31.冷たい大地
死屍累々というハノーク語がまさにぴったりだな、とカミラは思った。
森での負傷者の救護と消火作業を終えて、辿り着いた東の原野。
北に鋭く聳える岩山の麓。そこでは既に戦が終わっていた。
枯れ草に覆われた大地には黄皇国兵の亡骸が散らばり、早くもご馳走の山に気づいたカラスの群があちこちで豪華な夕餐にありついている。
屍となった者たちの間を行き来しているのは救世軍の仲間たち。彼らは傾き始めた日の光を背に浴びながら、まだ息のある敵兵を見つけてはその首筋に短剣を差し入れ、サッと引くことで次々と引導を渡していた。
それは敵兵生かさじ、という強烈な憎悪や残虐性から来る行為――ではない。
救世軍にはこのあと、既に息のない敵兵から武器や鎧の類を頂戴するという大事な作業が残されているのだ。
黄皇国では現在、この内乱により国の専売品である鉄の価格が高騰している。だから少しでも組織の経費を浮かせるために、武具は戦場で調達する。
鹵獲した武器や鎧はスミッツが抱える鍛冶場で黄皇国軍の紋章を潰し、あるいは鍛え直して救世軍の所有物とされていた。損壊が激しく使い物にならないものも、鉄屑に変えて再利用したり、鉄の密売人に売り払ったりして無駄にはしない。
その鹵獲作業を安全かつ速やかに行うためには、敵兵の息の根を完全に止めておく必要があるのだった。
頭ではそれを分かっていても、なんて残酷な、と、カミラは初めその光景を直視できなかった。いくらか戦場の経験を積んだ今は、腹の中を掻き回されるようなおぞましさをどうにかこらえて、現実を受け止められるようになったけど。
「あなたがフィロメーナ様ですか」
その作業の進捗状況をギディオンが報告してきた頃。山の方から見慣れない一団がやってきて、その先頭に立った男がそう声をかけてきた。
一瞬、新手の敵勢かと救世軍はどよめいたが、それが誤解だと分かったのは一団の中にパオロの姿があったからだ。
そう、つまり彼らこそが、今回救世軍に助けを求めてきたゲヴラー一味。
現れた一団は全員が男で、だいたい百人くらいの集団だった。皆が襤褸のような衣服を着て、気休め程度の鎧をまとい、げっそりと窶れた姿でそこにいる。
けれどもその中で際立って異様なのが、こちらを見つめる彼らの目。数ヶ月にも及ぶ籠城で見るからに疲労困憊しながら、しかし彼らの眼は炯々として、未だ気力や闘志を失ってはいなかった。
そんな男たちの先頭に立ち、小柄なパオロに支えられている人物がいる。すぐそこにそそり立つ岩壁と同じ色の髪をうなじのあたりで短く結い、口髭を蓄えた男。
恐らくその男こそが、パオロの言っていた元武術師範のゲヴラーなる人物だろう。彼もまたすっかり痩せ衰えてはいるものの、顔つきは毅然としていて隙がない。
「はい。私がフィロメーナです。あなたがゲヴラーさんですね?」
「いかにも。この度のご助力、一味を代表して衷心より御礼申し上げます。話はすべてこのパオロから聞きました。誠に不躾な申し出だったにもかかわらず、こうして我々のために命を張っていただいて、一体どれほど感謝すれば良いのやら……」
ゲヴラーはそう言いながら、フィロメーナに礼を取ろうとしたのだろう。それが途中で膝から崩れ、ガクッとその場に座り込んだ。
それを見たゲヴラー一味が色めき立つ。その中でも一番に取り乱してみせたのはパオロだ。彼はまるで天変地異にでも出会したみたいに跳び上がると、次の瞬間にはゲヴラーの薄汚れた衣服に取り縋って、ガクガクとその体を揺さぶり始める。
「お、親びん! 親びん! しっかりして下せえ! あ、あ、親びんにもしものことがあったら、あっしは、あっしは……!」
「いててて、おいパオロやめろ、やめ……やめろって言ってんだこのバカ!」
「あいたーっ! な、なんで殴るんですかっ!?」
「ちょっとホッとして力が抜けたくらいで、お前がガタガタ抜かすからだ! ったく、なんて顔してやがる。大の男がメソメソしやがって……」
ゲヴラーは心底呆れた様子でそう言うと、隣で顔をぐしゃぐしゃにして泣いているパオロの顔をぐいっと拭った。よほどの力で拭われたのだろうか、「いででで」と仰け反ったパオロの鼻は更に真っ赤になっていて、こう言っちゃ悪いが醜男ぶりに磨きがかかっている。
けれどもカミラはそんな二人のやりとりが何だか微笑ましく、つられてちょっと笑ってしまった。
そう言えば以前、パオロはゲヴラーに〝歳の離れた弟か息子のようにかわいがってもらった〟と言っていたが、今の二人の様子はまさにそんな感じだ。
