346.砂漠の流儀 ☆
ファリドがもたらした報告は、カミラたちにとって驚くべきものだった。
というのも、そもそもファリドが砂王国軍ではなく竜人の群を率いてトラクア城に現れたのは、国境でのガルテリオとの戦いに敗れたあと、大人しく敗走したと見せかけて、今度は背後から第三軍を奇襲する算段でいたためらしい。
「国境での小競り合いがひと段落したら、ガルテリオの目が次は黄皇国内のゴタゴタに向くのは分かり切ってたからな。だったらそこで背後を衝けば、野郎に一矢報いるのも不可能じゃねえと思ったんだよ。何せちょうど救世軍がオディオ地方を制圧してくれたおかげで、竜人の棲む死の谷から黄皇国に侵入するルートがガラ空きになってたからな。とはいえ、さすがに何千って兵力を率いて移動したんじゃ目立つんで、もともとあの谷で暮らしてる竜人だけを現地で集めて、ガルテリオの背中を刺しに来たんだよ」
ところが第三軍がトラクア城に籠もる救世軍を潰そうと躍起になっている間に、ガルテリオの死角から襲いかかろうともくろんでいたファリドの計画は途中で狂った。というのも彼らが死の谷からオディオ地方を横断し、戦場となっているパウラ地方へ到着した頃には、救世軍と第三軍が休戦協定を結んでいたのだ。
おかげで両軍の戦闘の混乱にまぎれ、ひそかにガルテリオへ接近しようと考えていたファリドは作戦を見直さねばならなくなった。
ゆえに一時身を隠し、救世軍周辺の状況を探っていたところ、第三軍を支援するために移動してきた官軍勢力──すなわち黄都守護隊がパウラ地方東部のポンテ・ピアット城に集結していることを知ったのである。
「んで、しばらく潜伏期間が続いたせいで、ちょうど竜人も腹が減ったと騒ぎ出してたんでな。そういうことならいっちょそっちの城を襲って、こいつらのエサを賄うかってことになったんだよ」
ついでに言えばファリドはどうやら兄が黄皇国の軍人となり、黄都守護隊に身を置いていることを事前に把握していたらしい。
よってポンテ・ピアット城を襲撃すればガルテリオに嫌がらせができるだけでなく、エリクにも借りが返せるのではと考えた。
が、そうして彼らが襲撃を決行したのとときを同じくして、トラクア城には竜父が消息を絶ったとの報せが入り、ガルテリオとの戦闘が再開していたのである。
結果として救世軍とファリドの行動は、互いに示し合わせたような同時作戦の様相を呈し、想定し得る中で最善の結末を迎えた。すなわち黄都守護隊の援軍が間に合わず、救世軍がガルテリオを討ち取るという結末を。
「……なるほどな。つまりあんたは、俺らがガルテリオとの戦に勝てたのは、あんたらがポンテ・ピアット城で黄都守護隊を足止めして時間を稼いだおかげだと言いてえわけか。だから見返りを求めてトラクア城に立ち寄ったと?」
「おうよ。当初の約束だった第三軍の陽動も完遂した上に、お前らが生きるか死ぬかの瀬戸際で手助けまでしてやったんだ。なら、相応の対価ってもんを求める方が普通だろ?」
「だがその対価ってなァ確か、俺らが国をぶっ潰したあと、黄皇国の領土をどう山分けするかって話し合いに砂王国も参加する権利をくれてやるって話だったんじゃなかったか? 少なくとも俺ァマウロからそう聞いてたぜ。なァ、トリエステ?」
トラクア城本丸に聳え立つ城館一階の応接室。
そこでファリドを取り囲むように集まった仲間の中から、ウォルドに続いて物怖じせずにそんな言葉を吐いたのは、他でもないライリーだった。というか彼は物怖じしないどころかファリドの対面に腰かけたジェロディと同じ長椅子に座り、我こそがコルノ島の王であるとでも言いたげにふんぞり返っている。
