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322.決死行、開幕


「いいか。冬の竜牙山(りゅうがざん)を移動する上で重要なのは、天気のいいうちにどれだけ距離を稼げるかだ。標高が上がれば上がるほど山の天候は厳しく、変わりやすくなる。おまけに、見ろ。竜牙山は見てのとおり、崖際にへばりついてる道とも呼べないような足場を何とか渡っていく以外に、まともな移動手段はない。場合によってはほとんど垂直の岩壁をよじ登る必要も出てくるだろう。だから夜や吹雪の間は、とてもじゃないが危険すぎて先には進めない。足場をしっかり目視して進まにゃ、あっという間に地上まで真っ逆さまだからな」


 と、トラモント黄皇国(おうこうこく)の北の果て、トラジェディア地方と北方のクロス海とを隔てる巨壁のごとき竜牙山脈の麓にて、まずジェロディたちにそう(さと)したのは元山賊のゲヴラーだった。つい半刻(三十分)ほど前まで、遥か二〇〇〇(ゲーザ)(一〇〇〇キロ)もの彼方にあるトラクア城にいたはずの竜牙山決死隊、計十二名。軍主のジェロディを筆頭に、竜牙山の地形や気候をよく知るゲヴラー、パオロ、過去に一度この山を踏破したことがあるというジェイクとヴィルヘルム、そして今回みなの先導役を務めるカミラと、護衛のオーウェン、イーク、シズネ以下諜務隊の隊員たち。


 そこからひとりも欠けることなく、ターシャの転移術によって無事竜牙山麓へ移動することができたジェロディたちは、我が身に起こった奇跡に戸惑いながらもまずは事前の情報共有と装備の確認をしようと、岩陰に入って焚き火を囲んでいた。

 何しろ黄皇国内でも南部に位置するパウラ地方とは、ここはあまりに気候が違いすぎる。向こうでは初雪もまだだというのに、ジェロディたちの降り立った山の麓は既に一面の雪景色だ。国内最北に位置するトラジェディア地方の冬は早く、長く厳しいとは聞いていたものの、まさか北部と南部でここまで気候が変わるとはと、ジェロディは夢でも見ているような心地でゲヴラーの講義に耳を傾けていた。


「だがだからと言ってあまり慎重に登ってもいられない。何しろ持ち運べる食糧には限りがあるからな。竜牙山には道中で狩れるような獣はほとんどいないし、途中で採集できる木の実や(きのこ)なんかもない。ここは植物すらまともに育たん死の山だ。しかしこの寒さの中、食い物が尽きればどうなるかは言わずとも分かるよな?」

「まあ、当然すぐに凍えて動けなくなるのがオチだわな。つまり俺らはまず天候を味方につけた上で、可及的速やかに竜の谷(アラニード)まで辿(たど)()けなきゃ、早晩食糧が尽きて詰むってわけだ。……こう考えてみると十年前、生きて谷に入れたのはマジで奇跡だったんだなと改めて痛感するよ」

「ああ。だから竜牙山を根城にする山賊も、冬の間はアジトに()もるか山を下りるかして、決して山中は歩かない。そんな山を正確な場所も分からん谷を目指して進まにゃならんのだ。全員とっくに理解してるとは思うが、相当ぎりぎりの登山になるってことだけは覚悟しておいてくれ」

「他にも気をつけるべきことは多々あるが、中でも特筆すべきは雪崩と落石だな。麓の方でこれならば、山頂付近には既にかなりの雪が積もっていると思って動いた方がいい。そして不安定な岩場に積もった雪は、些細なことが原因で雪崩となって押し寄せてくる。あれに呑み込まれたら神子であるジェロディ以外は一巻の終わりだ。よって山に入ったら、基本的に神術は使えないものと思え。特に大きな音や震動を伴う火術や雷術は雪崩を誘発しやすいからな」

