324.足跡を辿って
ジェロディも常々、シノビの身体能力は大陸の常識を超えているとは思っていたが、今回ばかりは本当に常軌を逸していた。
何しろシズネを始めとする諜務隊の面々は、全員が命綱もなしに垂直の岩壁をするすると登り、ものの半刻(三十分)足らずで天辺まで辿り着いてしまったのだ。
当然のようにひとりも欠けることなく、全員が無傷。
生まれつき忍術が使えないというシズネでさえ苦もなく登り切ってしまったということは、他の隊士も登攀に術は使っていないのだろう。
「いや、噂には聞いてたが、マジで倭王国のシノビってのはどうなってんだよ……十年前、俺が死ぬ思いで登らされたあれは一体何だったんだ……」
と、これにはさすがのジェイクも青い顔でぼやいており、ジェロディも素直に同情する。おまけに諜務隊は崖をよじ登りながら、ジェロディたちのために足場を用意するという芸当もこなしていて、後続の仲間も思いのほか楽に岩場を登ることができた。シズネたちが上から垂らした命綱を伝いながら、彼女らが崖の随所に打ち込んだ〝クナイ〟なる暗器を足がかりにして上を目指すだけでよかったのだ。
加えて重い荷物についても、全員が地上に置いていったものに綱を巻き、彼らが用意してくれた滑車で引き上げればよいという、まさに至れり尽くせりの待遇だった。最後には一度登った崖を再び下りて、足場に使ったクナイをすべて回収するという作業まで平然とこなしていたところを見るに、きっと彼らは大陸の人間とは体の造りからして違うのだろう。……そう思いたい。
「ジェイクさんのおっしゃるとおり、倭王国の民は山で育つモノが多いデスから、山登りにはみな慣れていマス。と言っても、我が国にはコレほど高い山はありマセンが、要領は同じデス。特にワレワレの暮らすキリガクレの里は、人里離れた山奥にありマスので……コドモの頃はよく、里のモノと木や崖を登る速さを競って遊んだものデス」
と、なつかしそうに語るシズネは相変わらずにこにこ笑っているのに、その笑顔を妙に末恐ろしく感じてしまうのも気のせいだと思いたい。
かくして竜牙山登山初日は大きな事故もなく夕刻を迎え、カミラの先導で幕営できそうな岩棚へ辿り着いた一行は、そこを野営地としてひと晩を過ごした。
翌日からは強い風が吹き始め、時折雪が舞う天候となったがゲヴラー曰く、これでも冬の竜牙山にしてはまだ天気に恵まれている方だという。
よって雪煙が吹き上がる中、決死隊はなおも竜の谷を目指す行軍を続行し、たびたび命の危険を感じる場面に出会しながらも何とか六日目までを乗り切った。
ところが七日目の朝、前日までの強風が嘘のように止み、数日ぶりに気持ちのいい青空が迎えてくれたのを見て皆が胸を撫で下ろしていたところで、
「──吹雪が来る」
と、蒼白な顔色をしたカミラが、銘々起き出してきた仲間を集めて言った。
「吹雪? こんな気持ちのいい天気だってのに?」
「はい。昨日の夜、夢で見ました。今は快晴ですけど、お昼を過ぎると急に天候が荒れ出して……このままじゃ私たち、遭難する。だからすぐに朝食を済ませて、天気が崩れる前に安全な場所を目指しましょう」
「待て、カミラ。だったら今日は無理に移動しないで、ここに留まった方がいいんじゃないか? これだけデカい岩の陰なら、多少の吹雪は防げそうだし……」
「ダメ。ここにいたら夜中に雪崩が来るわ。今日は猛烈な吹雪のせいで、山のあちこちで雪崩が起きるの。そしてみんな幕舎ごと流される……」
「……なるほど、そいつはかなりまずいな。だが嬢ちゃん、雪崩を避けられそうな場所の見当はついてるのか?」
「はい。急げば昼前には着けそうな場所に、大きな岩の亀裂を見つけました。中は洞窟みたいになってるから、そこに辿り着けさえすれば……」
「デスガ、カミラさん。ソレでは昨夜からかなりの神力を消耗されたのではありマセンか? そのおカラダでは……」
「私は大丈夫……大丈夫だからすぐに準備して出発しましょう。晴れてるうちに、早く……」
譫言のようにそう繰り返し、自らの腕を抱いたカミラの体は震えていた。それは恐らく、高度が上がるにつれてどんどん下がりつつある気温のためだけではない。
彼女は昨夜からずっと、仲間が雪崩に襲われる未来の光景を何度も見続けたに違いないのだ。そうならない未来を探すために……。
