330.神の眼を持つ男
イークには部屋で休んでいろと言われたが、カミラは首を縦には振らなかった。
「その娘を救いたくて我々に助けを求めたのだろう?」
という先刻のエルネストの言葉が、イークに対する脅迫であることは明白だったからだ。ここでイークと離れれば、彼が自分を人質にどんな無理難題を突きつけられるか分からない。だから絶対に傍を離れないと決めた。
正直三日分の時を戻した影響で足もとがおぼつかず、立つのもやっとだったけれど、どうにか意識は保っていられる。よって震えるほど体温の下がった体には毛布を巻き、しっかりと剣も佩いた。今の体調でまともに戦えるとは思っていないものの、いざとなれば自分の身くらいは自分で守る。
これ以上自分のせいでイークの身に危険が及ぶだなんて、絶対に嫌だ。
「……で、俺たちに話ってのは?」
そうしてふたりが連れ込まれたのは、先程までカミラが休んでいた部屋を出てすぐのところにある居間のような場所だった。空間としてはさほど広くはないが部屋が円形をしていて、曲線を描く壁は灰色の石を積んで築かれている。
暖炉に明々と焚かれた火のおかげで室内は暖かく、部屋の様子もよく見えた。
が、果たして今は昼なのか夜なのか、それだけが判然としない。
何しろ部屋にあるふたつの窓はしっかり雨戸が閉じられており、外からの光が一切入ってこないのだ。おかげで室内は真夜中のように暗い。ただ唯一外に通じていると思しい扉には小さな窓がついていて、そこからうっすらと漏れる薄明かりが、まだ日の高い時間なのかもしれないと思わせた。雨戸の向こうでは吹雪が轟々と音を立てているせいで、小窓から見えるのも結局白い闇のみだったが。
「何、大したことではない。ただ現在反乱軍が置かれている状況を、当事者の口から聞きたいと思っただけだ」
……だけどまさか、こんなところでフィロメーナやトリエステの父であるエルネスト・オーロリーと出会うだなんて。未だにそんな戸惑いを隠せずにいるカミラの視線の先で、エルネストは既にくつろぎ、窓辺に置かれた揺り椅子に深く腰を下ろしていた。傍ではベンソンが恭しく世話を焼き、エルネストの傍らに置かれた小さな卓に淹れたての香茶を差し出したりしている。
対するイークはそのベンソンを一番に警戒しているらしく、エルネストの揺り椅子とは対角の位置にある椅子にカミラを座らせて、自身は立ったまま勧められた席に腰を下ろす素振りもなかった。きっと遭難時の疲労が抜け切っていない自分と神力の使いすぎでふらふらになっているカミラとでは、あの男が本気で斬りかかってきたときに防ぎ切れるかどうか紙一重だと、イークもそう感じているのだろう。
「……なら、答える前に俺たちからも質問がある。あんたが本当にフィロやトリエステの父親なら、こんなところで何をしてる? 天下のオーロリー家の元当主が、人の寄りつかない山奥に隠れ住んでるなんて……」
「言ったはずだ。下界のつまらんいざこざに心底厭気がさした、とな。私はフィロメーナが反乱軍の総帥として黄皇国に宣戦布告した折り、娘の謀反の責任を取るという名目でオーロリー家当主の座を退いた。陛下はトラモント黄皇国を建国から支え続けた我が一族の功績を鑑み、家門の取り潰しには猶予を下さったが、だからと言ってのうのうと官職に居座るわけにもいかなかったのでな」
「だ、だけど、当主を継いだエリジオは……」
「ああ。まあ、あれにしてはよくやった方だ。不運にして私の子はいずれも軍師としての資質に恵まれなかったが、エリジオとフィオリーナであれば後者の方がまだいくらかマシだ。そのフィオリーナに当主の座を明け渡すべく、本家のみが潰れる方向でことを収めたのは英断だったと言えなくもない」