「だって、イーク。途中で魔物に襲われても、いつもの調子でうっかり神術を撃ったりしないでよね。イークならやりかねないから」

「その言葉、そっくりそのままお前に返そう」

「私はそんなヘマしないもーん。そもそも今回は神力を温存しながら進まなきゃいけないわけだしね」

「ふん、どうだかな」


 と、呆れた様子で鼻を鳴らしたイークと、不機嫌そうにそっぽを向いたカミラはさっきからずっとあの調子だ。どうもカミラは懸命に阻止しようとしたにもかかわらず、結局イークが決死隊についてきてしまったことが不満らしい。

 まあ、とはいえ最終的にイークの同行を許可したのは自分だから、カミラには悪いことをしたかなと、ジェロディは内心苦笑した。されどできることなら彼女のために、決死隊にはイークも加わってほしいと思っていたのは事実だ。何しろ決死隊が生きて谷まで辿り着けるかどうかは、ほとんどカミラの先導に懸かっている。とすれば彼女も表には出さないが、心の内では相当な重圧を感じているはず……。


(少しでもカミラの負担が軽くなるように、トリエもあれこれ手を回してくれたけど……やっぱりカミラにとっては、イークが傍にいてくれる安心感が一番の支えになるはずだ。イークもカミラが竜牙山へ向かうと知りながら病室に監禁されたままなんて、気が気じゃなかっただろうし……)


 おかげでトラクア城に戻ったら、またラファレイの説教を受ける理由ができてしまったが、今回ばかりは致し方あるまい。生きて帰ったら自分も一緒に叱られようと、ジェロディはひそかに悲壮な覚悟を決めた。

 が、そこへ視界の端からふと差し出されたものがある。何だろうと思って目をやれば、それは小型のツルハシのような形状をした見慣れない道具で、差し出してきたのは毛皮の帽子を眉が隠れるほど深く被ったパオロだった。


「パオロ……これは?」

「へ、へ、こいつァ竜牙山を登るのには欠かせない〝氷鉞(ひょうえつ)〟ってヤツですよ、軍主さま。トラクア城にあったツルハシを連合国軍の希術(きじゅつ)で変形させて作った急拵(きゅうごしら)えのモンですんで、強度や使い勝手にゃやや不安もありますが、まあ、ないよりは遥かにマシとお思いになって持ってて下せぇ」

「〝氷鉞〟……?」


 初めて聞く道具の名前に首を傾げながらもひとまず受け取ったジェロディは、木製の柄に鉄の頭部が乗ったそれをしげしげと眺めた。柄の長さはだいたい十二(アレー)(六〇センチ)ほどで、両手で握り込んでみると意外なほどずっしりと重い。

 柄の中程に掘られた細い溝には革の(ひも)が結わえつけられていて、ちょうど人の手が通るくらいの輪っかを作っている。さらに柄の先端はかなり鋭利な形に削られており、これだけでちょっとした武器になりそうだった。

 ゲヴラーとパオロはその氷鉞なる道具を人数分用意してくれたようで、決死隊のひとりひとりに手渡している。かつてオルランドと共に竜牙山を登ったヴィルヘルムやジェイクはさすがに見覚えがあるようだが、他の仲間はやはり初めて目にするらしく、物珍しげな視線を注いでいた。


「あー……なんか変わった形のツルハシだな。こいつは何に使うんだ?」

「使い道は色々さ。まず斜面を登るときにはこうやって革紐に腕を通した状態で頭の部分を持ち、杖代わりに使う。柄の先が削ってあるのは雪や氷に突き刺して安定を確保するためだ。が、それでも足を滑らせて転げ落ちそうになったときには頭のこっち側、刺先を地面に打ち込んで滑落を止める。反対側の刃の部分は、氷や岩を削って足がかりを作るときに使うもんだ。雪山はとにかく滑りやすいからな。氷鉞(こいつ)をうまく使って進まにゃあ、命がいくつあっても足りんよ」

