325.呪いは解けない
その夜、竜牙山はカミラの予言どおり、猛烈な吹雪に見舞われた。
雪が降り出したのは皆が昼食を終えた頃だったが、まだ日も高いうちからあたりが暗くなり、吹雪でほんの半枝(二・五メートル)先も見えなくなってしまったあの光景はまさしく〝白い闇〟だ。以後時間と共に風雪はますます荒れ狂い、ジェロディたちは避難先の洞穴から一歩も外に出ることが叶わなくなった。
今頃山のあちこちでは、カミラが予言していた雪崩が起きているのかもしれないが、吹き荒ぶ風の音が激しすぎて他には何も聞こえない。
(カミラは……よく眠ってるな)
懐中時計を取り出して確認してみると、時刻は既に境神の刻(二十一時)過ぎ。
洞内では明々と火が焚かれ、傍では毛布を体に巻きつけるようにした仲間たちが銘々眠りに就いていた。中でも慣れない登山に加え、ここまで神力を消耗し続けてきたカミラはよほど疲れていたのか、熟睡して深い寝息を立てている。
昨夜は例の雪崩の予知夢を見て跳ね起き、以後ほとんど眠れずに夜を明かしたのだろうから、今夜くらいは彼女が悪夢に魘されることがないようにと、ジェロディは祈らずにはいられなかった。
(それにしても……イークは本当に休まなくて大丈夫なのかな)
と、ときにジェロディは洞穴の入り口へ目を向ける。そこには岩壁を背凭れ代わりに座り込み、先程からじっと外を眺めているイークの姿があった。
彼は今から一刻(一時間)ほど前、急に起き出してきたと思ったら、
「目が覚めちまったから見張りを代わる」
と、不寝番をしていた諜務隊士に声をかけたのだ。とはいえこんな吹雪の中では正直見張るものなど何もないし、神子の力で眠る必要がないジェロディもいる。
ゆえにそろそろ休んではどうかと声をかけるべきか否か、ジェロディは先刻から考えあぐねていた。
が、そのとき不意に衣擦れの音がして、奥で誰かが体を起こした気配がある。
「ヴィルヘルムさん」
イークに続いて寝床を出てきたのはヴィルヘルムだった。
彼は焚き火の傍に座ったジェロディへちらと一瞥をくれると、次いで皆から少し離れた場所に座っているイークを見やる。
「……ジェロディ。カミラは?」
「ぐっすり眠ってます。さすがに疲れてたみたいで、多少の物音程度じゃ起きないくらいには……」
「そうか。ところで、湯はあるか?」
「はい。ちょうどさっき沸かして、火から下ろしたばかりのものが」
「ではそれをもらうとしよう」
さすがのヴィルヘルムも雪山の寒さは応えたのだろうか。そんな風に思いながらジェロディはマグを手に取り、まだほとんど冷めていない湯を注いだ。そうしてすぐに差し出せば、ヴィルヘルムは短く礼を述べて受け取り、早速マグへと口をつける──かと思いきや、にわかに立ち上がってすたすたとどこかへ行ってしまう。
(えっ?)
と驚いたジェロディは思わず彼を目で追った。するとヴィルヘルムはイークへと歩み寄り、何事か声をかけている。吹雪の音がひどすぎてふたりの会話は聞き取りづらかったが、ジェロディは神の聴力を駆使して耳を澄ませた。盗み聞きなどするべきではないと分かっていても、つい好奇心の方が勝ってしまう。
「──だから何ともないって言ってるだろ」
「嘘をつくな。ソルン城であれほどの重傷を負ったあとに、さらに大量の血を流したんだぞ。今も体がつらすぎて逆に眠れないんだろう?」
「だとしても、あんたらに迷惑はかけてないはずだ」
「ここまではな。だがこの先も無事で済むとは限らん。分かったら大人しく飲め。お前に万一のことがあれば、カミラは山を登れなくなる。そうなれば全員が危険に晒されることになるんだぞ」
ほどなく神の耳が捉えたふたりのやりとりに、ジェロディは息を呑んだ。
──体がつらすぎて眠れない?
ということは、イークは途中で目が覚めて起き出してきたわけではなく、最初から眠れずにいたのか。一体いつから?
そう戸惑いながらもジェロディがふたりの様子を盗み見ると、イークは苛立たしげなため息をついたのち、ヴィルヘルムが差し出した錫製のマグともうひとつ何かを受け取った。遠い上に暗くてよく見えなかったが、あれは薬包だろうか?
