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326.過去からの刺客


 実を言うと、ルミジャフタには滅多に魔物が出ない。

 あの郷を中心とするグアテマヤンの森の一部には古くから太陽神の巫女(ナワリ)(つむ)ぐ結界が張り巡らされていて、邪悪なものが一切近づけないようになっているのだ。

 それは人も魔物も問わず、郷に危害を加える意思のある者が結界内へ入ろうとすると、迷う。迷って迷って、ついには森の奥深くまで入り込んでしまい、人ならば大抵の場合森の獣や人食い植物、あるいは底なし沼の餌食となる。


 同じ要領で、魔物もほとんどの場合は諦めて退散するのだが、あまりにしつこく森に居座るものがあれば郷の戦士(おとな)たちが討伐に行く。だから幼く戦士でもなかったカミラは、(とお)になるまで魔物というものを見たことがなかった。存在こそ大人たちから聞かされて知ってはいたものの、よほど大きな群でもない限り老練の戦士たちがたやすく撃退してしまうので、大した脅威とも感じていなかったのだ。


 ところが父を亡くして間もない頃のこと、カミラは郷の大人(おんな)たちに連れられて森へ採集に行ったとき、突然見たこともない生物に襲われた。

 全身真っ黒で獣に似た毛皮を持ちながら脚は八本。胴体はまさしく蜘蛛(くも)なのに、頭部は人のそれにそっくりで、なのに目玉はひとつしかない。

 おまけに前脚とでも呼ぶべき最前列の二本は長く巨大で、人間など一瞬で両断してしまえそうな鋭利な鎌の形をしていた。


 その禍々(まがまが)しい姿の生き物こそ〝魔物〟と呼ばれる人類の天敵(てき)だと知ったのは、やつらに毒針を打ち込まれ、七日七晩生死の境を彷徨(さまよ)ったあとのことだ。巫女(ナワリ)の結界で守られていたはずの森に、どうして魔物が出没したのかは分からない。

 ただ今も確かに言えることは、やつらは無防備な人間(えもの)の姿を見つけるなり狂喜して襲いかかってきた。カミラは一緒にいた大人たちが口々に「逃げろ」と叫ぶのを聞いて、恐怖のあまり何度も(つまず)きながら他の子供たちと一緒に逃げた。

 逃げた。逃げた。けれどもやつらは追ってきた。

 どこまでもどこまでも、次第に散り散りになってゆく他の子供には目もくれず、まるでカミラの赤い髪に呼び寄せられているかのように。


「たすけて……たすけて、お父さん……!」


 当時とっさに叫んだのが、どうしてとうに死に別れた父の名だったのかは自分でも分からない。ただ、あの日──父が賊に襲われて命を落とした日、最後に目にした彼は笑顔で確かにこう言っていたのだ。


『大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい……カミラのことは、父さんたちが必ず守ってやるからな』


 と、大きくて温かな手で、何度もカミラの頭を撫でながら。


(だから、お父さん。お父さん、お父さん、お父さん、お父さん──)


 と、カミラは恐怖に支配された頭の中で必死に父を呼び続ける。

 だって、大丈夫だって言った。守ってくれるって。

 なのにここには父がいない。兄もいない。族長(トラトアニ)巫女(ナワリ)も勇敢な郷の大人たちも。

 ただひとり、イークだけが今もカミラの視線の先で、


「──カミラ、しっかりするんだ!」


 苦しい。息が苦しい。

 呼吸はできているはずなのに、どれだけ息を吸っても足りない。おかげであの日の記憶と感情とが無秩序に錯綜し、今にも意識が混濁しそうだと思っていると、不意に肩を揺さぶられた。はっと我に返ってみれば、明滅する視界の向こうにジェロディの顔が見える。すぐ隣で悲鳴を上げているのはパオロだろうか。ここは?