「あ……〝あれにしてはよくやった〟って、それだけ? エリジオは黄皇国の腐敗を止めるために、面と向かって黄帝を諫めた結果処刑されたのよ? なのにどうして父親のあなたは、息子の仇も討たずにこんなところで……!」
「仇? そんなものを討ったところで、誰に何の益がある?」
「なっ……」
「だいたい愚息が到底聞き入れられるはずのない諫言など呈したのは、フィロメーナに続いてトリエステまでもが謀反に加担したためだろう。だとすれば、エリジオがそうせざるを得ない状況に追い込んだトリエステこそが真の仇ということになるのでは?」
「ち……違う……トリエステさんが救世軍に加わったのは、私たちが一緒に戦ってほしいとお願いしたからで……!」
「では、エリジオを殺したのは貴君らということになるな」
「……!」
「だが、もとはと言えば黄帝がまともに国を治めてりゃ、そもそも内乱なんて起こらずに済んだはずだろ。つまりあんたの理屈で言えば、エリジオの仇はやっぱり黄皇国だって結論になるんじゃないのか?」
「貴君らは先代黄帝ブリリオ三世の治世を知らんのか?」
「は?」
「まあ、所詮は我が国と関わりのない異邦人だからな。無知も已むなしか」
エルネストはこちらをちらりとも見ずにそう吐き捨てると、至極つまらなそうな横顔でベンソンの淹れた香茶を手に取った。
そうして興味を失くしたように茶を口へ運ぶ姿を見て、馬鹿にされていると思ったらしいイークがますます剣呑な口調になって言う。
「そりゃ、確かに俺たちは先代の治世を直接知ってるわけじゃないがな。当時の黄皇国の腐敗ぶりは、今と同じかそれ以上にひどいありさまだったってことくらいは知ってる。そいつが今の話とどうつながるって言うんだ?」
「……なるほど。やはりアンゼルムの才覚は母親譲りか。ほとんど同じ環境で育っても、ここまで器量に差が出るとはな」
「何だと?」
「貴君らにはどうやら一から十まで、手取り足取りすべてを説明してやらなければ話が通じんようだと言ったのだ。アンゼルムは曲がりなりにも貴族令嬢だった母親の教育を受けたためか、効率的な会話が可能で助かったのだがな」
さも嘆かわしげに言いながら、エルネストは静かに香茶のカップを卓へ戻した。
されどカミラは彼がまったくの無遠慮に黄皇国での兄の名を口にするたび、鋭利な刃物の先端で胸を衝かれるのに似た思いがする。
(効率的な会話って……つまり相手が明言を避けて伝えようとしてることを察して話の先を読めってこと? そりゃ貴族は明確な言質を取られないために、何かにつけて婉曲な表現をしたがるってのは知ってるけど……)
確かに故郷でも人一倍頭の回転が早く博識だった兄にならそういう会話も可能かもしれない。けれどもカミラは母を知らずに育ち、兄やイークを探して郷を飛び出すまでは外の世界のことさえほとんど何も知らなかった。だから救世軍でもたびたびウォルドやライリーに無知をからかわれてきたわけだが──こうして面と向かって兄との器量の差を突きつけられると、腹が立つというよりむしろ胸が詰まる。
「いいか。先代の治世は今よりもさらに政の腐敗が深刻で、もはや国家を立て直すことは不可能とさえ思われていた。しかし現黄帝たるオルランド・レ・バルダッサーレ陛下は、即位するや否や数々の革新的な政策を打ち出し、完全に傾いていた我が国を再生させたのだ。もっともそれもほんの数年限りのことではあったが、陛下が先代に冷遇されることなく、若くして黄帝となっていれば、より長い平和と繁栄がもたらされていたことだろう」
「ならあんたは、国の腐敗の根本的な原因は、現黄帝を耄碌する寸前まで飼い殺しにしてた先代のせいだと言いたいのか?」
「違う。陛下とは直接的な血縁関係こそ持たないものの、あのお方が自身の後継者と見込んで育てていたジャンカルロにも、その気になれば同じことができたのではないかと言っているのだ」
