328.祈りの夜
七年前のあの日、イークとエリクは、カミラたちが採集へ向かったのとは逆側の森へ狩りに出ていた。ルミジャフタでは森に入って果実や薬草を集めるのは女たちの仕事だが、狩猟はもっぱら若い男たちの仕事だったのだ。キニチ族は個人の財産や所有物という概念が希薄で、大抵の場合、家畜や畑や狩りの獲物は郷の共有財産として皆で管理し、分け合うのが常だった。ゆえにあの日もイークとエリクは郷のために少しでも大きな獲物を仕留めて帰ろうと、朝から森に入っていたのだ。
「おい、エリク。何か見つけたか?」
「いや、何も……今日は牙鹿も鼻豚も見当たらない。何だか妙に森が静かだ」
「だよな。いつもキーキーやかましい尾長猿の鳴き声もしない。まるで森中の生き物がごっそりいなくなっちまったみたいだ」
と、エリクが偵察に行っている間、自身は見晴らしのいい木の上から周囲の様子を探っていたイークは、半日歩き回っても収穫なしという現実に激しい徒労感を覚えながら弓を担いで飛び降りた。
だがその日は森に入った直後から、何かがおかしいと感じていたことは確かだ。
見渡す限りシダやらツルやらコケやらが群生し、ほとんど緑一色に見えるグアテマヤンの森は、普段ならどこにいても生き物の気配がする豊かな森だった。
そんな森が死んだようにしんと静まり返り、鳥や虫の鳴き声すらも聞こえないというのは異様な事態だったのだ。
されど何の収穫もなしに郷へ戻れば、夕飯は肉抜きになってしまう。
川へ漁に行った郷人もいたはずだから、魚肉か鰐肉、最悪でも蛙肉くらいなら食えるかもしれないが……と思いながら、イークはこんなときでも唯一元気に寄ってくる鳴き蚊をパンッと叩き、首もとで潰しながら言った。
「どうする? こうなったら結界の外まで行ってみるか」
「いや……今日はもう郷に戻った方がいいかもしれない。ここまで何も見つからないなんてさすがに異常だ。一度族長様にこのことを報告するべきじゃないか?」
「けど、仮にこれがなんかの災厄の前触れだとしたら、ナワリのバアさんからとっくに知らせが来てるはずだろ。そいつがないってことは……」
「──おい、大変だ! エリク、イーク! いたら返事しろ!」
ところが刹那、イークの言葉を遮って響き渡った呼び声に、ふたりは目を丸くした。あれはイークたちの家の近所に住んでいる壮年の声だ。
森中に谺する只事ならぬ声色に何事かと顔を見合わせたふたりは、すぐさま身を翻して駆け出した。そうして声を頼りに合流したとき彼が見せた、深い安堵の表情をイークは今も覚えている。
「ああ、お前たち、よかった、無事だったか……! 実はさっき至聖所から知らせがあってな……何でも森の東でナワリ様の結界が破られたらしい。今、族長が戦士を集めて原因を突き止めに行こうとしてる。お前たちもすぐに郷へ戻れ。若い連中はいざってときに備えて、郷にいる女子供の守りだ」
「え……な、ナワリ様の結界が破られたって、そんなことがありえるんですか? だとしたら一体誰が……」
「分からん。だが、ほら、アレだ……ついこの間もヒーゼルの件があったばかりだろう。だから族長は例の白い魔物が、また現れたのかもしれないと……」
壮年がそう口を滑らせたとき、思わずはっとして振り向いたイークは、隣に佇む親友の横顔がみるみる見たこともない色に染まるのを見た。
あのときエリクの脳裏を支配したのは怒りであったのか、恐怖であったのか。
何せエリクとカミラの父であるヒーゼルが、ナワリの結界をものともせずにやってきた白い魔物とやらに殺されたのは、まだほんの半年前のことだった。
その悲しみからようやくエリクが立ち直りかけていたところにこれかと、イークも内心ひどく動揺した記憶がある。
それでなくとも当時のふたりはまだ、成人して間もない十六歳の子供だった。
だからヒーゼルを殺した魔物が戻ってきたかもしれないと聞いて取り乱した。
特に昔から冷静沈着で、滅多なことでは動じなかったエリクが、
「カミラ──」
