319.残された道 ☆
「カミラ!」
ジェロディに付き添われて別館の病室を出た朝、呼び声を聞いて振り向くと、もはやいっそなつかしい衝撃を全身に感じた。一瞬押し倒されそうになりつつも何とか踏み留まり、見やった先には視界いっぱいの薄紫。
「メイベル」
その正体にすぐさま気がついたカミラは、一種の驚きを持って彼女の名前を呼んだ。そう、メイベルだ。メイベルがいる。二ヶ月前、ギディオンたちと共に、ポンテ・ピアット城へ残してきたはずのメイベルが。
「え、な……メイベル、あなたまでこっちに来てたの!? ギディオンが援軍を連れてきてくれたって話は聞いてたけど、あなたは戦闘員じゃないのに……!」
「もうっ、久しぶりの再会がその反応!? あたしがどれだけみんなのこと心配したと思ってんの!? ポンテ・ピアット城でカミラたちを見送ってから、心臓が止まりそうになるような報せを何度も受けて……なのにいつまでも大人しく待ってられるわけないでしょ!」
「そ、それはそうかもしれないけど……!」
「マリーさんのこと……聞いた。あたし、また……カミラたちが一番つらいとき、傍にいられなかった。だからもう、自分だけ安全なところで待ちぼうけなんて絶対にイヤ。あたしもみんなと一緒に戦うんだから……!」
耳もとで涙声を震わせたメイベルはふたつ結いの髪を揺らして、さらにぎゅうとカミラを抱き締めた。おかげで嫌でも理解する。ああ、そうか。
メイベルも友人の死に目に会えなかったことを悔やんでいるのか、と。
ゆえにカミラもそれ以上は何も言わずに抱き返した。そうね。
私もメイベルの立場なら、きっと大人しく待ってなんていられなかった。
だから故郷を飛び出して、今もこうして戦場に身を置いているのだから。
「ふむ。そもじも無事に目が覚めたようじゃな、カミラ。これで少しはまた味方の士気も上がろうもん」
ところがそうしてしばしメイベルと抱き合っていると、今度は彼女の肩越しに聞き慣れない声がした。いや、確かに聞き覚えがあるのだ、あの強烈な訛りには。
されど聞こえた声はガラガラに掠れていて、カミラの知る歌声に似た声とは似ても似つかない。ゆえに驚いて顔を上げれば、そこには今日も今日とてまばゆい銀髪を閃かせた光の神子、ロクサーナの姿があった。
「えっ……ろ、ロクサーナ!? あなたも来てたの……っていうか、声! なんか別人みたいになっちゃってるけど、どうしたの!?」
「案ずるでない。ただの歌いすぎでおじゃる」
「う、歌いすぎ、って……!?」
「今まで機会がなくてお見せしていませんでしたが、ロクサーナの歌には怪我や病を癒やしたり、味方の戦意を昂揚させたりする力があるのですよ。ロクサーナはそのために一昨日から歌いっぱなしでしてね」
「トビアスさん……!」
と、掠れ声のロクサーナに代わって答えたのは、彼女の傍らで苦笑を浮かべた宣教師のトビアスだった。どうやら彼らもまたギディオンと共に、味方の窮地を聞きつけて馳せ参じてくれたらしい。ジェロディの話によれば初日の戦闘で出た多数の負傷者も、ロクサーナの歌によって大勢救われたらしかった。
彼女の助けがなければ救世軍の兵力は五千を割っていたかもしれない。こうなるとカミラも、彼らを引き連れてトラクア城を目指す英断をしてくれたギディオンには感謝してもし切れなかった。もっとも彼は、今は姿が見当たらないようだが。
「他にポンテ・ピアット城からは誰が来てるの?」
「シルさんとジェイク……あとはコルノ島から新兵を連れてきてくれたゲヴラーさんとパオロも合流してるよ」
「えっ。し、シルも連れてきたの? だけど、あの人……」
と、カミラが言葉を濁した理由は言うまでもなかった。
カミラたちが三ヶ月前、リーノの町で助けた吟遊詩人、シル。何でも彼は五十六小神のひと柱である歌神シルの神子で、ゆえにポンテ・ピアット城では光明神の神子たるロクサーナを見つけるなり奇妙な言動を見せたと聞いた。