「……というか、そもそもなんであんたがこんなもんを持ち歩いてるんだ?」
「登山中に体調を崩す者がいないとも限らないから持っていけとレイに押しつけられた。解熱と鎮痛の作用があるらしい。どちらも今のお前に必要なものだろう?」
「……」
「そんな体でよくこの登山についてこようと思ったな。無理をすれば悪化するのは目に見えていたはずだ」
「……前に〝カミラの傍を離れるな〟と言ったのはあんただろ」
「ああ、だが今回は話が別だ。無理が祟って命を落とせば、元も子もないことくらい少し考えれば分かるだろう」
「あー、はいはい、悪かったよ。けどそういう説教なら間に合ってる。城に帰ればどうせまたあの医者から同じ話をされるに決まってるからな」
ため息混じりにそう吐き捨てると、イークはヴィルヘルムから受け取った薬包を開き、中に包まれていた散薬をサラサラとマグの中へ流し込んだ。次いでそのマグの中身をひと思いに飲み干すや、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む。
どうやらよほどまずい薬だったようだ。が、ヴィルヘルムはイークが確かに薬を服用したのを見届けると、彼の隣、二歩ほど離れたところに自らも腰を下ろした。
「……まだ何か用か?」
「ああ。お前には伝えておいた方がよさそうだと思ってな」
「伝えるって……何を?」
「カミラが左手に刻んでいる星刻のことだ。……妙だと思わないか?」
「妙って?」
「登山を始めてからここまで、星刻がカミラに従順すぎる。トラクア城の戦いの前には、カミラがいくら念じたところでまるで応えなかったにもかかわらずだ」
「ああ……まあ、言われてみれば確かにそうだが……それだけあの神刻と術者の順応が進んだってだけの話じゃないのか?」
「普通の神刻ならばそうだ。だが星刻は見てのとおり、普通ではない」
「……前に言ってた、大神刻にも匹敵する力を持つとか何とかって話か?」
「ああ。大神刻と呼ばれる神刻が神の魂そのものであり、明確な意思を持って自ら依り代を選ぶという話はお前も知っているだろう。星刻も同じだ。アレも大神刻同様生きていて、確かな自我を持っている」
「……何?」
「そしてやつはカミラを主とは認めていない。本来星刻の主になるはずだったのはカミラではなく──エリクだからだ」
ヴィルヘルムの口から紡がれた予想外の告白に、ジェロディはひゅっと呼吸が止まった。これにはイークも目を見張ってヴィルヘルムを振り向いている。
「……星刻がカミラに応えたり応えなかったりするのもそのためだ。やつは自分に利があると思えば大人しくカミラに従うが、そうでなければあいつを助けない。そういう星刻の意識がこのところ、どうも力を増しすぎている」
「力を増しすぎてる、って……つまり神刻の自我が強くなりすぎて、カミラの言うことを聞かなくなってきてるってことか? だが、あいつはここまで……」
「いや、そうではない。神刻が強い意思を持つというのは、人が神刻を使役するのではなく、神刻が人を使役する状態のことだ」
「は……?」
「もっと分かりやすい言い方をするなら、神刻の意識が術者を乗っ取り、意のままに操ろうとすることを指す。ちょうど大神刻に選ばれた者が少しずつ神と同化していく《神蝕》のようにな」
──そんな馬鹿な。
ジェロディはそう叫び出したい衝動をぐっと堪えて、すぐ傍で眠るカミラを顧みた。彼女の左手に刻まれた星刻もまた、大神刻のような意思を持っている?
ならばいずれ星刻の意識がカミラを呑み込んだとき、彼女はどうなってしまうのか。《命神刻》の場合は、ジェロディが肉体を生命神へ譲り渡し、人間としての自我を失うという。ならば、カミラも、
「大神刻による《神蝕》がそうであるように、星刻もカミラとの適合が進むにつれて自我を強めている。だから俺も、今回の登山にカミラを連れてくるのは本意ではなかった。しかし救世軍を救うためには、他に道がなかったからな……星刻の力がなければ、竜牙山は登れない」
「なら、カミラはそいつを知ってるのか? 知ってて俺たちを助けようと……」
「いや、このことはまだカミラには話していない。俺も星刻が暴走しかけていると気づいたのは数日前だ。あいつはガルテリオと野戦でぶつかったとき、負傷したお前を逃がすために星刻の力を使った。異変に気づいたのはあのときだ。星刻には、マナが……先代の持ち主が暴走を抑制するための呪いをかけたはずだった。だがそれがいつの間にか力を失い、枷のはずれた星刻はカミラを操って、さらに自分との適合が進むよう仕向けようとしていた。今回の登山でやつがカミラに大人しく従っているのも、恐らくは同じ理由だろう」
つまりカミラが力を使えば使うほど、星刻は彼女の体内に深く根を張っていく。
その根はやがてカミラの魂を絡め取り、肉体ごと乗っ取ってしまう……。
そうなれば、カミラは。彼女もまた消えてしまうのか?