「な……」
「じ、ジャンカルロさんが黄帝の後継者?」
思いもよらないエルネストの発言に、カミラは思わずイークを振り向いた。
が、彼も明らかに動揺している様子なのを見る限り、イークさえも知らなかった事実のようだ。かく言うカミラもジャンカルロが黄帝の数少ない身内のひとり──彼は亡き黄妃エヴェリーナ・ヴィルトの甥だった──として目をかけられていた、という話くらいは聞いたことがあるものの、まさか彼が次期黄帝と目されるほどの人物だったなんて知らなかった。されど彼は素直に玉座に就くのではなく、トラモント黄皇国を打倒して新たな国家の元首となることを望んだ……。
「で、でも、今の黄帝には血のつながった姪がいるのに……なのに血縁のないジャンカルロさんを次の黄帝にしようとしてたって言うの?」
「そうだ。知ってのとおりリリアーナ皇女殿下には、次期黄帝が務まるほどの器がない。ゆえに陛下はジャンカルロに次代を譲るおつもりで、着々と準備を整えておられたのだ。当代の黄妃を輩出した一族から皇太子まで擁立されたとなれば、ヴィルト家が力を持ちすぎると言って騒ぎ出す輩がいるであろうことを警戒し、公にはされていなかったがな」
「な、ならジャンカルロさんは、黄帝の信頼を裏切って謀反を起こした……? だけど、どうしてそんなこと……」
「簡単な話だ。ジャンカルロ・ヴィルトは潔癖すぎた。あの男は陛下のように清濁を併せ呑み、多少の汚点や不都合に目を瞑るということができなかったのだな」
「どういう意味だ?」
「要するに、敬愛してやまなかった叔母を殺した者どもと同じ天は戴けぬと言って玉座を拒んだということだよ。ジャンカルロは戦後、陛下が国家としての枠組みを維持するために、かつて偽帝派についていたいくつかの家門の罪を赦し、再び国の中枢に据えたことが我慢ならなかったのだ。先代時代の腐敗の根源であった偽帝派を根絶しないのなら、叔母は何のために命を落としたのかとな」
ゆえにジャンカルロは、オルランドが恩赦した家門ごとトラモント黄皇国という国家を消し去り、まっさらな状態から新たな国を建てることを望んだ。
エルネストは話の最後をそう結んだ。つまり彼はジャンカルロが私怨を封じて黄帝となり、かつてオルランドがそうしたように改革を断行すれば、そもそもこの内乱は起こらなかったはずだと言っているのだ。
けれどカミラには分からない。十年前の戦争であまりに多くのものを失い、祖国に絶望したジャンカルロの失意を一体誰が責められるのだろう?
妻であるフィロメーナを救うためにたったひとり、殺されると分かり切っていたはずの戦いに身を投じるほど他者を愛し、平和を望んだ彼の心を。
その慈愛と清廉さのために今、多くの者が苦しめられているのだと、どうしてなじることができるだろう……。
「だから私は言ったのだ。愚息の仇など討ったところで、何の益があるのかとな」
「……」
「今回の内乱自体がジャンカルロの復讐から始まったことを思えば、仇討ちなどというものがまったくもって不合理な行為であることは誰の目にも明らかだろう。私は生憎、そういったくだらん自己満足のために限られた資源や時間を浪費する趣味はない」
「……くだらないだと? ならあんたはジャンが大人しく玉座に座っていれば、腐り切った国をもう一度変えられただろうって確信があるのか?」
「さあな。そこはジャンカルロの覚悟次第だっただろうが、まあ、敵にそう要求されたからなどという馬鹿げた理由で、勝算がないと分かり切っている戦いに無策のまま身ひとつで赴くような愚か者には、土台不可能だったかもしれんな」