そしてロクサーナの《神蝕》が急激に進んだのも、オールの眷族であるシルとの再会が引き金になったのだろうとラファレイは推測したらしい。
つまり《光神刻》と《歌神刻》を宿した神子ふたりが出会ったことで、ふたつの神の魂が共鳴し合い、覚醒が促されたということだ。
(《神々の目覚め》の到来がまた一歩近づいたって、あのときラファレイは言ってた。だけどこのままロクサーナやティノくんの《神蝕》が進んだら、二人は……)
《神々の目覚め》とは、二十二大神の御魂を宿すすべての神子が人柱となり、神へと成り代わって《新世界》の扉を開くことだとヴィルヘルムは言っていた。
けれどかつてマリステアが言っていたように、カミラもそんな未来は容認できない。ジェロディを失うくらいなら、神々の築く楽園など必要ない。
だって人類は千年もの間、彼らの導きがなくとも何とかやってこられたはずだ。
だったらきっと人々は神の助けなど借りずとも、いつか自力で辿り着ける。
誰に犠牲を強いることもない、真の意味での〝新世界〟に……。
「まあ、そう渋い顔をするでない。アレはアレで使い道はあるのじゃ。わーが二日も歌い通しておりながら、未だ倒れずにいられるのもアレのおかげよ」
「そ……そうなの?」
「どうやらシルさんの歌には、共に歌うことでロクサーナの歌の力を底上げする効果があるようなんです。彼がひとりで歌っても、ロクサーナのように傷を癒やしたり、味方を戦へ駆り立てたりはできないようですが……それでも歌うことによって人の心を慰めたり、安心させたりする力はあるようですよ」
「そ、そうなんですか……」
「なれどさしものわーも、神力の枯渇を癒やすのは不得手でのう。そもじ、体の具合はもうよいのきゃえ?」
「ええ。昨日ひと晩かけて、ティノくんが神力を分けてくれたから、私はもう大丈夫。完全回復……とまではいかないけど、隊の指揮くらいならこなせるわ。ただ、問題は……」
そう。問題はむしろ、今のカミラには指揮を執るべき隊がもはや存在しないことだ。二日前の戦闘でカミラ隊はほぼ全滅し、オーウェンを助けるために率いた二百あまりの騎馬隊は、とにかく動ける兵を集めて即興で組織したものだった。
ゆえに当然ながら彼らの所属はバラバラで、もとからカミラ隊の兵士だった者はもはや十人前後しか残っていない。かと言って他から兵力を分けてもらおうにも、今はどの隊も兵員を割く余裕はないはずだ。
とすると今の自分にできるのは、せいぜい隊長不在の間のイーク隊を自隊とまとめて管理するくらいか──と、カミラが顎に手をやって考え込んでいると、
「ジェロディさま」
と、不意にジェロディを呼ぶ者があり、カミラもつられて声のした方を振り向いた。するとそこには漆黒のシノビ装束に身を包んだシズネがいて、カミラたちと目が合うやぺこりと律儀に頭を下げる。
「シズネ、おはよう。敵陣に潜ったソウスケたちから何か連絡は?」
「いえ。今のところはマダ何も……カミラさんも無事に目を覚まされたんデスネ。よかったデス」
「ありがと、シズネ。また心配かけちゃったわね」
「ハイ。あのときはジェロディさまをお止めするので精一杯デ、まさかカミラさんまで飛び出していかれるとは思っていませんデシタから……本当に、ジュミョウがチヂまるかと思いマシタ」
「す、すみません、反省してます……」
と、見た目だけならずっと年下に見えるシズネにまで苦言を呈されてしまい、冷や汗をかいたカミラは目を泳がせつつ謝罪した。すると彼女はそんなカミラの様子を見てくすりと笑い、次いでジェロディへと向き直る。
「ところで、ジェロディさま。トリエステさまがお呼びデス。至急軍議室マデご同行願いマス」
「トリエが? ……分かった。敵も朝食が済むまでは攻めてこないだろうしね」