いずれ神へと成り代わる自分と同じように、記憶も人格も失って。
『だけど、私……ほんとはティノくんに、あんまりハイムの力を使ってほしくないの。これ以上《神蝕》が進むのは嫌』
瞬間、数日前に聞いたカミラの言葉が甦り、ジェロディは全身の血が沸騰しそうになった。と同時に今、自身にも宿るおぞましい異形ごと右手を切り落としてしまいたくなる。
(嫌だ……嫌だ。そんなのは、僕だって嫌だ)
犠牲になるのが自分ひとりなら構わない。最初からそうなる運命だったのだという覚悟は《命神刻》に選ばれたあの日から、心のどこかにずっとあった。
けれどカミラは違う。違うはずだ。星刻の真の主人は彼女の兄だというのなら、カミラがこんな運命に翻弄される必要はなかった。ならば、何故?
ペレスエラと名乗った時神の神子は、何故あんな代物をカミラに与えた?
神子であるジェロディを守るためだとか、救世軍を勝利へ導くためだとか、もっともらしい理由を並べて。
「……ちょっと待て。仮にあんたの話が事実だとして、だ」
ところが刹那、取り乱しかけたジェロディの思考を宥めるように、再びイークの声が意識へ滑り込んできた。見れば彼も突然の話に混乱しているのか、はたまた体調不良から来る頭痛のためか、額を押さえながらうつむいている。
「だとしても理解できない。星刻は確かに大神刻と似た性質は持ってるかもしれないが、大神刻じゃない。だったらアレは何のためにカミラを乗っ取ろうとしてる? 大神刻の《神蝕》が神の復活のために必要なことだとしたら、星刻は?」
「やつがカミラの支配を望んでいる理由はひとつ。自らの望みを叶えるためだ」
「星刻の……望み?」
「言っただろう。本来やつの主となるはずだったのはエリクだと。要するに星刻の望みとは真の主のもとへ行くことだ。やつはエリクとひとつになりたがっている。だがカミラの肉体に入れられてしまった以上、その望みは叶わない。神刻はどれほど強い意思を持っていようとも、一度入ってしまった人間の体から自力で抜け出ることはできないからな。ただひとつ──宿主が死を迎えたときを除いては」
ジェロディの世界から、あんなにうるさかったはずの吹雪の音が消えた。
否、風雪の叫びだけではない。焚き火の薪が爆ぜる音も、仲間たちの立てる寝息も、自らの体の内で脈打つ心臓の鼓動さえ。
(宿主の……死?)
それは、つまり。
星刻が本当に真の主人のもとへ行こうとしているならば。
ならば、星刻の望みとは──
『だって私、約束したから。何があっても必ずティノくんを助けようって、マリーさんと』
そう言って笑っていたカミラの笑顔が脳裏に浮かんだ刹那、激しい衝撃の音が凍りついたジェロディの五感を呼び覚ました。
はっとして目をやれば、なんと視線の先でイークがヴィルヘルムに掴みかかっている。今にも殴りかかりそうな剣幕で、彼の胸ぐらを掴み上げて。
「な……い、イーク……!」
「いい加減にしろよ。あんた、それを知ってて今まで星刻を放置してたのか? アレの望みがカミラを殺すことだと知ってて使わせてたのか!」
ジェロディがとっさに上げた制止の声は、吹雪に掻き消されてイークには届かなかったようだった。いや、仮に届いていたとしても彼が止まるとは思えない。
ゆえにジェロディは慌てて腰を上げた。とにかくまずはイークを宥めなければ。
このままでは本当にヴィルヘルムへ危害を加えかねない。が、当のヴィルヘルムはいっそ恐怖さえ覚えるほど冷静で、顔色ひとつ変えずにイークを見据えている。
「あんた結局カミラをどうしたいんだよ! エリクのこともアレの正体も隠して、あいつが苦しむのを見て楽しんでんのか? あいつが……カミラが何をした? なんであいつばかりがこんな目に……!」
「……その理由も既に教えたはずだ。星刻は持ち主に降りかかる影響すらも、大神刻に勝るとも劣らない代物だとな」
「だったら、今すぐアレをはずせよ! あんたなら優秀な神刻師のひとりやふたり知ってるだろ!? とにかく何でもいいから、あんな化け物じみた神刻はとっとと引き離して……!」
「引き離して、どうする? 今の救世軍が、星刻の力なしに黄皇国軍に勝てるとでも? ──うぬぼれるのも大概にしろ」
「……!」
「オヴェスト城の戦いも、ポンテ・ピアット城の戦いも、救世軍が生き延びてこられたのは星刻の助けがあったからだ。トラクア城の戦いでもカミラがマティルダを救わなければ、俺たちは一瞬でガルテリオの軍に轢き潰されていただろう。第一、カミラの肉体から解き放てば、アレは今度こそエリクのもとへ渡るんだぞ。あの力をあいつが手にしたらどうなると思う? エリク・ビルト・バルサミナ・セル・デル・シエロという男がどういう人間かは、お前が誰よりもよく知っているはずだ」
「……っ」
「だから俺たちは星刻をカミラに託す選択をした。神の寵愛を受けて生まれた男を止めるためには、やつと同じ血を引くカミラに未来を委ねる以外方法がなかったからだ。もしも星刻をエリクのもとへ行かせれば、望むと望まざるとにかかわらず、あいつは、カミラを」
その先ヴィルヘルムがどんな言葉を続けようとしたのかは、ジェロディには分からなかった。ただようやくふたりへ駆け寄ったジェロディが、ヴィルヘルムの外套を握り締めるイークの手を掴んだ刹那、突如彼の隻眼がはっと見開かれる。
次いで弾かれたように顔を上げたヴィルヘルムは、そうしようと思えば初めから容易にできたのではないかと思われるほど軽々とイークの手を振り払った。
かと思えばやにわに剣を鞘走り、虚を衝かれて固まっているイークとジェロディとをまとめて洞の奥へと押し込んでくる。
「な、お、おい、ヴィルヘルム……!」
「他のやつらを叩き起こせ! ──敵襲だ!」
瞬間、ジェロディの口からは「は、」と間の抜けた声が出た。だって、敵襲?