ゲヴラーはしゃんとしていれば四十がらみの偉丈夫で、元々は町で武術の道場を開いていたというのも頷ける、何とも頼り甲斐のありそうな男だった。
他方、小柄で挙動不審で見るからに頼りないパオロは、ゲヴラーと並ぶとカミラが知る彼より一回りも二回りも小さく見える。これでもうちょっと若かったら、確かに実の父子と見紛う二人だっただろう。
「ですがまずは、皆さんご無事で何より。ゲヴラーさんも私たちが心配していたよりお元気そうで安心しました」
「いや、この度はまっことお恥ずかしいところをお見せしました。ですがまさか本当に救世軍が駆けつけて下さるとは……正直なところ、いかな聖女と名高いあなた様が率いる軍と言えど、山賊なんぞやって食ってる我々にまで慈悲を垂れていただけるとは夢にも思っていませんでした。どうやらあなた様は、噂に聞いていた以上のお方のようだ」
「それは買い被りです、ゲヴラーさん。私が今ここにいるのは、あなたを救いたいというパオロさんの熱意に動かされたからです。そしてそれは、あなたのこれまでの行いが積み重なった結果でもある。つまりあなたを救ったのは、あなた自身ということ」
この国に、あなたのような人がもっとたくさんいてくれれば良かったのですけれど。そう言ってうっすらと微笑んだフィロメーナの表情に、ゲヴラーたちは束の間言葉を失ったようだった。
彼らは呆気に取られたように、それでいて食い入るようにフィロメーナを凝視したまま、ぽかんと口を開けている。
――まあね。無理もないわよね、とカミラは思う。
だってカミラにも見えるのだ。フィロメーナの背後から地上に注ぐ美しい光が。
いや、それは言うまでもなく西から射す夕日の光なのだけれど、それどもカミラにはそれがフィロメーナ自身の発する光のように思えてならなかった。
茜色に染まった太陽は煌めく輪郭でフィロメーナを包み込み、まるで彼女を天から遣わされてきた天使か何かみたいに見せる。
(あれで羽が生えてたら完璧なんだけど)
なんて思いながら、カミラはじっとフィロメーナの背中に目を凝らした。そうしていればそのうち本当に天使の羽が見えるような気がして、フィロメーナが知ったら叱られると分かっていても、そうせずにはいられない。
――だって本当に羽が見えたら、さすがのイークもちっぽけな意地だとか見栄だとか、そんなものにかかずらっていられなくなるじゃない?
と、そんなことを考えたところで、カミラは気づいた。
そう言えばそのイークは今どこにいるのだろう? 確か先程、残兵狩りに勤しむ仲間たちの間に、ちらりと青い後ろ姿が見えたような気がしたのだけれど――
そう思って振り向いたところで、カミラは息が止まった。
目の前。
振り向いたカミラの目の前に、誰かいる。
顔は判然としない。西日で半分影になっているせいもあるが、それ以上に。
血まみれだ。顔も身にまとった革の鎧も。
革の鎧。その胸元。
天に吼える黄金竜の紋章。
その竜がカミラに向かって迫ってきた。先程森でイークの神術を喰らったときみたいに、すべての動きがゆっくりに見えた。
元々至近距離にいた血まみれの兵士が踏み込んでくる。
その手には剣。こちらも例によって血まみれの。
――そうか。
刹那、カミラは理解した。
彼は黄皇国兵の生き残りか。
死んだふりをしていたか、あるいは負傷して気を失っていたかのどちらかで、今ようやく息を吹き返し、目の前にいる敵を見つけた。
だから斬りかかってくる。雄叫びを上げて。
血の赤と影の黒に染まった眼窩の奥から、獣のようにカミラを見据えてくる、血走った瞳。
「――カミラ!」
どこからかイークの声が聞こえた。と思ったときにはカミラも瞬時に鞘走り、思いきり振り抜かれた相手の剣を受け止めた。
ガギンッと鉄と鉄の噛み合う音がして、カミラは微かに顔を歪める。
――重い。手が痺れる。ウォルドの大剣でも受け止めたみたいだ。弾かれる。
「うぉあぁああぁあぁぁああぁあぁあっ!!」
相手の黄皇国兵は、もう見るからに破れかぶれといった様子だった。仮に彼がつい先程までそこで死んだふりをしていたのだとして、それがこの場を生き残る唯一の方法だと信じて縋った、なのに憎き反乱軍はそんな希望の芽を潰すように倒れ伏した敵兵の首を一つ一つ狩り始めた、それを知ったときの彼の絶望が、重すぎるほどの絶望がその剣には乗っていた。
絶叫した黄皇国兵は血の雫を迸らせ、二合、三合、四合と息つく間もなく攻めかかってくる。
カミラはそれに応戦した。というか、応戦するだけで精一杯だった。
――なんだこれは。
ゾッと背筋を恐怖が舐める。
今、目の前で吼え猛りながら剣を振り回しているこれは果たして人間か?
