321.生け贄たちの想いを乗せて
翌朝、カミラたちが呼び出されたのは、トラクア城本丸内にある別館だった。
現在ほとんどの部屋が救護所として利用され、もはやひとつの病院のごとくなっている建物だ。ジェロディ、カミラ、オーウェン、ヴィルヘルム、ゲヴラー、パオロ、ジャック──加えてシズネ以下数名の諜務隊員によって構成された決死隊が集められたのは、そんな別館の一階にある小広間だった。
「……おはよう。準備ならできてるよ」
そしてカミラたちが現れるなり、そう言って出迎えたのは今日も今日とて愛想のかけらもないターシャだ。傍らには見送りにきたトリエステとケリーの姿もある。
椅子ひとつないがらんどうの広間に用意されたのは、床に描かれた希法陣。
真円を基本としつつ、複雑な文様や古代文字を組み合わせて作られたその陣は、カミラたちが中に入ってもまだいくばくかのゆとりがある程度には大きかった。
が、それよりもカミラが気になったのは、
「え……こ……これってもしかして、血……?」
そう、目下カミラたちの足もとに展開された希法陣は赤黒い。
おまけに乾きかけの血のあの鉄臭いような、腥いようなにおいも漂っていて、カミラは思わず鼻を覆った。一体何の血を使ったのかは知らないが、こんなに大きな陣を描くからにはきっと、かなりの量の血が──
「そう。これは全部、人間の血」
「……え?」
「より正確には、昨日の戦闘で死んだ味方の血。……キミたちが誤解しないように言っておくけど、転送術みたいな大きな希術を使うには相応の代償が伴う。だから困ったら転送術を使って脱出を図ればいいとか、そういう安易な使い方はそうそうできないと思っておいて。もっとも、救世軍のためなら何人犠牲を払っても構わないって言うのなら、わたしも止めはしないけど」
「ど、どういう意味?」
「……希術とはそもそも、人間の魂を動力源とする術だ。優れた希術師は自らの魂を削って術を発動するが、大抵の場合は他人の魂を消費する。ちょうど希石を使って歩兵希銃を動かすようにな」
「つまり……今回のような高位の希術を使うためには、その分たくさんの魂を必要とする、ということですか?」
ジェロディが強張った顔つきで尋ねれば、ヴィルヘルムは隻眼を眠らせた。
おかげでカミラも彼の沈黙は肯定だと察しがつき、ぞっと背筋が寒くなる。
「じ、じゃあ、私たちが今から使う転送術って……」
「……転送術は星刻の時戻しの術にも匹敵する高位術だ。つまり禁術の類と言っていい。しかもこの人数を一度に送るとなると……」
「転送術の行使に必要な魂は通常、大人ひとりにつき生け贄三人分。あとは距離とか転送者の体格によっても多少変わってくるから、とりあえずここの地下には少し多めに、四十人くらいの贄を用意してもらった」
「い、生け贄、って……!?」
「……ラファレイ殿からこれ以上治療をしても助かる見込みのない者を教えていただき、昨夜のうちに彼らを地下へ運び込みました。また、四肢や両目を欠損し戦場に出られない者、命は助かったものの重い障害が残った者……そういう者たちを掻き集めてどうにか用意した、四十人の生け贄です」
「お……おい、ちょっと待て。じゃあ俺たちは今から、そいつらの命と引き換えに竜牙山へ向かうってことかよ!?」
と、思わずといった様子でオーウェンが声を荒らげ、カミラも愕然と言葉を失った。いくらもう助からない、戦えないと言われても、まだ生きている四十人もの仲間を生け贄にするなんて、そんな話は聞いていない。ひょっとしたら地下へ運び込まれた仲間の中にはカミラ隊の兵士だった者だっているかもしれないし、コルノ島や故郷に家族を残してきた者もいるはずだ。なのに──
「……なるほど、確かに〝悪魔の術〟だ。どうりでエレツエル神領国が、希術で発展したアビエス連合国を毛嫌いするわけだな。あの国に希石を供給してる口寄せの民ってのは、おぞましい殺人鬼の集まりってわけか」
「いや、そうとも限らん。連合国で普及している希石の大半は人間の魂を丸ごと封じたものではなく、削り取ったかけらを込めたものだ。つまりハノーク大帝国時代の希石のように生け贄を捧げて創られているものではない。もっともその分、石の力は弱く、すぐに壊れてしまうようだがな」
とジャックの悪態に答えたヴィルヘルムの話を聞いて、カミラはようやく合点がいった。かつて獣人居住区で出会った角人が言っていた〝純正の希石〟と〝贋作の希石〟の違い。あれは生きた人間を殺して創られた希石か、魂の一部のみを封じた希石かということだったのだ。ゆえにテレルは「本物の希石を創ろうと思ったら、ぼくたちは命の危険を冒さなければならない」と言っていた……。