と呻くように妹の名を呼び駆け出したとき、イークは黒髪が逆立ち、全身に粟が立ったのを覚えている。
「お、おい待て、エリク、イーク! 戻るなら一緒に……!」
と呼び止める壮年の声を無視して、イークも即座にエリクを追った。
何しろ半年前、ヒーゼルを襲った白い魔物の狙いがカミラだったということは、エリクもイークも族長から聞いて知っていた。ああ、そうだ。今にして思えばあのときからカミラの運命は狂い出していたのかもしれない。そもそも父が自分を守るためにあんなむごい死に方をしたと知ったカミラは一度、壊れた。
心が粉々に砕けて、脱け殻のようになってしまった妹を生かすためにエリクはナワリに頼み込み、カミラの記憶を一部だけ封印する道を選んだのだ。けれどもカミラはそのせいで白い魔物の存在を忘却しており、もしまたやつが現れたのだとしたら無警戒に近づいてしまうかもしれないという危惧がイークたちを駆り立てた。
何故なら族長の話では、魔物は人間と変わらない姿をしていたというから。
だからとにかく前を行くエリクの赤い髪を見失わないように走って走って、ようやく帰り着いた郷で女たちから「カミラは東の森へ採集に行った」と聞かされたときの衝撃は筆舌に尽くし難かった。そこからエリクはまたも郷を飛び出していき、イークも慌ててあとを追った。そして郷を目指して逃げてくるカミラを見つけたのだ。恐怖で泣きじゃくる彼女の背後には、既に何匹もの邪螂蜘蛛が迫っていた。
やつらがカミラに向かって毒針を放ったのは、カミラの名を呼んだエリクが彼女を抱き留めようと手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
「カミラ、しっかりしろ! カミラ……!」
あのとき森中に響き渡ったエリクの悲痛な叫びが、今も鼓膜に焼きついている。
幸いすぐに駆けつけた郷の戦士の中に水術を使える者がいたから、イークたちはカミラに解毒の術をかけながらただちに郷へ引き返した。
されど魔物の毒は凶悪で、当時十歳だったカミラには強すぎた。
それゆえ神術による解毒には限界があり、カミラは七日七晩、高熱を出して生死の境をさまようことになったのだ。郷の医者代わりでもあるナワリから「助かる見込みは五分だ」と言われたとき、イークは目の前が真っ暗になった。
だがエリクが感じた絶望は、自分の何倍も深かったはずだ。
以後、エリクは眠ったまま目覚めないカミラの傍を片時も離れなかった。食事も睡眠もろくに取らず、周りが何度休めと言っても決して首を縦には振らなかった。
たぶん、エリクは恐ろしかったのだ。ヒーゼルが命を落とした夜も、エリクは郷の様子を見てくると言って出ていった彼を追わずに見送った。
結果ヒーゼルは魔物に殺され、エリクは自分も父と共に行くべきだったと──傍を離れるべきではなかったと、心の底から悔いていた。
だから傍を離れたら、カミラも父のようになってしまうのではないか、と。
当時のエリクはそんな不安に今にも押し潰されそうに見えた。
あんなに憔悴したエリクの姿は、誰よりも長い時間を共に過ごしたイークさえ、あとにも先にも見たことがない。
「俺はあの日、父さんと約束したんだ。何があっても必ずカミラを守ると。なのにもしこの子まで失ってしまったら……なあ、イーク。俺はどうすればいい……?」
そう言って肩を震わせていた親友の隣に、ただ座って祈ることしかできなかった夜を思い出していた。
今になって当時のエリクの心中を、ようやく本当に理解できたような気がする。
(俺は母さんも、ヒーゼルさんも、ジャンも、フィロも……本当に大切なものは何ひとつ守れなかった。だから、せめて、あいつとの約束だけは……)
寒さのあまりガチガチと鳴る奥歯を噛み締めて進む。カミラを背に負ったまま、一歩踏み出すのに多大な時間と労力を費やしながら、進む。進む。進む。進み続ける。そうしてカミラを見つけた地点からどれほどの距離を歩いてきたのだろう?