一応、ライリー一味は救世軍と対等な同盟関係にある別組織という扱いなので、頭目であるライリーがジェロディの隣で大きな顔をする理屈はまあ理解できるのだが、だとしてももう少しティノくんの落ち着きぶりを見習いなさいよ、とカミラは内心毒づいた。何たって相手もまた、見かけはゴロツキ同然とはいえ、ああ見えてシャムシール砂王国王子の肩書きを持つ男なのだから。
「ええ、まあ……当初の交渉では、王子にもその内容で概ね合意していただいたのですが……」
「概ね?」
「はい。ですが交渉の結果、砂王国軍の協力を取りつけることができたとしても、救世軍が黄皇国を打倒できる保証はないとのご指摘を頂戴しまして……」
「何ィ?」
「ハッ、至極まっとうな疑問だろ。いくら身を粉にして働いたところで、お前らが黄皇国に勝てなきゃこっちは何の報酬もナシのタダ働きだ。そうなりゃいくら戦狂いのシャムシール人だって、黄皇国のゴタゴタに巻き込まれたあげくいいように使われただけじゃねえかと騒ぎ出すに決まってる。砂王国は暴れるしか能のねえ輩が集まった脳筋国家だと思われがちだが、連中が砂王の決定に大人しく従ってるのは〝金〟が秩序を生み出してるからだ。戦場で暴れ回るだけじゃ腹は膨れねえし、女も抱けねえからな」
「……なるほど。つまり協力の甲斐なく救世軍が敗れれば約束の報酬が得られず、それを理由に砂賊が暴徒化する可能性がある、というわけですか。ですから王子は交渉の段階で、より確実な対価を提示するよう求めたと?」
「ほう。見かけによらず飲み込みが早えじゃねえか、お坊ちゃん。ご明察だ。んでそこの女がそいつを飲んで了承したのが、砂王国軍が国境に留まる間は全面的に水と食糧を支援するって条件と──将来、俺の奴隷になるって約束だ」
瞬間、歯を見せて笑ったファリドのひと言が応接室の空気を震撼させた。
先刻のファリドの言動からある程度予測はついていたものの、やはりそういうことだったのかと衝撃を受けたカミラは、ジェロディの傍らに寄り添うように佇むトリエステを凝視する。
「と、トリエステさん……今の話、本当ですか? 嘘ですよね……!?」
「いえ……まったくの嘘というわけではありません。ですが王子のお話には、少々の誤解があるように思われます」
「誤解?」
「はい。何故なら私は既に、王子のご要望にはお応えしました。というのも、交渉当時、王子が私に対して提示された条件は〝婚約〟でも〝所有物になる〟でもなく〝お前が欲しい〟でしたから」
「ぶっはははははは! まあ、そうだな。で、お前は俺の要求に忠実に、すぐさま〝自分〟を送りつけてきたわけだ」
「……? どういう意味です?」
「ククッ……この女はな、俺がつきつけた条件を全面的に飲むって手紙と一緒に、自分の肖像画を送って寄越したんだよ。〝お望みどおり『私』をお送りします〟とかいうふざけた添え書きをつけてな!」
「し、肖像画って……あっ!? そ、それってもしかして、去年の光歌祭の頃にトビアスさんが、トリエステさんに頼まれて描いてるって言ってたアレのこと……!?」
「……はい。僥倖にもファリド王子への返答に困っていたときに、トビアス殿が大変優れた絵心をお持ちだとのお話を伺う機会がありまして……」
「いや、だからってお前……そんな頓知が本気でシャムシール人の王子に通用すると思ったのか?」
「いえ、さすがに私も期待はしていませんでしたが、その後すぐに王子から交渉成立のお返事をいただいたので……まあいいか、と」
「いいわけねーだろ、何をなかったことにしてんだ!」
「いや、というか王子さんよ。あんたもあんたで、なんでそんなふざけた返事を寄越されといてキレもせずにすんなりオーケーしたんだよ?」