 ああ、そうだ。グアテマヤンの森じゃない。竜牙山(りゅうがざん)の中腹にある洞穴だ。

 しかも、寒い。ひどく寒い。全身(からだ)の震えが止まらない。

 壁を背にして座り込み、意識を保っているだけで精一杯だ。こんなに寒くて苦しいのなら、いっそ気を失ってしまえた方がどんなに幸せだろうか。


「ティ……ティノ、く……わ、わた……私……っ」

「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いてまずはゆっくり呼吸するんだ。君のことは僕たちが守る。だから怖がらなくていい」

「で、も……でも……っあいつら、毒を持ってて……ラルナおばさんも、ニカお姉ちゃんも……みんな、あいつらに、生きたまま食べられて……!」


 当時の記憶が鮮明に思い出されれば思い出されるほど、カミラの呼吸は弾んでゆく。ひゅう、ひゅう、と異音を立てる肺も、ぼろぼろと溢れて止まらない涙も、すべてが凍りついていく。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 まるで七年前の出来事が今、目の前で再び繰り返されているみたいだ。


 魔物の毒針に刺され、泡を吹いて痙攣(けいれん)するニカ。八本の脚に押し倒され、肉を食い千切られながらも子供たちに向かって「逃げなさい!」と叫び続けたラルナ。

 自分は彼女たちを助けることができなかった。ただ言われるがままに背を向け、逃げた。見殺しにした。助けられたかもしれないのに。兄たちと共に剣術を習い始め、母の形見である火刻(フレイム・エンブレム)も受け継いでいた自分ならば──


「カミラ……!」


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 気づけば頭を抱え、取り憑かれたようにそう呟き続けるカミラを俄然(がぜん)、人の体温が包み込んだ。ジェロディ。彼はカミラの全身を覆う震えを封じ込めようとしているみたいにぎゅうと強く、強くカミラを抱き締めてくる。


「カミラ、お願いだ。これ以上、ひとりで苦しまないでほしい」

「ティ……ティノく……」

「君が僕を助けるとマリーに誓ってくれたように、僕も……僕たちも君を助けたいんだ。だから……!」


 耳もとでジェロディの声がする。蹴り飛ばされた(まり)みたいに暴れ回っていた心臓が、規則正しい拍動を刻むジェロディのそれと重なる。すると不思議なことに、カミラの鼓動もジェロディの心音と次第に歩調を合わせ始めた──温かい。

 おかげで凍えていた全身も、少しずつ震えが治まってきた。ああ、そうだ。自分はもうあの頃の無知で無力なカミラじゃない。まだまだこの手から零れ落ちてゆくものはたくさんあるけれど、三つか四つにひとつくらいは守れるようになった。

 そして今、自分が最も守らなければならないのが彼だ。


 ジェロディ・ヴィンツェンツィオ。

 己のすべてを(なげう)って、カミラの大切なものを守り続けてくれる人。

 そう思ったら、やっと少しばかりの冷静さが戻ってきた。過去の幻影で塗り潰されていた視界も正常さを取り戻し、狭い洞穴で魔物と戦う仲間の姿を映し出す。

 邪螂蜘蛛(シュルガモール)。あれはそう呼ばれる魔物だ。

 ヴィルヘルムがひとりで引き受けている半人半虫の魔物の方は知らないが、先刻から時折魔族語で話しているところを見るに知性ある魔族だろう。


 とはいえやつには翼もなく、角もない。以前ヴィルヘルムから、格の高い魔族というのはみな翼と角を備えているものだと教わった。

 ということはあいつはせいぜい下級魔族だ。かつてどこかの森で戦った処刑獣(ツァーリ・サバーカ)のように無知性の魔物を()べる力は持つが、魔術はほとんど使えないに違いない。


(戦わなきゃ。私も……)