エルネストがやはりこちらを一顧だにせずそう言えば、途端にイークを取り巻く神気が不穏に蠢くのをカミラは感じた。はっとして目をやれば、彼は今にも腰の剣を抜き放ち、エルネストへ斬りかかりそうな剣幕をしている。
ゆえにカミラは慌ててイークの袖を掴み、無言で彼を引き止めた。
今の話を聞いたイークの心中は、察するに余りある。
カミラとてエルネストの言い草に怒りを禁じ得ないのは事実だ。されど彼の傍らでは、今もベンソンが眉のない双眸を不気味に光らせている。ここでイークが剣を抜いたところで、それこそ誰も得をしないのは火を見るよりも明らかだろう。
「あ、あの……じゃあ、あなたがこんな山奥でひとり世を儚んでる理由は分かったけど、だったらどうして救世軍の現状なんて知りたがるわけ? 下界のいざこざにはもう愛想が尽きたって言うんなら、内乱の行方がどうなろうがあなたには関係のないことでしょう?」
「ああ、今はな。だがいずれ必要となる情報だから訊いている」
「必要になるって……どうして?」
「なるほど。また私に一からすべて説明しろと?」
と、相変わらず抑揚のない声色で言いながら、エルネストはカミラたちとの会話に厭気がさしたとでもいうように、膝の上に置いた書物をパラパラと捲り始めた。
その様子を見て遠回しに「無知で察しの悪い連中の相手は疲れる」と改めて馬鹿にされているらしいことを理解したカミラは、ますますむかっ腹が立つのを堪えて口を開く。
「あっそう。なら命を助けてもらったお礼に話してあげないこともないけど、いずれ必要になる情報だって言うんなら、麓に下りて自力で集めた方が確実だし、より効率的なんじゃないの?」
「無論、国内の動静については逐一情報を仕入れている。が、私が現在把握している情報と事実の間に齟齬はないか、念のため確認しておきたいと思っただけだ」
「へえ。じゃあ、あなたが現在把握してる情報っていうのは?」
「貴君らは現在パウラ地方のトラクア城にて、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ率いる黄皇国中央第三軍と交戦中。第三軍の兵力二万に対し、籠城する反乱軍の兵力は九千程度。正門のある西側のみを防衛すればこと足りるトラクア城の構造と、アビエス連合国軍が持ち込んだ兵器の恩恵により、今のところ第三軍の攻撃を防ぐことには成功しているが極めて劣勢。防戦一方の戦況を打開する手立てがなく、勝算の薄い消耗戦となりつつある」
「なっ……」
「しかし貴君らが今、竜の谷を目指してこの山にいるということは十年前、正黄戦争のさなかに真帝軍が採った策をなぞろうとしているといったところか。かつて竜父と接触したことのあるジェロディ・ヴィンツェンツィオが炎王伝説にあやかった陛下を真似て交渉すれば、竜騎士たちを口説き落とせると思っているわけだな」
「ま……待て。あんた、一体どうやってそれだけの情報を……!」
「貴君らにとっての剣がそうであるように、情報は軍師にとって最大の武器だ。だからこそトリエステも倭王国から優秀な諜者を雇って使っているのだろう?」
「つまりあんたは救世軍に手の者を紛れ込ませてるってわけか。なら、まさか──四ヶ月前、黄都守護隊に救世軍の情報を売ったのもあんたか?」
イークがさらに殺気立った様子でそう尋ねたのを聞いたとき、カミラははっと息を呑んだ。そうだ。四ヶ月前のポンテ・ピアット城にて、カミラたちは完全に秘匿していたはずの策を読まれ、黄都守護隊の急襲を受けた。
あのとき何故、どこから情報が洩れたのかは未だに分かっていないはずだ。
トリエステは諜務隊を使って今も原因を探り出そうとしているものの、救世軍の策を官軍に密告した犯人はまだ判明していないと言っていた。
だがイークの言うとおり、すべてはこの男が裏で糸を引いていたのだとしたら?