「そりゃ俺だって、まさか〝お前を寄越せ〟っつった結果肖像画が送られてくるなんて夢にも思ってなかったからよ。一周回って〝面白え女だからまあいいか〟と」
「てめえら意外と似た者同士だな!」
「……ですが、ファリド王子。あなたはさっきカミラを連れ去ろうとした際に〝砂王国に協力を仰いだ対価が女ふたりで済むなら安いものだろう〟というようなことをおっしゃっていましたよね? あれは、つまり──今度こそトリエの身柄をもらい受けに来た、という意味だったのでは?」
ところが、予想の斜め上を行くトリエステとファリドのやりとりに皆がどよめく中、唯一冷静さを手放さずにいたジェロディがなおも真顔でそう尋ねた。
それを聞いたカミラたちは思わず揃って口ごもり、他方、ファリドは長椅子の上で前屈の姿勢を取ったまま、ニヤリと不敵に笑ってみせる。
「ハッ、本当に話が早くて助かるぜ、ヴィンツェンツィオのお坊ちゃん。ま、ヒーゼルの娘の方はグニクに免じて今回は見逃してやるからよ。そっちのオーロリー家のお嬢さんくらいは報酬としていただいていっても構わねえだろ?」
「いいえ、構います」
「ほお。物分かりはいいのに頭は堅えみてえだな。さっきも言ったが、俺らがいなきゃてめえらは今頃、ガルテリオに勝てたかどうかも怪しいんだぜ? なのに命の平等とやらを謳う生命神の神子サマが、相手がシャムシール人だから、なんて理由で受けた恩を踏み倒すのか?」
「チッ……砂王国人も神なんざ信じちゃいねえくせに、よくもまあぬけぬけと」
と、苦虫を噛み潰したような顔つきで吐き捨てたのは、以前から無神論者を自称して憚らないライリーだった。確かにシャムシール砂王国は大昔から、彼と同じ無神論者たちの国だと聞いている。そのため神々への信仰心が源となる神術を扱える者が極端に少なく、より暴力的で神をも恐れぬ国になったのだと。
そんな国の王族が、ジェロディを神子に選んだ神の名を盾に平等を迫るだなんて痴がましい話だ。ゆえにカミラは勃然とファリドを睨み据えたのち、トリエステに向き直って口を開く。
「トリエステさん、こんなふざけた男の言うことなんて聞く必要ないですよ。ポンテ・ピアット城の襲撃は私たちが頼んだわけじゃなくて、この人が勝手にやったことじゃないですか。なのにそれがたまたまうまく噛み合ったからって、恩着せがましく見返りを求めてくるなんて図々しいにもほどがあります。こっちが自発的にお礼をしたいって言うならまだしも、勝手に助けて勝手に対価を請求される筋合いなんてありません」
「おーおー、なかなか言ってくれるな、お嬢ちゃん。だが自分の知ってる常識だけが世の摂理だなんて思わねえ方がいいぜ。あの死の砂漠で生き残るには、常に目聡く、図太くあるべきってのが砂王国人の常識だ。生まれ育った国が違えば、価値観も生き方も違って当然だろ?」
「なら、私たちの価値観で言わせてもらえば、あんたの言い分は強請やたかりとおんなじで、こっちが応じる必要があるとは思えない。砂漠のやり方は砂漠の外では通じないと思った方が身のためよ。そうじゃなくてもシャムシール人の心証は最悪なんだから」
「へえ。そういう生意気な口をきくあたりは兄貴にそっくりだな。つーかさっきから気になってたんだがよ、兄貴の方は黄皇国軍にいるってのに、お前はなんでこんなところで反乱ごっこなんかやってんだ? もしかして兄貴と仲悪いのか?」
「僕たちがやっているのは〝反乱ごっこ〟ではなく歴とした〝反乱〟ですよ、ファリド王子。こちらはそのために実の父まで手にかけているんです。僕たちから何か少しでも毟り取りたいとお考えならば、無礼な発言は慎まれた方が賢明かと」