 いつまでも震えているわけにはいかない。

 今、カミラたちの両肩にはトラクア城で待つ救世軍(なかま)の未来が乗っているのだ。

 だから、立ち上がらないと。

 その勇気をもらうべく、カミラも一度だけぎゅうとジェロディを抱き返した。


「ありがとう、ティノくん……私──」

「──ヒッ、ヒィィ! ぐ、ぐ、軍主さま、後ろっ、後ろォ!」


 ところが刹那、カミラの言葉を遮って縮み上がったパオロが絶叫した。

 見れば新たに崖を()()がってきた邪螂蜘蛛が前線にいる仲間たちの隙を()き、ジェロディ目がけて突っ込んでくる。


「くそっ……!」


 されど気づいたジェロディが身を(ひるがえ)し、剣を抜き放ったのとほぼ同時に、走り寄る邪螂蜘蛛の口がガバリと開くのをカミラは見た。

 瞬間、全身に粟が立ったのは、あの(うごめ)く牙の奥から鎌よりも凶悪なやつらの武器──毒針が飛んでくることを知っていたからだ。


「ティノくん、止まって!」


 ゆえにカミラは今にも敵に向かって踏み込もうとするジェロディを引き止めた。

 そしてすぐさま左手の星刻(グリント・エンブレム)を閃かせ、彼の眼前に時裂の盾(シャオン・ペレツ)を展開する。

 そこに大人の人差し指ほどはあろうかという長さの毒針が飛んできて、文字どおりジェロディの目と鼻の先で静止した。時空の亀裂に時を奪われた毒針の時間を、カミラはすかさず巻き戻す。すると針は矢のような勢いで再び魔物の口へと吸い込まれ、いきなり喉の奥へと突き立った毒針に邪螂蜘蛛どもが吹っ飛んだ。


「……! か……カミラ、その力は……」

「大丈夫、神力は回復してる……私も戦えるわ」

「い、いや……そうじゃないんだ。カミラ、君は……」

「ぐ、ぐ、軍主さま、また来ますよォ!」


 と、ジェロディが何か言いかけたところへまたパオロの悲鳴が聞こえて、ふたりははっと我に返った。振り向いた先では彼の言うとおり、一度は吹っ飛んだ毒蜘蛛たちが再びくるりと起き上がり、威嚇の声を上げている。


「ああ……やっぱり、あいつらに自分の毒は効かないみたい」

「どうやらそうみたいだね。カミラ、君は下がって火術で援護を……」

「いいえ。私も……やるわ」


 正直、あの日の恐怖が完全に消えたわけではない。

 おかげで剣を抜いた手は今も情けなく震えている。それでも。


(それでも、私は……ティノくんを失うことの方がもっと怖い)


 だから戦える。いや、戦わなくてはならない。

 七年前、誰も救えなかった自分と訣別するのだ。そして証明してみせる。

 今の自分は救世軍のカミラなのだと、他の誰でもない、自分自身に。


「おい、ヴィルヘルム! あんた、いつまでそんな下級魔族(ザコ)に手こずってる!? ()()()()を呼び寄せてるのはそいつだ、さっさとたたんじまえよ!」

「簡単に言ってくれるがな、女螂蜘蛛(パウガモール)は迂闊に斬り殺せば腹から大量の子蜘蛛が放出される。()るなら焼き殺さなければ無理だ!」

「ならば、ワレワレが忍術デ……!」

「いいえ、私がやるわ!」


 ほどなく先程の邪螂蜘蛛を蹴散らして前線に飛び込んだカミラは、右手の火刻に神力を集中させた。女螂蜘蛛。どうやら体の大きさが犬ほどもある邪螂蜘蛛よりさらにふた回りほど大きいあの化け物は、そう呼ばれる魔族らしい。


「カミラ、お前……!」

「平気。私も戦うから……!」

「……本当にやれるんだな?」

「うん!」

「分かった。ならアレは俺とヴィルヘルムで足止めする。一撃で決めろ。他の連中はカミラの援護を!」


 イークがそう言って駆け出したのと入れ替わるように、シズネら諜務隊(ちょうむたい)がカミラの脇を固めた。周囲ではオーウェン、ゲヴラー、ジャックも懸命に邪螂蜘蛛の群を足止めしている。やらなくては。そう念じたカミラがさらに火刻へ神力を集めると手套(しゅとう)の下で右手が輝き、暗い洞内を照らし出した。


 その間にも女螂蜘蛛はイークとヴィルヘルムを相手に大暴れしている。両腕の巨大な鎌を振り回し、口から粘性の糸──いや、違う。あれはただの糸ではない。何故なら色がヘドロのようで、地面に落ちるとジュウッと肉の焼けるような何とも不吉な音がする──を吐き出しながら、どんどん洞の奥へと踏み込んでくる。