時間の感覚は既に喪失して久しかった。イークが今も吹雪の中で感じられているものは、何度も意識が遠のきそうになるほどのひどい寒さと疲労だけだ。
(夜は、まだ……明けないのか)
もう何刻も何刻も歩き続けているような気がするのに、吹雪が止む気配はない。
そればかりか、もう二度と明けることはないのではないかと思うほど夜が長い。
とにかくこうなってはどこか吹雪を凌げる場所を見つけて避難するより他にないと、イークは岩壁伝いに歩きながら、さっきまで自分たちのいた洞穴のようなものを探していた。ここにゲヴラーやパオロがいたならば、きっと雪洞を掘ってやりすごすべきだと言ったのだろうが、雪を知らぬ土地で育ったイークにはその発想がなかったのだ。されどカミラの道案内によってあっさり手頃な洞穴を見つけた昼間とは違い、大人ふたりが潜り込めそうな穴などそうあるわけもない。
かと言ってカミラは頭を打ったのか額から血を流して目覚めず、彼女の力を借りることも叶わない状況だ。まさに絶体絶命。このままではふたり揃って遭難し、雪に埋もれて春まで誰にも発見されない、などという事態になりかねなかった。
(誰か……頼む……せめて、カミラだけでも……)
崖から落ちた際に全身を打っただけのイークとは違い、カミラは重傷を負っている。頭から血を流しているだけでなく、左腕も折れているようだ。だが先程から時折チカリ、チカリとそのカミラの左手で星刻が瞬いている。おかげでイークは雪に埋もれかかった彼女を見つけ出すことができたわけだが、術者が意識を失っているにもかかわらず神刻が神気を帯びているというのはやはり異常だった。
(……ポンテ・ピアット城の戦いで、カミラが先見をしたときと同じだ。神刻が自分の意思で術者の神力を食らってやがる……いや、あるいはカミラは今も、眠りながら何かを幻視してるのか……?)
どちらにしても、ひとりでに瞬き続ける神刻などというものは気味が悪くて仕方なかった。おかげで先刻ヴィルヘルムが言っていた〝星刻は自我を持っている〟というとんでも話が、ますます真実味を帯びてきて寒気がする。
(だが星刻の望みが本当にカミラを殺して解放されることだとしたら……こいつはなんで居場所を俺に知らせたんだ? この光がなかったら、俺はカミラに気づかず通りすぎてたかもしれない。そうなればカミラは確実に助からなかったはず……)
かくて星刻の願いは叶えられ、めでたしめでたし。晴れて自由の身となった神刻は死体を離れてどこへなりとも飛んでゆける……のではなかったか。だのに星刻はそうしなかった。いや、あるいはヴィルヘルムの話が真っ赤な嘘だったのか?
されど常に他者との間に一線を引き、寡黙で私欲などなさそうに見えるあの男にあんな嘘をつく理由があったとも思えない。
だとすれば彼の仕入れた情報が間違っていただけか? というかそもそもヴィルヘルムは、あれらの情報をどこで、どうやって手に入れた?
もともと謎と隠しごとの多い男だと思ってはいたが、さっきの彼の発言は、まるで未来に起こる出来事をすべて予見しているかのようで──
「うわっ!?」
ところが朦朧としたイークの意識の縁をそんな思考が掠めた刹那、突如星刻の瞬きが激しさを増し、イークの肩から垂れ下がるカミラの手套を貫いて、天を衝かんばかりに噴き上がった。突然のことに驚いたイークは踏み出しかけていた右足の置き場を誤る。そのせいで体勢を崩し、雪の上へ倒れ込みそうになるのを堪えるべく左足を踏ん張った。が、瞬間、ふたり分の体重を受けた足もとの雪がずるりと不穏な音を立てる。と同時にイークの天地が逆転した。
積もった雪に隠れて見えなかったが、実は左側は小さな崖になっていて、そこから滑り落ちるように足を踏みはずしてしまったのだ。
「おっ……わ……!?」
自らの体重によってずり落ちる雪の流れに抗えず、イークは崖から転落した。
と言っても大した高さではないのだが、ちょうど極小の雪崩に巻き込まれたような状態で、落ちた先で雪に埋もれてしまう。
「くっ……そ……このクソ神刻、何しやがる……!」
こっちは既に体力が尽きかけているというのに、嘲笑うかのように瞬く星刻へ悪態をつきながら、イークはどうにかこうにか雪の下から這い出した。
そうしてぜいぜいと荒い息をつきつつ、何とか立ち上がろうとする。
しかし大人ひとり背負っているせいで、なかなか体が持ち上がらない。
カミラの体は何重にも綱を巻き、自分とひと括りにしているから落ちる心配はないのだが、今はむしろ彼女を一旦下ろさねば立ち上がれないような気がする。
だというのに、光源を確保するために手套をはずした右手はもはや凍って指が動かないし、左手も震えて綱をほどけそうになかった。ならばと腰の剣を鞘ぐるみ抜いて雪に刺し、それを支点にしてやっとのことで立ち上がる。
が、本当にもう限界だ。これ以上は体が動かない。吹雪に煽られた母の形見が、今にも引き千切られそうな悲鳴を上げて風に靡いた。その先に結わえつけられた青い羽根を無意識に掴もうとして顔を上げ、そして、気づく。
「あ……?」
──光。そう、光だ。
風に吹かれたカラリワリが示す先、白い闇の向こうに、ぼんやりと浮かんだ光が見える。ほとんど靄のように滲んで頼りないが、確かに光だ。あれは何だ?