ところが不意に兄の話題を振られ、カミラが言葉を詰まらせた刹那、すかさず横槍を入れたのはジェロディだった。彼は相変わらず表情ひとつ変えず、口調も態度も淡々としているが、今のは自分を守ってくれたのだと直感する。されど代わりに彼の口から〝実の父を手にかけた〟なんて言葉を言わせてしまったことに、カミラの胸は小さく軋んだ。それはきっと彼自身を傷つける自傷の言葉なのに。
「ハ、お前も上から目線なところは父親そっくりだな。だがまあ、そんならお前らの言う〝砂漠のやり方〟が本当に通用しねえのかどうか試してやろうか」
「……どういう意味です?」
「言葉どおりの意味さ。さっき、砂王国人のモットーは〝欲しいもんは腕づくで奪え〟だっつったろ? つーわけでそいつがもらえねえなら、代わりに別の女をもらうとしよう」
この期に及んでファリドがなおも余裕綽々といった様子でそう言えば、室内の空気がざわついた。直後、カミラはいきなり腕を引かれて壁際へ追いやられる。
ファリドの視線からカミラを隠すように立ちはだかったのは、ウォルドだ。
「ウォ、ウォルド……」
「ハッ、そう殺気立つなよ。そっちの嬢ちゃんも今回は見逃してやると言ったろ」
「なら、他の女を適当に攫ってくってか? そういうことなら俺らはあんたをここから生きて出すわけにはいかなくなるが」
「ほー、そんな真似しちまっていいのかい。俺の身に万一のことがあれば、それこそタダじゃ済まなくなると思うがな」
「安いハッタリはよせよ。あんたは確かに砂王の息子かもしれねえが、砂王国じゃ王子なんて肩書きはあってねえようなもんだろ? 〝血統〟って概念が存在しねえ砂王国では、王座は血によって継承されるもんじゃなく、最も力のあるやつが暴力でぶん捕るもんだ。つまり、あんたはただ砂王の種から生まれたってだけの一般人で、そのあんたが殺されたからって砂賊が意に介すとは思えねえ」
「え……そ、そうなの?」
と思いもよらない事実を知ったカミラは、ウォルドの陰から思わずそう尋ねてしまった。確かに砂王国は法も良識もない文字どおりの無法国家だが、一応〝王国〟を名乗っているからには、王族には相応の権力や求心力が約束されているのだろうと思い込んでいたのだ。
「ウォルドの言うとおりだよ、カミラ。そもそも現王ヴァリスは何人かいた息子の中で、今も唯一生き残っているファリド王子を疎んじていて、父子の関係は昔から険悪だって聞いてる。砂王にとっては血を分けた息子でさえも、いつ王座を狙って襲いかかってくるか分からない敵だからね」
「ハッ、なんだそりゃ。ってことはてめえがここで殺されようが何しようが、父親も構わず見殺しにする可能性が高えってことじゃねえか。なら、んなもんは何の脅威にもならねえな」
「ああ、そうだな。俺が死んだところで、親父も傭兵どもも〝それがどうした〟と言うだけだろうさ。だから、俺が言ってるのはそこじゃねえ」
「何?」
「ときに、ライリー一味のライリー・マードックさんよ。ようやくガルテリオとの決着がついたってのに、お前はなんでさっさとコルノ島に戻らなかったんだ?」
「は? ……おい、まさかてめえ、」
「ククッ……ああ、そのまさかだよ。お前ら、竜人が実は水陸両用の捕食者だって知ってたか? こいつらの中には砂漠じゃなくて、海で狩りをして食ってるやつらもいるんだぜ。竜人は砂に潜って獲物を待つのと同じ要領で、水中でも呼吸しないでいられるからな」
瞬間、カミラの脳裏には、水中に潜んでコルノ島を取り囲む竜人の大群の姿が浮かび、ぞっと全身に怖気が走った。