竜牙山から二〇〇〇幹(一〇〇〇キロ)も離れたトラクア城で数日前に起きた出来事さえも完璧に把握している彼ならば、世捨て人のふりをしながらひそかに官軍へ情報を売り、祖国を勝たせようとしていたとしてもおかしくはない──
「さあな。その件については、私は何ら関知していない。そもそも既に詩爵でも軍属でもない私が、貴君らの情報を官軍に流す理由がない」
「理由なら充分あるだろ。あんたはとっくに隠居したと見せかけて、裏で内乱を操ろうとしてるんじゃないのか? オーロリー家はトラモント黄皇国の建国に携わった一族だ。だったら表舞台から下りたあとも、祖国を守るために暗躍してたとしてもおかしくはない」
「筋の通らん理屈だな。私の祖先が黄皇国の建国に関わったからと言って、何故私が国を守らねばならない?」
「だが現にあんたは今の今まで、黄皇国の軍師として国を守ってきただろう。十年前の正黄戦争のときだって、当初劣勢だった真帝軍を華々しく勝利へ導いて──」
「私は黄皇国を守ってきたのではない。ただ軍師として、勝たせるべき者を常に勝たせてきただけだ。より合理的で、能力や将来性の見込める者をな」
「は……?」
「十年前はそれがたまたま真帝軍だったというだけのこと。偽帝フラヴィオがあのまま国を治め続ければ、遠からず国家が破滅することは目に見えていた。ならばよりまともに国を治められそうな方を勝たせるのは当然のことではないか?」
「い……いや、そりゃそうかもしれないが……」
「今回の内乱も同じことだ。私は私の力を与えるべき勢力は黄皇国軍か反乱軍か見定めるためにここにいる。だから情報が必要だと言った。貴君らが次にこの地を治めるにふさわしい者たちかどうか、勝算はどの程度あるのかといったことを分析するためにな」
「な……なら、戦況次第で私たちに味方する可能性もあるってこと?」
「いかにも。仮に貴君らがツァンナーラ竜騎士領を味方にすることができたなら、私も反乱軍に策を授けることを辞さない。神々に創造されし生物である竜たちが、三百年以上の長きに渡って続いてきた黄皇国との同盟を見限るのなら、それはすなわち国家の命運が尽きたことを意味するのだろうからな」
「で、でも、だったら救世軍には神子がいるわ。生命神の神子だけじゃなく光明神の神子や真実神の神子も。一生に一度出会えるかどうかって言われてる神子が三人も集まるなんて、その時点で救世軍が神々に支持されてることの証明じゃない?」
「いいや。神子とは所詮人間だ。エマニュエルの歴史を繙けば、神の力を過信して道を踏みはずした神子が何人もいた事実が浮かび上がる。ゆえに私は神子の存在を勝因と見なすことはしない。現に二十年前、ルエダ・デラ・ラソ列侯国で反乱を起こした正義神の神子は、無惨な末路を辿っただろう? 処刑されるはずだった君の父親をかばってな」
「え……?」
初めて耳にする事実にカミラは束の間呆気に取られ、次いで困惑した。確かに父が昔、ルエダ・デラ・ラソ列侯国で傭兵として働き、のちに正義の神子に仕える騎士となったという話は以前ヴィルヘルムから聞いたことがある。やがて父が列侯国を去ったのは、かの国で起きた内乱の責任を負わされたからだとも。けれど正義の神子が、そんな父をかばって無惨な末路を辿ったとはどういうことだろう?
カミラの記憶が正しければ、正義の神子は父と同じ理由で流刑に処されたとヴィルヘルムは言っていたはず──
「おい、今はヒーゼルさんの話は関係ないだろ。だいたいあんた、勝たせるべき者を勝たせるとか何とか偉そうに言ってるが、今の話を聞く限り、要は勝ち馬に乗ろうとしてるだけじゃないのか? 稀代の天才軍師ってのは、勝ちやすそうな方を選んで勝たせてるだけだったってオチじゃないだろうな」
「そうだな。ある意味ではそうとも言えるかもしれん。もっとも私の場合、勝ち馬は自ら育てることを旨としているが」
「自ら育てる?」
「ああ。たとえば正黄戦争では、当時あれほど劣勢だった真帝軍が何故勝利を収められたと思う? 答えは簡単だ。私には偽帝フラヴィオがトリエステを軍師として利用することが分かっていた。他でもない私がそう仕向けたからな」
「なっ……!?」
「自分の娘が敵軍の軍師となれば、相手の手の内を予測するのはたやすい。何せトリエステに軍学を教えたのは私なのだからな。ゆえに私は家族を黄都に残したまま真帝軍に合流した。勝ち馬を自ら育てるとはそういうことだ」
「おい、あんた……!」