「で、どうするの。行くの、行かないの。やめるなら今のうちだけど」
「……」
「わたしは、大帝国時代に何百人って生け贄を殺して創られた希石をずっと使ってた。だから今更綺麗ごとを言うつもりはない。やれと言われればやるし、やるなと言われればやらない。それだけ」
「……ターシャ、君は──」
「──やるだろ、もちろん。救世軍が生き残るには、他に道はないんだ。そうしなきゃ今日までこの戦いに捧げられてきた生け贄たちに顔向けできない。一度始めちまったからには……何を犠牲にしても、やり遂げるしかないんだ」
ところが刹那、背後から上がった声にカミラたちは驚いて目を見張った。
今の声は、まさか。一瞬思考が停止したのち慌てて振り向けば、そこには厚手の外套をまとい、肩に大荷物を担いだイークの姿がある。
「い……イーク!? ちょ、ちょっとその格好、どうしたのよ!?」
「どうって、行くんだろ、竜牙山。だから準備してきた」
「いやそういうことじゃなくて、イークは決死隊のメンバーじゃないでしょ!? ラファレイにもあと二、三日は安静にしてろって言われて、病室から出るのを禁止されてたはずじゃ……!」
「ああ。おかげで病室の外から鍵までかけられてな。頭に来たから、神術でぶっ壊してきた」
「封刻環! 誰か封刻環持ってきて!」
と、カミラは真顔でとんでもないことを暴露し出したイークを止めるべく助けを求めた。何しろ彼は先のソルン城の戦いでも重傷を負い、まだ完全に快復し切っていないところに三日前、また瀕死の重傷を負ったのだ。そんな彼を死と隣り合わせの登山に連れていけるわけがない。ゆえにカミラは、勝手に決死隊の一員みたいな顔をして広間に入ってきたイークをどうにか追い返そうと扉の外へ押し出した。
「もう、ウォルドといいイークといい何やってるのよ……! お願いだからちょっとくらい言うこと聞いてくれない!? いい子にしてたら三青銅貨あげるから!」
「お前、喧嘩売ってんのか? だいたい周りの制止も聞かずに郷を飛び出して、救世軍に居座って、あげくの果てには単独で敵軍に突っ込むようなやつが、どの口で他人に〝言うことを聞け〟なんて言えるんだ?」
「急な正論はやめて下さい!」
「そもそも俺は城に残ったところで、隊が潰滅しててできることは何もないんだ。だったらお前らに同行したって問題ないはずだろ。おい、トリエステ」
「はい」
「俺はこいつの兄貴から妹を頼むと言われてる。だから本当は、命懸けの登山なんかには行かせたくない。だが、ジャンやフィロがつないだ救世軍の未来のためにどうしても必要だってんなら、俺も行かせてくれ。それがエリクとジャンとフィロに対する、俺のけじめだ」
瞬間、イークが急にエリクやフィロメーナの名前なんて出すものだから、カミラはなおも彼を押し出そうとしたまま、しかし何も言えなくなった。
──そんな言い方、ずるい。イークのくせに、ずるい。
昔は気に食わないことがあれば何だって喧嘩と暴力で解決しようとした問題児のくせに。頭を使うのはエリクの仕事だと言って、何でも兄任せにしていたくせに。
「……イーク。ラファレイ殿との口論のおかげか、あなたもずいぶん口がうまくなりましたね」
「いや。どちらかと言えば、お人好しすぎて周りを巻き込んでは言い訳ばかりしてた、あんたの妹のおかげだと思うぞ」
「それは愚妹が失礼しました。いいでしょう。ではあなたを新たに決死隊の一員として加えます」
「トリエステさん!」
「ただし、自分も同行すると騒いでいたカイルへの釈明は、城に戻ったらあなたの口からして下さい。自分の同行は認められなかったのに、土壇場であなたの同行は認められたと知れば、彼はまた大騒ぎするでしょうから」
「……そいつは一番やりたくない仕事だが、まあ、甘んじて飲もう。ジェロディ、お前も文句はないな?」
「うん。本当は僕も、君に来てほしいと思ってたんだ。無理はさせられないと思って黙ってたけど……今回の登山では、僕らはカミラにかなりの負担を強いることになる。だからできることなら、君に傍にいてあげてほしいと思って」
「ほらな。リーダーもこう言ってる。分かったら観念しろ、カミラ」
「……もう、ほんと、救世軍ってバカばっかり……」
心の底からそう嘆きながら、カミラは両手で顔を覆った。
私なら大丈夫なのに。救世軍のためなら、ひとりでも戦えるのに。
なのに誰もひとりにはしてくれない。
巻き込みたくない。危険に晒したくない。生きていてほしい。
