引き取り、自分も休むことにした。


「それじゃ、また明日ね、フィロ」

「ええ、また明日」


 おやすみ、と別れの挨拶をして、カミラはふっと自身の右手に火をともす。こういうとき火刻フレイム・エンブレム使いというのはとても楽だ。いちいち灯りを持ち歩かなくとも好きなときに好きな明るさの光をともせるし、燃料も火種も要らないし、これならば不快な獣油の臭いも――


「――カミラ」


 なんて考えながら廊下に出たら、すぐに後ろから呼び止められた。

 何だろう、と目を丸くして振り返る。そうして顧みた先には、依然寝台の上に身を横たえ、こちらを見つめたフィロメーナがいる。


「なあに、フィロ――」

「ごめんなさい」


 カミラの言葉をみなまで待たず、彼女は言った。


「本当に、ごめんなさい……」


 そのときフィロメーナが零した謝罪が何に対するものだったのか、カミラは知らない。


 彼女がその本当の意味を知るのは、まだずっと遠い未来さきのことだ。

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