 ところが振り下ろされた鎌をイークが剣で受け止めた刹那、今だとばかりに口角を上げた女螂蜘蛛がもう一方の鎌を振りかぶった。

 次の瞬間、あっと息を呑んだカミラの視線の先で剣光が走る。

 ヴィルヘルムの振るった宝剣(シュトゥルム)だった。彼はイークに気を取られた魔族の一瞬の隙を衝き、今にも振り下ろされようとしていた鎌を根もとから斬り飛ばした。

 途端に耳を(つんざ)くような女螂蜘蛛の絶叫が洞内に(とどろ)(わた)る。


「カミラ、今だ!」


 ヴィルヘルムの合図を受けたカミラの周囲で神気が逆巻き、赤い髪が生き物のごとく揺らめいた。この山で派手な神術を使うのはご法度(はっと)だと事前に言われたような気もするが構わない。


 どうせ今夜は吹雪のせいで、大人しくしていたって雪崩は起き放題なのだから。


焔の神よ(テオ・エシュ)不浄なる(パヌ・サ)魔のものどもを(キュラ・クァン)汝の光にて(・クァハナ)焼き浄めよ(・ラルウェイ)──天沖火(サラフ・アシェラ)!」


 直後、女螂蜘蛛の巨体を囲むような光の円が大地に生まれ、イークとヴィルヘルムが跳びのいた。一拍ののち、円陣から噴き上がった神気が真紅の炎となって一本の巨大な火柱を生む。

 逆流する炎の滝に呑まれた魔族の絶叫がまたも山に(こだま)した。やがて火柱が治まっても女螂蜘蛛の全身は燃え続け、火の玉となって悶え苦しんでいる。


「シュトゥルム」


 と、自らの愛剣の名を低く呼んだヴィルヘルムの手の中で、シュトゥルムの(つば)に埋め込まれた緑色の宝石が美しく閃いた。かと思えばたちまち生まれた可視の風が巨大な空気の(つち)となり、正面から魔族に激突する。

 弾き飛ばされた女螂蜘蛛の八本脚が地を離れ、宙へと浮き上がった。

 そうして炎をまとったまま、真っ逆さまに崖から落ちていく。


「よっしゃあ! あとはこいつで──(しま)いだ!」


 ほどなく登山用に帯びてきた長剣を振り上げたオーウェンが、最後の一匹となった邪螂蜘蛛を叩き斬った。ビシャリと黒い血が飛沫(しぶ)き、赤い目ごと頭部を()()られた魔物の体が沈む。ものの一刻(一時間)足らずの戦闘だったものの、カミラには二刻にも三刻にも感じられた時間がようやく終わった。

 おかげで緊張の糸が切れ、思わず足から力が抜ける。そのままふらふらと座り込みそうになったところを、横からシズネに支えられた。


「カミラさん、大丈夫デスカ?」

「え、ええ、ありがとう、シズネ。ごめん、なんか安心したら力が抜けちゃって」

「いや。よくやった、カミラ。諜務隊が忍術に使う符には限りがあるからな。やつを神術で一気に焼き殺せたのは大きかった」

「うん、私もそう思ったから名乗り出たのよ。ここまで私の神力を温存するためにたくさん符を使わせちゃったから、残りはいざってときのために残しておいてほしくて……と言ってもティノくんがいなきゃ取り乱したまま、何もできなかったと思うけど」

「僕?」


 そこで唐突に名前を呼ばれたジェロディが、至極不思議そうな顔で自らを指差した。まるで自分が何か特別なことでもしただろうか、とでも言いたげな表情だ。

 それが可笑(おか)しくてカミラはつい笑ってしまった。

 まったく、彼にはまるで自覚がないらしいから困ったものだ。カミラたちに戦う勇気をくれるのはいつだって、ジェロディの言葉や存在だというのに。


「ヒヒヒ、いやぁ、確かにおふたりとも、あんな状況だってのにずいぶんお熱かったですもんねぇ。あっしはいつ後ろからバケモノに襲われるかとヒヤヒヤしっぱなしでやんしたのに、周りのことなんざまったくお構いなしで」

「い、いや、あれはカミラに落ち着いてもらうためにしたことで、別にそういうわけじゃ……」

「そ、そうよ。私も自分じゃどうにもできないくらい怖かったんだからしょうがないでしょ。ていうかみんなが必死に戦ってる間、ずっと奥で震えてるだけだったあなたにだけはとやかく言われたくないんだけど?」