馬鹿な。野生の獣すら見かけぬこの山で、しかもこんな猛吹雪の中、何が襲ってくるというのか──というジェロディの緩み切った思考はしかし、即座に凍りついた。何故なら洞穴の向こうに広がる白い闇の向こうから異形の叫びが轟き渡り、いくつもの黒い影が飛び込んでくる。
「ま……魔物……!?」
まったく予想だにしていなかった事態にジェロディは絶句した。
吹雪の中から現れたのは、毛足の長い毛皮をまとってはいるが、明らかに節足動物の姿をした黒い群。体の横から突き出し、不気味に地を掻く脚は八本もある。
が、頭部で瞬くは真っ赤なひとつ目。人間のそれのごとく裂けた口には何本もの蠢く牙が生え、狂喜の笑みを湛えている。されどジェロディが唖然としたのは、彼らの背後から現れたさらに大きな影に気づいたためだった。
「ナシェル・ド・ヴィチユ」
洞穴の先にある絶壁を八本脚で難なく登り、ぬるりと岩棚に乗り上げてきた異形が笑う。巨大な蜘蛛の下半身に、紫色の肌をした女の上半身が接合されたような姿の──魔族。やつの両腕は異様に長く、肘から先が蟷螂の鎌のごとき形状を取っている。しかし逃げ場のない洞穴の中、戦慄するジェロディの隣で剣を抜いたイークが不意に、絞り出すような声色で言った。
「……おい、ジェロディ。今すぐカミラを連れて洞穴の一番奥まで逃げろ。そしてあいつの傍を離れるな」
「え?」
「アレはまずい。なんでこんなときに邪螂蜘蛛が……!」
と、呻くイークの横顔をひと筋の汗が伝い落ちた、直後だった。
突然背後で帛を裂くような悲鳴が上がり、驚いたジェロディの肩が跳ねる。
何事かと振り向けば、そこには敵襲と知って飛び起きた仲間の只中で座り込み、真っ青になっているカミラがいた。焚き火の明かりしかない洞内でもそうと分かるほど血の気の引いた顔色で目を見開き、ガタガタと激しく震えている。
「おい嬢ちゃん、何してる! 立て、応戦するぞ!」
「あ……あぁ、あ……い、いや……っ、私……!」
「カミラさん……!?」
起き出した仲間が次々と臨戦態勢を取る中で、カミラは立ち上がることすらできない様子だった。そうして腰をついたままじりじりとあとずさっていくカミラを見やり、半人半虫の魔族がニタリと笑う。
「プロクリャ・タヤ・ドゥーチェ」
而して吐き捨てられた魔族語を耳にした途端、ヴィルヘルムがにわかに殺気立った。かと思えば魔族目がけて真っ先に斬りかかってゆく彼に続いて、イークも岩の大地を蹴りながら、叫ぶ。
「ジェロディ、何が何でもこいつらをカミラに近づけるな! やつらは七年前、カミラが殺されかけた相手だ……!」
瞬間、耳朶を打ったイークの言葉が、ジェロディの脳裏にある記憶を呼び覚ました。そうだ。確か以前、マリステアやケリーから聞かされたことがある。
カミラは幼い頃に蜘蛛型の魔物に襲われて死にかけて以来、蜘蛛を見ると取り乱し、我を忘れてしまうようだ、と。
(つまり邪螂蜘蛛はカミラの天敵……!)
なるほど、確かにこれはまずい。よりにもよってこんなときに現れたのが、カミラを恐怖のどん底へ突き落とす、過去最悪の悪夢だなんて。