ファリドが率いてきた竜人は、今は彼の背後に佇むグニク以外城の外で待機させているが、あれが死の谷から連れてきた全戦力ではなかったのだ。
そして救世軍本隊が不在の間、コルノ島の守りを一手に引き受けていたライリーまでもが島を留守にしている今、あそこを防衛しているのはカルロッタ率いるライモンド海賊団と、カイルの母であるアンドリアが組織したという娘子軍だけ。
ライリー一味の戦力も半分ほどは島に残してあるというが、彼らはあくまで黄皇国中央第二軍が率いる船団に備えた水上戦力であって、陸上最強の生物と謳われる竜人に上陸されればきっとひとたまりもない……。
「おい、てめえ……人のシマを質に俺らを強請ろうってのか? いい度胸だな」
ところが直後、同じくファリドの意図を察したらしいライリーが、先程までのふざけた様子が嘘のようにドスのきいた声を響かせた。それを合図に彼の背後に控えていたレナードとジョルジョが得物を抜き、即座にファリドへ突きつける。
されどファリドは怯まない。どころか、ふたりが武器を構えたのを見て刀に手をかけたグニクを、手を挙げて制止する余裕すらあるようだった。
「言っただろ。ここで俺を殺せばタダじゃ済まねえぜ。俺が死んだり監禁されたりすりゃ、すぐに竜人どもが動く。鈴の騎士とかいう空飛ぶ猫を使っても間に合わねえよ」
「はあ? てめえ、寝言をほざくのも大概にしろよ。ここから八〇〇幹(四〇〇キロ)も離れたタリア湖で待機してるトカゲ野郎どもが、そんなに早く状況を把握できるわけ──」
「──ナギリ一門、ですか」
「え?」
「以前、ケリー殿から伺いました。ファリド王子、あなたは倭王国でシノビと呼ばれる者たちと手を結び、ガルテリオ殿を脅かしたことがあるそうですね」
「まさか……!」
「ええ、そのまさかです。ナギリ一門は救世軍と協力関係にあるキリサト一門と同じ忍術の使い手……であれば、ファリド王子の身に危害が及んだことを瞬時に把握するのも不可能ではないかと」
確かにトリエステの言うとおりだった。カミラもこれまでソウスケたちが使う不思議な術の数々を目にしてきたが、中には術者の命が尽きると、式神と呼ばれる人形がひとりでに燃えてなくなるような術もあったと記憶している。
あれに似た術を応用すれば、遠く離れた場所にいながらファリドの生死を知ることも不可能ではないのかもしれない。とすればファリドの脅しは誇張でも何でもなく、鈴の騎士を飛ばしたところで本当に間に合わない可能性が高い……。
「……ですが、ファリド王子。協力の見返りとして私ひとりの身柄を押さえるために、コルノ島を襲撃できるほどの戦力を動かすというのは、いささか手が込みすぎているのではありませんか? それこそ労力と対価が釣り合っていないように思えるのですが」
「ほう。つまりこいつもハッタリだと言いてえのか? なら、ウソかホントか試してみてもいいんだぜ?」
「いいえ。そうではなく……あなたの狙いは、実は別にあるのではと思いまして」
「……というと?」
「あなたが私の身柄を引き取りに来たというのは、あくまでここへ来るための口実であって、真の目的は私の所有を諦めるのと引き替えに、我々の譲歩を引き出すことなのでは? たとえば──次はカミラの兄と戦うために、王子がコルノ島に留まることを容認させるおつもりだとか」
「えっ……」
と、そこでトリエステが口にしたまったく予想外の言葉に、カミラは驚愕のあまり息を飲んだ。が、一方のファリドはしばしじっとトリエステを見据えたのち、不意にクッと喉を鳴らしてうつむき、さらにクックックッと肩を震わせる。
「あー、くそ。お前、マジで飼いたくなるほどイイ女だな。さすがはオーロリー家のご深謀ってところか」