そうとは思えぬほどの怨念。妄執。狂気。
それらが相手の血と汗と共に爆ぜながらカミラに襲いかかってくる。
重い。重すぎる。――受けきれない。
剣を握った左手がビリビリする。上手く力が入らない。
「――ね、死ね、死ね、死ね、死ねぇっ!! 反乱軍なんて全員死んじまえ!!」
「……!」
「帰る、おれは帰るんだ!! エリーザのところに……!!」
カミラの息が詰まった。瞬間、甲高い音がして、細身の剣が頭上高く放り出された。下段からの斬り上げ。それを受けた刹那、ついにカミラの握力が限界を迎えたのだ。
まるで誰かの生き血でも啜ったみたいに、真っ赤に染まった敵兵の唇が吊り上がった。
狂気を帯びて見開かれた瞳が、真正面にカミラを捉える。
「死ね」
――そうだ、神術を。
思ってからすぐに、カミラは自分の神力が空であることを思い出した。
思い出したときには、敵兵の体側に深く引きつけられた凶刃が、カミラ目がけて一直線に突き出してくる。
あ、これは駄目だ。
カミラはそう思った。
それはもうほとんど確信だった。
避けられない。
これは、この一撃だけは、
「カミラ……!!」
真っ白になった頭の中に響いたその声は、果たして誰の呼び声であったのか。
気がつくとカミラの体は背中から宙に投げ出され、そのまましたたかに地面へ腰を打ちつけた。
本日二度目の痛撃。カミラは腰骨に走った痛みに思わず悲鳴を上げかけて、
「あ――」
そう息をついたきり、声を失った。
残照を浴びて閃く刃。
それがカミラの目の前に突き出している。
剣先から血が滴った。
それを見て、カミラは茫然と視線を上げた。
そこに見えたフィロメーナの背中から、銀色の切っ先が生えている。
次にカミラの意識が戻ったのは、鬼の形相をしたイークが背後から敵兵の首を刎ね、膝から崩れていくフィロメーナを抱き留めたときだった。
意識が戻った、とは言っても、気を失っていたわけじゃない。
ただただ頭の中が真っ白になって、意識がどこかに飛んでいた。おかげでカミラはイークとほぼ同時に駆けつけたアルドが何度も自分の肩を揺すっていることに、そのとき初めて気がついた。
「――ラさん、カミラさん! しっかりして下さい! お怪我は……!?」
「あ……るど、私、は、大丈夫……でも――」
――でも、フィロが。
そう続けたかったのに、言葉は声にならなかった。それを声に出して言ってしまったら、自分の体がほろほろとほどけて泡のように溶け消えてしまうような、そんな気がして恐ろしかったから。
「フィロ! おい、フィロ、しっかりしろ! 水術兵……!」
すぐそこでフィロメーナの体を抱きかかえたイークが、声を枯らして叫んでいる。原野は瞬く間に恐慌状態に陥った。
総帥であるフィロメーナが凶刃にかかったと知った仲間たちは大騒ぎで、皆が我を失い、思い思いに悲鳴を上げたり、泣き崩れたり、喚き散らしたりしている。
「おい、お前ら取り乱すな! フィロはまだ死んだわけじゃねえ! 手が空いてるやつは残兵狩りを続けろ……!」
遠くでそんな怒号がしていた。動揺する兵たちを叱りつけているのはウォルドだ。こんなときに残兵狩りを続けろ、なんて、ずいぶん冷酷な指示を出している。
「おい、誰か! 治癒術を使えるやつは早くしろ!」
「……イーク、落ち着いて……私なら、大丈夫、だから……」
そのときイークの腕の中から声がして、彼がはっと振り向いた。そこでは薄目を開けたフィロメーナが、イークに支えられながら微かに笑ってみせようとしている。