「実を言うと私は今回の内乱も、当初は黄皇国軍を勝たせるつもりでいた。ジャンカルロの器では、どう考えても反乱軍を勝利へ導くのは難しいと判断したためだ。だからフィロメーナが自ら望んでジャンカルロを追いかけ、反乱軍に加わるよう仕向けた。その上でジャンカルロを排除し、フィロメーナが次の指導者として担ぎ上げられる状況を作り出せば、必要最低限の時間と労力で内乱を治められるはずだと踏んでな」
「……!」
「だがやがてハイムの神子に選ばれたジェロディ・ヴィンツェンツィオが反乱軍に合流するという想定外の事態が起こり、戦局が読めなくなった。神子の威光やヴィンツェンツィオの名を駆使すれば、反乱軍にも勝算が生まれる可能性が皆無ではなくなったからだ。よって私はここから戦況を俯瞰している。今のところはやはり官軍が優勢だが、ツァンナーラ竜騎士領の出方次第で局面は大きく変わるだろう」
「……おい、待て。じゃあ何か? あんたはこの内乱を有利に運ぶために、ジャンを殺して……さらに自分の娘まで利用したあげく無駄死にさせたのか」
「結果的にはそうなったな。ジェロディ・ヴィンツェンツィオの登場が事前に予期できていれば、フィロメーナにももっと別の使い道があったのだろうが、あの時点ではさすがの私も彼が神子になるとは予測できなかった。分かっていれば、フィロメーナをオーロリー家の当主に立てて、正黄戦争の頃のトリエステと同じ役を演じさせていたのだがな」
エルネストが再び香茶を手に取りながら、そう吐き捨てた直後だった。
ついにイークを取り巻く神気が吼えて、彼の手が剣把にかかる。そのままひと思いに踏み込んで、イークはたちまちエルネストの首を刎ねる──かに見えた。
が、寸前、今にも踏み出されようとしていた足が止まる。何故ならカミラが後ろからイークの腕を掴み、しがみつくようにして引き止めたからだ。
「おいカミラ、止めるな! あいつはジャンとフィロを殺した張本人なんだぞ! 第一、生かしておけばいつまた黄皇国側につくか……!」
「……分かってる。だけど、もし……もしこの人が私たちの側についてくれたら、救世軍は今よりもっと確実に勝てる戦が増えると思わない?」
「はあ!? お前、何言って……!」
「ジャンカルロさんやフィロの死を無駄にしないためには、何と引き換えにしても勝つしかない。イークだって言ってたでしょ。一度戦い始めたからには、何を犠牲にしてもやり遂げるしかないって」
「それは……!」
「エルネストさん。あなたの言葉、信じてもいいのよね? 救世軍が官軍を圧倒してこの地を治めるのにふさわしいと証明したら、本当に力を貸してくれる?」
「ああ、約束しよう」
「……分かった。その言葉、エメットに誓って忘れないでね」
イークの腕にしがみついたまま顔を上げずにそう告げたカミラは、やがてすっくと立ち上がった。そうしてふらつく足を踏み締め、平静を装いながらさらに言う。
「で、私たち、吹雪が止むまでのあいだ泊まる場所が必要なんだけど……」
「ああ、先程の部屋を好きに使うといい。必要なものがあればベンソンに声をかけたまえ。多少人数が増えても困らん程度の物資の蓄えはあるのでな」
「ありがとう。じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」
平板な声色でそう言うが早いか、カミラはイークの腕を抱えたまま奥の部屋へと引き取った。設えからして、恐らくそこはエルネストの寝室なのだろう。
されどその部屋主から直々に「好きに使っていい」との許可を得たのだ。
だとすれば、遠慮はすまい。
「おいカミラ、何のつもりだ! お前はあの男を……!」
ところが部屋の扉を閉めるなり、声を荒らげかけたイークが刹那、はっとしたように声を呑んだ。理由はもちろん、カミラが思い切り抱きついて胸もとに顔をうずめたからだ。そうしないとたぶんカミラは、声を放って泣いてしまう。
けれどエルネストにだけは、絶対に泣いていることを覚られたくない。
だから必死に声を殺してカミラは泣いた。名前をつけるにはあまりに熱く煮え滾りすぎている感情と、かつてフィロメーナと共に過ごした日々の記憶が頭の中でごちゃ混ぜになり、何も言葉が出てこなかった。代わりに心の中で叫ぶ。
──フィロ。フィロ。それでも私は、あなたと出会えて幸せだった。
幸せだったの。だからあなたの人生には何の意味もなかったなんて言わせない。
そんなことは絶対に、誰であろうと言わせはしない。
たとえあなたとの出会いすらあの男に仕組まれたものだったのだとしても、私たちが一緒に過ごした日々のまぶしさに嘘なんてひとつもなかった。
ねえ。そうでしょう、フィロ?