そんな疑問が一歩、また一歩と、もう動けないと思っていたはずのイークの足を進ませた。雪に深々と剣をつき、渾身の力を込めて体を運ぶ。
ところがやがて見えてきた光の正体に、イークはしばし唖然とした。
何故なら、小屋、だ。
こんなところに小屋がある。それが目下死にかけているイークの最期を飾る幻でなければ、円筒状に石が積まれた外壁を持つ、平屋建ての小さな小屋が。
イークが目指してきた光は、その小屋の入り口と思しい扉の小窓から漏れたものだった。他の窓は雨戸が閉め切られているが、ある程度雪が積もっても出入り可能な位置に取りつけられた扉の小窓だけは覆いがなく、代わりに嵌め込まれた分厚い硝子の向こうから中の光が漏れているのだ。
そして明かりがともっているということは、小屋の中に誰かいる。そう確信したイークは最後の力を振り絞り、石段を数段登った先にある扉に縋りついた。そうしてドンドンと拳を叩きつけながら、今の自分に出せる最大限の声量で、叫ぶ。
「おい、誰か……誰かいないか! 頼む、入れてくれ……怪我人がいるんだ!」
かくしてしばし叫びながら扉を叩き続けていると、不意に小窓の向こうに見える炎の明かりがゆらりと揺れた。かと思えば鉄の輪がぶら下がった扉の把手が音を立て、ギギィ、と蝶番が微かに軋む。
「……誰だ?」
ほんのわずか開かれた扉の向こう、そこから覗き込んできたのはまったく知らない男だった。歳は恐らく四十がらみで、お世辞にも愛想がよさそうとは言えない。じろりとこちらを見下ろす視線は険しく、突然の来訪者をあからさまに警戒している様子だ。そもそも男には眉がないようで、髪も薄く人相が悪い。が、それについては他人のことをとやかく言えないイークは、男を見上げながらもう一度「頼む」と懇願した。もはや舌も凍って呂律が回らない中、懸命に助けを求めようとする。
「俺たちは、麓から……竜の谷を目指して登ってきた、登山者だ。だが、途中で魔物の群に襲われて、仲間とはぐれた……おまけにこの猛吹雪で、行く宛がない。頼む……礼として渡せるようなものは何もないが、今夜ひと晩だけでも、匿ってもらえないか」
話している間も途切れそうになる意識に喘ぎながら、やっとの思いでそう伝えれば、男は相変わらず無表情にイークとカミラを見下ろした。直後、にわかに扉が大きく開いて、小屋の中で明々と焚かれた暖炉の火が目に飛び込んでくる。
「入れ」
と男は短く言った。が、イークは男がたった三音からなる言葉を言い終えるよりも早く転がり込むように小屋へと上がり、床に倒れた。
不躾だとは分かっていたが、生きようとする本能に理性が抗えなかったのだ。
そうして肩で息をするイークを黙然と見下ろし、男は無言で扉を閉めた。
よく見るとその手には手燭が携えられており、男は閉めた扉に厳重に鍵をかけるや、戛々と靴を鳴らして小屋の奥へと引き取っていく。
「旦那様」
やがて安堵のために急速に遠のいてゆく意識の中で、イークは誰かに呼びかける男の声を聞いた気がした。
「旦那様、夜分に申し訳ございません。只今、山で遭難したと思しい客人が……」
旦那様……〝旦那様〟?
こんな人の寄りつかぬ山に〝旦那様〟などと呼ばれる身分の者がいるのか。
まったく奇妙な話もあるものだと思いながら、しかしイークは両の瞼が疲労の重さに耐えかねて下りてくるのを止められなかった。ほどなく途切れる間際の意識が聞いたのは、近づいてくるふたり分の足音と、先程の男のものとは別の声。
「……なるほど、確かに珍客だ。鄭重にもてなしてやれ」
低く、抑揚がなく、それでいて言葉の底に刃物を呑んでいるような声だった。
されど声の主の姿を確かめることなく、イークの意識は深い闇へと沈んでゆく。