「あ。シズネ、それ、私も一緒に行っていい? 出てけって言われたらすぐに出てくけど、一応トリエステさんにも一昨日のお詫びをと思って……」
「畏まりマシタ。デハ、一緒に参りマショウ」
シズネの許可を得たカミラはほっとして、彼女らと共にトリエステのいる軍議室へ向かうことにした。ゆえにメイベルたちとは一旦別れ、トラクア城の本館へと移動する。ところがいざ軍議室の扉をくぐって驚いた。何故ならそこにはトリエステの他にもギディオン、マティルダ、ヴィルヘルム、ケリーにオーウェン──そして怪我の治療中であるはずのウォルドの姿まであったからだ。
「お、おはようございます……ってウォルド!? なんであんたがここにいるの!?」
「なんでって、いちゃ悪ぃかよ」
「わ、悪いに決まってるでしょ!? だって今朝ラファレイが、あんたの怪我は手術しないと治らないから、まだしばらく安静が必要だって……!」
「今はんな悠長なこと言ってられる状況じゃねえだろ。イークやリチャードも今朝には目を覚まして、さっさと隊務に復帰させろと騒いでたぜ」
「じ、じゃああんたは、動いてもいいって許可が出たわけ?」
「いや。イークとラファレイがやり合ってる隙に、黙って抜け出してきた」
「ちょっと!!」
「まあまあ、落ち着きなよ、カミラ。いざとなったらウォルドのことは腕ずくで病室に送り返すからさ。オーウェンが」
「いや俺かよ!?」
「当たり前だろ。あんたはカミラにデカい借りがあるんだから、これくらい請け合いな。ウォルドの片腕が塞がってる今ならあんたでも何とかなるだろ」
「ほう、おもしれえ。俺とタイマン張ろうってんなら受けて立つぜ、オーウェン」
「お前もなんで戦る気満々なんだよ!? 怪我人は怪我人らしく大人しくしてろ!」
と、奥の席でウォルドとケリーとオーウェンが何やらやり合っているが、一方のカミラはもはや呆れてものも言えなかった。
二日前の戦闘で危うく死ぬところだったオーウェンも、瀕死の重傷だと聞いていたウォルドも思いのほかピンピンしていて安心はしたが、後者はケリーの言うとおり、首から下げた布で未だ片腕を吊っている。それもそのはずだ。何しろウォルドは戦場で亜竜に噛まれ、左肩の骨が粉々になった状態だと聞いた。
一応衛生隊の懸命な処置により、骨はある程度再生しつつあると言うが、粉砕骨折は患部を開いて適切な処置をしないと完治しないし、下手をすれば後遺症が残るとラファレイが言っていた。ならば今すぐ病室へ強制送還すべきではないかとウォルドを睨みつつヤキモキしていると、ときに立ち上がったトリエステが口を開く。
「ですが、カミラ。あなたも無事に目が覚めたようで何よりです。体調の方はもうよろしいのですか?」
「えっ、あっ、は、はい! え、えっと、その節はトリエステさんにも大変ご迷惑をおかけして……」
「ええ。まさかあなたが独断かつ単独で飛び出していくとは思わず、私もだいぶ肝を冷やしましたが……結果としてオーウェン殿を救出し、またギディオン殿も当城へ迎えることができましたので、今回の軍令違反については不問とします」
「す、すみません……ありがとうございます……」
とカミラは小さくなりながら謝罪して、意味もなく両手の人差し指を合わせた。
確かにあの日カミラは再び前線に出ることをトリエステに止められていたから、命令不服従による軍令違反だと言われればぐうの音も出ない。
が、今回は彼女の慈悲により見逃してもらえると知って内心胸を撫で下ろしていると、マティルダと隣り合う形で上席に座ったギディオンが愉快そうに笑った。
「なるほど。事前に聞いていたとおり、本当に相変わらずなのだな、救世軍は。あれほどの死線をくぐり抜けておきながら、まったく変わりないようで安心した」
「笑いごとではありませんよ、ゼンツィアーノ将軍。救世軍が相変わらずなら、あなたの愛弟子であるガルテリオ殿も相変わらずです。このままでは、当城の落城は避けられません」