「おぉ、怖い怖い。(きじ)も鳴かずば何とやらってやつでやんすかね、ヒヒ、ヒヒヒ」


 とパオロがただでさえくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑うので、カミラは何だか居心地が悪かった。おまけに心なしか頬が熱いような気がして、それを皆に(さと)られまいと思わずふいとそっぽを向く。されどその刹那、ぼとり、と。

 突然カミラが背を向けた先から、何か不穏な音がした。

 何の音かと振り向けば、途端に目に飛び込んできた光景にカミラは息が止まる。


「ティノくん!!」


 そいつらはジェロディの真後ろに、天井から降ってきた。恐らくは戦闘のどさくさにまぎれて壁を登り、天井に張りついて息を潜めていた邪螂蜘蛛だ。数は三。

 うち一匹がすかさず牙を開き、無防備なジェロディの背中目がけて毒針を発射した。が、命中の寸前、とっさに彼を突き飛ばした影がある。最も近い位置にいた諜務隊士だ。毒針は口布で顔を覆った彼の右肩に突き立った。

 倒れ込んだ彼の名を叫び、シズネが駆け寄る。だがダメだ。

 あの毒は一瞬で全身に回る。すぐに針を抜いて時間を戻さないと。しかしカミラが駆け出そうとした瞬間、三体の邪螂蜘蛛も同時に動き出す。やつらの狙いは突き飛ばされた拍子に体勢を崩し、地面に腰をついたジェロディただひとりだ。


「くそっ、こいつら……!」


 と、鞘に戻しかけていた剣を再び振り抜いたオーウェンが、魔物の進路を塞ぐように駆け寄って一匹を斬り伏せた。さらにもう一匹をゲヴラーの鎌槍が貫き、残る一匹もジャックが仕留めようとする。けれども剣を突き出す寸前、ジャックは「おわっ!?」と悲鳴を上げて跳びのいた。何故なら最後の一匹もまた駆けながら牙を開き、ジャックに向かって毒針を射出したためだ。対するジャックはすんでのところでそれを回避したものの、おかげで邪螂蜘蛛の行く手はがら空きになった。

 さらに魔物は斬りかかった諜務隊の刀をひらりと(かわ)し、投擲(とうてき)された暗器が尻に刺さったところで気にも留めずに、猛然とジェロディへ突っ込んでいく。


「ジェロディ様……!」


 すべてはほんの数瞬の出来事だった。最後に横合いから踏み込んだヴィルヘルムの一撃をも予期したようにビョンッとすさまじい跳躍を見せた邪螂蜘蛛が、そのまま鎌を振り上げてジェロディへと襲いかかる。魔物にも執念というものが存在するのなら、まさしくあれがそうだろう。誰もがそんな風に思った刹那、立ち上がるのが一拍遅れたジェロディと魔物の間にカミラは自らの体を滑り込ませた。

 そうして素早く構えた剣で邪螂蜘蛛の鎌を受け止める。ところが空中から落下の勢いを駆って振り下ろされた鎌の力は、カミラの想像を超えていた。

 何とか踏ん張ろうと思ったものの、両足がザザザッと岩の上を滑ったあげくに体勢を崩し、そこへ降ってきた魔物の本体に体当たりの要領で巻き込まれる。


「カミラ……!」


 相手の体重を支え切れず、後ろ向きに倒れたカミラの外套(がいとう)に、小さな(とげ)がいくつも生えた邪螂蜘蛛の脚が引っかかった。

 おかげで吹っ飛んでいく魔物の体に引っ張られ、カミラもまた地面を転がる。

 一瞬ののち、カミラが全身で感じていた硬い岩の感触が消えた。代わりに肌を包み込んだのは叩きつけるような吹雪の冷たさと、冗談のような浮遊感。


「あ、」


 と、思わず声を上げたとき、カミラは魔物と共に崖から投げ出されたのだと知った。愕然とする仲間の姿が、あっという間に白い闇の向こうへ消える。

 いや、まだだ。今ならまだ時戻しの術を使って自分の時間を巻き戻せば──そう思って宙に(かざ)した左手は、虚しく風を掴んだだけだった。星刻が、反応しない。


「どうして──」


 思わず零れたカミラの言葉は、瞬く間に吹雪に呑まれた。


 あとには星ひとつない、白と黒の闇が広がるばかり。


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