けれども途端に何かがこみ上げてきたようで、彼女は腹部を抑えると苦しそうに咳き込んだ。
血の気の引いた唇が鮮血に染まる。それを見たイークが血相を変えた。
「馬鹿、喋るな! すぐに治療してやるから待ってろ!」
「それは、ぜひ……お願いしたいのだけど……残兵狩りの手を……休め、ないで……じゃないと、また、誰かが襲われて……」
「他人の心配なんかしてる場合か! 今は自分が助かることだけ考えてろ……!」
そう叫んだイークの声は悲愴に震えていた。カミラでさえイークのあんな声は聞いたことがない。
ほどなく水刻――数ある神刻の中でも治癒術に特化した神刻だ――を使える兵が数人やってきて、フィロメーナを囲むようにしゃがみ込んだ。
その円陣の中から青白い光が漏れて、フィロメーナの治療が始まったのだと分かる。彼女の意識をつなぎ止めるためだろうか、その間もイークはしきりとフィロメーナに語りかけ、そんな一同の様子を皆が固唾を呑んで見守っていた。
そうしてどれほどの時間が流れただろうか。
西日が稜線の彼方へ沈み、ついに夕闇が世界を覆い始めた頃、小さな円陣の中から漏れていた神術の光が静かに消えた。
原野に静寂が満ちている。
皆が声を飲んで副帥の次の言葉を待っていた。
「イークさん」
「……大丈夫だ。傷は塞がった」
やがてアルドの問いかけにイークが答え、あちこちから歓声が上がった。安堵の息をついた仲間たちは互いに抱き合ったり感泣したりしながら、総帥の無事を喜び合っている。
「して、容態は?」
ほどなくそんな兵たちの間を縫ってやってきたギディオンが、イークに支えられたままのフィロメーナを見下ろして尋ねた。
傷は塞がった、とイークは言ったが、問題のフィロメーナは地に体を横たえたまま動かない。微かに呼吸はしているようだけれども、カミラの位置からはそれさえも不確かだ。
「今は気を失ってる。それにこの出血だ。しばらくは安静にさせないと、安心できない」
「――ならば我々の砦にお越し下さい」
と、そこで輪の外から不意に声が上がった。皆が揃って振り向くと、その先には百人のならず者――もとい門弟を率いたゲヴラーがいて、真剣な顔つきで救世軍の面々を見つめている。
「先刻まで地方軍の攻撃を受けていた陋屋ではありますが、雨風くらいは凌げます。先程の貴軍の奮戦で地方軍はかなりの痛手を負ったはずですし、すぐに取って返してくるということはないでしょう。問題は北の中央軍だが……」
「案ずることはない。皇女殿下が地方軍の敗走を知る前に、我が軍の兵は逐電させる。さすればこちらは身軽だ。殿下の索敵を掻い潜り、逃げおおせることも可能であろう」
答えたのはこの事態にあっても泰然としたギディオンだった。元々軍属だったということで、ゲヴラーも彼とは何か通じるところを感じたのだろう。その言葉を聞くと重々しく頷いて、背後に控えた門弟たちに声をかける。
「おい、野郎ども。お前たちも救世軍の最後の一仕事に手を貸せ。何人かは先に砦へ戻って、お歴々を迎える準備を。砦の麓に残った地方軍の陣から使えそうな物資をありったけ運び込んどけ」
ゲヴラーが慣れた様子で飛ばした指示に、男たちが「応!」と勇ましく答えた。彼らはあれだけ過酷な籠城戦を経たあとだというのにキビキビ動き、棟梁であるゲヴラーの指示に従っている。
夕闇が濃さを増してきた。やがて残照さえも地平の先に呑み込まれ、夜が訪れるのも時間の問題だ。
そうしてすべてが闇に塗り潰される前に、ギディオンらは兵たちへ次々と号令を飛ばしていた。
けれどもカミラは冷たい大地に座り込んだまま、動けない。