「ああ、そうだな。お前も相変わらず愛嬌というものが足りないようだ、マティルダ。そのようなところまであの女に似る必要はないと、近衛軍時代に散々忠告したというのに」
「申し訳ありません。しかし貴殿の跡目を継がれたアルトリスタ将軍から〝前団長のことは初めからいなかったものと思え〟と仰せつかりましたので」
「そうか。どうやら儂はお前たちに相当恨まれているようだな」
「ええ。何しろ陛下が以前にも増して皇居へ籠もりがちになられたのは、貴殿の勇退が原因で、政権転覆をもくろむ輩が続出したためですので」
「おい、そこ。官軍時代の話でギスギスするな。俺たちがいま話し合うべきは、救世軍の今後の方針についてだろう」
と、次第に険悪になっていくギディオンとマティルダの会話を遮ったのは、彼らの傍らで呆れ顔をしたヴィルヘルムだった。なるほど、言われてみればあの三人はかつて正黄戦争を共に戦った官軍の将なのだ。
ゆえにお互い気心知れている一方で、帝政が混乱したあとのわだかまりも抱えているのだろう。特にマティルダは、ギディオンの元妻であるセレスタ・アルトリスタという将軍に若い頃から師事していたというし。
「ヴィルヘルム殿のおっしゃるとおりです。ジェロディ殿、昨日までの戦況報告も踏まえてご相談したいことがございますので、こちらにご着席願えますか?」
「ああ。ちなみにカミラにも同席してもらって構わないかい? 状況は僕からざっと説明したけど、もう少し詳しく情報を共有した方がいいと思うから」
「ええ、無論です。ウォルドの同席を一時的に許しているのもそのためですしね」
と、思いがけず自分もこの場に留まってよいと言われたカミラは、目を丸くしてジェロディを見やった。すると彼も頷いてくれたので、そういうことならとお言葉に甘えることにする。正直今ここを追い出されても手持ち無沙汰になるところだったから、ついでにカミラ隊の今後について指示を仰げればと思ったのだ。
「んで? 要は今の俺たちはアビエス連合国からの増援が到着するか、ライリーたちの作戦が功を奏して敵軍が撤退するまでトラクア城を防衛するしかねえって話だろ? 問題はあのガルテリオ・ヴィンツェンツィオを相手にどうやって持ちこたえるかってところだが」
「はい。現在第三軍の兵力二万に対し、我が軍には半分以下の兵力しか残っておりません。しかもうち七百は、ゲヴラー殿がコルノ島から率いてきて下さった新兵です。当然ながら実戦の経験はほとんどなく、彼らを正規の兵力として数えられる場面はかなり限定されると思った方がよいでしょう」
「確かに島で白兵戦の訓練はひととおり積んできたんだろうが、籠城戦となるとまた勝手が違うからね……幸いなのはこのトラクア城が、城の正面に当たる西側さえ死守すれば、何とか防衛が成立するってところか。たった一万足らずの兵力でも、一面だけ守ればいいってんならギリギリ凌げないことはないからね」
「だな。だが、今のところ防衛の要になってる連合国軍の歩兵希銃は数に限りがあるんだろ。デュランの旦那はなんて?」
「連合国軍の現在の兵力は三千五百ほど、これに対し歩兵希銃は予備も含めて約五千挺確保できているそうです。ただ、うち一千挺ほどを救世軍から組織する銃兵隊に融通してもらう予定でいますので、余剰は五百挺のみということになりますね」
「五百挺か……微妙なとこだな。連合国軍がいま携行してる希銃は大半がポンテ・ピアット城の戦いから使い倒してるもんだろ。ってことはそろそろ壊れて使いものにならなくなるのが出てくるんじゃないか?」
「ええ。実際デュラン殿の見立てでは、目下連合国兵に行き渡っている三千五百挺のうち、二千ほどは年内で撃ち尽くされてしまうだろうとのことです。何しろ昨日の動きを見る限り、第三軍は希銃の動力切れを狙って銃撃を誘っているように見受けられましたので……」