「じ、じゃあまさか、本当に……!?」
「ああ、そうだよ。そいつを奴隷にしたくなかったら、俺をしばらくお前らの島に滞在させろ。ガルテリオが死んだ今、国境を攻めてももう二度とヒリつくような戦はできねえだろうからな。代わりに黄皇国を相手にでけえ博奕を打ってるお前らの側につけば、少しは楽しい戦ができそうだ。長年ガルテリオの隣で散々俺の邪魔をしやがったシグムンドや、ヒーゼルの倅が相手ならな」
「はあ? 冗談じゃねえ、いつ裏切るとも知れねえシャムシール人なんざ島に置いておけるかよ。だいたいてめえ、ここには戦果の見返りを求めて押しかけたんじゃなかったのか?」
「そうだよ。だから戦を寄越せっつってんだろ。俺ァ強え相手とギリギリの命のやりとりができりゃ満足……というか、ぶっちゃけ殺し合い以外にゃ興味がねえ。だが砂王国にいる限り、戦える相手は黄皇国の国境軍か、列侯国のクソザコ騎士団だけだ。連中との殴り合いはさすがに飽きた。唯一俺を楽しませてくれたガルテリオもいなくなっちまったし、このままじゃ退屈で退屈で死んじまう。つーわけで、俺は新しい喧嘩相手が欲しくてたまらねえんだよ」
「……こいつ、マジで頭イカレてんじゃねえのか?」
と、これにはライリーさえも顔を引き攣らせ、カミラもさらに震えが走った。
以前、ファリドは病的なまでの好戦家だと聞いたような覚えがあるが、実際に対面してみるとそれどころの話ではないと感じる。今のファリドの発言に恐らく嘘はなく、彼はこの世の何よりも殺し合いを愛し、楽しんでいるのだ。
一体何がどうなればこんなおぞましい感性を持つ人間が生まれるのかと耳も目も疑いたくなるが、しかし砂王国で生まれ育つというのはそういうことなのかもしれない。何せあの国を支配するのは法でも大義でも豊かさでもなく、貧困と暴力、そして死のみなのだから。
「……で、どうするの、トリエステちゃん。分かってるとは思うケド、同じ賊でも最低限の仁義は通すヤクザ者と違って、シャムシール人は理性のかけらもない、正真正銘のケダモノよ? ライリーの言うとおり、そんな男を島に上げるだなんてリスクが大きすぎると思うんだケド」
「……確かにファリド王子ご自身もかなり危険な人物ですが、それ以上に憂慮すべきは彼との共闘を承服すれば、救世軍と砂王国の癒着が表沙汰になることです。トラモント人の嫌砂感情は深刻ですから、王子である彼を受け入れるとなると、民心が離れる可能性も……」
「んなもん、テキトーに誤魔化せばいいじゃねえか。お前らが最初にライリー一味を取り込んだときだって、当然世間の非難は覚悟の上だったんだろ? そいつらもお前らと手を組むまでは、略奪も殺しもやりたい放題だったんだから」
と、さらにぬけぬけとのたまうファリドに、一同は揃って苦い顔をする他なかった。彼の言うとおり、湖賊であるライリー一味と手を結ぶときも、彼らとの間にひと悶着あったのは事実だ。けれども今もこうして彼らとの関係を維持できているのは、救世軍がライリー一味を改心させたことで彼らの狼藉が治まり、世直しに協力するようになったとの噂を意図的に流したからというのが大きい。
実際には、ライリーたちも救世軍と同盟を結ぶ以前から打倒黄皇国を掲げて戦っていたという経緯があるのだが、そんな一味の内情など、外部の人間は知る由もなかったのだ。だからこそカミラたちは民心をつなぎ留めるべく都合のいい風聞を流布し、彼らを仲間に引き込んだ事実を正当化する必要があった。