されど代償としてカミラの魂に刻まれた恐怖は如何ばかりか。
幻の中の出来事とはいえ、彼女は仲間が死ぬ未来を夜通し見ていたのだと気づいたジェロディは、たまらない気持ちですぐさま頷いた。
「分かったよ、カミラ。君の言うとおり、すぐに出発しよう。ただ避難場所まで移動するだけだとしても、朝食はしっかり取らないと……」
「そうだな。初日にも言ったとおり、どれだけ山に慣れた人間でも、登山中はメシを抜くとすぐバテて動けなくなっちまう。とにかく急いで調理して掻き込むとしよう。手の空いてるやつらは幕舎をたたんで荷物をまとめろ。全部同時進行で進めれば、その分時間を短縮できる」
というゲヴラーの的確な指示により、仲間たちが銘々動き出した。
朝食の煮炊きは火を熾せる諜務隊に任せ、他の者は手早く荷物をまとめ始める。
が、そんな慌ただしさの中にあってジェロディはカミラの傍に留まり、まずは彼女を落ち着かせることに努めた。シズネたちが熾した火の傍にカミラを座らせ、手を握る。寒冷地仕様の分厚い手套越しにも分かるほど冷え切った彼女の指先を両手で包み、自らの神力を送り込んだ。未だに顔面蒼白なカミラの呼吸は浅く、早い。
加えて網膜に焼きついた最悪な未来の幻を消し去ろうとするかのように、彼女はぎゅうっときつく目を閉じて震えていた。
「大丈夫だよ、カミラ。ゲヴラーさんの話では、僕たちはもう標高三幹(一五〇〇メートル)から四幹(二〇〇〇メートル)くらいのところまで登ってきてるみたいなんだ。竜の谷があるのは六幹(三〇〇〇メートル)を少し過ぎたあたりだと言われてるから、もう半分は登ったことになる。君のおかげで、ひとりも欠けることなくね」
「うん……」
「だから残りの行程もきっとうまくいくよ。僕たちは君を信じてるし、君だけじゃどうにもできないときには必ず助ける。ここまでもそうやって無事に登ってこれたんだから」
「そう……そうね……みんながいれば、今回もきっと大丈夫……でも……」
火の傍で、しかもずっと神力を与え続けているにもかかわらず、カミラの指先は一向に温まる気配がなかった。傍らで朝食の支度を進めながら、シズネはそんなカミラに気遣わしげな視線を送っている。
「私……雪の降らない土地で育ったから、実は雪崩ってどんなのか、話に聞いたことしかなくて……まさかあんな風に、雪が突然押し寄せて何もかも呑み込んじゃうなんて思わなかった。あれがもし本当に起こったら……」
「あ……そうか。カミラは黄皇国に来るまで、雪自体見たことがなかったんだね」
「うん……私の郷の傍でも洪水とか土砂崩れはあったけど、この山の雪崩は全然規模が違って……みんな呑み込まれて……助けたくても、助けられなくて──」
「カミラさん」
そう言ってうずくまってしまったカミラの背中を、見かねたシズネが寄り添って摩り始めた。が、実を言うとジェロディも本物の雪崩というのがどういうものか、実際に目にしたことはない。それどころか、カミラが星刻を通して見る幻というのがどういう様態のものなのかも正確に理解できていない。
ゆえに今、カミラを支配している恐怖がどれほどのものか想像だけでは計り知れず、ジェロディはかける言葉を失った。少しでも彼女を安心させてやりたいと思うのに、どうすればいいのか見当もつかない。けれども、刹那、
「カミラ」
と、少し離れたところから彼女を呼ぶ声があり、ジェロディははっとして振り向いた。そこではイークが白い息を吐きながら、幕舎に使っていた厚布をたたんで丸め、淡々と縄で縛り上げている。
「ジェロディの言うとおりだ、心配するな。……お前、ナワリのバアさんの予言がはずれたところを見たことがあるか?」
かと思えば彼が急に妙なことを言い出したので、ジェロディは意表を衝かれた。
〝ナワリ〟とは一体誰のことだろうと首を傾げかけ、しかしすぐに思い出す。
そういえば以前カミラが話していたはずだ。彼女たちの故郷には、郷の至聖所で太陽神に仕える〝ナワリ〟という名の巫女がいると。
そのカミラはイークに呼ばれて顔を上げると、寒さで赤くなった鼻を啜って、
「……ない」
と答えた。するとイークは縛り終えた縄を手放し、手套についた雪を軽く払いながらあっさりとした口調で言う。