「ってことは年を越す頃には、まともに撃てる希銃は二千程度になってる可能性があるってことか。そうなると、そこからさらにひと月持つかどうかってとこだな。こりゃ来年は六聖日を祝ってるどころじゃなさそうだ」
「まさか戦場で年を越す羽目になるとはね……まったく、こんなおめでたい年越しは私らも初めてだよ」
と嘆息をつきながら、物憂げに頬杖をついたのはケリーだった。
言われてみれば、確かに年越しまではあとひと月もない。本来なら年が明ける前にはコルノ島へ帰還して、新生救世軍が初めて迎える新年を皆で祝うはずだったのに、どうしてこうなってしまったのだろうと改めて思う。今のトリエステたちの話を聞く限り、来年、また生きて島へ戻れるかどうかはまったくの未知数だ。
歩兵希銃によるまともな防衛を続けられるのは、よくて来月の終わりまで。
そこから先は連合国軍が現れる以前の、弓や投石による原始的な籠城戦が待っている。だが果たしてそんな戦が、あのガルテリオを相手にどこまで通用するのか。
先の戦で神術砲の攻撃を浴びたトラクア城は相変わらずボロボロで、まるで修繕が進んでいないというのに。
「なるほど、状況は分かった。して、アーサー殿がアビエス連合国へ向かわせたという使者はどれほどで戻る公算なのだ?」
「連合国へ行って帰ってくるだけであれば、翼獣の翼でひと月ほどだとか。ですが仮に連合国が増援を決めたとしても、派兵の準備にはそれなりの時間が必要ですから、楽観的に見積もっても最短でふた月はかかるでしょうね」
「ギリギリだな。何より連合国軍の目的は、我が国の内乱にエレツエル神領国が介入し、世界大戦へと発展する事態を防ぐことだ。そのために機先を制して送り込んだ援軍が因で、黄都ではかえって神領国に泣きつこうとする輩が現れている。とすれば連合国もさらなる兵力の投入には慎重を期し、綿密な議論が必要だと判断するだろう」
「ええ。ですので現実的には、どんなに急いでも三月が限界ではないかと私も見ています。兵糧についてはトラクア城にもともと蓄えられていたものに加え、マティルダ将軍が各地の地方軍から接収したものがありますので、今のところ心配はないのですが……」
「しかし兵糧と共に収容した地方軍が問題です。彼らは戦力としては大して期待もできない上に、中央軍と救世軍の戦に巻き込まれたという被害者意識が強く士気も低い。特に郷守の多くはなし崩し的に救世軍の一部として組み込まれ、かと思えばかのガルテリオ・ヴィンツェンツィオを相手に勝ち目のない戦を強いられている、という不満を抱えていることでしょう。彼らは自らの保身のためなら、喜んで城内から門を開きかねません」
「確かに籠城が長引けば長引くほどその可能性は増しそうだな。だがマティルダ、お前も何故左様に不埒な輩を郷守などに任じておったのだ?」
「ソルン城を預けていたジャレッド・ドノヴァンが送り込まれてきてからというもの、軍上層部からの圧力が以前にも増して強まり、もはや私に任命権はないも同然だったのです。以来ほとんどの郷区の郷守は、ドノヴァンの息がかかった者に挿げ替えられてしまいました」
「なるほど。どうりであんた、ソルン城では野郎をあっさり見殺しにしたわけだ。とはいえ一旦味方として受け入れちまった以上は、いつ裏切るか分からねえから殺しとく、なんて理由で郷守どもの首を刎ねるわけにもいかねえしな」
「彼らには諜務隊の監視をつけるつもりではいますが、地方軍兵の動向までひとりひとり見張るとなると……厳しいでしょうね。既存の隊に編入させて、兵に相互監視を命じるという手もあるものの、まるで信頼関係のない人間を無理に隊へ組み込めば、兵の足並みが乱れる可能性もありますし」
「そうなれば城の防衛力はさらに落ちるだろうな。ちなみに、ガルテリオと軍監の間に離間の計をかけるという案はどうなってる?」