「カミラ。お前……さっきの言葉、本気なのか」
そうしてどれほどのときが流れただろう。
やがて頭上から聞こえたイークの声は、いくばくかの冷静さを取り戻していた。
ゆえにカミラも深く頷く。まだ顔は上げられなかったけど。
「あの人……たぶん、私たちを試してた。わざとお兄ちゃんやフィロの話ばかりして、私たちを挑発してたのよ。だけどここで救世軍は助けるに値しないと思われたら、あの人を敵に回すことになる……そうなったらきっと救世軍に勝ち目はない」
「だから、ここであいつの息の根を止めておけば」
「ダメ。今の私たちじゃ、あのベンソンって人には勝てないって……イークにも分かってるでしょ? お互い体はボロボロだし、特に私が足を引っ張っちゃう。向こうも当然、動けない私を真っ先に狙ってくるに決まってるわ。そうなったらイークは……」
「……っ」
「何より……どれだけ時間はかかっても、私たちであの人に証明するのよ。ジャンカルロさんやフィロは正しかった、愚かなんかじゃなかった、くだらなくなんてなかった、無意味なんかじゃなかったって。そして本当に愚かだったのは、間違ってたのはあいつの方だって思い知らせてやるの。そしたらあとはフィロのお墓の前に跪かせて、生まれてきたことを心の底から後悔させてやるんだから……!」
エルネスト・オーロリーは理解っていない。ジャンカルロやフィロメーナは確かに神のごとく完璧な存在ではなかったが、生きていた。
人間ならば誰もが持ち合わせている〝心〟を持ち、その心の赴くままに、正しいと信じるもののために、どんな痛みも悲しみも乗り越えて戦っていたのだ。
それをエルネストは、さもすべて自分が采配したものであるかのように言う。
己以外の人間は、誰もが智恵も心も持たぬ人形で、ただ神に操られるがまま動いているかのように錯覚している。
ならば自分は、そんなエルネストの驕りを真っ向から叩き潰してやる。
おまえは確かに神に愛されし頭脳を持って生まれたかもしれないが、代わりに心を持たずに生まれた出来損ないの人間だ、と。
「……そうだな」
瞬間、ふと頭に軽い震動が伝わって、カミラはようやく激情の荒波から顔を上げた。涙でぐしょぐしょに濡れたまま視線を上げれば、やり場のない感情を眉間に集めたらしいイークが深いため息をつきながら、されどカミラの赤髪をくしゃりと撫でる。
「生まれてきたことを後悔させる……か。確かに、お前にしては悪くない案だ。そういうことならあいつの力を利用するだけ利用して、用済みになってから思う存分斬り刻んでやればいい。あいつがジャンやフィロにそうしたようにな」
「……うん」
「正直、今すぐにでも息の根を止めてやりたい気持ちは変わらないが……今回だけは、俺たちもやつに命を救われた。なら、これで命の貸し借りはナシだ」
「うん」
「……だから、カミラ。やつをフィロの墓前に引き摺り出すまで、あんな星刻の使い方をするのは今回限りにしろ。お前自身を生かすためならともかく、他人のために易々と自分の命を切り売りするな」
「イーク」
「会うんだろ。生きて、エリクにもう一度。……あの男はエリクのことをそこそこ買ってるみたいだったが、たぶんエリクも性格的に、野郎とは反りが合わなかったと思うぞ」
ゆえにエリクと再会できる日が来たら、思い切り愚痴を言い合うといい。
そう言って、イークがいつもどおりへたくそに笑うのを見たカミラは再び視界が滲んだ。もう星刻の力は使わない──とは約束できないけれど、ただ彼を失いたくない一心で、改めてイークの胸に顔をうずめる。
(さっきイークは、私が救世軍に入って苦しんでるのも自分のせいだって言ったけど……)
そんなわけがない。だってカミラはやっぱり少しも悔いていないのだ。救世軍に入ってフィロメーナやジェロディと出会い、今もこうして彼の隣にいることを。