「ナルホド……とてもよく考えられていマス。冬の山を登る上での、イノチヅナのようなものデスネ」

「ああ。だがもちろん、本物の命綱も別にある。全員、城を出る前に配られた麻綱は持ってるな? 山を登り始めたら、まずはその綱で前を歩く仲間と体をつなぎ合う。で、万が一誰かが途中で足を滑らせ、自分で止まれないようなら、他の者も氷鉞を足もとに打ち込んで滑落を止めろ。登山中はここにいる全員が一蓮托生(いちれんたくしょう)──互いが互いの命綱だ」

「そ、それってつまり、ひとりが落ちたら最悪の場合、全員が道連れになるかもってことよね……?」

「ああ、そうだ。そうならないためにも、仲間と結んだ綱のもう一方は氷鉞にしっかり巻きつけておけ。そうすれば仮に誰かが落ちたとしても、真っ先に氷鉞を持つ手が引っ張られて、とっさに地面に打ち込みやすいからな」

「うぅ……そ、想像するだけで胃が痛くなってくるわ……」


 と、ヴィルヘルムの答えを聞いたカミラは、青ざめた顔をして口の端を()()らせた。登山中は互いが互いの命綱──その言葉は確かに重い。

 すなわち決死隊が今から挑むのは、誰かひとりの失敗が全員の命運を左右しかねない極限の登山ということだ。そこには戦場とは違った緊張があり、ジェロディも一抹の不安を覚えながら手の中の氷鉞をきつく握り締めた。


「あとは、そうだな……全員城を出る前に、靴底に(びょう)は打ってきたか?」

「ああ。こいつにも一応滑り止めの効果があるんだろ?」

「うむ。とはいえ凍った雪の上を歩くとなると、靴鋲だけじゃちと心もとない。こいつも馬の蹄鉄を希術で改造して作ったもんだが、靴底に(くく)りつけておけ。鉄樏(かなかんじき)だ。全員こいつを履いたらいよいよ出発するぞ」


 ゲヴラーがそう言って皆に配ったのは、蹄鉄の先端から鉄の爪が何本も突き出した暗器のような道具だった。これも靴底に括りつけたまま相手を蹴りつければ立派な武器になりそうだ。だが鉄樏の正しい使い方はゲヴラー(いわ)く、この鉄の爪を足もとの雪や岩に食い込ませて滑落を防止することらしい。


 氷鉞に命綱に靴鋲に鉄樏。ここまで何重もの備えをして挑まなければならないほど真冬の竜牙山というのは危険なのだなと改めて思い知りながら、ジェロディは受け取った樏を靴の前後に固定して革紐でしっかり結わえつけた。

 その状態で立ち上がると思った以上に靴が重く、足裏にある鋲や樏の堅い感触に違和感を覚える。が、それらに体を慣らしている時間はないのだ。初めのうちは苦労するだろうが、実際に山を登りながら感覚を掴む以外に道はないだろう。


「よし、全員準備はいいな? では早速出発だ──カミラ」


 ほどなく銘々が鉄樏を装着し終え、いつでも出立できる態勢が整うと、ヴィルヘルムがカミラを呼んだ。

 すると彼女も覚悟を決めた様子で頷き、ふーっと一度、深く真白い息を吐く。


「……じゃ、幻視を始めるわ。少しだけ集中する時間をちょうだい」


 そう告げて臙脂色(えんじいろ)の襟巻きを鼻の頭まで引き上げてから、カミラは眠るように目を閉じた。彼女の右手は星刻(グリント・エンブレム)の宿る手の甲に重ねられ、厚手の手套(しゅとう)に覆われた指先に祈るような力が籠もる。


「……お願い(ネ・ムナイ)星刻よ(クハナ・ルスカ)


 やがてカミラの唇から(つむ)がれた(ささや)きが、星の瞬きを呼び起こした。


 救世軍の命運(みらい)をつなぐ決死行が今、始まろうとしている。


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