「ソチラは現在、ソウスケたちが計略に使えそうな材料を探っておりマスが、なかなかに厳しそうデス。というのも昨夜の報告デハ、第三軍の防諜体制はかなり厳重らしく、迂闊に動くことができナイと……」
「だろうね。いつだったかシャムシール砂王国の王子がシノビを雇ってグランサッソ城に奇襲をかけてきて以来、第三軍の防諜体制はさらに強化されたんだ。アレがあんたらの言う〝ナギリ一門〟って連中だったんだろうが……」
「そ、そんなことがあったんですか?」
「ああ……ちょうど私らが竜人討伐のために城を空けてるときのことだったらしくて、あとからそう聞かされただけだけどね」
「第百六十七次国境戦役の話でしょう。そのとき敵の諜者を暴き、グランサッソ城を窮地から救った功績でアンゼルムは軍に取り立てられたのだと聞いていますよ」
「マティルダ、やめろ」
と、ギディオンがすぐに牽制の声を上げたが、しかしマティルダの発言は見事にカミラの胸に刺さった。兄がガルテリオの城に忍び込んだシノビを暴き、第三軍を危機から救った──ということは、ガルテリオはカミラが思う以上に兄をよく知っているのかもしれない。だとすれば、同じ赤髪を持つ自分のことも……。
「……エリクの話は今はいい。だが官軍を仲違いさせるのも難しいとなると、残る希望は第三軍の輸送を妨害しに行ったライリー一味だけということになるぞ。やつらが相当派手に暴れない限り、ガルテリオは撤退など考えもしないと思うが」
「ま、連中も最低ひと月かふた月は戦える物資は確保した上で攻めてきてんだろうしな。第一俺らがポンテ・ピアット城を放棄しちまった以上、敵は黄都から兵站を引くことだってできる。さすがのルシーンもいくらガルテリオ憎しとは言え、やつが負けて神領国の介入を招くくらいなら、今回ばかりは素直に兵糧を送るだろう」
「確かに魔界とズブズブのあの女にしてみれば、天界至上主義の神領国なんかに介入された日にゃ、黄皇国にはいられなくなるもんな。しかしそうなると、第三軍の兵站を断つって作戦もかなり望み薄なんじゃ……」
と、表情を曇らせたオーウェンが呟いたのを皮切りに、軍議室はしん、と静まり返った。確かに状況を整理すればするほど、救世軍の勝利は遠のいていくようだ。
どれほど智恵を絞ってみても、勝ち筋が見つからない。
となればもはや救世軍には勝算など皆無に等しいと知りながら、奇跡が起こることを信じて戦う道しか残されていないというのか。
けれどもそんな理屈では到底味方の士気を支えられない。最悪でも何かひとつ。せめてたったひとつでいいから、誰もが勝利の可能性を信じられる策があれば──
「……ジェロディ殿」
ところが刹那、どんどん絶望に沈んでゆくカミラの思考を遮るように、トリエステが彼を呼んだ。呼ばれたジェロディははっと顔を上げ、恐らく彼が最も信頼しているであろう『深謀』の軍師の顔をじっと見つめる。
「何だい、トリエ?」
「失礼を承知で、もう一度お尋ねします。二日前、ガルテリオ殿との交渉が決裂したのちに、あなたが皆の前で告げた言葉に偽りはありませんか?」
「……ああ。もちろん、ないよ。僕は救世軍を守りたい。だからたとえ何があっても、最後の一瞬まで彼らのために戦うつもりだ」
答えたジェロディの言葉は、あの日と変わらず力強かった。そこにやはり迷いはない。昨晩、共に声を殺して泣いたときには確かに見えたはずの迷いは。
そう知った途端、カミラはぎゅうと胸を掴まれたように切なくなって、もう一度ジェロディに触れたい衝動に駆られた。彼の覚悟を揺るがしてはいけないと、すんでのところで手を握って堪えたけれど。
「……分かりました。ではもうひとつ、お尋ねします」
一方、主の答えを聞いたトリエステは、そう言って彼へと向き直った。
が、その灰青色の瞳が微か揺れ動いたのを見て取って、カミラが内心、え、と息を詰めた瞬間、彼女は言う。
「ジェロディ殿。あなたは救世軍のために──伝説を辿る覚悟はおありですか?」