そんなこちらの思惑など、当たり前のように蹴散らして。
(だけどそれは、きっと、みんなも──)
そう思ったら、悔しいけれどイークの言うとおり観念せざるを得なかった。
ただし連れていくからには、守る。絶対に守る。誰ひとり死なせはしない。
ただでさえ自分たちは今、救世軍の未来をつなぐために四十人もの同志の命を奪おうとしているのだ。ならばこれ以上の犠牲など払えない。決死隊はまたここへ、ひとりも欠けることなく帰ってくる。改めてそう決意する。
「では始めましょう。ターシャ、お願いします」
「……分かった。なら、全員さっさと希法陣の上に乗って。陣の中心にある環の中へ。言っておくけどそこから指一本でもはみ出すと、その指だけ置いていくことになるから」
「ヒィッ……! お、お、親びん、これ、本当に大丈夫なんですよね……!?」
「真実の神子様を信じろ、パオロ。それともやっぱり、お前は城に残るか?」
「い、いいいいいいえ! り、竜牙山の山歩きは、親びんよりもむしろあっしの方が熟れてますからね! 親びんひとりが案内役じゃあ心もとないってもんですよ! で、ですからあっしも自分にできることを……」
「じゃあね、オーウェン。ジェロディ様のこと、くれぐれも頼んだよ」
「おう。お前こそ本隊の指揮は任せたぞ、ケリー。せっかく竜騎士を味方につけたのに、帰ってくる頃には城ごと救世軍がなくなってたなんてことになったら洒落にならないからな」
「縁起でもないことを言うんじゃないよ。ま、仮にそうなったとしてもジェロディ様さえご無事なら救世軍は滅びやしないだろうが……私たちも約束しちまったからね。この戦いを生き延びて、きっと三人で黄都の屋敷へ帰るってさ」
「そうだよ、ケリー、オーウェン。特にオーウェンはその約束を一度破りかけてるんだから、ケリーよりも君の方が気をつけてくれなきゃ困るよ」
「うぐっ……き、肝に銘じておきます……」
ケリーとオーウェンがそんな別れの言葉を交わすのを見て、傍らのシズネがくすりと声もなく笑っていた。彼女も城に残り、諜務隊の指揮を引き継ぐソウスケとは話をしてきたのだろうか。
きっと皆、心の中ではこれが今生の別れになるかもしれないと覚悟している。
ゆえに竜牙山行きを最初に提案したトリエステも、最後にひたとジェロディを見据えて、軍師である彼女が口にすることを許される精一杯の想いを紡ぐ。
「ジェロディ殿。どうかご無事で」
「うん。みんなを頼んだよ、トリエ」
絶対的な信頼を宿したジェロディの言葉を受けて、トリエステは目を閉じ、深々と臣下の礼を取った。やがて彼女が頭を上げたのを合図に、今日も真白い貫頭衣に身を包んだターシャがすうっと希法陣へ手を翳す。
「じゃあ、始めるよ」
彼女の前置きにジェロディが頷くと、ほどなく人の血で描かれたはずの円陣がぼうっと白く輝き出した。途端にチリッと星刻に軽い痺れが走ったのは、この神刻にも刻まれている古代の文字が、ハノーク時代の古き希術に反応したのだろうか。
「我、世界の理の下に命ずる。真に神なる者たちの血と肉と魂を以て答えよ、世界の深淵。彼らを真理の風に乗せ、我の求める地へと渡したまえ──」
やがてターシャが古代ハノーク語と思しき言語で唱えれば、希法陣の輝きはますます強さを増した。カミラは目が晦みそうになるのを感じながら額に腕を翳し、されど瞬間、はっと気づいて息を呑む。何故なら希法陣の生み出す光に呑まれた両足が、ない。なくなっていく。足首の先から、まるで無に浸蝕されるように──否、違う。これはただ消えているのではない。分解されている?
辛うじて目に見える程度の、小さな小さな光の粒として。
「う、うわああああっ!? お、親びん、足が! あっしの足が……!」
と、同じく肉体の異変に気がついたらしいパオロが恐れをなして絶叫した、直後だった。カミラたちを浸蝕しつつあった分解がそこから一気に加速して、あっという間に腰が、胸が、両腕が、身につけているものごとバラバラになっていく。
「お、おい! これ、本当に大丈夫なんだろうな──」
というオーウェンの喚く声を聞いたのが最後だった。次の瞬間、頭まで分解されたカミラの意識はブツンと途切れ、本物の無が訪れる。やがて意識が戻ったとき、カミラは強く吹きつける風の音と冷たさによってハッと目を見開いた。
すると眼前にはいつか見た覚えのある、尖塔のごとき岩山がそそり立っている。
「竜牙山……」
唖然と零した呟きは、曇天から吹き下ろす雪混じりの風に攫われた。
間違いない。
ここはトラモント黄皇国の北の果てに聳え立つ、伝説の竜が棲む山だ。