(……つまりこいつは、あのとき私たちが裏で何をしたのか知った上で、また同じことをすればいいと言ってるのよね。だけどコルノ島の状況といい猫人のことといい、思った以上に私たちのことを調べ上げてきてる……だとしたら敵に回したら回したで、かなり厄介な相手かも……)
と、なおも背筋が冷えるのを感じながら、カミラはぎゅっと自身の腕を握った。
この男をコルノ島へ迎え入れることにはやはり激しい抵抗を感じるが、かと言って野放しにするのも空恐ろしい。ならばいっそのことコルノ島に閉じ込めて、飼い殺しにしてしまった方が安全なのではという考えも脳裏をよぎる。
というかそもそも今のカミラたちに拒否権はなく、島に残る皆を守るためには、たとえ嘘でも一旦はファリドの要求を飲まざるを得ない──
「ああ、ちなみにお前らが今の話を飲むんなら、漏れなく竜人もついてくるぜ」
「……え?」
「そもそも今回、こいつらが俺に大人しく従ったのは、俺が竜人とトラモント人の橋渡しをしてやるって口説いたからでな。何でもこいつらはしばらく前から、シャムシール人以外の人間とも共生する道を探してるらしい。そうだろ、グニク?」
「……ウム。オレタチ、ニンゲント争ウ、望ンデナイ。オレタチ、砂漠デ、ニンゲン襲ウハ、生キルタメ。ダガ、ニンゲント取リ引キ、デキル、ナレバ、ニンゲン、襲ウ必要、ナイ。エリクガ、シタト、同ジコト。オレ、大竜父ノ教エ、守ル」
と、グニクがやはり片言のハノーク語で告げた言葉の中に、またも兄の名が出てきたのを聞いて、カミラは再びはっとした。
〝エリクがしたのと同じ〟というのは先刻コラードが言っていた、兄が砂漠を渡る隊商と竜人の仲立ちをしたという話のことだろうか?
「大竜父の遺志……ってことは、つまりグニドも人間との共生を望んでたのか。まあ、人間の子供を育てて世界中を旅したあいつの遺言だってんなら納得だが、お前らもそいつに従って救世軍に協力してえと?」
「噫。オレタチ、ニンゲンノ敵、違ウ。ニンゲント、一緒ニ戦エバ、ワカル。ト、ファリドガ言ッタ」
「ま、要は俺の要求を飲めば、お前らも竜人を戦力として取り込めるってこった。ガルテリオとの戦で降伏させた竜騎兵団の生き残りは全部グランサッソ城に帰しちまったんだろ? なら今後またあの連中とぶつかるときに、こいつらが味方にいるのといないのとじゃ、戦況がだいぶ変わると思うぜ?」
「……そんな情報まで掌握済みなんですね」
「ハッ、当然だろ。何せこっちにも倭王国のシノビがついてんだからな。ついでに言や、お前らが妙ちくりんな兵器を使って亜竜どもを焼き払ったって話も聞いてるぜ。だがああいう兵器を使いまくれば、すぐに神領国が飛んでくるのは分かってんだろ? その点、竜人は身ひとつで亜竜と互角に戦う生物兵器だ。竜騎兵団が今後も存続する以上、対抗策として竜人を飼っておくってのは、悪くねえ案だと思うがな──」
「──いや、それはどうだろうね。亜竜の群など、我々がいれば大した問題にはならないと思うよ」
ところが刹那、得意満面のファリドの言葉を遮り、にわかに響いた声があった。
皆が驚いて振り向けば、ほどなく応接室の扉が向こうから開かれる。
直後、廊下から現れた人物の姿を認めてカミラたちは唖然とした。驚愕のあまり数瞬声も出なかったが、何とか喉を震わせて彼の呼び名を口にする。
「り……り、り、竜父様!?」
そう、扉の向こうにゆったりと佇み、微笑とも苦笑とも取れる笑みを湛えていたのは、行方不明だったはずの竜父だった。
傍らにはアマリアやビアンカを始めとする竜騎士たちの姿もあり、絶句する一同に向かって、竜父はひょいと片手を挙げてみせる。
「やあ、諸君。心配をかけてすまなかったね。こちらも色々あったのだけど、とりあえず、何とか生還したよ」