「俺もない。そしてあのバアさんの予言を大人しく聞いてる限り、アムン河が溢れようが、森が崩れようが、郷から犠牲者が出ることはなかった。お前はあれと同じことを、ここまで何度もやってのけてる。この間オーウェンを助けたときも、ポンテ・ピアット城を落としたときもな」
つまりそういうことだ、と最後にそう言い足すと、イークは耳まで覆うカミラの帽子を去り際にぽんと叩いていった。そのまま彼はカミラの後ろを素通りし、残りの幕舎を解体すべく立ち去っていく。
直後、カミラの瞳からぽろりと涙が零れたのをジェロディは見た。けれども頬を伝った涙はあっという間に凍りついてしまい、気づいたシズネが慌てている。
「カミラさん、危ないデス。今泣くと、ナミダで目が開かなくなってしまいマス」
「うん……ごめん、シズネ……ありがとう」
とっさに気を利かせたシズネが、携帯用の焜炉の上で沸騰し始めていた湯をマグに入れて差し出すと、カミラは礼を言って受け取り、真白い湯気で暖を取った。
おかげで動揺も落ち着いたらしく、彼女の指先に少しずつ体温が戻ってくる。
そんなカミラの様子を確認し、内心胸を撫で下ろしながら、ジェロディは再び作業へ戻ったイークの方をちらと見やった。
オーウェンとふたりがかりで幕舎を撤去している彼はやはりいつもどおりで、過剰にカミラを気にかけたり、張り詰めたりしている気配はない。
(ずっと不器用な人だと思ってたけど……意外と器用な一面もあるんだな)
いや、あるいはそれもカミラとの付き合いの長さが為せる技、なのだろうか。
どうりで自分には真似できないはずだと、少しだけ忸怩たる思いがする。
ほどなく簡単な食事を済ませた一行は、カミラの案内に従って七日目の登山を開始した。麻綱で互いの体をつなぎ合い、道なき道を岩肌に張りつくように進む。
カミラが見つけたと言っていた岩壁の亀裂に辿り着いたのは、野営地を発ってから二刻(二時間)あまりが過ぎた頃のことだった。
その頃にもなると、頭上に青々と広がっていたはずの空はすっかり気色を変えて、まるで日没間近のような薄暗さが山脈を覆いつつある。
「おお……マジで曇ってきやがったな。朝にはあんな見事な日の出が拝めたってのに……」
「山の天気は変わりやすいですからねえ。特にこのあたりでは、今時期に青空を見られる方が稀でさァ。まさに嵐の前の静けさってやつですよ」
「確かに、こりゃあ吹雪くだろうな。天気が荒れ始める前に避難できてよかった。丸々半日足止めを食うことにはなっちまうが、まあせっかくだ、今のうちにゆっくり休んでおくとしよう。皆、慣れない登山で疲れてるはずだしな」
というゲヴラーの言に賛同して、ジェロディたちは露台のように張り出した岩棚から、山に入った亀裂へと身を滑り込ませてみる。
その入り口は竜牙山の一角に巨大な鉈を突き刺し、横に薙いだような見た目をしていて、中に入ってみると意外と広い空間が広がっていた。
天井はやや低く、場所によっては長身のオーウェンやヴィルヘルムがまっすぐ立つのは難しそうだが、ジェロディはぎりぎり頭をぶつけずに済む。
思ったより奥行きもあり、これなら十二人全員が避難できそうだ。
が、刹那、ジェロディに続いて洞窟に入ってきたジェイクが不意に足を止めた。
「……おい、ヴィルヘルム」
と呼ばれたヴィルヘルムも、洞窟に入るや否やある一点に目を奪われている。
彼らの視線の先を辿ってジェロディもようやく理由に気づき、はっとした。
かなり奥の暗がりにあって気づかなかったが、火を入れたランプで照らしてみると、なんとそこには何者かが焚き火をした跡が残っていたのだ。
燃え残った薪はかなり古いものと見えるが、付近の床や天井も煤けていて、誰かがそこそこ長い時間をここで過ごしていたことが窺える。
「……やはりそうか。途中から何となく見覚えがあるような気はしていたが」
「え?」
「はあ……だよな。まさか十年前、こんな山には二度と来るまいと誓ったのと同じ場所にまた来る羽目になるとは……」
「……ってことは、つまり?」
「ここは俺たちが以前、竜牙山を登ったときに立ち寄った場所だ。あのときもこの洞穴で吹雪をやり過ごした……」
と、ヴィルヘルムがなつかしそうに隻眼を細めるのを見て、ジェロディは目を丸くした。そして思わずもう一度、彼らの視線の先にある焚き火の跡を凝視する。
十年前、正黄戦争中のオルランドや父が過ごした痕跡──つまりジェロディたちは知らぬ間に、彼らと同じ道筋を辿っていたということだ。




